王都の怪人
ようやくおさまってきた霧の向こう。
遠くから近づいてくる、何か。
それは口では上手く説明できないような、生存本能だとか直感だとかの、警鐘のような。
過去に危険な災害が起きた時とおなじ空気とか、疫病が流行った時とおなじ気配だとか。
あるいは可聴域や可視光を越えた何かを、まさに肌が感じ取ってしまっているような。
そんな何か。
貧民街の住民達が一斉に竦み上がる。
背中に怖気がはしり、鳥肌がたち、身の毛がよだつ。
恐怖?
…だが、しびれるような甘さ?
熱のような、体の芯からわき上がってくる歓喜のような何か。
脳が、心が、わき上がる拒絶と期待に、混乱する。
昆虫でいうところの「女王」が他の群体を問答無用で従えるような──
──フェロモン。
目に見えないが、むせ返るように香って来る。
甘くて危険な強制力。
徐々に近づいてくるその濃厚すぎる気配に、地下へと避難途中だった住民達は次々に足を止め、その場へとうずくまり、ついに全員がへたり込んでしまった。
ただ一人、ケンだけをのぞいて。
「…【魅了】の魔法?」
「なんで、てめぇは、平然としてんだよ……!?」
貧民街の元締めが前かがみにうずくまる隣で、平然と立ったまま周囲を見回したケンは人差し指で水平にクルクルと円を描いた。
「【聖域・展開】」
そこにふわりと広がる風。
透明で温かく、穏やかな何か。
目に見えない強制力を、目に見えない守りが強引に押し戻した。
「…っ!? 楽に、なった……?」
「……これ、長くはもたなさそうです。急いで下さい」
「!?」
深刻な表情になったケンの、指を回す早さが少し上がる。
ここに防御魔法をケンが張ったこと、それでもケンが防ぎきれないことを元締めの男は理解して、周囲に叫んだ。
「てめぇら急げ!! 地下に、走れ!!」
炎にまかれて逃げ惑い、霧の嵐にかき回されて地面に張り付き、魔法で【魅了】されかけて……もうボロボロの住民達はそれでも必死になって、地下環状道路へと続く階段へとヨロヨロと、半ば転げ落ちるようにして避難する。
元締めが最初に女子供や老人を優先した結果、残っているのは体力のある男達と、ケンが倒した襲撃者のみ。
襲撃者以外はすべて地下への階段を降り始めたところで、元締めが叫んだ。
「おい、これで全員だ!! 俺達も下に行くぞ!!」
「まだです」
「馬鹿野郎!! あのクズどもは見捨てろ!!」
「いいえ。きっと用があるのが、僕なんです」
「!!」
用がある。
霧に包まれた貧民街の向こうから、徐々に近づいてくる何かをじっと見つめてケンが返す。
信じられないようなものを見た顔の元締めが、驚きとも怒りともつかない顔でケンをにらむ。
「……おい、本気で言ってんのか。
ここまで来ればさすがにもう、俺でも分かるぞ。
これから来るのは、てめぇが考えてるような生ぬるい相手じゃねぇぞ?」
「行ってください。できるだけみんな、遠くへ」
そう言いながら、一歩ずつ、ゆっくりと前に進むケン。
こうなってしまえば元締めの男にできることなど何もなかった。
「…クソがっ!!!」
元締めの男が地下への階段へと走り去った後、ケンは「残りの男達」を地面から一人ずつ引きずって、よいしょよいしょと階段の方へと引いて行った。
だが間に合わない。
片手は魔法の展開で塞がっていて、押し寄せる【魅了】は勢いを増すばかりで、地面に転がった元襲撃者達はビクン、ビクンと痙攣する。
「わ! わ!? ちょっと!?」
ぜんぜん防げてない!? 【魅了】が強すぎる!?
周囲に満ち溢れるそれは地面や壁をグニャリと溶かす幻を視せるほどに、強烈すぎて、濃厚すぎて……もはや【魅了を超越した魔法】だった。
このままでは呑まれる。
両眼に光を灯したケンが、その両の掌を一つ、激しく打つ。
「【聞け】ッ!!」
魔法とも呼べぬ、魔力を込めただけの大声。
だがケンが本気で放てば、それは魔法だ。
一斉に直立した男達。
眠っていた所に顔に水でもかけられたように跳ね起き「なんだ!?」と目を見開く。
ケンの瞳はさらに、黄金から白へ、やや青みがかった光を燃やす。
ケンは詠唱する──
穏やかなりしは穏やかに
動かぬものは動かぬままに
不朽、不可侵、
命を革むこと無かれ
我が想いは、我がままに
淀み、留まり、停滞せよ
終焉にして永遠
完結した世界
禁忌、禁断、禁足地
我は、変化を、拒絶する
【聖域】!!
──完全詠唱と共に放たれた神々しい魔力。
満ちあふれ飽和したそれは、宙に地に、結晶と化しながらも飛び散り、舞い散り、真っ白な花々のように咲き乱れ、吹き荒れた。
澄み渡る空気。穏やかな光。
何もなく、有り触れていながら尊くて、何ものにも代えがたい安心感を齎す光景。
喜びと、一抹の悲しみを覚える白き花園の世界。
だが安心している場合では無い、ケンは叫んだ。
「むこうに、走れ!!」
それと同時に、
「…フフフ……私の庭で、はしゃいでいる子は、誰ぁれ〜?」
美しくも艶めかしい声。
霧のむこうからゆらゆらと現れたのは、白い布で全身を包み込んだ「女」。
王都で生まれ育った者達、王都で悪事に手を染める者達ならば、誰でも知ってるおとぎ話で、都市伝説。
やりすぎた者達のところへやって来るという、その怪人。
「……へ……ふへへ、ざ、さまぁ見やがれ……!
てめぇも! もうおしまいだぜ!!」
何を勘違いしたのか、襲撃者の一人が笑いながらケンに吠える。
要するに「敵の敵は味方」とでも思ったのだろう。
だが、そんな理屈は通じない。
「へへ……ヘヒッ!?」
男が前かがみになり、そのまま膝から崩れ落ちる。
ケンの魔法の効果が切れて、その上さらに【聖域】までもが、霧の向こうから侵食してくる【桃色の魔力】でジュワジュワと溶かされていく。
徐々に近づいてくる彼女と、次々に倒れていく襲撃者達。
フェローマの魔力に囚われ、魅了されて、ひれ伏すように前かがみに倒れていく。
倒れた男達は恍惚として、苦しみ悶え、顔から汁や体液を止めどなく流しながら、ビクビクと痙攣していた。
駆け巡る苦痛と快楽で、もう誰も動けなくなっていた。
残ったのは対峙する二人のみ。
「………」
「…やっぱり、あなたは平気なのねぇ……」
ケンも平気という訳ではない。
それでも青く鋭い眼光のケンは、欲望や快楽よりも、死の恐怖をひしひしとその身に感じていた。
「…そう、あなたが」
だからこそ、王都の怪人フェローマも確信した。
彼女の魅了が人族相手に効かない訳がない。
魅了が効かない相手。
それは雌雄を超越した存在、たとえば精霊とか龍とか、石兵だとか……
それと、むしろフェローマの方が魅了されかねない唯一の相手──魔王E・E。
「あなたには……あなたになら、私の魅了が効かないかもしれないわねぇ〜……?」
そんなE・Eと、仮に……そう、仮に、だ。
例えば、もし、彼女と千年間も同居していた者が仮に実在したとするのならば……フェローマの魅了が効かなくたって無理はないのかもしれない。
「フフ……」
万が一、億が一。
E・E様のあの甘い香りを、耳朶をくすぐる声を、目にささる肢体の凹凸を、あの柔らかさを……千年ずっと……
…千年も。 …千年も? …千年も!?
しかも、ずっと至近距離でッ!
ずっとずっと、堪能し、感じ続けていたというのなら……!!
「……アハハハ!!」
…本当の本当に、千年間も同棲なんてしていたのならば。
E・E様に言われたから全身を覆い隠し続けてきた、被り続けてきたこの「白い布の封印」だって。
拘束を脱いで、このオスを前に、私が本気ヲミセタッテ。
ナニモ、モンダイ、ナイハズダ。
「…ネェ、ワカル?
アナタノナカニ、E・Eサマガイタラ、ダメナノヨ……ネェ?」
「!?」
ケンの目の前でフェローマが、その白き布を取りさった。
濡れるように艷やかな漆黒の長髪。
不気味なほどに完璧に整った顔。
病的なまでに美しい肌。
怪しからんほどに妖艶な裸体。
解き放たれた色香に、歪む世界。
目を奪い、鼻を潰し、舌を痺れさせ、耳を犯し、全身を舐めまわす、色欲。
生き物の身では決して抗いざる暴力が、性的刺激の強制力が、すべての色と匂いと感覚を、たった一つの恍惚に。
そして、ケンのすべてを。
五感の奥の、魂のナカへと、こじ開け、突き入れ、入り込む。
フェローマの桃色の吐息が前から後ろから、頭の先からつま先まで包み込み、嬲り弄び、蹂躙し、侵食し、すべて染め上げ染め直す。
ケンのなかを、フェローマだけに。
フェローマが広げた両腕が、抱擁が。
ケンを優しく、激しく、終わらせる。
「【真実で塗り潰された愛】」




