よみがえる邪龍(1)
最果ての村、エンディオ。
ここより西の森と山を越えた先にあるのは海だと言われており、人の営みはこの村の向こうには存在しない。
長閑な村である。
何もない村だ。
さびれた村という訳ではない。
衣食住に大工に鍛冶屋、医者。元魔法使いに、元冒険者や元戦士達。
自給自足や自衛ができるだけの、そこそこの規模の村である。
だが娯楽は無い。
観劇も賭場も、書店や映画館や遊技場も、何もない。
装飾品店や酒屋はあるが、客と一緒に酒をつくって自家製のそれらが流行るくらいの村である。
お金よりも物々交換、およそ商業活動で財を為すことは厳しい場所である。
だから、何かを成し遂げたい者達は村を出ていく。ここには何も無いのだから。
ただ静かに暮らしたいという、訳ありの者達が流れ着いてできた村である。
たまに森の珍しい植物や生物達を求めて旅人や冒険者達がやって来ても、娯楽があまりに少ないので――酒場はほぼセルフサービス。宿屋の外にある広場で自分達で勝手に飲んで勝手に片付けるルールになっているくらいなので――用事が済んだら旅人達もさっさと村から去って行く、ここはそういう土地であった。
そんな村の入り口に、一筋の光が降りてきた。
帰還魔法の光だ。
帰還魔法に登録できる場所は一ケ所のみ。
魔法の道具であっても、人が詠唱する魔法であっても、それぞれに一ケ所まで。
わざわざこんなのんびりした村に帰還魔法を登録するような物好きなどそういない。
「おや? あれは……勇者ちゃんでないか?」
「あらあら、ほんとねぇ」
勇者ちゃん。あだ名ではなく、国が認める本物の勇者である。
綿菓子のような薄い桃色の髪が、穏やかな陽光をサラサラと反射しながら駆け抜けて行く。
その背中には大きな剣。それ両手剣だが、小柄な彼女では大剣のように見えてしまう。
この村には不似合いな少女が足早に、村の真ん中を突っ切って行く。
いつもは彼女に食べ物や飲み物をすすめる大人達や、一緒に遊んでとせがむ子供達も、今日は彼女に近づかない。
緊急事態だということは雰囲気で伝わってきた。
彼女が急いでいることも、どこに向かっているのかも村人達はすぐに察して、彼女のために皆が道を開けていった。
村の奥、少し小高い丘の上。
空の青と、地の緑色以外には無駄な色を全てを取り去ったような場所にある、小ぢんまりとした一軒家。
彼女は扉を開け放った。
家の中は、まるまる一部屋の広間だった。
家というより空の倉庫みたいな、殺風景で大雑把な空間だった。
そのど真ん中に浮かぶのは、白く大きなエイ。
それは海ではなく宙に、腰の高さにふよふよと浮いていた。
布団のようにフカフカなその魔物の名は【オフトゥン】。
そんなオフトゥンの上にいた少年が勇者の目的である。
その眠そうな目をした少年をオフトゥンの上から引きずり出そうとしていた女の子は村長の家の子だ。
二人と一匹に歩み寄りながら、勇者フィーネはこう告げた。
「助けて」
端的に要件を告げた彼女。目を丸める少年と、察した女の子。
二人の女の子にオフトゥンごと押されながら、滑るように丘を駆け下っていく寝起きの少年。
そこに駆けつけてきた別の男達が、なぜか押して走って来たのは荷車だった。
男達がオフトゥンの上から手際よく荷車の上へと荷物を移すと、勇者はそれを押し出して、いよいよ全力で走り出していく。
勇者が腰の鞄から取り出した【帰還の翼】という魔法の道具。
再び「もとの戦場」へと飛び立つ。
…ちなみに、帰還や移動の魔法を使う時には、目標の方角めがけて勢いをつけてから発動した方が少しだけ移動速度が増すと言われている。
結構な速度で走り出したせいか、勇者と荷車はあっという間に、光の尾を引いて空の彼方へと消え去った。
空へと伸びる光の筋へ、村人達は手を振ったのだった。
◆ ◆ ◆
手の平を真っ赤に染めた鼻血を見て、聖女ソフィアはハッとした。
怪我人の治療で多少の血には慣れているものの、予想外の量の自分の鮮血には、朦朧としていた意識を覚醒させるのには十分だった。
その鼻血は、すでに魔力が底をつき体力を削り始めていることに対する警鐘だった。
それでも【聖壁】の魔法を止めるわけにはいかない。
邪龍の攻撃を、防がない訳にはいかないのだ。
そう邪龍だ。
立ちはだかる巨大な魔物は最強の生物である龍。
そんな邪龍を前に自軍は半壊。
戦っているというよりも防戦一方、むしろ邪龍に弄ばれているような惨状だった。
邪龍が巨大な尾で、足で、気まぐれに地面を薙ぐたびに襲いかかって来る大量の砂礫。
それは弾丸であり、土葬であった。
ソフィアが魔法で防いでいなければ、とっくに決着はついていた。
さらに言えば、兵士達の命を繋ぎ止めるのもまた聖女ソフィアの治癒魔法だ。龍を相手に一人の死者も出していないのはソフィアの力だ。
もはやこの戦場は、ソフィア一人で支えているようなものだった。
それでもまだ戦い続けているのは、撤退の命令が無いからだ。
実は、撤退を命じるはずの指揮官は「死ぬ気で戦え!」と言い捨てておいて逃走していた。
ここにいた正式に派遣された聖女二名もまた、逃走。
聖女二名は「援軍を呼んで来ます!」という希望を持たせるような嘘を残して逃げ出した。
それらはソフィアがここに来る「前」の話である。ソフィアはそんな事情すらも知らずに、ただ命がけで戦線を支え続けている。
兵士達が撤退してくれなければ、ソフィアも逃げられない。
見捨てるという選択肢は彼女の頭の中に存在しない。
彼女はただ、待っていた。
彼女と一緒に訳も分からずこの場へと連れて来られた勇者フィーネ。
到着と同時に、「助けを呼ぶ」と言ってフィーネは帰還魔法で飛び去ってしまった。
あまりの急展開に「え、ちょ……えぇぇーーー!?」と叫ぶ事しかできなかったソフィア。
そして現在に至る。
……だが、いま思えばフィーネがすぐさま飛んで行ったのは正解だったような気がする、とソフィアは思いなおした。
兵士達では手も足も出ないし、ここにフィーネがいても勝てるかどうか分からない。
ならば結局は、助けを呼ぶしかないのだろう。
では、誰を呼びに行ったのだろうか?
やはり、べのむー? いや、さすがに龍が相手ではべのむーも困るだろう。
アランカさん? いくらアランカさんでもあの攻撃では埋まってしまう。
殿下? 「はっはっは、無理だ」と爽やかに笑い飛ばされてしまいそうだ。
…おや?
では、一体誰を呼びに行ったのだろうか…?
……
…
………いけない!
また意識が遠のいてた!
再びソフィアは防壁魔法に集中しなおす。
どうにか鼻血は止まったが、今度は代わりに耳鳴りがしてきた。
それでも魔法を止めるわけにはいかない。
意地というより自棄である。
普通の魔法使いならとっくに意識を失っているが、ソフィアの才能ゆえに幸か不幸か魔法を継続させてしまっていた。
邪龍との戦い、というよりも、ソフィアの我慢大会みたいになってきた。
賭け金は、兵士達の命である。
…兵士達も、そんなにがんばらずにそろそろ逃げてくれないかな?
朦朧とし始めた意識の中で、ソフィアは考えるが……――
――かつては魔法で移動中の者を撃ち落とす技術があったそうですよ? お嬢様――
――…走馬灯の中でも、べのむーは恐ろしい豆知識を披露してくれる。
いまなら本当かどうか実験できそうだが、撃ち落とさなくてもあの龍ならふつうに飛んで追いかけて来そうだ。
こんなことを考えている場合では無いのだけれど。
今は……いまは、 ……なんだっけ?
音が、消えた。
耳鳴りが消えて、視界から色が抜け落ちた。
思った以上にソフィア自身も瀕死だった。
色の消えた視界の先で、邪龍と目が合った気がした。
ニヤリと嗤われた、そんな気がした。
自分の意志とは関係なしに、膝から力が抜け落ちた、まさにその時、
「――おまたせっ」
背中から風が吹き抜けた。
血が、体温が、戻った気がした。
色が、音が、帰って来た。
そしてあの背中は勇者フィーネだ。
その右手には、彼女の愛剣……
…んっ? 棒? 木の棒?
背中の剣は? 抜かないくて良いの、フィーネちゃん?
そんな勇者の一撃が、邪龍の喉を一突きした。
天地を揺るがす邪龍の悲鳴。
疲労困憊の兵士達は、その光景に唖然とした。
あの土砂の嵐の中を掻い潜って、疾風のごとく現れた勇者がついに龍へと一撃を入れた。
剣も矢も、魔法すらもまるで効かなかった邪龍を相手に、叫び声を上げさせたのだ。
そこからついに戦いが「始まった」。
これまでの一方的な展開とはまるで違う、一対一の戦いだった。
ちゃんと勇者の攻撃は邪龍相手に届いていた。
それは邪龍の「なんだその棒は!? 滅茶苦茶痛いぞ!? 一体なんの付与魔法だ!?」という抗議の声が物語っていた。
そもそも邪龍がしゃべれることを初めて知った兵士達には驚きの連続だったのだが。
謎の棒(?)を手に邪龍の攻撃を華麗に躱すフィーネの姿は、まさに勇者のそれだった。
次第に兵士達が立ち上がり、次々に歓声を上げた。
まだへたり込んで呆然としているソフィア。
なぜか「背中が温かい」……体力が少しずつ回復しているような気がするが、それでもまだ力が入らない。
安心感から脱力しきってしまった彼女の、後ろからゴロゴロと音が響いてきて……
…彼女の横で、ゴロゴロ…ゴロ、ゴ、と。音が止まった。
隣を見たソフィア。
横付けされたのは、荷車(?)だった。
荷車に乗っているのは、ソフィアと変わらぬ年頃であろう少年。
彼は虚ろな目で正面の邪龍を見つめながら、あいさつ代わりにソフィアに、こう問いかけた。
「…帰還魔法で無理やり連れて来られた場所が、思いもよらない戦場だった。
そんな経験、ありませんか?」
「っ! 分かります分かります!
実は、私もそうなんです!」
ソフィアは激しく同意した。