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結界仮説   作者: 磊川 聖悟
8/15

◇価値の曼荼羅

 

 彼女は見るのだろうか。


 あの頃、僕は何も信じてはいませんでした。

 虚無主義は若者が患う青春の流行病(はやりやまい)のようなものだと思います。

 形而上(けいじじょう)なものなど、蒙昧な幻想だと考えていました。

 それでも人は価値や意味など形而上のものに(こだわ)ります。

 (むし)ろ人は価値や意味のないものには関心を示さない。

 その意味は希薄で、価値は朦朧(もうろう)として、どちらも絶対的な認識には及ばず、水に揺蕩(たゆた)う薄い油膜のようで、すくい上げても何も無い。

 真実は権力者によって都合よく変質され、善は為政者の思うがまま、美に至っては声高な扇動者に従い、公明正大であるはずの民衆は附和雷同(ふわらいどう)する小魚の群れの如く右往左往の果て、互いに傷付け合う呪詛(じゅそ)の投げ付け合いに終始する始末。

 穢れている。

 この世の全ては穢れていると考えていました。

 聖など語るにも値しない戯れ言の連なり。毎日がその連続。

 海を見たい。山を見たい。あの頃はそんな事ばかり言っていたと思います。それは単純な事で、人を見たくない、そういう意味だったように思います。

 そして最も不快だったのは自分自身。

 誰よりも醜く、狡猾で、卑劣漢。自分という動物は大嫌いだ。

 何もかも無くなれば良いと思っていました。

 価値のあるものなど何も無い。

 でも、ふと思ったのです。

 世の中の全てのものは、比較する事が出来る。ならば、無作為に二つの事物を選び出し、どちらに価値があるか比較できるという事。世の全てのものを、価値あるものと、価値のないものに分け、価値あるものから、また無作為に二つを選び出し価値判断を行なう。これを繰り返せば、最も価値のあるものを見つけ出すことが出来る(はず)。それは至上の価値になります。

 矛盾だと思いました。この世に至上の価値、即ち絶対価値などあるはずがないと考えていたからです。絶対価値を導き出す方法論を思い付いてしまった事で、僕の中の均衡が乱れ始めたのです。

 これが思いのほか深刻なものとなり、僕は深いノイローゼの沼の中へ潜り込んでしまいました。まるで世界が道理など通用しない不条理で作られ、道理など部分々々だけで成り立つ詭弁(きべん)でしかないようにも思えてきます。

 それは本当に深刻な危機だったのです。しかし同時に、周りの者には全く理解されない状況でもありました。

 僕はたった一人で、この矛盾の解決を試みるしかありませんでした。

 自分が道の(わき)に生える草のように価値のないもののように思えました。

 自分の中の二律背反する命題「絶対価値はない」「絶対価値を見付け出す方法がある」この圧力に苦しむ思いは、このような命題を知らず、素朴に生きる人々よりも自分は劣っているように感じてもいました。(ひとえ)に人々は幸せそうに見えたのです。

 その時、何かが見えたように思いました。でも、その時は解らなかったのです。

 学生だった僕は学校に通いながらも、この矛盾した命題に取り組みました。

 そもそも価値とは何か。

 即座に答えることができませんでした。合理性、生産性、利潤、平等、公平、慈愛、優秀……、いくら並べても、そこに矛盾を見ました。

 海や山に人よりも価値をおく自分。そこにあるのは内的な感覚だけでしかなかったのです。理論的に辿り着いたものではありません。

 この感覚を説明する事ができませんでした。意識する対象によって感じる感覚は異なったからです。同じ対象であっても、その時々で感覚は異なりました。しかも、ひどく曖昧なものです。抽象的に好悪を快不快と語ることは出来ても、なぜ感覚が異なるのか説明は出来ずにいました。

 しかし、気が付いたのです。逆に全く同じ感覚があるのか。

 意識する対象が同じでも、時々刻々と感覚は変化し、全く同じという事はありません。

 価値無常。

 価値の第一命題です。

 また、これにより所有する価値は時間ごとに価値感覚が衰える事も解ってきました。

 価値は凡庸化するのです。

 しかし、それは価値の喪失ではないという事も解りました。

 例えば、欲しかった商品を購入できた時など、人は喜びを感じます。しかし、その喜びは日が経つに従い失われていきます。買い求めた商品はいつか日常の中に埋没して忘れられてしまっても不思議な事はありません。それでも、忘れていたものが失われたり、壊れたり、特に盗まれたりすれば、その喪失感は不快なものです。

 本当に価値が失われれば、無くしたり、壊れたりしても、何とも思わないでしょう。盗まれても、それほど腹立たしく思わないと思います。庭先の雑草を猫に(かじ)られても本気で怒るような真似はしないのと同じです。

 即ち、価値は獲得した時の「快」と喪失した時の「不快」とは別のもので、価値自体と価値感覚は別のものとなります。

 また、自ら価値がないと判断して価値が喪失した場合と、他者によって価値がないと判断された場合とでは、その感覚は全く異なるという事。

 価値判断の主体、手続き、理由、評価、様々な条件の変化によっても価値は異なります。

 価値は快不快を生み出す条件に関わる多くの変数によって成立します。これを価値条件としました。

 価値条件によって生み出される価値は二つの側面を持ちます。「快」+(プラス)の正価値と「不快」−(マイナス)の負価値。価値の獲得時に得られる正価値感覚。価値の喪失時に得られる負価値感覚。正負価値は二極的なものというよりも、複素数的なもののようにも思います。それほど、一つの価値に関する感覚の変化は多様です。

 そして回答は直観的に訪れました。

 言葉としてではなく印象、この時は表象として意識の前面に浮かび上がったのです。

 宇宙を覆い隠すほど巨大で、中心に大きな穴が空いたレコード盤のようなものが、虚空でゆっくりと回転している風景を見ました。

 曼荼羅だと思いました。

 それは価値の壮大な体系を表していたのです。

 価値はどれほど優劣を比較して並び替えても、必ず何ものかの後ろにあり、一切のものの前にある。優劣無尽。どれほど至上の価値を極めても、必ずそれ以上の価値があり、どれほど無価値を(さら)っても、浚い尽くすことはない。壮大な宇宙は時に蟻一匹の神秘に劣り、穢れの底の底に徳を極める道理を見付けることもある。

 賢なるが故に愚。愚なるが故に賢。

 時に底が天となり。天が立処に奈落と化す。

 全ての価値は循環する輪に連なる。

 価値の絶対を見極めようと突進すれば、見えるのは遥か彼方を疾走する(おのれ)の後ろ姿に他ならない。


 この天啓にも似た体験をした時、僕は何をしていたのか全く覚えていません。

 次の瞬間、ベッドへ仰向けに倒れ込み、涙を流しながら笑っていたのです。

 不思議でした。

 安心と感動が大量に心へ流れ込んで来たかのようでした。

 腕で顔を隠し、涙を誤魔化しながら、壮大な知見を得た事を理解していました。

 価値の曼荼羅です。

 そして第二の命題を得ました。

 価値無尽。

 価値に果てはありません。

 優れた価値を、或いは劣る価値を、求めれば求めるほど、価値は無尽蔵に溢れ出し、無限の時間の中で、やがて優劣は知らぬ間に入れ替わっています。

 考えてみれば当たり前の事でした。

 価値は必ず価値を決定付ける価値条件があります。多数の変数で構成される価値条件に於いて、全ての事物の価値を一直線上に並べ、優劣を決定付けようとするならば、価値条件の全ての変数は、常に一定でなければなりません。昨日も今日も変数の値が変わらないなどという事は起こり得ない。並べた積み木が翌朝には崩れている事もあるのが価値の世界です。

 飛鳥時代の美女は、哀しいことに現代の美女足り得ない。

 価値の優劣を語るのは、徒労に近く、蒙昧に似ている。

 それでも人は価値を捨てることが出来ないとも理解しました。

 人の意思決定、行動目的は常に価値ある方向、即ち「快」に向かうからです。

 価値に執着しないという事は、何も行なわず、何も求めない、意思も行動もないという事。

 世界に接して分別さえ行わない。全く動かないのは死んでいるのと同じです。

 僕達は悩み、迷い、取るに足りない出来事で一喜一憂し、根拠のない扇動に附和雷同し、危機を煽る言論によって妄動する。その最中(さなか)に一抹の幸福を探し、運良く手に入れた幸福さえも凡庸化させ、また悩む事を繰り返す。

 果てし無い。人生もまた無尽に虚しい。価値も(しか)り。

 されど価値のないものは、曼荼羅の輪の中で、同時に最大の価値をもつとも言えるのです。

 虚しいその瞬間に、僕達は豊かな在り方を許され、正しく生きる事も、助け合うために行動する事も、全ての人を幸福にする方法を探す事も、それらを実現する可能性を常に(はぐく)むのです。

 今この瞬間に一切が在ります。

 それは第三の命題になりました。

 価値総在。

 その頃の僕は既に、自分自身が感じているままに世界が変化したりはしない、世界が変わると感じている自分自身が変化していると気が付いていました。

 即ち、それらの命題は直ちに転換し、世界が価値と同一ではないと告げていたのです。

 価値は人の心に現れた世界の写像に過ぎない。

 世界は人の心の中の価値を写しているに過ぎません。

 価値は人の心に在る。

 世界が心と触れ合った刹那(せつな)、全ての感覚に価値が付着する。感覚、即ち価値。それは好悪の対象であり、意味の種となります。

 ここで言う意味とは、単語の意味など文法上のものとは異なります。

 ここで言う意味は寧ろ行動に近いものです。

 例えば「柏手(かしわで)を打つ」「礼をする」これらは別々の行動です。これを型とします。これを組合せ「二礼二拍手一礼」を作ります。これが式です。「柏手を打つ」「礼をする」「二礼二拍手一礼」これらの行動目的は異なります。

 この意味とは人が意志を以って行動する時に現れる方向性の事。

 人は(たゆ)まなく変化する世界に接して、何らかの対応を迫られ、行動を起す時、その状況を理解する型と、その状況の行く末を予想する式を発します。その解釈のための型式に応じて、行動するための型式を選んでゆく。これを結界と名付けました。


 結界は幾世代も続く人々の生活の中で一つづつ生み出され、世代を経るごとに少しづつ洗練され、或るものは習慣に、或るものは掟に、或るものは禁忌に、或るものは(ほまれ)へと姿を変えて、僕達の人生に遍在しています。それらの多くは僕達が困らないように、避けられる(わざわ)いを遠退けるように、得られる安寧に安らげるように、僕達を護っています。それは先達(せんだつ)の残した祈りでもあります。結界を生み出す、この祈りの根源は何なのか。例え結界が人の子を護ったとしても、生み出した者達に何の見返りがあるのか。

 その頃の僕には、まだ祈りの意味は理解できませんでした。

 あの頃見た穴の空いた円盤は、今はトーラスとなり、その表面で虹色のマーブル模様がゆっくりと変化しながら回転する、総在し無尽で無常な価値の感解となって意識の死角にあります。

 幸せを予感した刹那、哀しみを内包し、虚しいと感じたその直中(ただなか)、最も豊かな情緒と隣り合わせに居る。価値の全体像は、意識しようとすれば、何故か捻曲(ねじまが)り、何か違うものになってゆく。世界の捉え方にぎこちなさを覚えつつ、僕は実在について思いを巡らせていました。

 意味も今では行動の方向性ではなく、行動に方向性を与えるものに変わりました。言葉の意味も、人の行動や思考に方向性を与えるものとの解釈に変わっています。それらの意味は突き詰めれば、単なる印象でしかないと思います。

 人は世界を感覚という記号で捉える。記号を感性で解釈した場合は記号感となり、理性で解釈した場合は記号理となると考えています。

 基本的には、記号理が意味となり、記号感が価値となります。意味を記号として捉え直せば、意味の価値が現れます。それをメタ化と呼びました。このメタ化された社会が現代です。その基は感覚化された意味の場合もあり、世界の実態を感覚したものより、型や式に変換された解釈を感じている場合もあり、日常の生起する価値の価値条件は複雑です。メタ化された記号の感覚は、他の記号、特に言語や論理によって強い影響を受ける場合もあります。

 型式、即ち結界によって作り出された感覚は人の意思決定に作用し意味を生み出します。この結界の体系が文化と言われるものです。

 それは人の表情、仕草、立居(たちい)振舞(ふるまい)に現れ、同じ文化ならば、人の表情から立居振舞まで類似性が見られます。しかし、文化を越えて人類全体で類似性のある表情は何を意味しているのか。(たん)に共通した先祖によって編まれた結界という事なのだろうか。今日(こんにち)、原初結界の考察は困難です。真に純粋な経験から得られる感覚を選別するのさえ細心の注意が必要です。それほど僕達の周りには多くの価値があり、それ以上に価値条件を構成する複雑な変数に満ちているからです。

 結界は僕達の意思決定に作用します。しかし、その結界を編んだのは人の意志です。自分自身の価値を自定するのは大変重要ですが、他者から見れば、それは重要性を持たない価値です。ならば皆定された価値はどうでしょうか。多くの結界は自定的に編まれ、他者への伝播は、他者自身が価値を自定的に認める事で成立します。これは家族間、友人間など、小さな関係から始まり、やがて社会全体へと広がると推測できます。また、社会全体へ一つの結界が伝播、認証されるのには単純ではない条件があると思われ、それを皆定し、価値を認識するまでの過程は、人々の意思が作用します。今日(こんにち)の社会で成立している結界は、幾世代もの自定を経て皆定に至った結界です。今この社会は時代を越えて皆定させた人々の意思の表れと言えるのです。


 結界は人を護って在る。

 幾つもの結界によって編まれた社会は何処へ向かうのでしょうか。人を護って(いざな)う先を、決めているのでしょうか。そもそも最初の結界はどのように生まれたのでしょうか。

 なぜ結界は人を護るのでしょうか。

 いや、人を護りたいから結界が生まれたのではないでしょうか。

 人を想う思いが、型を作り、式を連ねる。想いのうえに、想いを重ねる。受け継がれる型式に想いが乗る。その想いが、また型式を作る。

 それこそが結界です。

 ならば結界の先にあるものは、人を護って在る場所。

 全ての結界は人を楽園へ誘う。そう思います。

 結界を生み出す想いは楽園への想いとも言い換えられるのです。

 結界には楽園への願望が隠されているように思います。

 しかし、何故でしょうか、人の楽園は未だ遥か遠くにあります。

 自らの価値は自定して在る。楽園は自定したところで実現はしない。他定もまた同じ。

 では、皆定すれば、どうでしょうか。

 未だ楽園皆定の例無(ためしな)し。

 楽園は、誰かが勝手に定めても意味がありませんし、価値もありません。

 例え、皆定できたとしても、百年後の人間に押し付けて良いものではないと思います。

 それぞれが、それぞれに、それぞれの楽園が在ります。

 全ての人にとっての楽園は統一的に結実はしません。

 自らの価値を他定されたくないのと同じです。

 自定できる楽園は、自分だけの楽園でしかないのです。

 では、結界に関わらない楽園への願望、或いは、楽園への意志は在るのでしょうか。

 その頃の僕は、まだ良く理解していませんでした。

 人の中に眠る楽園への衝動は、「神の位相」についての教えを受けるまで理解できていなかったのです。

 その頃の僕は結界が世代を経て社会に定着したように、楽園もまた実現できると信じていました。価値が無尽であり、無常であると解っていながら、理解していなかったのです。

 しかし、それでも未だに楽園への願望を諦める事が出来ていません。

 そして、それは突然やって来たのです。

 花の香に誘われて、無邪気に(とい)を発しました。

「結界って、何ですか?」

 彼女の問は、幾星霜、僕が繰り返してきた問です。

 そこから彼女の物語は始まり、僕に驚きと感動をもたらしました。

 僕が長い時間を掛けて登ってきた階段を、彼女は駆け足で追い掛けて来る。

 楽しそうに、時に困惑の表情で、それでも確実に一段々々を踏みしめて、気まぐれなステップで、結界を認識し、記号から意味、そして価値を見定めようと好奇心を僕に見せ付けて来るのです。

 (すこぶ)る嬉しい。

 早く、楽園や神の位相について彼女と話したい。

 (はや)る気持ちを抑えて、価値と意味との問答を繰り返してみる事に専念する。

 もどかしい。

 答えを言ってしまいたくなる自分を(たしな)める事が幾度もありました。

 彼女自身が答えを見付けることが重要なのです。

 言葉を以って伝えた答えは、理解は出来ても、感解する事が困難な場合もあるのです。

 僕なんかよりも、彼女はもっと高みへと登るでしょう。彼女を誘える今が(さいわ)いです。彼女が、哲学者の使命、既に人々が神を目撃している事の認識、奇跡の本質、生きる事の根源的衝動を感解して、尚その先に行く事の手伝いができるでしょうか。

 今ここに、こうして在る事。

 実存としての可能性は彼女の方が豊かなのです。


 だからこそ、彼女にも見て欲しい……あの、価値の曼荼羅を。

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