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結界仮説   作者: 磊川 聖悟
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◇猫のオーケストラ

 あれから先生は何か忙しそうで、毎日パソコンに向かいっきり。

「純粋経験から関心、また分別され、意味となる前の思惟されているものについて、考えてみて下さい」

 言っている意味が解りません。質問を理解できないという意味です。

 恐らく先生は「自習していて下さい」と言いたかったのではないかと思います。

 あと、毎日ケーキが届くようになりました。十時に届きます。二人前届くのですが、先生は召し上がらないと言うので、私が頂いています。

 私はダイニングテーブルで頬杖をついたり、カウチに寝そべってガラス壁越しに青空を見上げたり。そんな事は半日で飽きました。

 仕方ないので、先生に出された課題と向き合う事にしました。

 先生の蔵書から、それらしい本を引っ張り出して、読んではみたものの、意味の前にあるものについて書かれた本はありませんでした。

 先生の仰った純粋経験は分別前の「これ」とか「あれ」という主体や客体が分かれる前、主客未分(しゅきゃくみぶん)を意味していると思います。そこから「これ」あるいは「あれ」という主体へと関心がおよび、それが知っているものであれば、既知の認識に変わります。これが分別。この分別は意味を理解すると同義だとも思います。なのに先生は「分別され、意味になる前」と仰りました。また「思惟されているもの」とも仰りました。言い換えると、既に分別され、主体的に認識されているが、言葉などの意味を持つものになる前の、思惟されているもの、という事になります。

 何じゃ、そりゃ。

 本音です。

 けれど、分別しても理解できないものは、意味を成さないボンヤリしたもののままです。この「ボンヤリ」は何なのか。そういう意味なら考えられると思いました。

 先生は、思惟するものを「ノエシス」、思惟されるものを「ノエマ」と教えて下さいました。ノエマちゃんに想いを寄せるノエシス君の物語のようで切ないです。だって、この二人は永遠に一緒にはなれないのだから……。でも、このノエマちゃんがはっきりした姿の時と、ぼんやりした姿の時があるのは、ノエマちゃんの本当の名前を知っているか、知らないか、その違いのようにも思えました。

「見知らぬノエマ」

 それが答えです。

 でも、それだけでは不十分です。

「見知らぬノエマ」は、当然引っ越してきた隣人のように謎めいて、微かに不安です。けれどもノエマは、やがて名が解り、暮らしの中でノエマの性格も解り、そして凡庸に日常へ埋没するはずです。もう「見知らぬノエマ」ではありません。

 では、「見知らぬ」ことと、「見知っている」ことと、その対象のノエマに何の違いがあるのでしょうか。違っているのはノエマに想いを寄せるノエシスではないでしょうか。「見知らぬ」ことで不安を抱いたのはノエシス。「見知った」ことで不安を解いたのもノエシス。変わったのはノエシスであってノエマではありません。

 ならば分別し「見知らぬ」ノエマと、「見知った」ノエマは、同じノエマということになります。

 主体と客体に分かれたる前の純粋な体験から、関心によって認知の中心となった普遍的な「ノエマ」は、やがて意味となる「核」のようなものではないでしょうか。この「核」は意味を与えられた後も残る、……のかな?

 二日ほど考えてから、先生にお伺いをたてると……。

「核ですか。一般にはセミオ、種と言われる事があります」

 帰ってきた応えが、それです。

 セミオティクス、記号学というそうです。

 私が「核」と言ったのは、記号という事になるようです。

 記号は意味化して記号だと解りますが、意味化する前の記号って何でしょうか。

 先生は仰いました。

「君が言っているのは記号そのもの、記号自体です。

 記号は文字や図形などで表される記号表現があります。

 この表現には表現している内容があり、これを記号内容と言います。

 一般には記号内容と意味は同義的に利用されますが、

 結界学で、意味は記号理(きごうり)とされます。

 君が言ったボンヤリは意味が与えられる前の記号内容、これを記号感(きごうかん)としています。

 記号内容には記号理と記号感があり、記号理は意味を成し、記号感は価値を成します。

 記号感は快不快と関係し、これは結界の型式快、型式不快に関わりがあります。

 記号理は理性で解釈され、記号感は感性で解釈されます。

 型式にしろ、記号にしろ、感性で解釈されたものは快不快と関わり、価値に関わります。

 即ち、(あら)ゆる結界は価値に関わります」

 私は先生に反論を試みました。

「先生、それならば、意味のない記号があるという事になります」

 先生は静かに笑っていらっしゃいました。どうやら私は先生の思惑通りに反応したようです。

「ジンジロゲヤ、ジンジロゲ♪

 ドレドンガラガッタ♪

 ホーレツラッパノツーレツ♪

 マージョリン♪

 ヒラミヤパミヤ♫

 チョイナダディーヤ♬

 ヒラミヤパミヤ♫

 チョイナダディーヤ♬

 チョイナダディーヤ♬

 チョイナダディーヤ♬

 ヒッカリコマタキワーイワーイ♫

 ヒッカリコマタキワーイワーイ♫」

 先生のパソコンが当然歌い出した歌は、私にも聴き覚えがある私が生まれる前の古い歌。

「この歌詞の意味を説明できますか?」

 先生は私の()ねた表情を確認して、少し笑顔を見せてから続けました。

「意味は解らなくとも、好きか嫌いかは言えるはずです。

 この歌でなくとも、全ての音楽、全ての絵画、ありとあらゆる事物、事象についても同じです。

 海や山。自然の風景も変わりありません。

 意味が解らなくとも、価値を感じることはできるのです。

 そこに意味を見出すことは可能ですが、意味を与えることで、その価値が変わる事がある事も忘れないで下さい。

 人は世界を認知するとき、人が理解できる記号に変換しています。これが感覚です。

 感覚はそれ自体、記号感と成ります。

 ここから記号表現が生まれ、理性によって意味が定義され、それが記号理と成ります。

 記号化して認識し、(しか)る後、解釈する。

 記号内容には、記号理と記号感があるのです。

 記号表現そのものも感性で認知されるとき、新たな記号感を得ます。記号の記号化、メタ記号です。またそのメタ記号もメタ化され……、と繰り返され、メタ化に限度はありません。

 メタ化された認識は記号の利便性を高め、更に構造化しますが、そこに構築されるものはメタ世界であり、時に実世界の理解に貢献しますが、純粋世界の論感にも超越的に有効だと思います。

 分別の後に意味化して成り立つ理世界の更に後に成り立つメタ世界での感解、理解を以って、純粋世界を解釈する事は不可知を知る事と同じです」

 論感は確率的、直観的、そして超越的に不可知を言い当てる。そこには必ず論感的妥当感が在ります。また、論理的破綻も在ってはなりません。それが哲学的妥当性だと先生は仰いました。



 ケーキを食べる。

 午前中に二人前を食べてしまっていましたが、どうやら先生は、午前と午後の分として一個づつ用意されていたようです。

 何で?

 グラスハープを演奏したご褒美でしょうか。

 ケーキは毎日違うものが届きます。それに一日分の二つのケーキも違うもの。

 飽きないので私的には◎です。

 最初の日に食べたコーヒーケーキが美味しかったので、配達の人にお願いしたら、翌日のケーキにコーヒーケーキを持って来てくれました。オーダー可能という事ですね。シメシメです。

 午前中のケーキタイムにはコーヒーを淹れる事にしました。家からコーヒー豆とドリッパーを持って来て、浸漬式で淹れます。それにアーモンドミルクを入れるだけ。

 先生にもお飲みになるか(たず)ねたら「飲みます」。二人前淹れています。

 先生は一口飲んで「美味しい」と仰って下さいました。

 先生はコーヒーを飲みながら、パソコンをパチパチ打っていました。それも結構速い打ち方でパチパチ、パチパチ打っていて、忙しそう。それに夜ふかしをしているのか、時々大きな欠伸をしながらパソコンに向かっています。明らかに寝不足な感じです。

 午後のケーキを食べ終えて、食器も洗い、ダイニングテーブルで頬杖をつきながら、記号と価値について思いを巡らせていました。記号感と価値が同じもののように語る先生の考えが理解できていなかったからです。

 そろそろ帰ろうかなぁ……と考えていると、先生がいらっしゃって「少し時間ありますか?」と仰いました。

「ありますよ。何ですか?」

「良かった。準備をしますので、ちょっと待ってて下さい」

 何だか嬉しそうに仰りながら、先生は書斎エリアのパソコンまで戻って、パチパチ。

 そしてノートパソコンを持ったまま、小走りにホールの西側のパイプオルガンがあっても可笑しくない一面の大きな扉を押して中へ消えました。

 何でしょう?

 そのうちに、何処からともなく、ガコンと大きな音がしました。

「なに?」

 首が(すく)みました。吃驚(びっくり)したのです。

 そして、微かなモーター音、歯車の音。

「ファー」と少し歪んだ音がしたかと思うと、一斉に「キー」とか「ブーン」「パー」とか、かなり大きなオーケストラのチューニングのような音がして、直ぐに静かになりました。

 (せわ)しなくモーター音が数分間響いていました。

 そして多くのモーターが一斉に動いている音を最後に、静かになりました。

 間もなく先生が扉から出て来られました。パソコンは中に置いてきたようです。

 それに先生はジャケットをお(めし)になって、ちょっと余所行きの格好。

 何だろう?

 先生はホールの中央に私を招き、私と並ぶように立つと、こう仰いました。

「先日はグラスハープでの演奏をありがとうございました。

 当研究所に於いて初めての音楽演奏となり、厚く感謝いたします。

 当初から、この研究所には音楽演奏の機能がありながら、本格的に演奏された事はありませんでした。

 ここに君への感謝を込めて、当研究所専属のオーケストラによる演奏会を行ないます」

 私、口開いたまま。

 先生は私に軽く一礼。

 私、口開いたまま答礼。

 先生はスマートフォンを内ポケットより出されて、タップすること数回。

「ゴ」という少し大きな音と共に、ホールの数ヶ所の壁がスライドして、大小様々なスピーカーが現れました。

 間髪入れず「ダン!」と大きな音。吃驚して()()りました。すると、あのパイプオルガンがあっても可笑しくない一面の二階部分が開き、ゆっくりと前へ倒れてきます。かなり大きい壁板なので(おのの)きます。

 大きく開口した、その奥から迫り出して来たのは、何やら椅子に座った大勢の人。中央には直立して、(こうべ)を垂れた指揮者らしい人物。オーケストラだと直ぐに分かりました。

 しかも、全員猫。

 私、口開いたまま。

 皆、凄く真剣な顔。それに均整の整った大人猫(おとなねこ)が正装をしています。

 指揮者は特に真面目顔で、髪はちょっとボサついて、何だか名指揮者カラヤンにも似ています。

 指揮者が、スッと顔を上げ、前面の虚空を見詰め、ゆっくりと一礼。気品があります。

 先生が答礼。私も慌てて答礼。口開いたまま。

 指揮者は上品に反転して、オーケストラに向かい、スッと手を上げると、間髪入れず、全員が演奏体制を整えます。

 指揮者が指揮棒を振り下ろし、短いイントロダクションの後に始まったのは「夏は来ぬ」

 私、吃驚して手で鼻と口を覆って、涙目。

 オーケストラが演奏した「夏は来ぬ」は、私が演奏した「夏は来ぬ」と少し違う感じがしました。私は四拍子で演奏したのですが、オーケストラは三拍子で演奏していました。小気味よく、上品に仕上がっています。オーケストラらしい繊細で力強い演奏は、(たちま)ち私を圧倒して魅了していました。

 最初は優雅に「夏は来ぬ」の主題を演奏し、それに続き変奏曲の「夏は来ぬ」。

 ヴァイオリンの皆さんは時折身体を揺らして熱の入った演奏。

 ブラスセクションの皆さんは朝顔を少し上へ向け、敬意を込めて演奏。

 木管の皆さんも、繊細な表現に合わせて、座ったまま伸び上がるようにしたかと思うと、ゆっくりと身体を沈め、表現力豊かな演奏をしていました。

 それぞれに目を閉じたり、口を(すぼ)めるのに合わせて髭が動いたり、その演奏の真剣さが感じられます。

 そしてまた、ゆったりと優雅に主題を再現し、優しく終止形へと導き、曲を終えました。

 演奏者は座ったまま、真っ直ぐ前を見た姿勢。

 指揮者は優雅に反転し、直立不動。

 一呼吸。

 指揮者がゆっくりと最敬礼。

 指揮者が最敬礼したまま「ガコン」と大きな音と共に、迫り出していた舞台は、奥へと下がって行きました。

 先生が答礼。私も慌てて答礼。鼻と口を押さえたまま。もう涙全開でした。

 倒れていた壁板もゆっくりと元の位置へ。スピーカーも隠されていきます。

「せん◯△……」

 声になりません。

 先生は笑顔。私は微笑み返せませんでした。

 ゆっくりと先生に近付き、その肩に顔を埋めました。

 先生は私の肩をポチポチと(たた)いて「いつも、ありがと」と仰って下さいました。

 私は青い花の感触に囚われて、言葉が出せないでいました。

 青い花は私が深く感動していることを意味しています。昔から、深く感動すると、青い花のイメージが現れるのです。

「また明日、美味しいケーキ、食べましょうね」と先生に慰められながら、私は泣いていました。

 この数日間、このために先生は忙しくしていたのだと知りました。それも寝不足になるほどに。

 先生という私にとってのノエマは私を遥かに越えて、私をノエマするノエシスでいてくれました。

 どう感謝をしたら良いのか判りません。

 ホールの空気は先生と私を中心にコリオリの力に従い、反時計回りに動いていました。

 ホールには既に茜色の陽の光が入り込んでいます。

 やがて幾筋もの光の帯がホールの上層に現れるでしょう。

 夏の日の夕暮れだけに現れる仕掛けだと先生に教わりました。

 もう過ぎてしまいましたが、夏至の日には天頂の排気窓周辺の仕組みで、天井の中心から放射状にホールへ光が降り注ぐらしいです。

 でも私は、青い花と先生のワイシャツの香りと、先生の左手のカフスが私の肩で夕陽を反射して、目が(くら)む思いが、コリオリとは違う力で反時計回りに回っているように感じていました。ボンヤリと主客未分とは、この事だろうかと考えていました。

 とても嬉しかったのです。

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