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結界仮説   作者: 磊川 聖悟
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◇不可知の智

 

 毎日が変わり始めたように感じていました。

 それからというもの、私は毎日、研究所へ通うようになりました。

 朝起きて、朝食を済ませ、身なりを整えると、研究所へ向かいます。

 朝の煌めきや、小鳥の歌声、揺れる木の葉さえ、今までとは違います。

 アスファルトの上に散らばる浜の砂も、ひび割れたコンクリートの隙間から伸びた草も、塀の上を歩く猫も、私が感解し、その実在を認知するだけなのに、これほどまでに美しいとは思いもしませんでした。

 研究所の緑も少し深くなりました。本格的な夏の始まりです。

 午前中は先生と論感の問答を行ない、昼食は時々ですけれど、私が作るようにもなりました。

「なぜ論感が必要なのですか?」

 先生と話しをすれば話しをするほど、論感の誤謬(ごびゅう)性が大きな問題となります。

 論感は空想と置き換えることも可能な言葉です。空想は現実性にも正確性にも束縛されません。間違いを冒すのです。

「論感には誤謬性があります。それが論感の妥当性を損なうのは、お気付きの通りです」

 そう仰りながら始められた先生の話しは、先生の若い頃の話になりました。

 ガラスを通して差し込む午前の光りは、先生のワイシャツを白く輝かせ、黒いベストの微かな布地の柄を浮き立たせていました。



「その頃、僕は経営管理部に配属されたばかりで、僕の教育係になった先輩から、仕事について教わっていました。

 先輩は僕に在り来りの作業手順を教えながら、こう言ったのです。

『お前、思ったより真面目だな』

 そして、こうも言いました。

『お前にだけ、プロとしての教育を施してやる』

 僕は素直に嬉しくて『はい』と元気良く応えたのを今でも覚えています。

『他の奴には絶対に言うな。部長にもだ』と念押しして始まった教育は思っていた以上に高度なものでした。

 まず、簿記3級を取ること。商業簿記は経営の基本だと言われました。

 経営管理は会社の参謀本部あるいは情報局に相当するのだから、高度な情報処理も必要になると情報処理技術者の資格も取るように言われ、初年度から仕事を覚えるのと資格取得の勉強で超多忙になってしまいました。

 簿記の資格は直ぐに取れましたが、情報処理は二度落ちました。

 表計算ソフトの使い方や、マクロ言語については先輩から直接指導を受け、情報処理の資格を取る前には、データさえあれば、ABC分析くらいなら自力で行えるようになっていました。

 先輩の教育で求められている水準より、会社の仕事の方が簡単な作業でした。

 それが、まだ初級の教育だったことは、二年目に入って、情報処理の資格を取得した後で解りました。

『経営管理の本当の職能は知り得えないものを知る技術だ』

 先輩の言葉が理解できませんでした。

『知り得えないもの』を知る者は、『いかなる状況でも勝つ』と先輩は言いました。

 例えば、明日の相場が判れば、多くの利益を得られます。

 未来の出来事や人の心など、常識では知る事が出来ない事を知る方法があれば、対処できない状況はありません。

 無いものを知る技術という意味で、先輩はこれを『ナッシント』と言いました。

 Nothingness intelligence の略だそうです。

 人は知らない事を知ろうとして、様々な行いをします。学問もそうですし、諜報活動もそうです。

 先輩が言うには『この世の全ての知的活動はナッシントだ』そうです。

 知り得ないものを知るための戦術として様々な方便があり、その不確実性に虚構が紛れ込むのだといいます。しかし、その虚構こそが知り得ないものを知る可能性そのものなのだと言われました。

 知り得ないとは何か?

 理性でも、論理でも、複雑な計算式を用いても解読できないもの。未来、そして人の心。

 理性にも誤謬性があることはカントの『純粋理性批判』によって示されています。

 論理にも限界があることをヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』によって示されています。

 数学も不完全であることがゲーデルの『不完全性定理』によって証明されています。

 理性、論理、数学でも判断が困難なものも『知り得ないもの』です。

 では、この『知り得ないもの』を知るためには、どうすれば良いか。

 結論から申し上げると、空想するしかないのです。

 しかし、たったひとつの空想が『知り得ないもの』を知り得る可能性は、あまり期待出来るものではないと先輩は言いました。

 加えて、こうも言ったのです。

『ひとつで駄目なら、ふたつ。ふたつで駄目なら、みっつ』

『幾つもの空想は、確率的に真実を言い当てる』

 そして先輩はより的中率を高めるために、空想も現実的な空想であるべきだと言いました。

 現実性の高い空想は、もはや未来変数のひとつだと言うのですが、その未来変数については教えてはくれませんでした。それでも、それが未来シミュレーションの構想であることは何となく気が付きました。

 体系的に空想することで、直観的には思い付かない空想の構築手順や、現実性から乖離した時の感覚など、先輩からは多岐に渡って助言を得ました。謎のままの考えもありましたが、先輩の言葉のひとつひとつが金言として、今も記憶しています」



 虚ろな先生の表情は、遠い記憶の思い出に、感情が動かされていらっしゃる為だと思いました。

 木洩れ陽の、少し俯いた先生の、白く光るワイシャツの、キラリと光る袖口の星型のカフスの、深い緑が、私を捉えて離してはくれません。

 先生に「大丈夫です」と根拠のない励ましの言葉を掛けたい気持ちを、私の中の先生を尊敬する気持ちが抑え込んでいました。

 私達の周りの知る事が困難なものを、先輩の言った「空想」を「論感」に置き換えて、その必要性を説こうとしているのだと感解しました。

 私達は理解を超える感世界、純粋世界を感解し、更に純粋世界をも超える超純粋についてさえ感解すべきと暗に示唆しているとさえ思えます。

 論感には誤謬性があり、安易に論じれば誤った結論へ導かれます。但し、それを心得た上で、不可知の事象に用いれば、確率的、直観的、あるいは超越的に有用な知見へと導かれる可能性があります。所謂(いわゆる)、仮説です。

 世界に散りばめられた結界は、何かを導き出すための仮説なのでしょうか。

「人間の求める究極の不可知は『神』です」

 先生は私を見ずに、何処かを見るともなく、呆然(ぼうぜん)とそう仰いました。

 ホールの空気は左から右へゆっくりと流れていました。微かな上昇気流が煌めいて見えます。先生のカフスも煌めいていました。

 そして先生は直ぐに、いつもの先生に戻り「でも今は神については止揚して下さい」と優しく仰いました。

 神について先生と語り合うには、まだ私の準備が出来ていません。今の私にとって神という概念は誤謬そのものです。私には、まだまだ論感力が足りていません。




「先生、ワイングラスはありますか?」

 その日の午後、私は思い立って、そう先生にお伺いしました。

「パントリーにありますよ」

「大きいものが良いのですけれど……」

「パントリーのグラスハンガーに色々あります」

 先生の許可をもらい、アール・デコ調のドアを開けパントリーの中へ。

 そっとドアを閉め、見渡したパントリーは驚くほど広く、自分の部屋よりも二倍、いや三倍は広いように思います。外壁のガラスにもアール・デコ調のステンドグラス模様が描かれ、室内を薄暗くしていました。外の光が間接して天井を照らすように工夫されていて、天井の光が室内を視認できるよう設計されているようです。

 入口のすぐ近くに、本棚と同じ様なガラスケースがあり、グラスハンガーはその中でクロームの輝きを放ち、大小様々なグラスをぶら下げていました。

 でも、足はそちらへとは進まず、パントリーに置かれた様々な物に好奇心を寄せつつ、あらぬ方向へ進んで行きます。

 リンゴの皮むき器や芯取り器。今度、先生にアップルパイを作ってあげるのも良いかも知れません。先生はシナモンの香りがお好きなのか気になります。バニラアイスを添えて……、ブランデーに漬けたチェリーを添えるのも、いかがなものでしょうか。

 エスプレッソマシン、それも手動式の。手動でエスプレッソを淹れるのは結構難しいと聞きます。先生がバリスタだとは、どうしても考えられません。

 大きな鍋、小さな鍋。寸胴。これも大小各種。包丁類。レードル類。どう見ても業務用の調理器具が箱に入ったまま保管されていました。

 奥の壁沿いにローズウッドの棚があり、ガラス戸の中には様々なお酒がありました。コニャック、アルマニャック、カルヴァドス、アマレットなど……。お菓子に使えそうです。

 隣の少し大きめのワインセラーが微かに動作音をさせていました。興味はあったのですが、恐くて中は見れませんでした。

 その隣は広い空きスペース。天井の一部に配線がぶら下がっています。

 窓際にはステンレスの大きな作業台。作業台より頭上には棚。作業しながら、何かを取り出すのには丁度良いです。

 開けてみる。

 手延べ棒がありました。

 ?

 パティスリー!

 ここはデザートを作る場所のようです。

 右手の少し離れた場所にはシンクがあり、その向こうにレンジとオーブン。

 振り返った棚には、電動の機械が各種。ミキサーや絞り器。メレンゲやクリームを混ぜてくれる電動機もありました。

 さっきのワインセラーの隣の空きスペースは、きっと業務用の冷蔵庫や冷凍庫を設置するためのスペースだと思います。

 ……でも、なぜ?

 謎ですが、今は別の計画を遂行中なので、ワイングラスのもとへ。

「2オクターブ……、2オクターブ半かな」

 ワイングラスを十八個、パントリーからダイニングへ、せっせと運び出し、大きなテーブルの上に並べました。

「どうするのですか?」と先生が不思議そうにお(たず)ねになりながらテーブルの(そば)へ近寄っていらっしゃいました。

「先生は、あちらでお仕事してて下さい」と言いながら、私は先生のもとへ駆け寄ると、先生を方向転換させて、書斎エリアの方へ押しやりました。

 先生は半分お笑いになりながら「はい、はい」と仰りつつ、私に押されるまま書斎方向へ歩き始め、また振り返り、私が腰に手を当てて仁王立ちで見送ると、またお笑いになりながら歩き去って行かれました。

 計画は単純。目的は先生への感謝。世界や物事を考える方法について、先生は見返りを求めずに教えて下さる。その御礼がしたくて、高校の時の音楽部の部活で習得したグラスハープを披露しようと考えました。これくらいしか芸がありません。

 それにグラスハープの音は透明感があって好きなので、先生にも喜んで欲しいなと思った訳です。

 ワイングラスに水を入れ、音程を整えます。チューニングはスマートフォンで……。昔は音叉を叩いて耳に当て、その音と同じ音程になるように水を足したり、捨てたりしていました。今はスマートフォンでチューニングソフトを起動して、グラスを鳴らすだけで、音程を表示してくれます。

 グラスの端を優しくデコピン。

 キーンと金属音のように響くグラスにスマートフォンを近付けると、音程とそれが平均律より高いか低いか表示されます。今日はスプーンを使って、水を足したり、引いたり。

 音叉を使うよりも手早く作業完了です。

 先生に聴こえないように、小さな音で練習です。

 基本的に右手が主旋律。右に行くほど高い音になるようにグラスを並べます。

 速いフレーズは片手だけでは追い付かないので、手がぶつからないように、配置も工夫して、和音も使うので、主旋律のグラスの手前、親指の位置に、四度や五度、あるいは六度下の音程にしたグラスを配置。三度なら一つ飛ばした位置のグラスなので、片手でも届きますが、それ以上となると、特別に用意しないと、和音が作れないのです。

 また練習。曲の最後の和音の終止感が良くありません。

 和音の一番低い音が根音になっていないのがいけないのかもしれません。これ以上、大きなグラスがないので、低い音が出せないのです。それに高い音もグラスに水を入れ過ぎた所為か響きが良くありません。

 パントリーへ。

 シャンパン用のフルートグラスがあったので、高音はフルートグラスにしました。問題は低音。それほど大きなグラスはありません。

「どうしよう……」

 パントリーの棚をひとつひとつ丁寧に調べました。全て箱に入っているので、開けて中を確認する必要があります。面倒です。

 それでも、ひとつひとつ箱を開け、概ね見て回りましたが、目ぼしい物がありません。

「仕方ない。音程を上げてみようかな」

 パントリーから出ると先生がテーブルの側に立っておられました。

「これ、どうです?」と仰りながら差し出された物はガラス製のボウル。

「低音が出ないのでしょう?」と先生。

 何で判ったの?

「ありがとうございます」

 ちょっとムッとする。

 サプライズだったのに……。

「先生はお仕事してて下さい」半怒りの口調で言いました。

「はい、はい」

 お笑いになりながら、先生は書斎方向へ。

 遠ざかる先生のワイシャツに微かな茜色。もう随分、陽が傾いて、気配が夕方に変わり始めていました。

「急がなければ……」

 ボウルを台の上に乗せて、グラスと同じような高さにしてチューニング。

 ボウルの大きさでは片手で和音を構成できないので、曲の終わりには右手だけでも三和音を構成できるようにグラスの位置を変更。

 終止感は満足いくものになりました。

 念の為、もう一度、練習。……良し。

 小走りに先生のもとへ。

「先生。どうか、こちらへ」

 先生は笑顔。私は真面目ぶった顔で、静々と先導し、ダイニングテーブルの上に並べられたグラスの前へ先生を誘導しました。

「こちらへ」と言いつつ椅子を勧めました。

 先生は優しく「はい」と仰りながら椅子へ腰掛け、静かな笑顔。少し期待してくださっているのが判ります。

「ええと……、先生には、いつもお世話になっています。その感謝を込めて、一曲演奏いたします」

 最初に鳴らすグラスを軽く撫でて、音が出るか確認。

 フォーンと特有の音が鳴る。

 そして、一礼。

 先生は拍手しながら、軽く答礼。

 曲は「夏は来ぬ」

 ゆったりとした曲調でグラスを鳴らす。間違えないように、ゆっくりと……。和音の響きも良し。音程のズレもなし。盛り上がりで右手二和音、左手単音。最後は右手三和音、左手はガラスボウル。少し長めに鳴らしました。ちょっと汗ばみました。

 先生は嬉しそうに、ゆっくりと顔を横にフリフリしながら「素晴らしい」

 そしてまた顔をフリフリしながら「実に素晴らしいです」

 ひとつ、大きく頷いて「ありがとうございます」

 ホールは既に茜色。東側の壁に反射して、光線がホールの上層で幾筋も交差していました。

 先生に感謝は伝わったでしょうか。

 確かに、先生は嬉しそうな顔をしていらっしゃいましたが、それよりも、私の方が満面の笑みだったようにも思えます。

 記憶に残っているのは、先生の拍手の音と、顔をフリフリしていた事と、私は恥ずかしさと嬉しさで目頭が熱く、涙を(こら)えていた事。

 あと、先生が勢いよく立たれたので、テーブルが揺れて、グラスがカンコーンと音を響かせていました。

 それと、テーブルのグラスの影は長く、水が揺れるのを映し、茜色に染められてもいました。

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