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結界仮説   作者: 磊川 聖悟
3/15

◇基礎概念

 翌日、研究所には多くの人が出入りしていました。

 私は研究所の門で日傘を畳んだまま、立ち尽くして見ていました。

 ドーム屋根からロープを垂らして、ぶら下がりながらガラス壁を洗っています。上でロープを握り、異常がないか確認しながら、時折ぶら下がっている人を覗き込む人。ぶら下がって、ガラス壁を洗う道具を腰回りに取り付け、必要に応じて道具を取り出し、ガラスを洗う人。下でロープを握り、不必要に揺れないよう調整する人。その組が二組。計六名で作業をしていました。

 門を入ったところのお花さん達には、こっそり会釈。

 研究所の中ではメイドさん風の衣装の女性たちが数名。あっちを拭き、こっちを拭き。床にしゃがみ込んで拭き拭きしている人もいます。

 清掃のためキッチンが使えず、お昼ご飯はなし。

「月に一度の清掃」なのだと先生は仰いました。

「先生、お昼どうするんです?」と伺うと……。

「コンビニ」と素っ気ない返事。

「坂の上の喫茶店、行かないんですか?」

「行きたいけど、外、暑いでしょ」

 なるほど、確かに暑いです、夏ですから。

 先生は、あの坂の上の純喫茶の焼きそばが大好きだと聞いていたので、提案をしてみました。

「車で行きませんか?」

「車?」

「車出しますよ、(うち)の」

「車あるんですか?」

「父の形見の車があります。私が存分に利用しています」

 もはやクラッシックカーの部類に入るユーノス・ロードスターが家にはあり、何度か修理に出しながらも、未だに走っています。もともとは父の愛車で、父が亡くなってからは私が利用しています。色はグリーン。わたし的には情熱的な赤が良かったのですが、父の趣味なので仕方ありません。

 ほんのり先生の顔に喜びが浮かび、何だか思わせぶりに、恐らくワザとゆっくりした口調で先生は仰いました。

「お願いして……良いですか?」


 暑い中、家まで少し駆け足。陽は天頂に差し掛かろうとして、陰は無く、風も無し。蝉はジージーと木陰から私を脅すように戦慄き、涼しさは微塵も無し。木々の緑が陽の光を照り返す。走る私の横を、入道雲が梢の上を渡るようにゆっくりとついてくる。何だかジッと見られているようで気になります。

「今は忙しいので、後にして」と心で言い放ち、知らぬ顔。そして玉の汗。

 走って帰って、家に飛び込んで、柱に掛けてあるキーを掴む。奥の台所で母が何か水仕事をしている。昼食は要るのかと声だけ響く。

「いらない」と叫びつつ、再び外へ。

 急いで幌を開け、急いで車を発進。炎天の陽射しは自動車ごと溶かさんばかりに、豪放な愛情を注いでいる。エアコン全開。太陽に挑んだイカロスを思い出しつつ、入道雲を横目に、木々の葉の煌めきを受けて研究所へ。

 ちょっと楽しい。

 私は今、結界の内にいるのだろうか……。生きること、即ち結界ならば、いま私は結界の内にいる。

 それにしても暑すぎる。車を冷やさなければと思い、少し遠回りをすることに……。直進すれば研究所のところを右折。小さな山をトンネルで貫く新道へ廻る。陽射しは厳しかったけど、走っていれば風は優しかった。新道に出て、片道二車線のトンネルをくぐり、海沿いの道へ。海風が涼しい。左折すると道の先に海が見えた。海までの幾つもの信号機が一斉に緑に変わった。アクセル全開。風切音が変わる。

 髪が後ろにたなびく。風で目が少し痛い。サングラスをすればよかった。アクセルを少し緩めて、ウインカー、車線を左に変える。

 道の取っ付きを左折して、海沿いの道を流す。海の上を滑るように、入道雲がついてくる。少しアクセスを踏み込んでスピードを上げる。風が強くなる。エンジンは今日も快調。入道雲は青い空を背景に、何だか余裕の視線を送ってくる。

「なに見てんの」と思いながら、思わず笑みがこぼれてしまいました。

 海沿いの道を逸れて、旧道と呼ばれる小さな山の斜面に斜めに作られた道を登る。樫や楠が斜面や峠のような広場にも植えられている。

 その旧道を登ってゆくと、入道雲も背伸びをするようについてきました。

 山の上まで登る。喫茶店が営業中なのを確認。

 下り坂を下りてゆく。雲は後ろからついて来る。坂を下りて右折。木立の中の石畳の道を真っ直ぐ進むと研究所があります。

 更に右折して直ぐに研究所の門柱。ゆっくり進んで、入り口の前で車を止めると、エンジン音を聞きつけたのか、中から先生が出ていらっしゃいました。中折れ帽にサマージャケット姿。

「あ、先生。いま幌を閉めます」

 エアコンの効きを高めるため幌を閉めようと車を降りました。

「そのまま、そのまま。オープンで良いじゃないですか」

 先生、にっこり。

 私もにっこりして、ちょっと持ち上げた幌を下して、再び乗車。先生、ドアハンドルに人差し指を引っ掛けて、カチリとドアを開けて、暫し鑑賞。

「良いですね」

 先生、またにっこり。そして乗車。

 先生がシートベルトを締めるのを確認して、ゆっくり発進。エアコン全開。

「先生、エアコンの風の向き、調整して下さいね」

「ラジャー」

 ラジャーって、先生……、私も思わず、にっこり。

 車はスルスルと門柱を抜けて通りへ。そして左折。少し加速、但し丁寧に。徐々にスピードを上げて、風が優しく先生を撫でてゆく速度を保ち、坂道へ。減速して、左折して、上り坂。

 あれ、登り難い。やっぱり二人乗っているとパワー不足?

 ギアを1つ落として、アクセル開放。

 グンと登り始める。エンジン音が高くなる。

 先生は帽子の天辺を押さえたまま、前を見て楽しそう。

 もう少しアクセルを踏み込む。軽くシートに押さえつけられる感覚。グングンと坂を上る。先生、声なく笑い、ますます楽しそう。

 登りきったところで減速。スルスルとそのまま進んで、喫茶店の入り口前で停車。

「先生、先に中へ入っていて下さい。車を駐車してきます」

「ラジャー」

 先生、小気味よく降車。ドアを閉めて、何故か指さし確認。

「では、お先に」と言って入店。すべての動作が何故かキビキビしていました。私にっこり。

 車を喫茶店の駐車場に止めて、幌を閉め、カギを掛ける。

 車の廻りに問題ないか、もう一度カギ閉め確認、幌閉め確認。何故か私も指さし確認。

 チラッと入道雲さんを確認。直立不動の気を付けの姿勢で私を見ていました。でも、姿勢はちょっと悪い。

 くるりとお店へ方向転換。

 いざ、先生のもとへ。


 喫茶店のドアを開けるとチリリンと小さなベルが鳴ります。

「いらっしゃませ」

 給仕さんの落ち着いた声。外の暑さとは別世界。

 奥の席で先生が「ここだよ」という感じで、手を振っていらっしゃる。

 テーブルには水がふたつ。ひとつ向こうの窓際のテーブルの窓枠には水中花が置いてあり、反射した光が天井に波模様を揺蕩(たゆた)わせていました。窓の向こうで木々の葉が時折煌いて、蝉の声は遠くに、カウンターでは氷をアイスピックで削っている音。私は先生を見ながら、ゆっくりと席に腰を下ろしました。

「楽しいですね、オープンカー。初めて乗りました」

 私は微笑み返し。先生は楽しそうに話し続けます。

「日本には梅雨があって、雨がよく降るので、オープンカーなんて不必要だと思っていたのに、いつのまにか自動車メーカーはオープンカーを作るようになりましたね。あんなに気持ち良いものだとは思いませんでした」

「いまは夏ですから、季節ではないですけれど……」

「オープンカーって、夏が季節ではないのですか?」

「オープンドライブは春や、秋が最適と言われています。春先の新緑の中を駆け抜けるのは気持ちが良いですよ」

「なるほど、確かに……。桜並木を通り抜けるのも素敵ですね」

「ええ、素敵です。桜並木はゆっくり走りますけどね」

「いいなぁ……。連れて行ってくれませんか」

「いいですよ。来年の桜の季節に……。でも、先生は花粉症、大丈夫ですか?」

「……ダメです」

「残念ですね」

 先生、水のコップを持ち上げ一口飲まれました。私を見ながら、ちょっと残念そうに溜息ひとつ。

 先生はメニューを私に差し出して、何にしますかと、問いつつ、私を眺めていらっしゃいます。いつものことですが、優しい視線。私もいつものことながら少し照れながら微笑み返し。

 先生はきっと焼きそばの目玉焼き乗せ。私はポークピカタ。先生に「ポークピカタ」と伝えると、先生は給仕さんを見て、真っ直ぐに手を上げられました。

「ポークピカタ定食と焼きそばの目玉焼き乗せ大盛り、あとレモンティーと……」と言いつつ先生は私に視線を移され……。

「抹茶ミルクティ」と私。

 給仕さん一礼。退散してキッチンへ。

「さて……」と先生。近くの紙ナプキンを一枚取られ、内ポケットからボールペンを取り出されて、私を一瞥。

 私は困惑して、先生の動向を観察。

 先生は紙ナプキンに、自定、他定、皆定と書かれました。

「ジテイは自ら定めること。タテイは他の人が定めること。カイテイは皆で定めること」と仰いました。

「ジテイ。タテイ。カイテイ」と鸚鵡返しの私。

「君は自分の人生を自定していますね。他定されたら、どう思いますか?」

「嫌です。たぶん怒ると思います」

「左様。僕も大概怒ります。では、他人の人生を君は決められますか?」

「決められません。自分の人生は自分で決めれば良いと思います」

「なるほど……。では、社会の在り方、国の方針は誰かが勝手に決めて良いでしょうか?」

「勝手に決めるのは良くないと思います。皆で決めれば良いことと思います」

 突然始まった先生との問答。うまく答えられているのでしょうか。不安な感情が沸き起こってきます。

「君は、自分の事は自定し、他人の事は他定し、皆の事は皆定するべき、そう仰るのですね」

「その通りです」と言いつつ、何か失敗の予感がし始めます。

「何故?」

 ああ、理由……。なんだろ、「(ゆえ)無く生きています」って言ったら、たぶん先生にまた諭されるんだろうなぁ……。でも、何で私は自分の事は自分で決めたいと思っているんだろうか?

 先生、ちょっと楽しそうにニヤリ。

「先生は答え知ってるんですか?」

 先生、もう少しニヤリとしてから「知っている訳ではないですが、思うところはあります」

「何ですか?」

「まず君自身で考えてみては、どうでしょうか」

 考える葦ですね。でも、自分の事は自分で決めたいと思うのは当然の事だと思うのですが……。理由……、ええと……。逆に、自分の事で自分で決めたくないこと……も、ありますね。責任を取らなければいけない事とか、何か大変そうな事とか、今だって自分の事なのに難しいので自分で決められない。自分で決めている事って何だろう。お昼ご飯……今日は自分で決めたけど、普段は先生の作るまま。この喫茶店へ来たのだって、自分で決めたけど、先生の事を思って決めた事。あれ?

「先生、そもそも私、自分の事、自定していないかもしれません」

 先生、笑いを堪えながら「いいえ、自定しています」

「でも……」毎日、夕食だって母の作ったまま。朝起きるのだって目が覚めたまま。

「あ、研究所に行くのは自定しています」

「そうですね。何か強制されている事はありますか?」

 私、少し目を細めて、流し目で先生を見てから「今、ちょっと他定されています」

 先生、小さな声で笑いながら「そうですね。僕が強要している部分はあります。でも、君、怒ってませんね。さっき他定されたら怒るって言ったのに……」

 本当だ。怒ってはいない。

 先生は少し真剣な顔をして「他定的に自定することはあります。自らの行動は現象的に自定的ですが、本質的には他定的な事が多いのです。その他定的に自定する事こそ結界です」

 そして先生は「水の実験」について解説をして下さいました。

 コップを洗う行為について、先生は次の通りに整理して下さいました。

 コップに水を注ぐ

 コップの中の水を回す

 コップの水を捨てる

「これらひとつひとつの行為を型と呼びます」

「カタ……」

「行為のシークエンスの要素と言えば分りますか」

「シークエンス……」難しいです、今は黙って分かった振りします。

 コップを清浄にするためには、複数の型を数回繰り返す必要があり、この複数の型がひとつになり、行為を意味づけることを「式」と説明なされました。

「君はコップを洗うために、この型と式を自分で作り出しましたか?」

 えっ?「作っていません」

「誰に教わりましたか?」

 えっ?「ええと……分かりません。いつのまにか知っていました」

「正直ですね。僕達は知らない間に、こうした型を幾つも覚え、必要に応じて組合せて式を作り、発動させています。文化あるいは社会などの集団には特定の状況に対応する固有の対処法や仕草、礼儀作法があり、こうした集団の成員の共通した行為は型や式に基づくもので、それらの型や式によって意思決定や目的選択が知らず知らずのうちに他定的に決定されています。即ち、これら型や式の実践された状態、型式こそが結界です」

 先生、すこぶる真剣な顔。私も真剣に質問します。

「先生、私がコップの水を飲めなかったのも結界による意思決定という意味ですか?」

「少し違います。君は型式によって目的であるコップの清浄化を行った後、僕から促され、再び型式行為を開始して、そして僕に言われて式が未完了のまま中止しました。式が完了しなければ、清浄化は未完了のままです。すなわち、穢れが残ります。君が感じたコップの水の汚れは、式未完了によって現れた穢れそのものです」

「穢れそのもの……」

 そして先生は、水の実験で感じられた穢れはふたつの意味があると仰いました。

 ひとつは、清浄化未了により現れた対義的な意味での汚れ。

 いまひとつは、型式未了による純粋な型式的穢れ。

 このふたつは別々の感覚として認知されるのではなく、混合された不快感として認知されているのではないかと先生は仰いました。

 驚くことは意味的「汚れ」については許容できるのに、型式的「穢れ」については許容できない人が存在することと先生は仰いました。世の諍いによる行き過ぎた非道な行いの多くが型式的「穢れ」によるものではないかと予想を述べられました。

「型や式は人の快不快に関係します」

 型式が完了することで、ある種の快感を感じられると先生は仰られました。

「これを型式快と言います。逆に型式が完了せずに終了すると不快感を感じます」

 これを型式不快と言うと先生は仰られました。先ほどの型式的穢れは型式不快として感じられ、時に人の激情も引き出すことがあると先生は説明されました。

「結界は時に強く、感情を支配します」

 何だか怖い。結界は他定すると先生は仰った。なら、感情を他人に支配されると同じ意味なのではないだろうか。先生にそれを率直に伺ってみた。

「その通り。人は状況への対処方法を見失うとアノミー状態に陥り易い。そんな時に強力な結界に出会うと、まったく簡単に支配されてしまいます」

「怖いです。どうしたら支配されないようにできますか?」

「よく考えなければいけません」

 考える葦戦術。そこに道徳の根源があると仰るのですね。難しいです。

 快不快、汚れと穢れ、行為と型式……。あれ、行為と型式の結果としての快と不快、それが汚れと穢れ……。それって、不快としての汚れと穢れ……ですよね。快としては……何?

「一種の充足感……あるいは、充実感。時には達成感。場合によっては爽快感」

 私の質問に先生はそうお答えになりました。

 そして「ハレ」と一言。

「ハレ……?」私、鸚鵡返し。

「柳田國男です」

「ヤナギダクニオ……」鸚鵡返し。

「ケの内に結界は眠り、ひとたび起きればハレやケガレとなります」

「ケ……?ハレ?ケガレ?」ちょっと待って下さい。「先生、何ですか、ケとか、ハレとか、ケガレ……ケガレは分かりますけれど、少し」

「ケとは日常を意味します。ここでは結界が発動していない状況を意味しますが、結界学では生きること即ち結界ですので、完全な形でのケはありません。ある特定の結界に対して発動していない状態をケ、発動後に得られた感覚をハレ・ケガレに分別して考えます」

「フンベツ……」

「そう。ハレは非日常的な晴れやかなるもの。ケガレも非日常的な穢れしもの。強弱はあれど、結界は人の感情にいずれかの感覚を引き起こします」

 先生の説明では、私達が何か大きな力に意思や行動、感情までもが支配されているように思えてきます。

「まずは知ること。人が感情を支配されやすいものと知っていれば、自分が支配されているか考えることができます。不合理な行為や、利他的な行為を強制されていたり、苦しい思いを、幸せを手に入れる方法と思い込まされていたりすれば、そこには感情を支配する結界があると心得るべきです」

 先生は少し怖い顔をされていました。何か許せない思いがあるのでしょうか。

「少し話を進め過ぎました」

 私が不安を申し上げると、そう言って先生は謝罪しました。

「話をもとに戻しましょう」

 水の実験で私がとった型式行為は、私自身がコップを清浄化するために発明した行為ではなく、他の誰かによって作られた型式であると先生は仰りました。その型式行為は少なくとも日本の社会全般的に見られる行為で、何の違和感もなく型式として成立し、清浄化行為として認識されている。すなわち皆定された型式だと先生は仰られました。

「では、こうした型や式を人は何処で学ぶのか。こうした型式行為を教える授業があった訳ではないですよね。もちろん学校の授業は或る意味、型式です。しかし日常の内に見られる型や式の殆どは親兄弟など近しい者から伝授されます。また、友人や映像メディアからも知らず知らずのうちに伝授されます。即ち文化です。文化とは成員に一般的に見られる同一傾向の行為のこと。しかし、その文化としての型や式は個人々々によって発動の切っ掛けや強度が異なる場合があり、常に実存的です。即ち、この実存的に機能する型式が結界です」

「じつぞんてき」と呟いて私は先生を見たまま停止。

「実存はですね……」先生ちょっと困り顔。

「実存はエグゼクテンチアを日本語に訳したものです。エグゼクテンチアはエッセンチアの対義語。エッセンチアは日本語に訳すと本質です」

「はぁ」本質に対義語があるとは思いませんでした。

「もとは現実存在と訳されていました。物は本質的な性質を備えて存在します。自転車の利用方法は知っていますね」

「知ってます。乗り物です」

「では、自転車を通路に置いてバリケードに使うのは本質的な利用方法ですか?」

「いいえ、違うと思います」

「その通り、本質とはかけ離れた在り方です。しかし、自転車をバリケードに使うことは可能です」

「はい」

「現実存在の自転車はバリケードにも使えますが、バリケードに使うことを想定して作られる自転車はありません」

「……」

「人間はどうでしょう」

「?」

「人間の本質的な在り方とは何ですか?」

「分かりません」

「その通りです。人間の本質は良く分かっていないのです。個々に在り方を模索し、真と偽を確かめながら在り方を探してゆく、その在り方を探す在り方自体を実存と言います。実存は人それぞれで違います。自転車の本質は乗り物で、すべての自転車に共通ですが、自転車の実存は乗られている状況、乗る人、乗る場所、乗る目的、すべて違います。結界の型式は同じでも、その発現や強度、結果としての感覚など人によって違いがあります」

「人間の本質って分からないんですか」

「分かっていません」

「神様でも?」

 先生、少し微笑まれて「神様の話はまたいつか」

 そこで、焼きそばとポークピカタが運ばれてきました。

 給仕さん一礼。

 先生の前には焼きそば目玉焼き乗せの大盛り。

 私の前にはポークピカタ定食。ご飯とお味噌汁とお新香とポークピカタ、千切りキャベツ。

 お昼ご飯を前に、私は目が回りそうになっていました。言葉の洪水。私の日常的に行っている行為は、誰かが作った型や式を借用している?かも……。お箸の使い方だって教わったもの。ポークピカタって名詞も他定されたもの。私独自の行為なんて……ある訳ない。話し方だって、車の運転の仕方だって、食べる前に「いただきます」って言うのだって、みんな他の誰かが決めた事。あ、でも、入道雲とお話しするのは私ぐらい。あの気を付けの姿勢が悪い雲の存在は自定しました。

 ちょっと笑顔になって「いただきます」

 続いて先生も「いただきます」

 まず、お味噌汁を一口。お新香一切れ。ご飯一口。それからポークピカタ。一口食べて……ちょっと薄味。ソースをとって、ちょびっと掛け回す。お食事続行。

 先生は目玉焼きをお箸で突き崩して、まぜまぜ。箸で持ち上げてから、大胆にパクリ。召し上がられておりました。召し上がってから、ほんの少し眉毛を持ち上げられて、またパクリ。美味しかったのだと思います。

 先生とのお食事タイムは必ず序盤は沈黙タイムとなります。先生も私も人心地つくまで食事に集中です。

 ポークピカタを味わいながら、先生の言葉を少し整理。まず、私たちの日々の行為は型式によって他定されているものが多い。だけど、その発動の切っ掛けや効果の強弱は人によって違う。また、発動させる型式は自定的に選択される。状況と型式は必ずしも一対一の関係ではないということかも?しれないです。私たちは時々刻々と変化する状況の中で最適と思われる型式を選択して……どうして選択するの?……ほったらかしじゃいけない?

 疑問に思ったことを先生に伺いました。

何故(なにゆえ)に人は状況に応じて型式を自定するのか。重要な命題を得ましたね」

 先生はそう仰ってニッコリ。お水を一口飲んで、続けて仰いました。

「そこには人と人の関係があります。人が居る場所で、君はだらしない行為などしますか?」

「しません」普通、する訳ないです。

「では、人が居ないところで、とても人には見せられない格好でテレビを見ていたり、本を読んだりしていませんか?」

 えっ……それ、言わなければいけないの?かな「見られたくない格好をしている時はあります」

「誰にでも人に見られたくない事や知られたくない事はあります。でも、その中のいくつかは、君のお母さんは知っているのではないですか?」

「知っています」恥ずかしい……私がひっくり返った達磨さんのような格好でテレビを見ているのも、お菓子をこぼしながら食べているのも、母は幾度となく目撃しているはずです。

「重要なのは、人に知られたくない事を、お母さんに知られても、君がそれほど気にしていない事です。何故だと思いますか?」

「家族だからでしょうか?」

「では、亡くなられたお父さんに見られたとしたら、どうですか?」

 ええと……ちょっと言いにくい事があって、先生には言ってないのですが、私と父は仲が良くありません。たぶん一方的に私が悪いことで、中学の後半から父とは口を利かなくなりました。それは先生には内緒にしたい。先生に諭されることは分かっていたけれど、もう父は亡くなっているので、今更どうしようもない事だったし、すごく後悔はしていることだったから。そのことは秘密にして答えました。

「母なら良くても、父では嫌な事はたくさんあります」

「同じ家族でも、違いがあります。君に兄や姉、妹や弟が居たとしたら、その全員との関係はそれぞれ違ったはずです。僕はそれを『色』と呼んでいます。関係色と言えば分りやすいでしょうか。人は自分に近いほど、自分と同じ色を対象に付与するのだと思います。対象によって強弱はあります。近いほど強く、逆に遠のいて離れ、限界を超えると色味を失います。そしてその限界は意外に狭いのです。悲しい事ではありますが……、それに限界の範囲は一定ではありません。それこそ無常です。

 先ほど君は、自分の人生を他定されたら怒ると言いながら、僕には怒らなかったのを覚えていますか?」

「はい」不思議に怒りませんでした。

「あの時、僕は嬉しかったのです。君が僕に君の色を付与されていると知ったから……。君は僕に君の一部分に干渉することを許してくれたのです。だから怒らなかった」

 あ……そ、そうかも。

「君は僕に対する態度と、その他の人に対する態度が異なるはずです」

「はい」

「それは状況に対する型式の選択に他なりません」

 先生は一旦言葉を切って、すこぶる真剣な顔で続けました。

「人は人との関係で態度を選びます。即ち型式を選択するのです。関係に於いて適切な振舞いをすることで、何かを守ろうとするかのように……。もし、適切な態度をとらなければ、どのようになるでしょうか」

 えっ?私に訊いている?よね。先生、こっち見ているし……。

「分かりません」

「質問の仕方が悪かったです。……、今ここで急に僕が、ドラマに出てくるチンピラみたいな口調で話し始めたら、君はどう思いますか?」

「ふざけているのかなぁ……と思います」

「真面目だったら、どうしますか」

「怖いです」

「なぜ怖いですか?」

「先生はチンピラのような人ではないからです」

「質問の仕方を変えます。……怖いとは、どういう意味ですか。どのような時に、そんな感情になりますか?」

 えっ?怖いという感情の意味?って何?

「先生、難しいです」

「……すみません。少し無理強いし過ぎました。……怖いとは、状況を把握することが困難な時に現れる感情の一つで、特に危険を伴うと判断される時に現れる感情です。危険が強くなれば、怖いという感情も強くなります。危険が全くない場合は不安と同じと感じられます。僕はそのように理解しています。

 この場合、僕が君の思う型式から外れたことで、君は僕の状況が判断できなくなるために、怖い、あるいは不安という感情になります。通常の関係から逸脱することは理解困難な状況となり、不安あるいは恐怖へと感情を遷移させます。では、怖い、不安、という感情は快ですか?不快ですか?」

「不快だと思います」

「左様。不快な感情は、人と人の関係では好ましくないものですので、不快な関係にならないよう、日頃から快適な関係になるように、人は型式を選択します。これが基本です。即ち、人が快適な関係を結ぼうとすれば、快適な結果をもたらす型式を選択し、不快な関係にするならば不快な型式を選択することになるのではないでしょうか」

 え?何?「関係なければ、型式は選択されないって事ですか?」

「君は遠いヨーロッパの知らない町に住む、知らない人のために、態度を決定しますか?」

「しません」

「結果に何の影響もない事に、ひとつひとつ対応しますか?」

「ええと……」

「もう少し具体的に言いましょう。……外に車が通りました。知らない人の車です。君には何の関係もありません。君はどんな態度をとりますか?」

「知らんぷりすると思います」

「そうですね。人は対応しない状況もあります。それどころか知覚しても認知しない状況もあります。世界は分別され、然る後、解釈されるものです」

 また出てきましたフンベツ。先生にとっては重要な事のように思います。

 でも「分別とは何ですか?」という私の問いに、先生は「それは世界についてお話しするときに説明します」と仰られ、真面目顔。私はちょっと引きました。そんなに重要なこと?分別。

 先生、私を暫し観察。そしてにっこりして「ご飯、食べましょ。冷めてしまいますよ」と仰って、御自分は焼きそばをパクリ。そしてまたパクリ。

 私もピカタを食べて、ご飯、お新香、お味噌汁。

 人は型式を選択したり、しなかったり。目的に応じて型式を変える。基本的に人は関係によって型式が選ばれる。それは円滑な関係を保つためだったり、円滑ではないようにするためだったり?……。そのどちらも型式快を伴うということ? なのかな。謎は増えましたが、結界は型式が実存している状態を意味している事は分かりました。でも、先生がなぜ結界という言葉を選んだのか。それも謎です。

 私がじっと先生を見ていると、先生は焼きそばを口から垂らしたまま停止して、私を見返してきました。

「今度、必ず教えて下さい、分別」

 先生、焼きそばを食べながら目だけでにっこり。

「それに、どうして結界という言葉を選んだのかも……」と私は付け足しました。

 先生は焼きそばを食べてから「分かりました、必ず」と仰って下さいました。

 私の真剣な目に、先生も真剣な目。

「必ず、ですよ」と念押しすると「必ず」と先生は応えられました。

「今度、実験をしましょう。君の世界認識について、実験して確かめましょう」

「実験?」

「実験です。人体実験……」

 もう驚きはしません。私は背筋が伸びるような感覚で、先生の言葉のひとつひとつを聞いていました。今日のお昼ご飯の味は覚えていません。「美味しい」という記号だけが頭の周りを廻っているような、そんな抽象的な感覚だけが残されて、関心は「型式」と「結界」の間を行き来して、その差異と意味、そして快不快の価値の素因を探していました。

 隣のテーブルの水中花さえ他定された型式で揺れているように見えたお昼時でした。


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