◇水の実験
結界研究所の前まで来ると、私は日傘を畳んで門の中へ入りました。
良く手入れされたプランターにはハイビスカスやブーゲンビリアが咲いていました。私は足を止めて、花々に軽く会釈をしました。いつもの習慣です。
私が先生と初めて言葉を交わしたのは梅雨の頃です。大きなガラス壁のドーム屋根の研究所には不釣り合いなほどの小さな門柱に「結界研究所」と控えめな銅製の看板が掲げられて、研究所の前を通るたびに気にはなっていたのですが、中を覗き込みながら通り過ぎる程度でした。それが梅雨の半ばの晴れた日に、クチナシの香りに誘われて、木立の中の石畳を抜けて、門柱の陰から中を覗き込んでいると……。
「もうじき百日紅や夾竹桃も咲くそうです」
後ろから話しかけてきたのは先生でした。私は驚きつつも……。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
先生は麻織りのサマージャケットに中折れ帽、極端なショートポイントのワイシャツ姿。何だか嬉しそうに微笑んでいらっしゃいました。
「どうぞ、遠慮なく中へ入ってご覧になって下さい。クチナシが咲き始めたばかりで、良い香りがします」
「良い香りですね」と応えつつ、私は軽く会釈して、早々に退散。それが最初です。
もともと男性と話しをすることが苦手で、極度に緊張する性格なので、「男は忌避すべし」と強く自分に言い聞かせてきたのですが、数日後、良く晴れた日に、研究所の前を通りかかると、先生がプランターの花を覗き込んでいらっしゃるところに出会しました。何故そうしたのか自分でも解りませんが、私は先生の死角から、先生の背後に周り込み、ゆっくりと近付くと、「こんにちは」と声を掛けました、少し大きめの声で……。
先生は勢い良く振り向き、驚き顔。
私は優しく微笑んで……。
「ハイビスカスですか?」
「ええ……、そのようです」
先生は向き直ると、ひとつ深呼吸。
「こんにちは。良い天気ですね」と先生。
「良い天気ですね」
私は微笑み返し。先生は笑顔。
「ひとつ、お訊きしても良いですか?」と私が話し掛けたのが先生との関係の実質的な始まりのようにも思います。その時、結界について質問をしたのですが、何故か答えをはぐらかされ、「機会があったら教えましょう」と言質をとったのが一週間ほど前のことです。先生のところへは三日と空けずお伺いする間柄となっていました。私は暇でしたし、先生も暇そうでしたので、特段気にすることもなく研究所に入り込むようになりました。
研究所は外観から三階建てと思えるほどの高さなのですが、中へ入ると一階からドーム型の天井まで吹き抜けのホールのような構造。ホテルのロビーのような感じの、野球のグラウンドより少し狭いかなという広さでした。二重になったガラス壁は外壁と内壁の間が二メートル程も開いていて、そこに壁や天井を支える構造が随処に設置されていました。それに日差し除けなのか、垂直に並んだ色とりどりの板が南側に見られます。どうやら機械式で回転するようにも見えました。
天井には無数に小さな天窓があり、太陽が天頂に登るのに従い、天窓から差し込む光が幾筋もフロアを照らし、まるで木洩れ陽のようで、広いフロアが森の中にあるような錯覚を誘います。その木洩れ陽の中をゆっくりと回転している空気の流れが見えるのですが、先生が仰られるには、ドーム屋根の中心にある排気窓から熱気が抜けてゆくのに従って、ドーム内の空気が回転する構造になっているそうです。建物の北側の外壁と内壁の間に空気の冷却機構が設置されていて、そこからドーム内へ空気が送り込まれるのも、ドーム内の空気を回転させる助けになっているそうです。送風を最大にして、ドームの排気窓を全開にすると、ドーム内に風を起こすこともできるそうです。先生に風を起こしてくれるようにお願いしたのですが、「そのうちに……」と仰って笑っていらっしゃいました。
研究所は入り口でカードキーをかざし、ドアロックを解除して入る仕組みになっています。私はスマートフォンをかざせばロック解除するように、先生が設定して下さいました。「勝手に入って良し」と先生にお墨付きを頂いたと思っています。
中へ入り、日傘は傘立てへ、広い玄関でスリッパに履き替え、玄関の正面に掲げられた幾何学模様が無数に並んだ大きな絵画の両脇にある引き戸を開けて、ドームの中へ入ります。今日は絵画の左のドア、南側の入り口から入りました。入ったところで一礼。広々としたフロアを見渡し、先生を見つけると、そこまで小走り。その日、先生はフロアの南西にある書斎エリアの書棚の前で立ったまま本をお読みになっていらっしゃいました。
書斎エリアは大きな机を中心に、大きな書棚が並んでいました。その書棚が変わっていて、すべてガラスケースの中に収まっているのです。良く見ると書棚には細かい彫刻や金やクロームや色ガラスの細工が嵌め込まれ、凝った作りのようでした。先生が立ってらっしゃったのは哲学のコーナー。ニーチェ、パスカル、キルケゴール、フッサール、ヤスパース、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、カント、ヴィトゲンシュタイン、ソシュール、レヴィ=ストロース、そして西田幾多郎などの本が並んでいました。先生が良く居る場所です。とても偉い人達の本だとは思いますが、何の哲学か私には知識がありませんでした。
「先生、こんにちは」
「はい、こんにちは」
先生は本を仕舞いながら、軽く会釈をなさいました。私も会釈。そしてゆっくりガラスケースの戸をお閉めになると、戸はカチッと軽い音をさせて、先生はゆっくりと戸から手をお放しになりました。私の方に向き直り、背筋を伸ばされてからニッコリ笑顔をなさって、私の方へ歩み寄られます。近付くに従い、天窓の光が先生の頭、肩を照らし、全身を照らします。先生愛用のショートポイントの白いワイシャツに陽の光、袖口の星型のカフスがキラリと光り、御髪に交じる白髪さえも薄く輝くようでした。
「先生、パスカルは数学者ではないのですか?」と先生に訊く。
「数学者ですよ」と一言。
「何故、哲学のコーナーにあるのですか?」と私。先生は「おや」と少し驚いた表情をなされると、踵を返して書棚に戻られ、ガラス戸をちょっと押されました。カチリと軽い音。滑らかにガラス戸は開き、先生は手を伸ばされ一冊の本をお取りになりました。そしてガラス戸を優しくお閉めになられ、カチッと軽い音。
高い天窓からの光の筋を幾つも横切って、白いワイシャツと袖口のカフスが光り、そしてまた光る。
先生は本を私に差し出されて、笑顔。とりあえず私は微笑み返し。厳かに本を受け取りました。
「あちらへ……」と先生はフロアの北側にあるダイニングエリアを指し示されました。
そのまま私の脇をすり抜けて、先生はダイニングへ向かわれます。私の手元には、どう見ても装丁し直した革表紙の本。金押しでパンセ。その下にパスカル。そのずっと下に、小さな文字で、恐らくフランス語の、恐らくパスカル……パンセ……とありました。それほど厚くない本でしたが、畏れ多さは厚く積もった感じがしました。
「これは私が持っていてはいけない本」としか思えない立派な本です。
私は書棚に駆け寄ると、ガラス戸を軽く押し、滑らかに開くガラス戸に軽く慄きながら、素早く本をもとの場所に戻し、丁寧にガラス戸を閉めました。カチッと軽い音を確認して、手を放し、気を付けの姿勢。上見て、下見て、異常なし。くるりと回り、いざダイニングへと顔を上げると視線の先に、高い高い天窓から差し込む幾筋もの光の中、ホールの中央で上半身だけ振り返った先生の姿が……。呆れ顔でこちらを見ていらっしゃいました。白いワイシャツとカフスが光ってらっしゃいます。あと御髪に混ざる白いものも……。ゆっくりとホールの空気が左から右へと動いてゆきます。
「あのような立派な本は困ります。汚したら、どうしましょう」と言い訳しながら、私は先生を追い越して急ぎ足でダイニングへ。光の筋をくぐるたびに、視界が光り、また陰り、明暗の仕切りが境を失って、軽く目眩を覚えながら無闇に突進する私。背中に先生の視線を感じつつ、急ぎ足。ホールを横切り、ダイニングの広いテーブルに到着し、勢い余ってガガガとテーブルを押しやり、急いでテーブルをもとの位置へ引き戻す。ガガと戻したあとで振り返ると、先生はゆっくり歩いて来られます。光りの中、陰の中、そしてまた光り。それは木洩れ陽の中を歩いていらっしゃるようでした。
「哲学はお嫌いですか?」と一言。
私ははにかんだ笑いで誤魔化して、先生は笑顔のまま、私の脇をすり抜けられ……。
「キッチンへ、どうぞ」
私は服を直し、手はお臍の直ぐ下で組み、肩をすぼめて、先生の後ろをそろりそろりと付き従い、キッチンへ。
キッチンとダイニングは大きなカウンターで仕切られていました。西部劇に出てくる、端からグラスが滑って出てきそうなほど大きなカウンターです。その両脇にガラス扉、カウンターの上にはガラスの欄間。どれもアールヌーヴォー調の飾りで、その直ぐ上は恐らく銅製?の天井で仕切られ、グリルの上のダクトが銅製天井や内壁を突き抜け、外壁につながっているのが、古いSF映画にでも出てきそうな大仰で無神経なほど存在感がありました。まるで劇場のエントランスにある軽食スタンドのような佇まいのキッチンです。先生はそのままキッチンの中へ。私もあとに続きます。
気になるのは左手に隣接する飾りガラスで囲まれた部屋。こちらはアール・デコ調の飾り。先生が仰られるには、ただのパントリーだそうですが、キッチンより広いパントリーって……何でしょうか。前々から気にはなっていたのですが「入っても、つまらない」場所だそうで、入れてはもらえませんでした。
キッチンはカウンターと並行して、中央に大きなステンレスのテーブル。テーブルを囲むように、西側には業務用の大型冷蔵庫が並び、北側のガラス壁に沿ってステンレスのテーブルと小さなシンク、ローレンジ、五穴ガスレンジ、コンベクションオーブン、フライヤー、焼き物器などが並び、調理機器の上には洗浄機能付きのレンジフード、東側には大きなシンクと大きな食器洗浄機、そこへレールでつながっている食器乾燥機、保温機能付き食器棚があります。大きなシンクの向こうは棚になっていて、ダイニング側から食器を戻せる構造になっています。どう見ても業務用の作りです。フライヤーや焼き物器は蓋がされ使われた形跡が全くありませんでした。コンベクションオーブンも使っているようには見えません。それどころかキッチン入り口の直ぐ近くに小さなオーブンレンジが置いてあり、そのレンジを使っていると思われます。先生は一人暮らしなので、当たり前と言えば当たり前なのですが……。
「こちらへ」
大きなシンクの前で先生は私を待っていらっしゃいました。先生の手元には、いつのまにかコップが一つ。
「では、水の実験を始めます。
これは、君の結界感応性を調べる実験で、君に行なってもらうことは次のことです。
まず、コップを洗ってもらいます。汚れが落ちたと思うまで洗ってもらいます。
次に、そのコップで水を飲んでもらいます。
その時に、どう感じたか、教えて下さい」
先生はそこまで仰って一時停止。
「解りましたか?」
「解りました」
何をするべきかは理解できましたが、意味が解りません。コップを先生から受け取り、そのまま躊躇していると……。
「水道水、飲めませんか?」
「飲めます」
日本は水道水がそのまま飲める国ですから大丈夫だと、先生は続けます。それは私も知っています。世界には水道水がそのまま飲める国が十カ国ほどしかないことも知っています。大人になるまでは世界中の水道水はそのまま飲めるものと思っていました。オアシスの水は生で飲んではいけないことは最近知ったばかりです。生まれてこの方、水の心配はしたことありません。酔って帰って、洗面所の水を朝まで出しっ放しで寝ていたこともありましたが、全く心が痛みませんでした。たぶん私は水に関してはサイコパスだと思います。
「まず、洗って下さい」
先生に促されるまま、蛇口のレバーを軽く持ち上げて水を出し、コップに注ぎ、水を止める。コップの頭を摘むように持ち、くるりくるりと回し、コップの中の水を回し、水を捨てる。
また、蛇口のレバーを軽く持ち上げて水を出し、コップに注ぎ、レバーを下げて水を止める。コップの頭を摘むように持ち、くるりくるりと回し、コップの中の水を回し、水を捨てる。それを何度か繰り返し、コップを胸の高さに持ったまま先生を見る。
「洗いました」と私。
「もう汚れていませんか?」
「汚れていません」
「本当に汚れていませんか?」
「汚れていません」
「本当に汚れ……」
「汚れていません!」
「分かりました」
先生は笑顔。私は戸惑いながら真剣に先生を見ていました。
「では……。もう一度、水を注いで下さい」
「はい」と応えて、蛇口のレバーを軽く持ち上げて水を出し、コップに注ぎ、レバーを下げて水を止める。
「コップを回して下さい。先程のように洗う感じで……」
コップの頭を摘むように持ち、くるりくるりと回し、コップの中の水を回す。
「はい、止めて」
コップ停止。水はくるくると回ったまま。私は水を見て、先生を見て、水を見る。
何?……何だろう?と戸惑う思いが私とコップの間を行き来しているように思われ、救いを求めるように、少し上目遣いで先生を見ました。
先生も真剣なお顔で……。
「飲めますか?」と一言。
「コップの水」更に一言。
私はコップを見ました。素直には飲めませんでした。抵抗感がありました。「飲め」と言われれば、飲めないことはありませんでしたが、何か気持ち悪い感じがします。普段の水とは違うように感じます。それをそのまま先生に伝えました。
「なるほど。何故ですか?」
「何故と言われても……。何だか少し汚れている感じがします」
「汚れている?……。先程、洗いましたよね」
「洗いました」
「汚れていませんよね」
確かに、洗ったので汚れてはいません。理屈では汚れていなくとも、感覚は汚れを感じていました。
「汚れていませんが……汚れを感じます」
「論理的に可怪しいです」
「でも……そんな感じです」
先生は急にニッコリ笑顔になり……。
「汚れではなく、穢れではないですか?」
「ケガレ……。はい、そんな感じです」
「それが結界です」
先生はニッコリ笑顔で満足そうにしてらっしゃいました。私はうまく飲み下せず……。
「結界ですか……?」
「君の行動を抑制し、内的感覚に作用しています。まぎれもない結界です」
「結界……」と呟いて、私は内観に沈んでゆきました。確かに、水を飲むことを拒む感覚があります。それは何故か理屈に合わず、主観的です。ましてや動機も根拠も説明不能。「してはいけない」という感覚が薄っすらと存在して、それを破ろうとする自分自身の行動を罰するかのように、不快感を醸し出しているようでした。
先生は嬉しそうな顔で、優しく語りかけるように仰りました。
「人は常に結界の内にあります。
結界には強弱があり、状況に応じて発動します。
一時的なものもあれば、恒常的なものもあります。
先験的なものもありますし、経験的なものもあります。
一度、結界として成立すると変化しないものもありますし、変化するものもあります。
壊せるものもありますし、壊せないものもあります。
そして、それらは人に依って違います。」
そこで先生はひとつ軽く深呼吸をされて、断定的に仰いました。
「生きること即ち結界です」
先生は戸惑う私とは対象的に嬉しそうな表情で私にこう宣言しました。
「君には結界感応性があります」
褒められたのだろうと思われますが、何だか素直に喜べない。
それでも先生は「おめでとう」と仰って嬉しそうでありました。
先生は私からそっとコップを取り上げてシンクに置かれ、五、六歩進んで食器棚から大きめの二重ガラスのタンブラーをお取りになり、それをお持ちになったまま大きな冷凍庫まで進まれ、冷凍庫の扉にマグネットで付けられたステンレスの小さなケージからトングを取り出され、冷凍庫の下部にある大きな製氷機の扉をお開けになり、一つ、二つと、氷をタンブラーにお入れになってから、近くのテーブルにタンブラーを置かれました。そして冷蔵庫から保存瓶に入ったお手製のレモンシロップを取り出されて、小さなレードルで三回、タンブラーへ注ぎ入れ、次に冷蔵庫から炭酸水を取り出され、シューと小さな音をたてて注がれました。柄の長いカクテルスプーンでくるくるとお混ぜになられている先生は何処か楽しそうで、何だか少年のようにも見えました。
「レモンスカッシュです」
「ありがとうございます」
私のお気に入りのレモンスカッシュ。先生のお手製です。
グラスを持ち上げ、そのままグッと……。その爽快感が先程の実験の不快感を消してくれました。
「先生、結界の感覚が消えました」
先生は満面の笑み。
「結界破りです。そのうち教えましょう」
先生はそう仰って、声なく笑いました。とりあえず私は微笑み返し。
戸惑いを隠すように、キッチンのカウンター越しに天井からの木洩れ陽を見ました。先程までは僅かに東側から射し込んでいたのですが、今は真っ直ぐ天頂から射し込んでいるように見えました。「そろそろお昼かな」と思った刹那、鳥の影がドームを横切ったのでしょうか、木洩れ陽が随処で遮られ、左から右へ影が飛び、また左へと木洩れ陽の瞬き。私は天井を見上げ、天窓からの陽射しに目が眩んでいましたが、先生はホールの床の天窓から差す光りを何処そことなく眺めていらっしゃるようでした。それが同じ影を追い掛けていたと気付いたのは、随分と経ってからの事でした。
遠くで鳩時計がポッポー、ポッポーと正午を告げ始めました。
「お昼ですね。お昼、食べていきますか?」
「はい!」
待ってました!
先生には悪いですが、私の本当の目的は先生がお作りになるお昼ご飯です。そのためにわざと昼前に来たのですから……。
「生姜焼きですけど……、良いですか?」
「良いです!」
「では、少々お待ちを……」
私は先生に一礼。そしてレモンスカッシュを持って、キッチンの外へ出て、カウンター越しに先生を観察。
先生は冷蔵庫から生姜、玉葱、キャベツの千切り、豚肉、醤油とマヨネーズを取り出されました。生姜は良く洗い、皮ごとすりおろし、玉葱は皮を剥いて、これもすりおろされました。そして醤油で味付け。小さなスプーンで手の甲へちょっとだけ乗せて味見され、小さく頷くこと二回。フライパンをレンジに乗せ、拳銃型キッチンライターで点火。油は米油。オメガ何とかが、どうしたとか、先生が以前仰ってましたが、忘れました。豚肉は全て一口大に切り、そのままフライパンへ。ジュージューと調理音を響かせて、先生は菜箸で何度かフライパンの中をお混ぜになり、やおらフライパンを煽り始めました。そしてフライパンをレンジの上に置き、菜箸で何やら確認。そして火を止められました。味付けした生姜と玉葱のすりおろしを投入。菜箸で混ぜ、そのまま放置。先生は食器棚に移動され、景徳鎮風の小さめの皿と伊万里焼風の小さめの茶碗を二人分お取りになり、ステンレスのテーブルに並べ、景徳鎮にはまずキャベツを盛り付け、そして生姜焼き、傍らにマヨネーズ、フライパンに残ったタレをキャベツの端にそっと掛け……、完成。伊万里焼を持ってキッチンの隅に移動。いつの間にか炊飯器にご飯が炊き上がっていました。小さな茶碗に小さなしゃもじでご飯をよそい、中央のステンレステーブルの下の棚からお盆を出して、お茶碗、生姜焼き、箸受けにお箸を乗せて、先生はそれをカウンターへ。私はそれを受け取って、ダイニングのテーブルへ並べました。先生のお箸は黒檀の大きな男性用のお箸。私のお箸は紫檀の小さめの女性用のお箸。食べるものは一緒。量も、茶碗も一緒。あと、お茶があれば……。あ、お茶入れよう。キッチンを覗き込むと、もう既に先生が急須にお湯を注がれるところでした。
先生は急須を回しながら、こちらを見て、目が合うとニッコリ笑顔。先生の前には、同じ湯呑が二つ。先生は、急須から右の湯呑にひと差し、左の湯呑にひと差し。また、ひと差しづつ。そこで急須を回して、またひと差しづつ。それを小さなお盆に乗せて、ゆっくりとキッチンを出ていらっしゃいました。私の前へ湯呑をひとつ置き、もう一方をご自分の前へ置かれました。玄米茶の香りが仄かに漂いました。
「いただきます」
先生は席へ着かれると、手を合わせて、そう仰いました。
私も続いて……。
「いただきます」
一口大の生姜焼きをひと切れ頬張り、咀嚼。美味しい。
「美味しいです」
先生を見て、満面の笑みで言ってみました。
先生は嬉しそうに、ゆっくりと相槌を打たれました。
あとは沈黙。マヨネーズと絡めてキャベツを頂く。生姜焼きのソースと絡めてキャベツを頂く。そして生姜焼きをひと切れ。ご飯。咀嚼。美味しい。私が人生の中で悦楽と呼べるのは、美味しい食事を食す時のみです。今この時の悦楽は、ひと切れの生姜焼きに小指の先ほどのマヨネーズを乗せて、頬張り、咀嚼し、そのままを楽しむこと。そして玄米茶をひとくち。至福であります。
私がシンクでお皿を洗っている間、先生はダイニングで玄米茶をお飲みになりながら寛いでいらっしゃるようでした。
洗ったお皿を乾燥機に通して、食器棚へ仕舞う。保温機能付きの食器棚は引き戸を開けるたびに、仄かな熱気が感じられ不思議に感じます。食器を使う時のために温めておくのだと先生に教わりました。冷たいお皿に温かい料理を盛ると、それだけで冷めてしまうから、温かくしておく必要があるそうです。一人暮らしの先生に必要なものなのでしょうか。不思議です。
私がキッチンを出て、先生の隣に座ると、先生は私に仰いました。
「クレオパトラの鼻が低かったら、歴史は変わっていたと思いますか?」
「?」
私は首を傾げて、先生を見ました。
「じゃあ……、君の鼻がもっと高かったら、歴史は変わったと思いますか?」
「歴史はともかく、自分の思い出は違うものになったんじゃないかと思います」
ちょっと面白い気がしたので、私は即答しました。でも、先生は私の鼻が低いと思っているのでしょうか。
「先生、私そんなに鼻低くありません」
先生は、声なくお笑いになって「パスカルです」と仰いました。
「見た目や思い込みで、人は重大な行いをする。パスカルの警句です」
先生は他にも仰いました。
「川向うに住んでいる」人達を殺せば英雄となり、川の此岸に住む人を殺せば人殺しとなる。
人間は「葦」ほどの弱い存在で、滅び易きを知る「考える葦」です。考えるだけに人は尊い、何が間違いで、何が正しいか知る事が出来るのだから。「だから良く考えなければならない。そこに道徳の根源がある」
私は黙って先生を見ていました。(何が仰りたいの?)と思いつつも、表情に出ないように気を付けました。
「僕たちも良く考えなければいけません」
たぶん「結界」のことだろうことは想像できました。でも、先生には申し訳ないけれども……
「先生、私は考えない葦だと思います」
先生はちょっと驚いた顔をなさってから「そんな事はありませんよ」と仰います。
「先生、あんまり考えないって……幸せじゃありませんか?」
先生はもう少し驚いた顔をして、沈黙。
「先生……なんか、ごめんなさい……」
「いやいや、それも一理あります。僕が大事にしていることの一つに……、考えないで、感じること、という事があります。世界は感じて後、考えるものであって、考えてから感じるものではないのです」
あっ、いえいえ、そういうことではないのだけれど……、反論はしませんでした。
<先生と御飯食べるだけで、私は至福なのです>とは、言いにくい事でした。
「まず経験し、然る後、分別する」
先生、熟考のご様子。
先生は視線を私に向けて、「分別する、然る後、知り、且つ、活かす。即ち、考えること。やはり、感じているだけではなく、考えることに歩みを進めるべきだと思います」私を諭されました。
先生の真っ直ぐな視線に耐えかねて、うつむきながら「はい」と応えて、何故か恥じ入りました。
突然、先生は静かに席をお立ちになり、ホールの西側の豪奢な扉へ向かい、重そうに扉を開けて中へ。先生の入って行かれた西側の壁は木製のようにも見える古びた感じで、パイプオルガンがあっても可笑しくないような造り。上の方の天井に近い位置にはバルコニーのようにも見えるものが、何だか謎のエリアです。
先生は少しして出て来られ、席にお着きになり、スマートフォンを取り出され、数回タップ……。
「今日は特別に、水の実験の記念に……」
先生は私を見ながら、そう仰り、上目遣いに天井をご覧になりました。
微かに何か音が聞こえます。シャーというような音。ポッポッポッという音がしたかと思うと、ザザァと水の流れる音。視界の端に動くものを捉え、振り返って南側のガラス壁を見ると、ドーム屋根からガラス壁に大量の水が流れ落ちてゆきます。光が揺らめいて、ガラス越しの風景が波模様に歪みます。垂直に並んだ板がゆっくりと回転しているようで、様々な色に変化し、ホールの床が様々な色に変わり、まるで波打つようにも見えました。
私は唖然と全体を眺め、状況の解釈の前に自分自身の意識を置かれたように、主も客も隔てなく、未だ分かたれざる意識の中で、流れ落ちる水、ガラス壁、ドーム屋根、ホールの床、各所の調度品、テーブル、先生、私、天井からの光る筋、揺れるように照らされる床板、影、ガラスの光り、色変わる板の回転、それらが渾然一体となり、私を回し、私の周りを回る。青い花のような感触が私を揺らす。現の理を失う手前で、世界を分別し、知る以前のままで経験していました。
私は椅子にへたり込み、半ば口を開けたまま、色めくガラスと水と光の波を見ていました。圧倒されながら、ガラス壁を滝のように流れる水と、揺れる光と、色めく回転板をどのように理解するかの前に感動していました。
「先生」
呆けたように、私は先生を見ました。先生は嬉しそうに笑って私を見ています。私はひとこと言うのが精一杯。
「ありがとうございます」
水のさざめく音。回転板の機械音。恐らく天井裏でパイプの中を走る水の音。それはやがて徐々に静まり、やがて聞こえなくなりました。水も流れを止め、ガラス壁に幾筋もの水の流れを残したまま、板も回転を止めて、元の位置へとゆっくり戻ってゆきました。