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結界仮説   作者: 磊川 聖悟
11/15

◇ノン・イマーゴ・デイ ☆ 神の似姿に非ず

 

 高原の道。(かたわ)らの草。朝靄(あさもや)。僕が一人。

 そろそろ陽も高くなっているはずなのに、一向に霧が晴れません。なかなか朝の気配が終わらない。肌寒いままです。

 宿泊しているホテルで朝食を済ませてから、当てもなく外へ出て、霧に迷って、此処が何処だか全く判らなくなりました。ただ足元の道らしきものを辿(たど)っているに過ぎません。

 その頃の僕は何もかもが嫌になり、仕事も辞めて、放浪していました。

 先輩が会社を去ってから、ヤル気を失ってしまいました。

 この高原に来たのも意味はありません。

 無計画に電車を乗り継いでいるうちに辿り着いただけです。

 到着した昨日は曇天。今日は霧。高原というのだから、さぞ気持ちの良い眺望だろうと期待したのですが、全く残念です。

 当たり前のようにコンビニどころか商店もありません。さびれた店舗でもあれば、冷やかしで覗いてみたい気持ちが空回り。霧の向こうに、ぼやけた太陽。影も(おぼろ)な朝と昼の狭間。今の僕の人生を風景にしたような景色です。

 やがて田舎道が畑の畦道(あぜみち)に変わっている事に気が付きました。

 畝が作られ、種蒔きを終えたばかりのような畑の隣に、少しばかり芽吹いた緑が新鮮な畑も見られました。何を植えているのだろうか。ハーブのような良い香りがします。

 微かな音が何処(いずこ)から聞こえる。耳を澄ます。右手の程近くで音がする。土をいじり、踏みながら移動している音のように思えます。

 僕は畦に座り、音のする方を見ていました。霧の中、姿は見えませんでした。

 霧は雨の匂い。そこに土の香り。人の気配。ハーブの青い香りに、森林の静寂。

 少し風が出てきました。やがて霧も晴れるだろうか。

 霧の向こうに微かな人影。女性だと直ぐに判りました。誤解を与えるといけないと思い、退散しようと腰を上げると、女性に気付かれました。

「トイト?」

 立ち上がって、こちらへ歩み寄って来ます。逃げようかと思った時には手遅れでした。

「あれ? どなた?」

 僕より五つか、或いは八つくらい年上の女性。

 軍手にノースリーブの白いシャツ、汗ばんだ二の腕に朝霧がしっとりと浮き上がって、前髪も濡れて、よれて垂れ下がり、軍手にも腕にも土の汚れ。

 僕は無言のまま立ち尽くしました。

 挨拶の仕方を知らなかった訳でも、無視しようとした訳でもありません。

 彼女が少し怖かったのです。

「信者の方?」

 信者?

 その言葉を飲み下せずに、僕はまた無口に佇んだまま。

 強い風に霧が流れて、佇む女性の姿がはっきりと見えました。

 高原の彼女は少し呆れた表情で僕を見ていました。

「おはようございます」

 そんな間の抜けた言葉が、虚しく霧の向こうへ吸い込まれていきました。

 僕は少年のように、はにかんでいたのです。

 間が抜けているかなんて、全く如何(どう)でも良かったのです。


 コトりと音をさせて、ティーカップを僕の目の前に彼女は置きました。ソーサーはなし。

 香りの上品な茶葉を使っていることは直ぐに判りました。味も最高。

「レモン、入れる?」

 片手を上げて、お断りのポーズ。

 ログハウスよりは上等なロッジに、必要最小限の調度品に、些かな生活臭。あらゆる贅沢を切り捨てた(おもむき)

 大人の女性を存分に漂わせた彼女は、テーブルの近くの大きな柱に寄りかかって、僕を見ていました。

 僕は鼻孔に強烈な女性の匂いの幻覚を感じていました。

「いちごジャム、入れる?」

 お断りのポーズ。

 彼女は壁の棚まで歩いてゆき、壁の棚の上の方から瓶を取り出すと、今度は下の棚の引き出しから、ティースプーンを取り出して、瓶からジャムをカップの中へ。

「で?」

 彼女の問に、僕が応えました。

「ここで、働けますか?」

 鼻孔には痺れるような女性の香り。それも年上の女性。

 冒険の始まりのような、青春の(あやま)ちとも思える瞬間を、僕は楽しんでいました。

「ここは教会なのよ。判ってる?」

 判ってはいませんでした。それでも、判っている振りをして、小さく(うなづき)きました。

「まあいい。いま忙しい時期だから、人手があって困ることはないしね」

 畑を手伝うように言われました。

 ハーブや高原野菜を育てているそうです。

 農家だと思っていましたが、教会だと言われ、教会の仕事をするのかと思えば、畑仕事だと言われました。一周廻って思っていた通りなので、異論なく承諾して、此処で働かせてもらえることになりました。期限は一ヶ月。

 眠る場所はロッジの隅。倉庫の隣。ミカン箱の上にマットを敷いたような粗末な場所。

 携帯電話の充電は不可能。もとから圏外で利用もできないので電源を切りました。

 日が暮れるとランプの灯りで食事を済ませ、早々に就寝を命じられました。

 こんな早い時間に寝たことはなかったのですが、(せわ)しなく旅程をこなしてきて疲れが溜まっていたのか、それとも何か安心感を得たのか、直ぐに眠りに就く事ができました。

 夢は見ませんでした。


 翌朝は殆ど日の出とともに起こされました。

 桶に汲んであった水で顔を洗い、肌寒い朝の日の出間もない太陽を拝み、部屋へ戻ってくると暖炉に火が入っていて、思わず「わぁ、暖かい」と言うと、朝食を用意していた彼女が「この辺は夏でも朝は冷え込むからね」と言って笑顔を見せていました。僕も笑顔を返しました。

 テーブルに着くと、トーストに炒めたベーコンと目玉焼き、コーヒーが出されました。

 朝食を済ませながら、彼女が仕事の段取りを説明してくれました。

 まずは崖下の川へ降りて水汲み。二人分必要なので、二往復する事になります。

 その後は畑で種蒔き。休憩を挟みながら、ハーブの手入れについても教わり、昼はロッジに戻って昼食。

 午後は畑を広げるため土を耕しました。これが結構な重労働です。(くわ)を持ち、人力で耕すのです。直ぐに汗だくになり、作業中はシャツ一枚の姿。

 陽が茜色を帯び始めると、彼女が畑へやってきて、彼女から今日の仕事の終了を告げられ、風呂を浴びるように促されました。

 少し歩いた川上に温泉が湧いているところがあり、粗末な板塀で囲った脱衣所と、塩ビ管でこしらえた、簡易な水道からお湯が出るので、シャワーもありました。身体を洗ってシャワーを浴び、恐らく人為的に作られた湯船に身体を沈めました。まだ陽が明るかったので、贅沢な入浴に感じられ、相変わらず周辺は靄に包まれていましたが、それがかえって不思議な安心感となっていました。

 (しばら)く此処でやっていけそうです。


 数日して、昼食の時に、此処が何の教会なのか質問をすると、彼女はこう答えたのです。

「そうね、人間教(にんげんきょう)というところかな。正式な名前はないのよ」

 カルト教団だと思いました。まずい事になったかもしれません。

「やはり、詳しく話しておくべきかもしれないわね」

 昼食の後片付けをしながら彼女はそう言い、午後の仕事は中止になりました。

 紅茶を淹れて、例の通りソーサーはなしのまま、彼女は僕の目の前のテーブルにティーカップを置きました。

 彼女もテーブルの向こうに腰掛け、ティーカップを上品に持ち上げながら話し始めました。

「私達は神に関する考えが、既存の宗教と異なるの。

 まず、現実世界で神は見る事ができない。神に会ったと主張する人は居るけれど、客観性に乏しく、再現性もない。証言としては証明できていないものが全て。

 現実世界には神はいないと言ってしまった方が合理的でさえある。

 神は死んだと言ったのは誰だか知っている?」

「ニーチェですか?」

「そう。その当時は説得力のある言葉だったけど、多くの人に絶望を与える言葉でもあった。

 これは、そもそも真摯に宗教と向き合う信心深い人達に対して、失礼な発言でもあると認識しなければいけない。

 私達は現実世界での神の不在を率直に認め、神の実在さえ仮定としている。

 それと同時に、神がいないと言うのなら、必ず答えなければいけない命題があることも認識しているの。

 もし神が実在しないのであれば、なぜ地上の在りと所在(あらゆる)文化で神を語る話が存在するのか。

 そもそも神という概念が存在しているのは何故(なにゆえ)か。

 こうした命題に答えられない限り、軽々しく神を否定すべきではないと考えている。

 加えて、神が存在する所在(あらゆる)可能性について想定し、それらを完全に否定できない限り、神の実在可能性は皆無とは言えない事も解っている」

 いきなり神の実在の話になり、面食らってしまったけれど、彼女は可也(かなり)遠回しに神が実在する可能性があると言っています。

「神が実在するのですね?」

 僕の単刀直入の質問に、彼女は紅茶を(すす)ってから応えました。

「実在する可能性について想定しているだけ。

 ひとつは現実世界に神は存在せず、人間の表象や思考の世界に存在する可能性があると考えている。

 論理の世界にもいない。

 現実を離れて、人間の純粋な認識だけの世界が成立するのであれば、そこに神が居る可能性がある。

 これを純粋認識説と呼んでいる。

 純粋な認識だけが神を認識できるとするもの。でもね、これは空想も虚言も幻覚も受け入れてしまう困った副作用が生じる。これでは客観性も再現性もないのと同じで存在証明にならない。

 もうひとつの説は、私達は神を誤認しているという説。

 ノン・イマーゴ・デイ説と呼ばれているもの。

 イマーゴ・デイとは神の似姿という意味。

 人は神の似姿に造られたと言われているのは知っている?」

「聞いたことはあります」

「これを否定する事で、現実世界での神の存在可能性が増す。

 私達は人間のような姿をした神の姿を想像しがちだけど、人の姿をした神の目撃例が存在証明にならないものばかり。

 ならば、寧ろ神は人の姿をしていないと考えた方が合理的だと思う。

 人は神の似姿に(あら)ず。(ノン・イマーゴ・デイ)

 私達は神の奇跡を目撃した事がない。神の奇跡を心底望んでいるにも関わらず、神は無関心とも言えるほど手を差し伸べたりしない。

 では、現実世界に奇跡は無いのか?」

 僕に問いかけているようです。僕には答えられません。

「こんにちは」

 その時、突然ひとりの男性がロッジに入って来ました。

「トイト」

 彼女が呼んだのは恐らく男性の名前。

「紹介するは、一ヶ月ほど働いてもらうことになったの」

「よろしくお願いします」と言いながら僕は頭を下げました。

 トイトは「どうも」と言いながら、軽く頭を下げて、後は僕を無視。

 トイトは日用品を運んできたらしい。彼女と軽く会話してから、外と倉庫を往復して荷物を運び込んでいます。僕は手伝いもせずに、紅茶を(たしな)んでいました。

「じゃあ、また来週」

 荷物を運び終わると、トイトは彼女にそう言ってロッジを出ていきました。

 どうも僕を気に入らない様子。

「無愛想でごめんね」

「あの人は信者なんですか?」

「トイトは違う。信者さんは滅多に此処へは来ない。東京の教会で活動している」

「東京にも活動拠点があるんですね」

「あるよ。小さいけどね。

 トイトは週に一回、麓から荷物を運んでくれている。欲しい物があったら頼むといい」

 僕は笑って頷いたけど、頼めそうもないと思ってもいました。

 彼女は棚から缶を出してきて、蓋を開けて僕の前に置きました。バタークッキーのよう。

 ひとつ持ち上げて、一齧(ひとかじ)り。

 美味しい。

 彼女は話しを続けました。

「現実世界にも奇跡は存在する。

 危機に瀕した人が助けられたり、

 絶望的な状況の人が救われたりするところを、

 私達は目撃しているはず。

 それは人が人を助けている奇跡的な行い。

 助けている人は神ではない。

 では、なぜ神ではない人が奇跡を起こすのだろうか?」

 彼女は考えを整理するように目を瞑り、そしてゆっくりと開けて言いました。

「その前に、神の位相について話す必要があるわね。でも、そろそろ夕飯の支度をしないと、日が暮れる」

 外は少し暮れかかり、空は明るかったけれど、陽は恐らく向こうの山陰に入ったらしく、辺りは暗さを増し始めていました。まだ靄が晴れない日々でしたので、陽が陰ると何とも言えない焦燥を感じてしまいます。

「私達は既に神を見ている」彼女はそう言いました。

 そして思わせ振りに笑顔をみせてから、髪を後ろで結び、コンロに火を入れ、夕餉(ゆうげ)の支度を始めました。

 僕には神を見た記憶が全くありません。

 彼女のトントンとリズミカルに包丁で野菜を刻む音がロッジに響き、窓の外は微かに茜色。僕は驚いて彼女の後ろ姿を見詰めていました。彼女が動くたびに揺れるポニーテールを僕は見ていました。


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