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結界仮説   作者: 磊川 聖悟
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◇夏の始まり ☆プロローグ

 長い坂を登りきると海が見えました。水平線には大きな入道雲。そして青い空。

 先生は後ろから登って来られ「暑いねえ」と(おっしゃ)りながら、麻の中折れ帽を手で持ち上げて、小さなタオル地のハンカチで顔の汗をお拭きになられていました。

 私はわざとゆっくりした口調で「暑いですねえ」と言いつつ、日傘を肩に乗せたままクルクルと回し、坂道の上で足を止めて先生を待っていました。

「僕も歳だなぁ。歩いて登ってくるだけで、息が切れます」

 先生はそう仰って声なくお笑いになられました。私は微笑みを返してから、先にたって歩き始め、そこへ一陣の風が……。

「あっ……」

 日傘が風に煽られて、くるりと手元を離れて舞うように飛んでいきます。

 先生は呪文のように「おやおや、おやおや」そう唱えながら、いま登ってきた坂道を、傘を追いかけて駆け降りて行かれました。

 それが少し可笑しくて、私は唇に手を添えて笑いを(こら)えながら、先生に背を向けて、浜辺へ下る道の先へ視線を送ると、そこは海。

 空と雲、一面の海、そして私を囲む木々の新緑が、新しい夏の始まりを知らせているようでした。


「暑すぎですね」

 喫茶店に入り、席に着くと、アイスコーヒーを注文してから先生はそう仰いました。

 坂の上に喫茶店はあります。昔ながらの純喫茶で、先生のお気に入りの場所でもあります。テーブルや椅子は古びた木製。照明は天井から下がったシェードの掛かった白熱球。薄暗い店内はそれでも格調高い雰囲気が感じられ、店の奥の大きな窓越しに木々の緑が涼しげでした。

 先生は、しきりに小さなハンカチで額を拭き、出されたオシボリで手を拭き、顔を拭き、忙しい所作が煩くも面白く、私がゆっくりとガーゼのハンカチを取り出して、頬をひと押し、顎をひと押ししてから先生に……。

「ここは涼しくて良かったですね」と申し上げると……。

「ああ、極楽、極楽」

 私は微笑み返し。先生も笑顔。

 喫茶店の窓の外は、夏の午後の日差しが眩しく、ジージーと蝉しぐれ。微風は木洩れ陽を揺らし、木々の葉の新緑と葉陰が交互に入れ替わるようにさざめかせて遠ざかる。ジジジと鳴いて蝉が飛んでゆきました。

「先生、そろそろ結界について教えて下さい」

「そうですね……、教えるって、約束しましたね」

 先生は少し困ったように、そう仰いました。

 何が問題なのだろう、先生はもう一週間も「教える」と言っておきながら、教えては下さらない。

 先生は町の中心から可成り離れた場所にある結界研究所の所長さんでいらっしゃいます。研究所と言っても、先生が勝手に研究所と名乗っていらっしゃるだけと思われる研究所で、道楽で始めたもののようです。近所からは怪しげな研究所と見られていて、私も何だか怪しいと、ついこの間まで思っていました。先生曰く「結界学について研究する研究所」だそうです。「結界学」なんて初めて聞きましたが、「社会学の一種」だと先生は仰いました。

「はい、先生は教えると約束されました」

「うう〜ん」

「何が問題なのですか?」

「うう〜ん」

「先生!」

「あ!いや、いや……。教えない訳ではないけれど、結界はね……、感じられる人と、感じられない人が居るようなのです」

「感じるって……、意味が解りません」

「ううん。結界は見えるものではないのです。感じるしかないのですが、万人が感じられるものでもないのです」

「私には難しいことですか?」

「どうですか……。結界を感じる感覚のことを、結界感応性と呼んでいますが……。その結界感応性が君にあるか、どうか、ですね」

 先生はそう仰ると、少し目を細めて私を見ました。私も目を細めて見詰め返します。

 そこへ男性の給仕さんがアイスコーヒーを持ってきて、丁寧にテーブルの上に置き、軽く一礼をして去っていきました。

 先生は即座にグラスを持ち上げると、ストローの先を咥えて、頬を凹ませ、私を一瞥。私は少し背筋を伸ばし、姿勢を正すと落ち着いた声で言いました。

「先生、私を結界のある場所へ連れて行って下さい」

 そして真面目顔。先生はストローを咥えたまま笑顔。ゆっくりストローを放すと……。

「結界は何処かにあるというものではありません。君に関わる結界は常に君と共にあります」

 先生はグラスをテーブルに置き、少し背筋を伸ばし、姿勢を正すと「結界は局在せず、遍在するものです」と言い切って私に真面目顔。

「先生、それは、ここにも結界があるということですか?」

「人は常に結界の内にあります」

 先生はまたグラスを持ち上げるとストローを咥えて、頬を凹まされています。

 私は全く何も感じません。結界など生まれて今まで感じたことはありません。

「先生、残念ながら、何も感じません」

 先生はストローを放され、姿勢を正し……。

「普段は感じられません」

「どうすれば感じられますか?」

 先生は少し困った顔をして、考え込んでいらっしゃるようでした。

「今度、実験をしましょう。君の結界感応性について、実験して確かめましょう」

「実験ですか?」

「実験です。人体実験……」

 先生はそう仰って、声なくお笑いになられました。

 私は目を大きく見開いて、口は半開きのまま。先生は嬉しそうに微笑まれています。

 グラスの中の氷は、まるでキシキシと音をたてるように溶け、そして突然に崩れ、あとは蝉の声……。



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