異世界転生のプレリュード
昔から、何不自由無い恵まれた暮らしをしてきた。
父は世界的に有名なピアニスト。
母は世界的に有名な作曲家。
そんな偉大な演奏家である二人の間に生まれたのがこの私、西園寺ユリア。
この世に生まれ落ちた時から、音楽的感、センス、圧倒的音楽の才能を両親から綺麗に受け継いでいた私は、幼い頃から多くのピアノコンクールの賞を総なめにしてきた。
17になった今では、音楽界のサラブレッドであり天才ピアニストとして世界を股にかけて活躍している。
音楽界のサラブレッド。
その呼び名に恥じない…いや、それ以上の輝かしい実績と才能。私はまさに神に選ばれた天才なのだと自負している。
けれど、その事実に浮かれ天狗になっている訳では決してない。むしろ、音楽的才能なんて自分に備わっていなければ良かったのにとさえ思う。
楽しく、ないのだ。
努力をしなくても、どんな曲も鍵盤に指を置けば瞬時にそれは自分のものになる。その演奏を聞いた者は手を叩いて私を称賛する。
練習を重ね、何度も指導を受けながら少しずつ上達していき、やっと自分の納得のいく演奏が出来た時のあの達成感と快感。幼い頃は確かに得られていたそんな感情は、今ではすっかり感じられなくなり、ピアノを演奏する事を楽しいと思えなくなってしまっていた。
*
「お嬢様、気を確かにお持ちください!」
そうやって朔谷が粉状に砕いた薬を私の口に運ぶ。朔谷は幼い頃からずっと私に使えてきた、私専属の執事だ。いつも冷静で大人で、落ち着いていて、時々少し腹がたつ程に理屈くさい。その朔谷が、額に汗を浮かべ、こんなにも取り乱しているところを私は初めて見た。
ベッドに横たわり、肩で息をしながら自分の様態はそれほどひどいのだと察する。
「朔谷、私、もう駄目なのかしら」
思わず口から漏れたそんな言葉は自分でも驚く程に情けなく力ない。
「馬鹿な事を仰るのは止めてください。もうすぐ旦那様と奥様もイタリアから駆けつけてお屋敷にいらっしゃいますから」
「朔谷…あなた今、私が知っている中で初めて馬鹿って言葉を使ったわね」
そういって朔谷に微笑みかける。
お父さんもお母さんも大好きだ。私に沢山の愛情を注いでくれたし、世界一の両親だと思っている。
だが、両親はいつも仕事でヨーロッパを駆け巡っていて、小さな頃から屋敷を空けている事がほとんどだった。だから、こうしていつも私の側にいてくれたのは朔谷だけだった。
「朔谷、私のピアノ、好き?」
何故か唐突に、そんな事を聞きたくなった。
「好きです。私はお嬢様の、一番のファンですから」
朔谷が私の手をとりながらそう即答する。
ピアノを弾く快感も楽しさも最近ではすっかり感じられなくなっていたし、賛辞の言葉を貰う事にはもう慣れた。だが、朔谷にそう言って貰う事だけは、幼い頃から変わらずやっぱり気分が良い。
「…ふうん。じゃあ、私がいままで演奏した曲の中で何が一番好きだった?」
「お嬢様がショパンピアノコンクールで優勝したときに演奏された、即興幻想曲でございます」
ショパンの即興幻想曲か。こんなにずっと一緒にいたのに、今まで朔谷が好きな曲の話を聞いた事がなかったなと今更になって気がつく。
朔谷の誕生日は、確かもうすぐだった筈だ。誕生日には、コンサートホールを貸し切って朔谷に即興幻想曲の演奏のプレゼントをしよう。
「お嬢様っ・・・」
───結局、朔谷にそんな誕生日の贈り物をする事は叶わなかった。
順調な人生だったと思う。
突然原因不明の病にかかり、2週間の闘病の末、17歳最後の日にその華々しい生涯に幕を閉じるまでは。