夕焼けトワイライト
いつものように図書委員の本整理を始めようと図書室に行ったら、クラスメイトがいることに気が付いた。
明るめの茶髪が真っ先に視界に入ってきて、すぐに分かった。
この一年間、この図書室に通っていた彼、だと。
篠川くんはいつもどおり、はしっこの席に座っていた。
ただ、少しだけ違うのは、開いた本をのけて、眠っていたこと。
部活帰りに図書室へ寄ったらしい彼の足元にはスポーツバッグと鞄が置いてあった。
きっと部活で疲れているんだろう。
私と篠川くんはあまり接点がない。
きっと彼は私の名前すら覚えていないだろう。
一、二年は違うクラスだったのだし、当然。
ただ、私だけは、彼を一年のときから知っている。
それは、偶然同じ委員会だったとか、そういうつながりじゃない。
彼は友達が多く、色んな人と友達だった。
私の友達も彼と同じ中学校で、そのつながりで、私も彼のフルネームと存在を知ってしまった。
今まで一度も呼んだことのない、そしてこれからも呼ぶことが無いだろう、名前を。
苗字でさえも、彼に呼びかけることなんてないというのに。
それから数十分後。
疲れている篠川くんを起こすのもはばかられて、多分、そのうち起きるだろうと思い、私は黙々と本の整理をしていた。
けれど、篠川くんは一向に起きなかった。
起こさなければ・・・だってもう下校時間になってしまう。
本当はこのまま放っておいたら、見回りの先生がやってきて、彼を起こしてくれるはず。
だけどそしたら篠川くんが先生に怒られる、と無駄に焦っているお人好しな自分の性格が恨めしい。
日も、傾いている。
夕焼けの空が、篠川くんの髪を照らしていた。
すやすやと眠る彼を見て、意を決した私は、そろりと彼に近付いた。
先生に怒られるのも、いたたまれないものがある。
「篠川くん」
初めて、だった。
男の子の肩に触れたのは。
男の子特有の、がっちりとした肩を揺らしながら、名前を呼びかける。
少しだけ、瞼が動いたような気もしたけど、起きる様子は無い。
「起きて、篠川くん」
彼が借りて読んでいたらしい本の、
開きっぱなしのページにしおりを挟んでから、二度目の呼びかけをしてみた。
遠くで下校を告げるチャイムが鳴った。
下校時間になってしまったのに気づき、私はまた「篠川くん」と呼びかける。
すると、三度目の呼びかけに対し、ゆっくりと目が開かれた。
「ん・・・」
「篠川くん!もう下校時間になっちゃったよ!早く起きないと・・・」
「げ・・・こうじかん?あれ・・・?あー・・・」
図書室の窓からは、生徒たちがガヤガヤと帰っているのが見える。
このままでは私も篠川くんも怒られてしまうのは明瞭だ。
いっそのこと、無理やり引きずってでも・・・と男女の腕力体重を無視したことを考えて始めていたら、
眠そうだった目が、一気にぱっちりと開く。
「わっ・・・」
それと同時に、椅子に座っていた篠川くんが、ガタンと音を立て、勢い良く立ちあがった。
彼の肩に手をおいていた私は思わず肩を揺らして驚いたけど、
篠川くんはそんな私を知ってか知らずか、素っ頓狂な声を上げる。
「へっ。あっ?・・・そうだ本!あともう下校なの!?」
「え、あっはい、そうです!あと、これ本、しおり挟んであります」
おずおずと本を差し出すと、篠川くんは驚いたような表情になってから、ゆっくりと笑った。
「ほんと?まだ途中までしか読んでなくって!」
私から本を受け取ると、鞄の中に本を突っ込む。
それから時計の時間を見て、「うおっ!めっちゃ寝てた!」と彼は驚いていた。
その様子が少し面白くて、彼に友達が多いのも、わかった気がする。
「それより、チャイムもなってたから、早く帰ったほうが、」
「え、まじか!じゃあもう帰るよ!」
焦ったような笑顔を見せて、彼は図書室から出て行った。
私も帰ろうと、鞄を手にとったときだ。
「静香ちゃん」
私の名前が呼ばれた。
声がした方に顔を向けると、そこには図書室の出入り口に立った篠川くんがいた。
「あ、の」
「ありがと静香ちゃん!そんじゃまた明日ねー!」
そう言うだけ言って、彼は今度こそ帰っていった。
ここからでも聞こえる、パタパタと走り去る音が徐々に遠ざかっていくのを聞きながら、
私は知らず知らずのうちにへたり込んでいた。
斉藤静香。
この私の名前。絶対、彼は知らないと思っていた。
たとえ、苗字は知っていても、下の名前まで知らないと思いこんでいた。
(なまえしってた)
彼は、憶えていてくれた。
(こえ、はじめてきいた)
こんなに近くで。
(えがおも)
初めて見た。
篠川夏也。
彼のなまえ。
苗字すら、呼ぶことなんてないと思っていたのに。
初めて触れた、彼の肩、その体温。
耳に心地いいくらいの明るい声。
人をひきつけるような、ものすごく眩しい笑顔。
ゆっくりと熱い息を吐いて、じんわりと汗のにじんだ手を胸にあてる。
彼の姿が、残像になって、頭の中に何度も浮かぶ。
頭の中に、彼の明るい声が、耳鳴りみたいに何度だって大きく鳴り響く。
耳、いたい。
ふれた手が、あつい。
心臓が、くるしくて、たまらなかった。
(・・・静香ちゃんと、また、話せるといい、な)