ネネ
施設生の解散した講義室には、自習に精を出す者が残っていた。
放課後に勉強会をすると言っていた通り、メグルは講義室で待っていた。しかし、ハルカの姿は見えない。
早朝に自分から勉強の約束を取り付けておいてすっぽかすとは、相変わらず碌な男じゃないとノゾミは軽蔑を抱いた。
教室に入ってきたノゾミに、たったったと足音がするほどテンションの高い女子が近寄ってきた。言わずもがな同じように約束していたメグルだ。
彼女は明るくニコリと微笑む。
ノゾミがいじめられた後などとは知りもしない。
「おつかれ!」
(メグルは本心から笑顔を向けているのだろうか? もしかすると僕を――)
バカにしているのではないだろうか。
そんな猜疑心を感じながらノゾミは力無く手を振った。
「……お待たせ、ハルカは?」
「さあ?」
「さあって」
ノゾミが呆れていると、先程ノゾミの窮地を救った施設生、サスケが寄ってきた。
彼は眼鏡の中央フレームを押し上げ、話を切り出した。
「失礼、ハルカから君に伝言だ」
「おお、サスケさんだ」
「どうもメグルさん」
サスケは軽く会釈しただけだった。
「それで伝言って?」
「PCの共有サーバに君当てのメールがある。後で読んでほしいと、ハルカが言っていた。それじゃ、確かに伝えたよ」
要件だけ簡潔に伝え、サスケは自席に戻っていった。
その後ろ姿は第八プーチ・ティラン施設生のリーダーとして、実力一位にふさわしい去り際だと思った。
サスケをよく知らないメグルでさえ「いやー、クールだね……」と感心していた。
「それにしても話しかけてきたと思ったら、すぐに行っちゃったね」
「……そうだね」
ハルカへの不信感が募ったが、ノゾミは無視してメグルと勉強を始めた。
*
メグルが帰った後、ノゾミは一人、講義室に残った。
共有メールフォルダを開き、ハルカのメールを選択する。メールには受信側しか開けないようにロックがかかっている。
ノゾミは自身のメールフォルダに移動させ、内容を吟味した。
メールには顔を顰めたくなる内容が書かれていた。
『能力開発絡みで話がある。今夜十八時に、廃棄収集所の裏で待ってるぜ。絶対来いよな』
「勝手な奴だな。しかも今、十七時五十分じゃないか……」
文面を見るに無視すると次の日が怖い。再び訓練と称してボコボコにされるのが目に見えている……いや、もっとひどい目に会う可能性だってある。
ノゾミは従うしかなかった。
とことん自分本位なハルカに辟易しつつ、ノゾミは講義室を出た。
廃棄収集所は無人のゴミ捨て場だ。日中に出たゴミをまとめて運ぶ施設で、都市外のスラムに繋がっている。そこで一気に焼却するためのシステムだ。
廃棄収集所は関係者以外、立入禁止になっているのだが、そこはハルカが強権を発動した。
メールには、セキュリティを解くプロダクトキーが封入されていた。バレれば、大目玉どころでは済まない。よほど重要な話とうかがえる。
講義室から、下りのトラベーターに乗ったノゾミは、廃棄収集所に直行した。
収集所内は酷く臭っていた。粗大ゴミから生ゴミまであらゆる生活廃棄物が集まっているからだ。ベルトコンベアに運ばれるそれらは、下の用水路に叩き落され運ばれていく。
腐臭とも錆びた鉄の臭いともいえない臭気の中、ノゾミはこそこそと収集所の裏手に回った。
そこに予定通りハルカが待機していた。
「おっせーぞ」
小声で呼ばれる。
「先に約束破ったのはハルカじゃないか」
「わりー、わりー。ちょっと忘れ物してな。取りに行ってた」
まったく反省してなさそうだ。
ハルカは胸ポケットに入れた記憶媒体をチラつかせた。
「これ、俺の父親が極秘に研究してるヌーヴォの資料。最新だぜ?」
その一言は不快な感情を一気に吹き飛ばした。
ノゾミにとって喉から手が出るほど欲しい代物だ。
同時に機密資料でもあるから、バレれば罪に問われることは間違いない。こんな場所に呼び出すのも頷ける。
「でも、タダってわけにはいかねえ」
「だろうね、それでハルカはなにがほしいんだ?」
秘密情報を渡すわけだから、そこには取引がないとおかしい。
ハルカはノゾミに耳打ちするように近づいた。
ノゾミの耳元に手を近づけていき――。
「お前の命だよ」
「ガッ!?」
ノゾミは網状フェンスに叩きつけられた。不可視の力に抑えつけられている。全身に釘を打ち付けているんじゃないかと錯覚した。
突然のことに混乱したが、この不可思議の力には心覚えがある。
「これは……テレキ、ネシス……」
ノゾミはかすれて苦しげな声しか出せなかった。
嘲笑するハルカがノゾミの目下で眼をぎらつかせる。
「なに、するんだ」
「はー、この期に及んで鈍いなあ」
へらへらと笑うハルカの態度が一変する。
「お前、メグルに好かれてるの知ってんだろ?」
「は、はあ? 知らないよ……そんなこと」
その答えにハルカが悪態を吐いた。
「マジか。お前本当に分かってないんだな。何で俺がキレてんのか」
「分かるわけ、ないだろ」
「あ?」
納得のいかない返答だったのか、ハルカはテレキネシスを強めた。
網状フェンスが人型にへこむ。このままでは落下もあり得る。
「ぐっ!」
「お前みたいな無能が! メグルに好かれてんのが気に食わねえんだよ!」
「ああ……」
色恋に無関心なノゾミはハルカの言い分がいつものワガママであると解釈した。
「それはっ、杞憂だよ。メグルはどうせ僕のことを可哀そうな奴だと思ってるだけで……好きとかありえないんだからさ……ッ」
ハルカは苛立ちを隠さず舌打ちした。
「チッ、脳味噌が錆びてるみてえだな。こりゃ能力開発の電流が通らねえわけだ。やっぱりお前は筋金入りの無能だ」
テレキネシスで押さえつけられたノゾミの胸をハルカの手が軽く押し始める。
その行為にノゾミの頬を冷汗が伝う。
「無能なヴューは俺の前から消えろ」
「まっ……」
ベキと鉄の引き千切れる音が聞こえる。網状フェンスを突き破ったのだ。
ノゾミはテレキネシスの猛威を受け、用水路へと落下していく。
わずかに動くハルカの口は「じゃあな、ヴュー」と告げていた。
「あああああああああああああ!」
発狂じみた咆哮も束の間、ノゾミは用水路の排水に身を強く打った。
打ち身の激痛が走る。
混濁した意識は汚水に溶けていった。
*
廃棄収集所か用水路に落とされたゴミは、すべて都市外に排出される。用水路は、都市の運河だった。
流れる汚水は、毒素を多分に含み、触れただけで発心を起こす。
たとえヴェトマパンタロンを着ていようと、水に浸かってはその機密性も失われる。服に汚水がしみこみ、肌が炎症を起こしているのか、非常にむずがゆい。
ノゾミは、そのむずがゆさで意識を覚醒した。とはいえ、目を覚ましてもあたりは水面。汚水が口の中に入り、寝ぼけ気分は吹っ飛んだ。
「がはっ! いっ……」
(か、体が動かない……ここは?)
ぷかぷかと浮かんだ状態で水面に漂う。
ノゾミの全身は水面に落下した衝撃でところどころ骨折しているようだった。このままでは水流に乗って焼却施設まで一直線だ。
幸いノゾミは気まぐれな水流に好かれ、用水路の垣根に体が押し付けられた。不自由な体を懸命に動かし、コンクリートの岸辺に這い上がった。
そのまま仰向けで荒い息を吐く。
肋骨が折れているのか、ずきずきと痛む。
「はっ、はっ……どこまで流された?」
あたり一面、電化製品やら家具の山でいっぱいなのを確認する。ノゾミが漂着したのは粗大ゴミエリア。
スラム街手前の最終ラインだ。
「デュクタチュールの外壁だ……」
もうすこし覚醒が遅れていたら、デュクタチュールに戻れなくなっていたかもしれない。
そう考えただけでぞっとする。
だが絶望はまだ隣にいる。ヴェトマパンタロンから染み込んだ汚水は着実に体を蝕んでいた。
体は倦怠感に包まれ、指を動かすのもつらい。重度のインフルエンザと似ている。この状態を放って置けば死に至るだろう。
汚水塗れのヴェトマパンタロンを脱ごうと電磁式ボタンに手をかけた。
が、いくら防水とはいえ水に浸かったボタンは壊れていた。
「くそ、こんなところで野垂れ死にかよ……」
ノゾミは珍しく悪態をついた。
汚言を吐かなければ、見舞われた理不尽に潰されそうだった。
勉学を怠らず、無能力者だと蔑まれても、めげずに生きてきた。
ノゾミは、ヌーヴォになる努力を怠ったつもりはなかった。むしろ、底辺になるまいと必死に抗っていた。
だというのに、周囲の人間はノゾミに手痛い仕打ちばかりする。
『店長、新品のヴューと交換してこないとダメっすよ』
『これで二つ目だ。不良品掴まされたな』
『二十歳を超えたヴューに人権はない』
『ぷっ、ヴューが試超室に来るとかマジ? 笑いのセンスあり過ぎでしょ』
『気にするな、見苦しいのが嫌いなだけだ』
数々のノゾミを見下す言葉たちが頭の中を駆け巡る。
まるで幻覚でも見ているかのように脳裏にハルカの姿が浮かんだ。そして、侮蔑の瞳をノゾミに向けてこう言い放った。
『無能なヴューは俺の前から消えろ』
ノゾミは歯軋りが止まらなかった。
「ちくしょぉ……!」
理不尽を恨む言葉しか出てこない。やがて毒が回ってきたのか、それは無言のすすり泣きに変わった。
静かになって、ノゾミは足音を聞いた。
清掃員か管理員が見回りにきたのかもしれない。
かすかに希望の光が差す。
「た、助けっ」
「まだ、生きていたか」
絞り出した声は、平坦な声に塗りつぶされた。
きっちりと着込んだヴェトマパンタロン。
角刈りの頭。四角いレンズフレームのメガネ。
ゴミ山の頂点から、サスケ・ウラミチがノゾミを見下ろしている。
「その顔は、僕を不審がっているね」
サスケは、不躾な視線に怒ることもせず、淡々と口を動かした。
「た、助けにきてくれたん、でしょ? ハルカのやったことを知っていて、それで……」
ノゾミに伝言を言い渡したのはサスケだ。この窮地を察知することは充分あり得た。
「あいにく、そのどれも正しくない」
「え……」
しかしながら、メガネを押し上げたサスケは、明確に否定した。
「僕は、君の始末をしにきただけだ。ハルカの不始末を拭うつもりはさらさらない」
ノゾミの脳内を「始末」の二文字が掻き乱していた。
「分からないだろう? 僕に抹殺依頼を持ちかけたのは、市長ナギ・カザマ様……ハルカの父上だ。君に生き残られると厄介だから僕が派遣された」
信じがたい事実をまくし立てたサスケは、「しかしもう死に体だね」と言い放った。
ノゾミは頭の中が真っ白になっていた。デュクタチュールの市長がノゾミを不要と断じたことが衝撃となって全身を駆ける。
ようやく意味を理解した直後、どす黒い怒りがわいた。
結局、無能なヴューが受け入れることはない。
どこまでも馬鹿にされ、罵られ、足蹴にされる。
挙句の果てに、ゴミ同然に捨てられる。
「ならわざわざ殺すなよ。僕は汚水に犯されている。もう放ってくれ……いいだろ?」
このままでも毒素が巡って死ぬ。
静かに死なせてほしい。たった一つ、最後にそう願う。
「いや? 僕の受けた依頼は抹殺だ。君が死ぬのを黙ってみることじゃない」
冷酷に見えてサスケの瞳には無感情だけがある。
自分の手が汚れることも特に思うところはないらしい。恐ろしいメンタルと思考回路だ。
「くそ……」
「恨むのは自由だが、君にはなにもできないよ」
サスケは、ノゾミに……ではなく、ゴミ山に手のひらをかざした。
第八プーチ・ティラン最強の男の超能力はマグネティッカー。
電磁力操作により金属を磁化できる。小さい金属を撃ち出すのは序の口。超重量の鉄塊で相手を押し潰すこともできる。
人に直接触れれば磁力による血行治療や血行不良をおこし、死に至らしめることができる。
その恐ろしい力がノゾミに振るわれる。
金属同士が磁力により接合し、巨大な塊となっていく。一つまた一つ、ゴミ山から凶器が発掘され、鉄塊に吸い込まれていく。
「痛みを感じるより早く押し潰してあげるよ。僕から君への手向けだ」
「ゥ、ギッ……クソ」
なにが手向けだ。
このままでは死んでも死にきれない。
悔恨は怨念となって、デュクタチュール中を這いずり回るだろう。
ノゾミは、目を閉じ、歯がかけるほど食いしばる。
――いきなり、
「死を前に強がるのね、可愛い」
ノゾミは少女特有の高い音階で煽られた。
鈴を転がしたような清廉な声だった。
ノゾミは困惑から瞼を開いた。
この廃棄所には現在、ノゾミとサスケしかいなかいはずだ。
だがどうしたことか、仰いだ頭上にはノゾミを覗く小柄な少女がいた。
サスケと彼の作った鉄塊は静止していた。ドブ川の不快なさざめきや廃棄物の異臭もしない。
時間の静止した世界で、ノゾミと少女だけが向かい合っている。
「君は……?」
距離が近い。膝を抱えてしゃがんでいるのだろう。
重力に従って垂れた長い髪は、この場にふさわしくないほど純白だった。合わせるように着こなしたワンピースもまた、背景とのコントラストで白銀に輝いて見えた。
ノゾミを貫くその瞳は紅に濡れている。
「私、ネネ」
ネネと名乗る少女は口角をやや上げ、微笑みながら答えた。
「はじめまして、私のノゾミ・カミナ」
その声音はどこかエキゾチックで、ノゾミをぞくっとさせるに十分な力を秘めていた。
「ネネ……」
ネネは膝に回していた腕をゴミ山に伸ばした。人差し指で示した先には、棒状のなにかが転がっている。弱った視力で目を凝らすと、それが刀の柄のように見えた。
歴史の教科書に載っている通り、柄頭から鍔まで、無骨な目貫で装飾された太刀の柄。
ただ、鍔から先に刀身は見当たらなかった。正真正銘、ただの柄が転がっている。
それは酷く既視感のある物体だった。
「アレ、私の本体。昨日ノゾミが蹴っ飛ばした、私のカラダ」
「……あ」
思い返すと、昨夜、寮から続く中間通路で棒を蹴飛ばしていた。棒は用水路に落ちて、そのままここに流れ着いた。
話の筋は通っている。しかし、それが目の前のネネであり、刀の柄だというのは荒唐無稽な話だ。信じる方がどうかしている。
どうかしている、はずだった。
「理解する必要ないよ。ノゾミからすると、オカルト? だもんね」
ネネはクスクス笑う。
「君は……ネネは僕を助けてくれるのか?」
「助ける? ちょーっと違うなあ」
口をすぼめたネネに不正解を告げられる。
ネネは終始、優しい微笑みのまま、ノゾミの耳元で冷酷に言い放つ。
「ノゾミは自分で助かるんだよ、私を使ってね」
その言葉は、しっとりとした少女の吐息と共に、ノゾミの心に入り込んだ。
甘ったるい蜜の甘言とバラの棘より突き刺さる諫言。
頭が痛い。ネネの言葉が脳内に居座っている。
そこにさらなる誘いの言葉が濁流となって流れ込む。
「ノゾミが助かるためには、あそこのヌーヴォは邪魔だね」
立て続けに耳朶を打つ、甘い誘惑。
「僕に、サスケを殺せって言うのか?」
「ふふっ」
ネネはその問いに答えなかったが、わずかにこぼれた笑みが肯定を示していた。
「ダメだ、ヌーヴォを殺したら僕の居場所は完全になくなってしまう」
ヴューがヌーヴォを殺すのは、革命にも等しい大犯罪だ。
豚箱に入れられることもなく、銃殺か絞殺が待っているだろう。囚人として生かされることすらあり得ない。
だがネネはもっと残酷だった。
「そうかなあ、今でもノゾミの居場所なんてないと思うよ」
「違うっ!」
まだノゾミには二十歳になるまで時間がある。
施設生という猶予が、希望が――。
「僕が、ヌーヴォになりさえすれば、、きっと……」
「え、でもノゾミの両親はヴューだよね」
「――っ!?」
両親、ヴューという単語が、ノゾミを恐怖で震えさせた。
ノゾミの両親が能無しなのは誰にも話していないはずだった。今は、どこかの奴隷として働いているだろう。
まさか……。
「ノゾミのアタマ、覗いちゃったぁ」
ネネはうっとりとノゾミを見つめる。
道理でノゾミの名前を知っていたはずだ。ノゾミの知識、思考はすべて、ネネに筒抜けだったのだから。
隠し事は通じない。
「ね、正直になろう? どうせ、帰る場所、ないでしょ?」
ネネはとろけた笑顔で、ノゾミの頬に掌を這わせた。
デュクタチュールの市長からは、ノゾミの抹殺命令を出されている。ここで死のうが死ぬまいが、この超能力都市にノゾミの居場所はない。
「ヌーヴォになるための手は尽くした。勉強は一位だった。能力開発室に毎日通ったっ。ハルカに何をされても、誰に馬鹿にされても諦めなかった……なのに……!」
ため込んでいた黒い感情が、一気に吐き出されていく。
「なのに結果は出なかった、辛かったよね」
ネネは聖母のごとく、ノゾミの頭を抱いた、
ワンピース越しに、少女の体温がじくじくとノゾミを侵していく。
もう一度、ネネは問い掛ける。
「私を使って、ヌーヴォに復讐しよ?」
「……でも」
わずかにメグルの顔が過ぎったが、すぐに靄がかかったようにうやむやになってしまった。
「ね?」
「…………ん」
ノゾミは掠れた声を喉の奥から出す。
「聞こえないなぁ」
好きな異性を虐めるときの声音で、ネネはノゾミに催促した。
ノゾミは、ネネに抱擁されながら、ゆっくりと頷く。
「……うん、復讐する」
その了承を待っていたのだろう。
恍惚に、ネネはぶるりと全身を震わせた。