2
山麓に広がる森羅湖の湖畔を、才蔵は歩いていた。岸には時しも蘆の葉が生い茂り、それが南風に吹かれ寄せる湖の波に揺られている。草葉の陰には蛙が憩い、時折中心で魚が跳ねる音が聞こえる。その度そちらを見やるが、残されたのは残響のみで、魚影はどこにも見当たらない。
「そろそろ一休みするか」
彼は木の根方に腰を下ろした。
「今は――昼かな。村の皆もご飯を食べているのだろうか。俺も、腹ごしらえをしよう」
風が山の匂いを鼻へ運んでくる。暑かったが、湖の冷気でここは幾分涼しい。才蔵は、発つ時に燕から貰った握り飯を取り出した。それを一口ほおばる。白米の味が口の中へ広がってゆく。貴重な村の米を、こうして食べていることに彼はかたじけなさを感じた。
しばらく休むと、彼は腰を上げた。まだ疲れは取れないが、のんびりしてもいられない責務である。或いは、上様からの密命よりも深刻な――。
「さあ、行こう」
彼はまた湖に沿って歩き出した。
才蔵が村長に村の危機を知らせてから、ただちに村長は村の有力者たちを集めて緊急の寄合を開いた。彼は出席者に、才蔵から聞いたこの村に迫る魔の手、そして自分は戦って抵抗すべきだと思うことを伝えた。
「本当なのか、それは?才蔵の言は信ずるに足るのか?」
身体つきのの良い大男が、半信半疑で尋ねた。
「その疑いも無理からぬことじゃ。何せ、才蔵はここへ来て半年も経たぬ新参者……だが、私にはあれが嘘をつく男には見えん。現に、私に事態を伝えに来た時も、あの目は誠実を秘めた男の目じゃった」
「ふうむ……」
村長に諭され、男は腕を組んでしばらく考えていた。そして顔を上げ、
「確かに、そんな嘘をついて奴に得があるとも思えん。ここはひとまず、才蔵の言うことを信じて対策を打つのが良いでしょう。それが村の総力を上げ戦うにしても――」
その言葉に、一同皆首肯した。
戦う。
才蔵の言う通り、彼らはこの村を愛していたのである。だから、蹂躙されるよりは戦って名誉の死を遂げた方が、まだ幾分マシだと考えたのであろう。
「しかし、この村は寒村。もとより武士はおらんのだし、しかも人数が少ないのだから、勝機は無いように思えるが……」
と言ったのは、村長の左隣に座を占める痩身の男であった。
「そうだ。だから、私はシュンショウ国の国守様を頼ろうと思うている」
「なに、シュンショウ国ですと!?」
村長の思わぬ発言に、一同は驚きの声をあげた。
「そうだ。国守の実美様はなかなかの曲者だが、ヤサカノ国とは旧来よりの敵同士。あれを味方にさえできれば、我らの勝利は目に見えてくるであろう」
「しかし、実美様は容易には腰を上げぬとお聞きしておりますが……」
「交渉は、才蔵に任せようと思う」
「なんですと!?」
痩身の男は目を見張った。
「あの新参者に、村の一大事を任せようと言うのですか?……お言葉ですが村長様、いくらあの者が世事に長けているとしても、まだ信用の充分でない者に村の命運を賭けようというのは、正気の沙汰ではありますまい。それに、もし彼に奸佞の一計が図られていて、シュンショウ国にこの村を手土産にせんとしていないとも限りませぬぞ」
その注進に、一同はうんうんと頷いた。
実に、才蔵はいくら村に溶け込んでいるとはいえ、まだ重役たちの信頼を充分に勝ち取っているとは言い難いのであった。
村長は、ざわつく座をぐるりと一瞥すると、静かに、しかしずっしりと重い声で言った。
「そなたの言葉も最もであるが、さりとて他にあの実美様を動かす自信がある者はおるのか?」
誰も答えられる者がない。
「才蔵は、考えがあると言った。あの流れ者、諸国を遍歴したというのであるから、何か領主を動かせる秘訣を持っていないとも限るまい。どうだ、やらせてはみんか?」
村長の提案に、積極的に与する者はいなかったが、逆に確かな対案を出せる者もいない。結果、消極的に意見がまとまり、水無村はシュンショウ国と結託してヤサカノ国と戦うことに決まったのであった。
ただちに、村長の命で才蔵は伝令を務めることになった。可能な限り早い出発が良いということで、彼は翌日早朝に発つことが決まった。
「才蔵さん、私不安だわ。道中で何があるか分からないし、よしんばシュンショウ国にたどり着いて実美様にお目見えできたとしても、彼が動いてくれるか分からない。もし機嫌を損ねて手討にされたら……」
「おいおい、それは杞憂というものだ。俺は死なんよ」
燕の家では、才蔵のために、旅に入用ないろいろを準備していた。柳行李、脚絆、編笠に竹筒……才蔵は一文無しであるが、親切なこの親子は昵懇のよしみで面倒を見ることを自ら買って出たのである。
「そうよ、燕。才蔵さんは立派な男の人なんだから失礼よ。いくら村長様の家の居候だからって」
「違うよ、お母さん。一人で行くんだよ?途中で山賊にでも襲われたら生きて帰れるかどうか……」
「心配するな。俺は山賊なんてものともせんさ」
何せ自分は宮中御庭番衆なのだから――とは流石に言えなかったが、彼は自信ありげに言った。
「山賊なんざ返り討ちにしてみせるさ」
「まあ、頼もしい。ほら燕、おろおろしてないで編笠を股引を繕って」
「うん……」
なおも、後ろ髪を引かれるように才蔵を見ていたが、やがて奥の間へと消えた。
――良い子だ。だから一層俺は生きて帰らねばならん。もし俺が死ねばあの子は悲しむ。自分が死ぬことは怖くないが、あの子の涙は見たくない。
彼は旅の決意を新たにしたのであった。
才蔵は湖を超え、山を登り谷を下った。その間、身体ひとつしか通らぬような崖道を歩き、予想外の土砂崩れや山賊などに見舞われたが、幼い頃より培った身体能力と胆力で、それらをいともやすやすと乗り越えた。……いや、彼にとっては苦難でさえなかったのかもしれない。何しろ、彼はこの旅の道中、一度も眠らなかったのである。
やがて、彼の行く手に衛兵に守られた門が見えた。
「シュンショウ国の入口だな。さて、通してもらえるかどうか……」
彼が近づいてゆくと、門番は手で暫し待てとの仕草を示した。
「そなた、旅人のようだがどこから来なさった」
「これはこれは門番様、お勤めご苦労様でございます。あっしは旅芸人として諸国を流浪する身、先ほどあちらに見える山を超えて、はるばるやって来たのでございます」
「ふむ、旅芸人とな。では、何か一芸を持っているのでござろう。退屈しのぎに一つ見せてはくれまいか」
「お安い御用で」
そう言うと、才蔵は背に負っていたずた袋から人形を取り出した。それを、糸も使わずひょいひょいと動かす。腹話術もやってみせる。終いには人形を置いて自分が火をくぐったり短剣を飲み込んでみせたりした。それらを終えても、才蔵は冷や汗ひとつかいていない。
門番は大喜びで、才蔵の見せる術の一つ一つにおおと瞠目しては手を叩き、素っ頓狂な声を上げた。
「素晴らしい、素晴らしい。これほどの芸人は見たことがない。さぞかし、我が殿の城下でも大した興行をしてくれるであろう。通った通った」
門番は彼のために道を開けた。才蔵は、そそくさとそこを通って行った。