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才蔵が水無村へ運ばれてから2ヶ月が経った。その間に、季節は春から夏へ、薊や椿は散り、川岸では卯の花が白髪を振り、天高く郭公の鳴く情景へ山も様変わりした。
才蔵はすっかり村に馴染んだ。もともと、気さくな性格もあって分け隔てなく村人と接したが、その他にも、諸国を巡って貯めた見聞を伝えたり、見知らぬ地の見知らぬ動物を身振り手振りで面白おかしく語り聞かせたりしたので、子供を中心に、村人はすぐに彼を受け入れた。
「遥か東の日出村には、羽を広げれば一丈もある大鷲が空を飛んでいるんだよ」
才蔵は、時に本当かどうか疑わしいことも吹聴した。が、悪意ではなくて、聞き手の子供たちが楽しめるよう取り計らってのことであったから、大人たちも微笑みながら聞いていた。
「それは普段鹿や熊を食べているんだが、餌が足りないと人里まで降りて……」
「降りて、どうするの?」
早く先を、と促さんばかりに尋ねる少女に、彼はニヤリと笑って、
「小さい子を食べてしまうんだよ!」
そうして、両手を上げて熊の威嚇のようなポーズをした。子供たちは、きゃっきゃっとはしゃぎながら逃げ回る。それを才蔵が追う。親たちはニコニコしながら見ている。
「才蔵さん、いつも子供の面倒見てもらって、ありがとうね」
「いえ、子供が好きなんです。ですから気にせんでください」
また、村長に勧められたとおり、彼は燕親子の家へも頻繁に出入りするようになった。
「こんにちは、燕お嬢さんは?」
「あ、才蔵さん、こんにちは。もう、そんな呼び方やめてください」
呼ばれて、燕は奥の台所から姿を現した。今は昼、どの家も竈から煙を上げている時分である。
才蔵は、上がり框に腰掛けていた。
「しかし、最近はすっかり暑くなったね」
「本当に。綺麗な花も散っちゃって、どこも緑ばかりで……つまらないわ。あ、どうぞ上がってください。お茶でも出すわ」
「では、お言葉に甘えて……」
才蔵は奥の6畳に通された。
「そういえば、お嬢さんは今いくつなの?」
ちゃぶ台を挟んで彼らは向かい合った。才蔵は、美味そうに出されたお茶を飲みながら、外の景色を眺めていた。
部屋は南に向けて開かれており、そこから夏のギラギラした陽射しが、山並みと花の錦に降り注いでいるのが見える。時折、老い鴬の鳴く声や薫風が吹き込んでくる以外は至って静かな――夏にしては静かな一時であった。
「16になりました」
「16……というと、この村ではもう大人の仲間入りなのだね」
「はい。ですけど……母が過保護で。私だって一人前の大人なのに」
「ハハハハ、まぁ、お母さんにとってはただ1人の家族だからね。なくしたくないんだろう」
「それにしたって、子供扱いしすぎです」
燕はふくれっ面をした。
「そう怒っちゃいけないよ。可愛い顔なんだから」
「それ……口説いてるんですか?」
「どうだか」
と、このように、二人はすっかり打ち解けているのであった。
「それと、お嬢さんって呼び方、やめてくれませんか?私、ただの村娘なんですから」
「それは失礼。しかし、この村の人々はあまり名前で呼ばれるのを好かぬと聞くが……」
「それは一部の年寄りですよ。若い人達は名前で呼ばれようが気にしません」
「時代は変わる、ということかな?」
「そうです。だいたい私は因習が好きじゃないんです。ですから、新しい時代の女に私はなるんです」
「それは大層な夢だね」
「夢じゃないです。目標です。そうしてゆくゆくは……その……」
「どうした。急に声を小さくして」
才蔵はニヤニヤしながら身を乗り出した。燕は、少々顔を赤らめ、か細い声で言った。
「京に行って、学問をしたいんです」
学問、という言葉を聞いた才蔵は、手に茶を持ったまま、目を丸くして固まった。と、しばらくして、フフフフと控えめな笑いを漏らした。が、それは、決して彼女の夢を馬鹿にするようなものではなかった。むしろ、この鄙びた土地に鳳雛を見つけたかのような、喜びを伴っていたのである。
「しかし、女が文字を学ぶのは大変だよ」
「女だって、鶏じゃないんですよ」
「だとしても、今からじゃあだいぶ苦労するだろうよ」
「それは……頑張ります」
「それに、俺がいなくなったら、京へ行くったって、どんな伝手を辿るんだ?」
「それは……」
山吹は答えに窮した。そんな様子を見て、才蔵はふと微笑んだ。
「すまない。意地悪な質問をしてしまったね。よし、分かった。俺は学問の心得があるから、これからお嬢さんの家庭教師になってやろう」
「え?」
相手の望外の申し出に、むしろ彼女は面食らった。
「才蔵さん、学問ができるんですか?」
「ああ、少しはね」
「是非……是非ともお願いします!私の……先生になってください!」
「よかろう」
こうして、才蔵は燕の家庭教師として、文字と漢籍を教えることになったのであった。