「マッチ売りの少女」を知るマッチ売りの少女だった彼女のお話
ひどく寒い日だ。
窓の外を見れば深々と雪が降っている。
「そう言えばあの日もこんな大晦日だったね」
隣にいる女性に話しかけると、彼女は微笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、そうでしたね。こんな、とても寒い夜でした」
その笑顔は数年前、少女にしては大人びた笑顔だと思ったものだが、少女を卒業した今、全く違和感はない。
一体この笑顔に何人の男がヤラれたことか。俺もそのうちの一人なので、他の奴の事は言えないが。
彼女は当時の事でも思い出しているのだろうか。
どこか遠い目をしている。
「さて、あとは書類の整理だけですね。退屈しのぎに一つ、お話でもしましょうか」
彼女は束ねた書類をトントン、と揃えながらそう言った。
「いいね。君の話はいつも面白いから、良い退屈しのぎになるだろう。それで、どんな話なんだい?」
俺がそう笑うと、彼女も笑みを浮かべた。少し困ったような笑みだ。
彼女はたまにこんな笑い方をする。それがどんな時の笑みかは知らないが、少し不思議な話をしたりする時に多いかもしれない。
こういう時は大抵面白い話が聞けるので、今回はどんな話が聞けるのかと興味が湧いた。
「そうですね、お話のタイトルは『マッチ売りの少女』にしておきましょうか」
「ほう、それはまた。どんな話なのか楽しみだ」
彼女は一度苦笑すると、ゆっくりと話し始めた。
「それは、雪の降るとても寒い日のことでした。
その年最後の太陽は沈み、街には夜が訪れていました。
街を照らすのは、人々の営みが灯す明りだけです。
雪道を急ぐ馬車が街の大通りを通り抜けると、そこには一人の少女が倒れていました。
道を渡る途中、彼女は馬車に轢かれそうになり、慌てて避けたのです。
雪にまみれた姿はみずぼらしく、足には靴すら履いていない有様でした。
靴は馬車を避けた時に無くしてしまったのです。
しかし、彼女はその時それどころではありませんでした。
何故だと思いますか?」
彼女はふわりと問いかける。
俺は、書類を棚に片付ける手を少しだけ止め、考えた。
「……分からないな。想像もつかない。靴よりほかに、大事なものを無くしてしまったとか?」
「いいえ、その逆です。彼女は、大切な事を思い出したのです」
大切な事か、一体何だろうか。
「大事な約束でもあったのか?それとも何か忘れ物をした?」
クスリと笑う彼女。
きっと全部ハズレだろう。何かもっと突拍子もない事だ。
「いいえ、違います。少女が思い出したのは、このままだと自分が今日、死んでしまうということだったのです」
案の定、全く想像もしていない答えが返ってきた。
そんな展開、分かる筈もない。
しかし、死んでしまうとはどういうことだろう。
俺は大げさに驚いて見せた。
「まさか!何でそんなことが分かるんだい?」
すると彼女は、手元の書類を棚に戻しながらこちらをチラリ。悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「では、続けましょうか。
そう、彼女は大事な事を思い出しましたのです。
それは、自分がかつて、別の人間として生きていた時の記憶でした。
それから、その時に読んだお話を一つ。『マッチ売りの少女』という作品のことです。
少女は、その作品の主人公がまさに今の自分にそっくりだと、そう思ったのです。
貧しい身なりでマッチを売り歩く少女。
暴力的な父親。
隙間風だらけの家。
唯一優しかったけれど、亡くなってしまったおばあちゃん。
物語の少女と全く同じ境遇だったのです。
おまけにその日は大晦日の夜で、物語の舞台も同じ。
馬車に轢かれそうになって、履いていた母の靴を無くすところまでそっくりでした。
そうしたら、結末だって同じかもしれない。
彼女はそう思ったのです。
彼女が知っている物語の最後。
それは、彼女が売り物のマッチに火を着けて……」
彼女はそこで一旦話すのを止めてこちらを見た。
「まさか、放火でもしたんじゃないだろうね?」
俺が茶化すと、クスクス笑う。
「いいえ、違いますよ。マッチに火を着けて、かじかんだ手を温めようとしたんです。
すると、不思議な事に、少女には幻が見えたのです。
彼女が望む物。裕福な家庭にある様な、温かく、優しい物です。
マッチの火が消えると消えてしまう幻。
彼女はそれに縋って、もう一本、もう一本と火を着けました。
蝋燭から始まって、ストーブ、温かい部屋とご馳走。
しかし、少女が幻に触れようとすると、マッチの火は消え、幻は消えてしまうのです。
幻の中には、大きくて立派なクリスマスツリーがありました。
何千もの光がキラキラと枝で光っていて、とても綺麗なものです。
クリスマスツリーが消えるとき、キラキラ輝く光の一つが落ちました。
少女はそれを見て、おばあちゃんの言葉を思い出したんです。
星が一つ流れ落ちると、魂が一つ神様の所に行くんだって。
そして、次にマッチが見せたのは、彼女が大好きだった、優しいおばあちゃんの幻でした」
彼女はふと、寂し気に微笑んだ。
そして、俺の方をしっかりと見て言った。
「おばあちゃん!私を連れてって!マッチが燃え尽きたらおばあちゃんも行ってしまう!温かいストーブみたいに!美味しそうな鷲鳥みたいに!それからあの、大きなクリスマスツリーみたいに!おばあちゃんも消えちゃう!」
彼女のあまりの迫真の演技に驚いて、俺は手に持っていた書類を床にばらまいてしまった。
彼女は「ああ、ごめんなさい!」と、床に落ちた資料を拾う。
「本当にごめんなさい。ちょっと悪戯が過ぎました」
「びっくりしたなぁ。もしかしたら、女優にもなれるんじゃないか?才能あると思うよ」
俺が笑うと、彼女も笑った。
落とした書類を拾い集めると、俺は話の続きを催促した。
「それで、続きは?」
「気になりますか?」
「そりゃ勿論」
俺はすっかり続きが気になってしまっていたのだ。
「それでは続きを。
マッチ売りの少女は、おばあちゃんが消えてしまうのが嫌でした。ずっと傍にいてほしかったのです。
だから、ありったけのマッチを壁に擦って火を着けてしまいました。
すると、燃えたマッチは輝いて、少女はおばあちゃんと共にその輝きに包まれて、二人はそのまま一緒に神様のところに行ってしまいました。
これが、彼女の知る『マッチ売りの少女』という物語でした」
神様のところ、というのは一体何処だろうか。
「その少女は天に召されたということかい?ああ、だから死んでしまうと」
どうやら正解のようで、彼女は一つ頷いて見せた。
「ええ、そうです。
物語の最後は、幸せそうな顔で凍え死んでしまった少女と、それに同情する街の人が描かれています。
街の人達は少女を憐れむばかりで、彼女が最期、どんなに素晴らしい物を見て、どんなに素晴らしいところへ行ったのか、ということは想像しなかった、という締めくくりで幕を閉じます。
マッチ売りの少女は幸せだったと思いますか?」
なかなかに難しい問題だ。
結果だけ見れば、主人公の少女は死んでしまったので、幸せとは言えない。むしろ不幸だろう。
しかし、少女の背景には貧しく辛い生活があった。
最後に、幻でも大好きだったおばあさんに会えて、一緒に天国へと行けたのだ。
そう考えるのなら、彼女は幸せだったのかもしれない。
物語の最後も、少女が幸せだったことを示唆するような締めくくりだ。
「……幸せだった。そうでなければ、報われないだけの物悲しいストーリーだ」
これは俺の願望だな。
死んでしまった後、神様の御許でおばあさんと一緒に幸せになって欲しいという感傷だ。
「ええ、そうですね。そうであって欲しいです。
しかし、自分が物語の中の少女と同じだと思った少女は焦りました。
それはそうです。自分がもうすぐ死ぬかもしれないと思って、怖くないわけありません。
しかも、彼女は気づいたのです。このままだと、本当に死んでしまう可能性が高いって。
それは少し考えてみれば分かることです。
栄養状態は悪く、空腹で寒空の中を歩き回り、靴も無くしてしまいました。
大した雪避けも無く、寒さで体温は下がる一方です。
このまま外でマッチを売り続ければ、きっと本当に死んでしまいます。
彼女はとても怖くなりました。
怖くなったと同時に、今死んでしまうのは嫌だとも思いました。
勿論、優しかったおばあちゃんに幻でもいいから、もう一度会いたいという気持ちはありました。
しかし、今の貧しく辛い境遇に負けて、このまま流されたように死んでしまうのは、きっとおばあちゃんも悲しむだろう、とも思ったからです。
どうせなら、死んだあとおばあちゃんに、私頑張ったよ!頑張って、おばあちゃんと同じくらいまで生きたんだよ!そう言いたいと思ったのです。
これは、もう一つの人生の記憶から得た価値観だったのかもしれません」
成程、確かに日々がどんなに辛くっても、その日に死ぬと分かってれば、そこから逃げ出そうとするかもしれないな。俺だって、死ぬのは怖い。
幸せな事に、俺はあまり貧乏というものをあまり味わったことが無いから想像することしかできないが、きっと俺がその少女であっても、そこで死んでもいいや、とは思わないだろう。多分。
「成程なぁ」
俺はしみじみ呟いた。
しかし、彼女の語気に、やけに感情が籠ってるような気がするのは気のせいだろうか。
彼女の話は続く。
「彼女は考えました。自分がその日、死なないための方法を。そしてもう一つ、貧しい家を出て、自力で生きていくための方法を」
「それはまた、家を出るなんて随分と思い切ったな。まるで君みたいだ」
俺が言うと、彼女はまた困ったように微笑んだ。
「そうでもしなければ、いつまでもマッチ売りのままですからね。その日を凌いでも、いつ同じように死んでしまうとも知れないのは、とても怖いじゃないですか」
「確かに、それもそうか」
いつの間にか殆ど整理も終わっていたが、折角だから最後まで聞きたい。
俺は手元に残った書類を見て、それらを仕舞う棚だけ確認すると、彼女に続きを促した。
「それで、その少女はどんな方法を思いついたんだい?」
「彼女が思いついたのは、路上でマッチを売るのではなく、家を回ってマッチを売る方法でした」
俺はその方法に声を出して笑った。
「家の戸を叩いて回ったのか?大晦日の夜に、マッチを売るために?」
「ええ、そうです。勿論、そんな日の夜ですから、話を聞いてくれる人はおろか、戸を開けてくれる人も家自体も少ないものでした。
しかし、少なからず話を聞いてくれる人もいたのです。
少女は話さえ聞いてくれれば、マッチを売る自信がありました。
それは、彼女が思い出した、もう一つの人生のお陰でした。何故なら、彼女はそこで、とても優秀な物売りだったこともあったのですから。
その時の記憶を頼りに、彼女はマッチを売り、更には自分を雇ってくれる人を探そうと考えたのです。
そして、それは実際にマッチを売るという面ではとても上手くいきました。
ある時は、マッチを買ってくれるだけでなく、もう使えなくなった子供用の木靴をくれた人や、雪避けの為のフードをくれた人、要らなくなった服をくれた人もいました。
少女はそのたびに感謝しました。
話を聞いてくれるだけでも、とても嬉しいと思っていたので、そういった心優しい人たちには涙を流すほど感謝したのです。
そうして、少女はすべてのマッチを売り切ることが出来たのです。
しかし、一つだけ上手くいかないことがありました」
とても順調そうに見えるが、何か問題でもあったのだろうか。
「マッチが売れているなら、一先ずは安心じゃないのかい?」
俺がそう言うと、彼女は首を横に振った。
彼女も、もう殆ど書類の整理が終わったのだろう。手には一つ書類を持っているだけだった。
「いいえ、自分を雇ってくれるところをまだ見つけていなかったのです」
「ああ、そうか。そうしないと、結局生活が変わらないのか」
すっかり失念していた。
そう言えば、そんなことも言っていたか。
「マッチを全て売り終わった頃には、少女の身なりも随分と様変わりしていました。
それは、訪問した家の方々が善意でくれたものがあったからです。
それらをありがたく使わせてもらえば、少女は随分と身綺麗になりました。
元々、容姿はそこまで悪くなかったのですから、綺麗に整えれば見違えるようになったのです。
少女はお店のショーウィンドウに映る自分の姿を見て、とっても嬉しくなりました。
しかし、それと同時に悲しくもなりました。
家に帰ったら、きっと父に今身に着けている物も売られてしまう。そう思ったからです。
もしこれらが売られてしまえば、また元のツギハギだらけの貧しい格好になってしまいます。
そうなったら、自分を雇ってくれるところも無くなってしまうかもしれません。
彼女は見た目の印象がいかに重要か、というところを知っていたのです。
それならば、何とかして今日中に自分を雇ってくれるところを探すしかない。少女はそう思いました。
そして、彼女はある一件の家の戸を叩いたのです」
ここまで来て、俺はふと話の行く先に引っ掛かりを覚えた。
彼女も俺がなんとなく不審に思っていることに気付いているんだろう。
何とも曖昧に笑っている。
「その家は、その街でも有名な商家でした。扉を開けたのは。開けてくれたのは、少女よりも少し年上の少年でした。彼女はまさか扉が開くとは思っておらず、随分と驚いたものです」
「ちょっと待ってくれ。それってまさか」
もし想像通りならば、本当にまさかのオチだ。
ああ、これはしてやられた。
「ええ。その後は、貴方の知っている通りです」
俺は再び笑った。
まさか、その少女が彼女だったなんて、途中までは全く思いも寄らないオチだった。
確かに、この女性は数年前の大晦日、我が家を尋ねて来た。
そして、俺の父と話をすると、あっと言う間にうちで働くことになって驚いたものだ。
その時、家の扉を開けたのは俺だった。
あの時見た彼女は貧しい格好はしておらず、小奇麗で可愛らしい少女だと思った。
まさか、この話の主人公にするには無理があるだろう。
「随分と面白い作り話だが、即興かい?全く、君にはいつも驚かされるよ。一体どこからどこまでが本当なんだろうね」
すると彼女は困ったような顔で、曖昧に微笑んでいる。
それは、気のせいか何処か寂しげにも見える。
「私こそ、あの日から本当に感謝しています。貴方にも、お父様にも」
その言葉を聞いた時、俺の頭にふと有り得ない可能性が過った。
「まさか、今の話……」
そうだ。そう言えば、俺はこの女性の過去についてほとんど知らない。
父がすぐに認めたくらいだから、学のある良い所のお嬢さんくらいにしか思っていなかった。
それに、幼いながら家を出るなど、何か訳もあるのだろうと、今まであまり聞く気にならなかったし、今更そんなことは気にもならなかった。
「年が明けたらすぐ、結婚ですね」
彼女は最後の書類を、カタンと棚に仕舞った。
それはまるで、この話はもうおしまいと言わんばかりだった。
しかし、続けて出た言葉は予想外で、
「きっと、おばぁちゃんも喜んでくれています」
そう言って微笑む彼女を見て、『マッチ売りの少女』は幸せになれたのだと、俺は嬉しくなったのだ。
そして、俺はこの最愛の女性が、ずっとこうして笑っていられるように、幸せでいられるようにと、胸に誓ったのだった。