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【短編】大人日和ーオトナビヨリー

作者: にしおかナオ

「神田さん、おれ辞めようかと思うんです」


言った瞬間、テーブル中央のランプの灯が少しだけ揺れて光ったように見えた。


おれは言った。ようやく言った。


会社を辞める。


ぎゅうぎゅうに振り絞ったボロの雑巾から一滴しずくを絞り出すように、この一言を喉の奥底から引きずり出して、大きく細く息を吐く。神田さんにその音が聞こえない程度に細く長く。


「おぉ、そんで?」


神田さんはいつもと同じように頬杖をついて口角をくいと上げて、おれを見据える。何かこれから面白いショーでも始まるのかと言わんばかりに好奇心に溢れた子どものような目で。


この人はいつもそうだ。人が一生懸命話すのを面白がっているような目。嫌なんだよな、この目が。


さっき一口含んだと思っていたジントニックのグラスはもうカラになっている。


「何だか疲れてしまって。向いてないと思うんです。この仕事」


「まじ?いや向いてる思うけどなお前は」


「神田さん、それ本気で言ってるんです?」


「当たり前だよ、大まじよ」


新卒として保険の営業マンを始めて、もう二年が過ぎようとしていた。


『くっそーお前が大手一番乗りかよー信じらんねぇ』


『先輩やったじゃないですか、選考どんな手で突破したんです?』


保険業界の中ではそこそこ名の通った大手で、就職が内定した当時はゼミの仲間や後輩たちにチヤホヤされたりもして、まるでこの後の自分の将来が目立たないながらも約束されたんじゃないか、そんな錯覚を抱いていたこともあった。


でも実際そんな甘い理想は、アパートのインターホンを5軒、いや3軒も鳴らして歩けば簡単に砕かれてしまう勘違いだったと思い知らされた。


入社して1カ月も経たず渡されたのは、子育て世代をターゲットにした積立型新商品のパンフレットと、それを説明するための実に簡単な研修知識。それと、チェーンが錆びかけているママチャリ。


『とりあえずこれを100軒、それ配り終えたらかえってきていいよ』


最初についた上司から教わったことはこの一言だけで、あと印象に残ってるのはとにかく契約がないことへの陰湿な言葉ばかりで思い出したくない。


ママチャリを漕げばとにかくシャツがぴったりと背中にへばりついた。晴れの日はびっしょりとかいた汗。雨の日は打ち付ける雨粒。不快であること以上に何か得体のしれないものが自分の背中にのしかかっているような重さが日に日に積み重なった。


アパートのインターホンを鳴らすと、無駄に軽快なメロディが部屋の中からくぐもって聞こえる。


あのー、ごめんください。


おれ、こんなところで何してるんですか?


何軒も何軒も、鳴らせば鳴らすほど、自分自身の心に向かって鳴らされたインターホンのように聞こえて、心が深く落ちていくように思えた。


古びたバーのカウンターで二人、おれは初めて自分から神田さんを誘った。そして言った。


「神田さん、いつもふざけてますよね。おれの話まともに聞く気、ないですよね」


「なに言ってんだよ、辞めたいんだろ?疲れたとか向いてないとか、そんな漠然とした理由じゃアドバイスのしようがないだろ、先輩としては」


「疲れたとか向いてないって理由じゃ不足なんですか?」


「不足に決まってんだろ。それなら俺だって毎日疲れてるし、向いてねぇなこの仕事ってくらい思うことあるから俺が先に辞めてやるわ」


「向いてないとは思ってないでしょう神田さん」


「わかってねぇなぁお前は。大体本当に辞めたいならな、俺に辞めたいって言うんじゃなく課長に直接伝えりゃいいんだよ、辞表でな」


「辞表ってどう書けばいいんです、疲れた向いてないでいいんですか?」


「そんなもん知らん。自分でネットで調べろ。もしくは辞めてった先輩とっ捕まえて当たり障りないコツを伝授頂くかだ」


真剣な話をしようとしているのに、神田さんと話しているとどうもこの人のペースに巻き込まれて、最初に思っていたことが馬鹿らしく、もしくは面白おかしく組み換えされてしまいそうで困る。今日はそう、自分の決意を話すと決めてこの人を飲みに誘ったんだ。


「先輩、今日はその、ちゃんと話しますから」


営業の5年先輩、神田さんと初めての会話は会社の中ではなくて、郊外の住宅街へと続く急な坂道をママチャリで一心不乱にこぎながら登っている途中だった。


『やぁ新人、どうだねお茶でも一杯』


急に横から声をかけられたかと思えば、ゆっくりと並走してくるコンパクトカー。


その運転席からからっと乾いた笑顔が覗いていた。たぶん、鬼の形相でペダルをこぐおれの顔とはこれ以上ない素敵なコントラストだったことだろう。


神田さんは事業所若手ナンバーワンの成績優秀社員で、おれも顔だけは遠目に何度も見たことがあった。でもそんな人がひよっこ同然の自分のことを覚えていて声をかけてくることがあるのかと最初は戸惑った。


『ほれ、坂登り切った先、すぐに喫茶店見えるからさ、そこまで競争な?』


容赦なくアクセルを踏み込む先輩に、最初から食えない人だという印象を持った。


『いやだよなぁインターホン鳴らすのって、でも最初だけだから。そのうちなーんも感じなくなるから、騙されたと思って押しまくれ。な?』


『最初はさ、契約なんていいんだよ考えなくて。とりあえずたくさん人と話してみろよ、じゃないとわかんねぇだろ、自分の得意なタイプとか、好みの奥さんのタイプとかさ』


『保険ってよ新人、本当に必要なんですかってお客さんに言われちゃ正直絶対必要ですなんて言えないもんだからさ、結局はその人の考え方次第なんだよ。だから最初は考え方に合わせてみろよ』


『眠いときは家帰って寝ちまえよ。冴えねぇ顔で100軒回るより、ハツラツな顔で10軒やり切れ』


最初は喫茶店での1時間だった。それが居酒屋での2時間になり、今日のようにバーでの3時間になってフラフラになりながら飲み明かしたりもした。


その間神田さんはあっけらかんとした口調で色々なことをおれに教えてくれた。本人には教えてるなんてつもりはなかったのかもしれないが。


おれはこの先輩に騙されている。神田さんに出会ってから、本当にそんなつもりになってママチャリを漕いだ。


すると不思議なことにずっと地を這い続けていたおれの成績グラフは少しずつではあったが上へ上へと伸びるようになっていった。




ありがとう。あなたが担当で良かった。




そんな言葉をお客さんからもらうことなんて、夢にも思わないことまで起こり始めて、おれは本当に神田さんに騙されているんじゃないのかと錯覚しそうになったりもした。


こぎ慣れたママチャリも、いつしかコンパクトカーに変わっていた。


「この仕事を、これから何十年にも渡ってやっていくって、正直自分には考えられないんです。もともと人見知りで初対面の人と話すのだっていまだに胸が苦しいし、ずっと競争の中でノルマを抱えて何年も何年もなんて、とにかく考えられないんです。眠れないことだってしょっちゅうです」


そしておれは今、そんな仕事での大恩人を前にして何故か”辞めたい”という思いをつらつらと垂れ流し続けている。おれがこんなに自分から神田さんに何かを話すことなんて今までなかっただろうと思うくらい、自分の心の内に溜まったものを集中豪雨のように恩人に向かって浴びせ続ける。


「ふーん」


でもこの人は、そんな土砂降りの中でも何食わぬ顔でおれを見つめ返す。雨粒一つかかっていないかのような涼しい顔で。


そんな顔で見られるから、思いが止まらないのに。少しは応えた顔をしてくれてもいいのに、心配だとかさ。


辞めたいのは気まぐれもなんでもなく本当だった。成績が上がってきたことは確かだったけれど、それと同時に自分で得た成果であるという実感は何故か反比例していくのだ。


神田さんに言われたとおりにやってみた成果。


本当に自分のしたいことってなんだったんだろう。


そもそもおれはなんで保険なんて売ってるんだっけ。


自分を取り戻す意味で、何もかもをリセットしたくなっていた。


「やめてどうしたいんだよ、お前は」


そして来た。きっとそう聞かれるであろうと思っていた質問。ちゃんと回答を準備していた質問。


「地元に帰ろうかと思ってるんです。地元で公務員の試験を受けてみようかと、この前テキストも買ってとりあえず採用試験の勉強も始めたところです。あとは大学までカメラのサークルに入ってたので、休みにはゆっくり写真を撮りに出かける生活なんかがちょうど自分の身の丈に合ってるんじゃないかなってーー」


準備をしていた文言がまるで堰を切ったように流れ出して、おれは慌てて口をつむぐ。しまったこれじゃまるで就活の面接のテンプレートと変わらないじゃないか。


「要するにお前はノルマから解放された時間のゆっくりと流れる世界の中で事務をこなしながら休日は優雅に写真撮影をたしなみたいと、そゆことね?」


「神田さんの言い方は節々に悪意を感じますね」


「そりゃ失敬。でもいいんじゃね?」


「えっ?」


「えってお前、辞めるんだろ?お疲れさん。地元でも頑張れよな」


何だかんだ言って、この先輩は慰留してくれるものと思っていたおれは、二の句が出てこなかった。こんなにあっけないものなのかと。


「えっ、終わりですか」


「なんだよこっちが聞きたいよ。それで話終わりじゃないのかよ」


「さっきアドバイスがどうこうとか言ってたじゃないですか」


「いや言ったけどさ、何もしかしてお前俺に止めてほしかったとか?」


「いや、そういうんじゃないでしょ」


それだけ訳も分からず取り留めもなく、つぶやいてから少し沈黙する。


神田さんなら、おれの言葉にあっけらかんと助言をくれるんじゃないか、そんな期待が知らず知らずのうちに染みついていた。


神田さんはバランタインを少しずつ、ふた口ほど口に含んでから言った。


「勿体ないとは思ったけどな」


「勿体ない?勿体ないって辞めることがですか?」


「そう。だってお前向いてるし」


「また言った。ほんとおちょくらないで下さいよ」


「いやほんとだって」


神田さんは吹き出しながらそういったが、その口調は確かにお客さんに商品の大切さを語りかけるような真剣みが垣間見えた。


「お前はとても素直だし、今までだって俺に騙されたと思ってやってきただろう?てか騙されてるだろう?」


それは否めない。


「そのまま騙されてくれときゃいいのに、変な疑いを持ち始めるとそうなるんだって。お前にこれをやりたいってでっかい夢があったり、どうしようもない親御さんの事情があるなら仕方ないけどさ、ここで辞めるのは勿体ないなぁって。ご来光を見ずに富士山の3、4合目くらいで下山するようなもんだよ」


これまた壮大な例え話だなと思ったが、神田さんはこういう例えで何かを伝えるのが好きな人だ。


神田さんは頬杖を外して、鼻をふんと一回鳴らしてから口を開く。


「保険ってさ、最悪なくたって生きていけるし、もうどこかで入ってる人がほとんどだし、商品なんて山ほどあってほんとに自分の薦める品が得かなんて不測なことが起きれば誰にもわからん。要らないって言われればほんとそこまでなんだよな。それをわざわざ俺から買う意味って何なんだろうって。だから、俺も思ったことがある。本当に自分が一生かけて売っていて良いもんなのかこれはって、もっと自分がやりてぇことってあるんじゃないのかって。これは”天職”じゃないだろってな」


おれと自分とを重ね合わせる先輩が意外だった。この人には自分の所業について思い悩むなんて概念は存在しないのではないかと今日まで思ってきたのだから。


「でもさ、そう思ってた頃にだよ、来るんだよなぁ。新人や2年目の頃、お前くらいの時に契約したお客さんから」


「来るって?」


「色んなことがだ」


神田さんは嬉しいとも悲しいともつかない笑顔を作って、口角を上げた。


「旦那がガンで亡くなって、あのとき俺が薦めて入った特約があったから助かった。娘を大学までやることができた、あなたがあの時一押ししてくれたおかげだって感謝のご褒美もあれば、あなたが不勉強なばかりにまったく意味のない医療保険で負担がかさむばかりの金食い虫だったって辛辣なやつまで、色んな通知表が還ってくる。これが俺は面白いっていうかもう、辞められなくなっちまってな」


神田さんの言う3、4合目の意味がしみ込んだのか、さっきカラにしたジントニックが今になって回り始めたのか、胸の奥にぐっと熱さが流れ込んだ。


「一件一件契約するのは確かに大変だろうが、契約させられた方はもっと大変だ。それがいつ役に立つかもわからないんだから。役立ち方はいく通りもあって、一言じゃ語れないドラマが必ずある。俺たちは、できる限りそれを見届けていく義務もあるし、ある意味で権利もある。途中で下りるには勿体無い景色ってたくさんあると思うんだよな」


神田さんは残ったバランタインをぐいっと人のみにして目をぎゅっと縛って笑う。


「まぁ、見届けるとか、そんなの恐ろしくてムリっすって話ならそこまでなんだけどな。でもお前はさ、素直だからきっと大丈夫だと思うんだよ」


「素直なだけで大丈夫なんですかね」


肝心なところを大丈夫の一言でまとめられると拍子抜けしてしまうけれど、この人の大丈夫は本当に大丈夫そうな気がしてくるからすごい。


例え騙されていたとしても。


流ちょうに話した後、焦りで視線がきょろきょろと泳いでいるのが自分ではっきりとわかる。その視界の隅で神田さんがまた不敵な笑みを浮かべているのが映った。


「そうだとも。お前、どうせ地元に帰ったって言うんだぞ。『良い写真が撮れないのは、平和すぎる日常に慣れてしまって、刺激がないからなんです』『煩雑な事務作業に埋没してしまうなんてもう耐えられないんです』とかさ」


ぼそぼそと下手くそな自分のモノマネが鼻につくけれど、そうぼやいている自分の未来がなんとなく神田さんを通して見えてしまう。


神田さんはマスターにお会計を告げてから振り返って言う。


「俺だって今の仕事が天職かどうかは未だにわからん。でも、そんなもんは後から振り返ってわかるもんなんだろうなって最近は思うようにしてるんだ。退職の前日くらいに『あぁ、今思えばこれが天職だったのか』ってな。どうせやるならそう思いたいだろ」


その時の神田さんの表情はおれが知る限りで一番真剣なまなざしを放っていた。あぁ、この目で語られたら、おれこの人で保険入るわと見当違いなことを考えたりした。


というわけで授業料と押し付けられた伝票は思ったより高く、ほとんどが神田さんのバランタインの代金だったが、おれはすんなりとそれを支払った。


席を立つとき、ランプの灯は揺れることなく柔らかな温かみをまとって空になった二つのグラスを照らしていた。


おれは明日も、どこかの家のインターホンを鳴らすだろう。





end.

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