灯篭
「本来の灯籠流しって、ご先祖さまを還すものじゃないの?」
「この作者適当だからなぁ」
ふたりの男女が台本を見ながら呆れたように笑った。
「本当、そうゆーとこ甘いよな」
「あんたと一緒ね」
「あ?なんだとぉ⁈」
と2人がいがみ合っていると。
「ほらほら、喧嘩はおしまい。そろそろ始まるよ」
とひとりの優男が登場した。彼の手にはボロボロの台本が掴まれている。
「うわ、こっわ!いきなり現れんなよ、サイコパス男!」
「その台本どうしたのよ?ボロッボロじゃない!」
目を丸くするふたりに、優男はふんわり笑った。
「役に入り切ろうと思ってね」
さようなら、愛しい人。
私はずっと前から少しずつ作っていた灯篭に火を灯し、小川に流した。灯篭は優しい朱色の光を灯してゆらゆらと小川を下っていく。
さようなら、恋しい人。
わたくしは今でも貴方のことを…。
貴方と出会ったのはあの夏、この川でした。優しい貴方は、母が亡くなったばかりで悲しみに暮れていたわたくしを慰めてくださいましたね。
貴方は魚が好きで、水面にぬらりと光る魚の鱗に見惚れていましたね。貴方が手掴みで捕まえて、焚き火で焼いてくださったお魚は大変美味しゅうございました。
わたくしの家の庭に忍び込んで来た時は驚きましたわ。貴方ったら、あの年は柿が美味しく実ったからって籠いっぱいに持ってくるのですもの。どうやってお父さまやお手伝いさんに内緒にしようかと散々慌てましたわ。
冬将軍がやって来る頃。わたくしのお家よりもずっと格上のお家のご子息様がわたくしの婚約者となりました。
彼は言いました。
「僕はずっと前から君を愛しているよ。誰にも君を渡さない」
と。わたくしはその時、ときめきよりも先にぞわりと肌が粟立つような恐怖を覚えたのでした。
冬の早朝、お屋敷から連れ出して見せてくださった雪景色は忘れられません。金色の朝日の光を受けて白金色に輝く街の景色は、神代の時代にも見られなかった美しさだと思うのです。
貴方と素晴らしい雪景色を見に行った帰りのことでした。わたくしを尋ねてお家にいらっしゃていた婚約者の彼は言いましたね。
「お前が僕の婚約者をたぶらかしているのか」
と。そして醜悪な物を見るかのような目をして、地を這うような低い声でわたくしに告げましたね。
「君は僕のものだよ」
と。その日から婚約者の彼は、変わってしまわれました。
桜が舞い散る頃。貴方はわたくしに仰ってくださいましたね。
「俺、お前のことが好きだ!」
と。わたくしも、とお答えしたかった。
しかし、と思い直し、わたくしは袖で隠した腕の切り傷を押さえました。あの冬の日から、婚約者の彼はわたくしが外に出るたびにわたくしに刃を向けるのです。やがてその刃はわたくしのお友達や、お世話になった先生方、最後にはお父さまにまで。
わたくしに関わった全ての人を傷つけるようになっていたのです。
だから、わたくしは貴方に良いお返事を返すことができませんでした。貴方まで傷つけたくはなかったのです。
「婚約者がいるのです」
と、そう申したわたくしに貴方は見たこともないくらい険しい顔でお尋ねになりましたよね。
「お前、本当にアイツと結婚するのか?」
と。わたくし、答えられませんでしたわ。
「申し訳ございません」
逃げたわたくしを、貴方は強い光を宿した目で見つめていたのは知っています。だけれど振り返ってしまったら、貴方に縋ってしまいそうだったから。だから、ごめんなさい、と呟いて逃げてしまったのです。
ああ、なぜあの時素直になれなかったのでしょう。恐れずに、心のままに、愛している、と伝えられれば貴方は今でも笑ってくださっていたかもしれないのに。
その年の初夏。わたくしとあの婚約者の彼はついに結婚することとなりました。
婚儀の前。
わたくしはちょっとだけ、と言い訳をして、あの小川に向かったのです。
水面は去年と変わらず日の光で煌めいていて、魚は涼しげに泳いでいました。だけれどなぜか、あの頃よりも色褪せて見えたのです。
涙が一粒、ぽろりと溢れました。
その涙が頬に傷に染みて、鋭い痛みがやって来ました。
私の体はもう傷だらけ。本当なら人様に見せられるようなものではなくなっておりました。
いっそ死んでしまえたら…。
そう思い、小川へと足を踏み入れた瞬間。
ぬめりとしたものを踏んで、視界が反転しました。気づけば目の前は流れる水と、泡と、魚。彼の愛したあの小川が、目の前いっぱいに広がっていました。
水の中から見上げる川は、外から見る川よりも美しい。光の柱が立ち、魚たちが悠々と泳ぎまわる水の都。
あの方と結婚するくらいなら、貴方の愛した小川で…。
と、そう思ったくらい美しい世界で。
わたくしは、貴方の声を聞いたのです。
「………!」
貴方は前と同じように、わたくしの名前を呼んでくださいましたね。
貴方の太陽のように温かい腕がわたくしを強く抱きしめてくださって…。
気づいたらわたくしは、ずぶ濡れで小川の岸辺に倒れておりました。しかしその場に貴方がいません。
わたくしは貴方を探しましたわ。
日が暮れても、夜になっても、朝日が昇っても。
それでも貴方は戻ってきて下さらなかった。
三日後、わたくしのお父さまとお手伝いさんがわたくしを迎えに来てくださいました。
貴方を探すのだと泣きじゃくるわたくしを、お父さまが宥めて連れ帰りました。
それからわたくしは、婚約者の彼との婚約を破棄しました。婚約者の彼はわたくしたちだけではなく、彼のお父さまとお母さまにまで刃を向けていたのだそうです。そしてわたくしなんかと結婚するためだけに、ご両親を殺したのだと…。
彼は警吏に捕縛され、網から解き放たれた魚のように自由となりました。だけれど、それと引き換えに、わたくしは大切な方までなくしてしまいました。
…結局、あれから何年経っても貴方は見つかりませんでしたね。
涙が一粒、ぽろりと頬を伝います。
さわさわと木が囁き、月の光に水面が煌き、魚が優雅に泳ぐこの小川で。
灯篭がひとつ、わたくしの想いを乗せて貴方がいる方へと流れて行きました。
遠い遠い、現世の誰もが忘れた世界で。
霧が立ち込める小川にひとりの男性が佇んでいた。
彼は朱色に灯る灯篭を掬い上げ、涙を一粒流したという。
「…なんでこの作者の恋する人間って、こんなに健気なのかしらね」
ポツリと呟いた女は、遠ざかる灯篭を見つめた。そんな彼女に優男はくすくすと笑って、
「恋する人間はみんな健気さ。ね?」
と隣に立つ男に笑いかけた。男は顔を赤くして、
「知らねぇよ!」
とそっぽを向いた。
「…そうなの?」
聞き返す女に、男はさらに顔を赤くして。
「俺に聞くな!」
と逃げ出した。
こうして男の想いはまた女に伝わらないまま、唯一の接点である舞台は終わっていくのだった(笑)