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9.空回り

 式が終わるとすぐ、リュシアンはオルティス邸へと引越してきた。

 彼の指図で庭師が雇い入れられ、館のあちこちに修繕の手が入る。

 

 見違えるように本来の美しさを取り戻していく屋敷に、シルヴィアとリリーは瞳を輝かせた。

 「義兄様は私たちの英雄よ」というのがリリーの口癖だ。彼女いわく、「王子様と言ってあげたいけれど、嘘はつけない」結果らしい。

 リュシアンも妹たちを気にかけ、可愛がってくれている。

 貧しさとは無縁の生活に変わっても、リリーの食べられる野草探しはまだ続いていた。

 新しく来た庭師について回っては、植物の知識を増やそうとしている末妹の奮闘ぶりを見て、リュシアンは声を立てて笑った。

 

 眩しいその笑顔を、自分が引き出せたら良かった。クラリッサは大人気おとなげなくリリーを羨んだ。


「お義兄様は仰ってたわ、姉様の為なら何でも出来るって。私たちに優しくしてくださるのも、姉様を喜ばせたいからよ。本当に、なんて素敵な旦那様なんでしょう。きっと今までの姉様の行いを、神様が見ていて下さったのね」


 心底満足そうなシルヴィアの言葉に、クラリッサも「ええ。ありがたい話だわ」と相槌を打った。

 リュシアンは妹の言うとおり、クラリッサを大切にしてくれている。

 それは分かっているのだ。好きだと言ってくれた彼の気持ちに、きっと嘘はない。

 だが信じているからこそ、彼との間にうっすら張られている壁が気になって仕方がなかった。

 リュシアンが苦しみや悲しみを抱えているのなら、彼がそうしてくれたように、分け与えて欲しい。夫が弱音を吐く相手はいつだって自分であって欲しいと願うのは、贅沢な望みなのだろうか。


 使用人の数も増えた頃、三姉妹はしばらく採寸と生地選びに時間を取られることになった。リュシアンが彼女達の衣装を一新したからだ。

 初めて会った時、彼は『贅沢ができるとは思うなよ。余分な金は一メルデだって渡さない』と釘を刺してきたはずだ。

 だがクラリッサがその時の話を持ち出し、こんなに色々買って貰わなくてもいいと訴えると、リュシアンは決まって不機嫌になる。

 

 その日も朝食の後、二人きりで食後のお茶を楽しんでいると、新たなドレスが届けられた。まだ開けてもいない箱が衣装部屋には山積みになっている。クラリッサはやんわりと、リュシアンの浪費を窘めた。


「俺には買ってもらいたくないってこと?」

「まさか! ただドレスも宝石も、すでに沢山買って頂いておりますのに」

「パーティに行く時、選択肢は多い方がいいだろ」

「それはそうですが……でも」


 クラリッサは上手く自分の気持ちを伝えることが出来ず、唇を噛んだ。

 嬉しくないわけではもちろんない。去年までなら、夢のような生活の変化にただただ舞い上がったことだろう。


「リュシアン様に申し訳なくて」


 結局彼女の唇から転がり出たのは、当たり障りない遠慮の言葉だった。


「君に出来る限りのことをしてやりたいと思うのはそんなに変か? それとも、そのくらいの甲斐性もない男だと馬鹿にされてるのかな、俺は」


 リュシアンが唇を歪めたので、クラリッサは慌てて首を振った。

 結婚式直前に言い争ってからというもの、二人の間はどこかぎくしゃくしている。どうすれば、以前のような気の置けない関係に戻れるのか、クラリッサには分からなかった。


「……悪い、言い過ぎた」

「いいえ、私がいけないのです。せっかくのご好意を、申し訳ありません」

「――君にそんなことを言わせる俺が最悪だ」


 リュシアンは深々とため息をつき、どさりと居間のソファーに腰を下ろした。額を抑えて俯く彼の顔色は優れない。

 急激な生活の変化に疲れているのは、リュシアンの方だ。それなのに、労るどころか疲れさせてしまっている。クラリッサは何とかしようと、声を明るくした。


「次のお休みに、どこかへ気晴らしに出かけるのはどうかしら? 公園へ散歩に行ってもいいですし……そうだわ。リュシアン様のご生家はどちらに? 私、見てみたいわ」


 クラリッサはリュシアンの子供時代を想像し、思わず微笑んだ。

 きっとやんちゃで可愛らしい子供だったに違いない。どんな風に遊んでいたのだろう。屋敷の敷地内でごっこ遊びに興じていた自分とは違い、外へ飛び出し、面白そうな冒険を繰り広げていたのだろうか。他愛もない思い出話が聞きたくなった。


「もうない。とっくに売り払った」


 ところが返ってきたのはそっけない声で、クラリッサはあっけに取られた。これ以上立ち入るなという明確な意思表示に遅れて気づき、悲しくなる。

 彼女の提案は、くうに浮かんだままどこにも着地せず消えていった。

 リュシアンは上着の胸元から懐中時計を取り出し時間を確認すると、再び立ち上がった。


「今日も遅くなるだろうし、先に寝ててくれ」

「……待っていてはいけませんの?」

「君が起きて待っていると思うと、気になって集中出来ないんだよ」


 リュシアンはクラリッサに近づくと、優しく頬にキスを落とした。

 最初は嬉しいやら恥ずかしいやらでぎゅっと目をつぶっていたクラリッサも、彼の控えめな愛情表現にはすっかり慣れてしまった。それどころか、貪欲になっている。足りないのだ、これではとても。


「じゃあ、行ってくる」

「いってらっしゃいませ」


 大人しく玄関先までついていき、クラリッサは精一杯の笑顔で夫を見送った。



 事務所までの道。馬車に揺られながらリュシアンは、クラリッサの強ばった笑顔を思いだし、低く毒づいた。

 歯車がずれてしまったかのように、彼が何をしてもクラリッサは喜んでくれない。いつもすまなそうに身を縮め、リュシアンの顔色を窺っている。

 こんなはずではなかった。

 自分の手をぴしゃりと扇でぶってきたクラリッサは、どこへ行ってしまったのだろう。リュシアンにはどうすれば以前のように彼女を心から微笑ませることが出来るのか、分からなかった。

 ドレスや宝飾品ではダメらしい。新しく作らせた薔薇園も空振りだった。

 リリーは薔薇の花びらでジャムを作ってみると一人張り切っていたが、どうなっただろう。しばらくは食卓のパンに注意しておかなければ。また腹を壊す羽目になってはたまらない。

 

 リュシアンは手帳を取り出し、クラリッサを喜ばせる為に考えた案のひとつに線を引いて消した。

 散歩に行きたいと言っていたことを思いだし、新たに付け加える。次の休みに二人で出かけることを想像し、リュシアンの気分は少し上向いた。

 彼女が生家に行きたいなどと言い出さなければ、あの場で返事が出来たのに。


 

 事務所に入り、数件の商談をこなした後で、三階へあがる。

 リュシアンが鉄道計画について調べさせた報告書に目を通していると、軽いノック音が聞こえた。


「アレックスか」

「入っていいー?」

「いいぞ」


 アレックスは、外で買ってきた軽食の入った袋を掲げて見せ、リュシアンの方にそれを投げた。机に預けていた足をおろし、両手で受け止める。


「昼飯、食べてないんだって? っていうか、今みたいな格好してていいの? クラリッサちゃんに怒られちゃうよ」

「その気持ち悪い呼び方、やめろって言ったよな」

「えー、じゃあ呼び捨てにしてもいいの?」

「いいわけないだろ、馬鹿か」

「馬鹿じゃないしー。俺、頭いいもん」


 アレックスの幼稚な喋り方を聞いているうちに、リュシアンは自分の悩みが馬鹿らしく思えてきた。

 袋を開け、中からチキンのサンドイッチを取り出す。


「ついでに飲み物淹れてきて」

「そのまま食えばいいじゃん」

「口がもさもさすんだよ」

「もさもささせとけよ、面倒だなぁ」


 ぼやきながらもアレックスは一度下に降り、今度はコーヒーを淹れてきた。

 リュシアンは紅茶よりコーヒー派なのだが、クラリッサが紅茶を好む為、家では殆ど飲まない。

 目を細め、独特の香りと味に頬をゆるめるリュシアンを見て、アレックスは嫌そうな顔になった。


「無理しないで、家でもコーヒー頼めばいいのに」

「……別にいいだろ」

「どーせ、すっごい格好つけてるんでしょ。そんで空回りしてんでしょ」


 リュシアンの眉間の皺が深くなる。

 アレックスは勝手にソファーに腰をおろし、自分の分のコーヒーを飲み始めた。


「……クラリッサが全然笑ってくれない。どうすりゃいいのか、わかんねー。お前ならどうする?」


 弱音を吐くのは死ぬほど嫌だったが、背に腹は変えられない。

 リュシアンが助けを求めると、アレックスはソファーに深く背中を預け、「んー」とくうを睨んだ。


「あの手の長女タイプは、俺の経験上、物じゃ釣れないね。ドレスや宝石じゃ喜ばない。逆に困らせるね。なんか返さなきゃ、って思うんだよ。甘え慣れてないから、対等じゃない関係が不安なの」

「そうなのか?」


 リュシアンは身を乗り出し、アレックスの言葉の続きを待った。

 確かに当たっている気がする。

 言われてみればクラリッサが生き生きとしていたのは、リュシアンに行儀作法を叩き込んでいる時だった。対等な関係、という言葉は自分も使ったことがある。


「たぶん、だよ。皆に当てはまる万能な法則なんてないし」

「たぶんでいいから!」


 切羽詰まった様子のリュシアンを見て、アレックスはやれやれと肩を竦めた。


「だから俺、言ったじゃん。色んな女の子と付き合った方がいいよーって。視野が広がるし、経験も積めるし、気持ちいーし良いことだらけなのに。せっかく顔はいいんだから、もっと遊べば良かったんだよ」

「うるせえ。俺は誰彼構わずっていうのが嫌いなんだよ、ジェラルドじゃあるまいし」


 リュシアンの口から久しぶりに飛び出した懐かしい名前に、アレックスは密かに驚いた。

 この十年というもの、彼が弟の名前を出したことは一度もない。死んだものとして扱うという宣言通り、とっくにジェラルドはリュシアンの中から消えたのだと思っていた。どういう心境の変化なのだろう。


「それで?」


 自分が弟の名を出したことにも気づかないらしく、リュシアンはアレックスを急かしてくる。


「ほんとに惚れてんだね。お前が会社の為に結婚するって言い出した時は、どうなることかと思ったけど。そういうのも、ちょっと羨ましいかも」

「クラリッサに会えて、俺は幸運だった」

「腹たつー。その自慢顔とノロケ、腹たつ! まあ、いいや。このまま離婚とかになったら、立ち直れそうにないし、助けてやるよ」

「ありがとうございます。それで?」

「えっとね。さっきも言ったけど、対等な関係に安心するから、こっちからも何かを頼むんだよ。些細なことでいいから。そんで、君がいてくれて良かった、助かった、って褒めてあげるの。すっげー喜ぶよ。可愛いくらい」

「……それだけ?」

「うん。でも賭けてもいいけど、お前はやってないね」


 自信たっぷりに言い切られ、リュシアンは反論しようとして彼の言う通りであることに気がついた。

 ぐっと喉を詰まらせたリュシアンを見て、アレックスは何気ない調子で続けた。


「クラリッサちゃんは不安なんじゃないの? お前、あんまり自分の話しないから。それにまだ抱いてないんでしょ? 律儀に待つことないのに。新婚なのに手出せないって拷問じゃん」

「約束は約束だ」

「まあ、あんな手紙託されちゃね。リューブラントのおっさんは絶対面白がってるよ」

「……だろうな」


 苦々しい表情を浮かべたリュシアンに向かって、「おおごとにならないうちに、何もかも打ち明けた方がいいと思うよ」と助言を残し、アレックスは去っていった。

 去り際、きちんとカップを片付けていくのもそつのない彼らしい。


 リュシアンはアレックスに言われたことを一つずつ心の中で並べ直し、すぐに実行できそうなことから試してみることにした。

 弟がいることを打ち明けるのは、一番最後にしよう。家族想いのクラリッサにどう思われるか、リュシアンは怖かった。

 クラリッサも早く自分を愛してくれたらいいのに。

 そうすれば、仕方のない人だとリュシアンが好きなあの微笑みで許してくれるかもしれない。



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