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8.秘密

 クラリッサは目覚めてしばらく、ぼんやりと見慣れぬ天井を見上げた。

 ここはどこだろう。

 そろそろと手を動かそうとすると、胸の上に上着がかけられていることに気づく。ふわりと鼻腔をくすぐる香水の残り香で、それがリュシアンのものだと分かった。

 果物を連想させる爽やかな香りは、クラリッサが彼に頼まれ選んだものだからだ。


 リュシアンの顔を思い浮かべた途端、自分がどこにいるのかを思い出したクラリッサは、ソファーに肘をつき、ゆっくりと上半身を起こした。

 視線を彷徨わせた先に、すらりとした背中を見つける。

 クラリッサは、白いシャツの上のベストに目を留めた。正確には、広い背中から続く細い腰を浮き彫りにする背面の調節ベルトに。色気がある立ち姿という褒め言葉は、男性にも当てはまるものなのだと、クラリッサはこの時初めて知った。

 リュシアンは本棚の前に佇んでいた。

 調べ物でもしているのか眼鏡をかけている。ページを繰る長い指先に、真剣な横顔に、気づけばクラリッサは見とれてしまっていた。

 書架には沢山の書物が並べられている。仕事の合間を縫っては、こうして読書をしているのだろうか。

 彼の勤勉さを目の当たりにし、クラリッサは尊敬の念を覚えた。

 

 よく考えてみれば、リュシアンについて知らないことは多い。

 クラリッサが知っていることと云えば、両親がすでに亡くなっていること。十八歳の若さでマイルズ商会を興したこと。独学で外国語を学んだこと。甘味は好まないこと。船酔いはしないこと。

 パッと思いついたのはそれくらいで、クラリッサは急に心もとなくなった。

 今までは深入りしないよう気をつけていたが、夫となる人のことだ。出来ればもっと色々知りたい。

 読書する際は眼鏡をかける(しかもとてもよく似合っている)という項目を、クラリッサは心の中で付け足した。


「そんなにジロジロ見られたら、穴があく」


 突然リュシアンがパタリと分厚い本を閉じ、そんなことを言ったので、クラリッサは慌ててしまった。いつから気づいていたのだろう。


「ごめんなさい。声もかけず、不躾でしたわ」


 リュシアンは人の悪い笑みを浮かべながら眼鏡を外し、クラリッサの方へ近づいてきた。その瞳はいたずらっぽく煌めいている。

 

「謝るなよ、ちょっとからかっただけだって。それに俺に見とれてくれてたんだろ? 違う?」


 クラリッサの頬はみるみるうちに赤く染まった。


「ち、」


 違います、と反射的に答えそうになり、クラリッサは慌てて口を閉じた。

 すぐに意地を張ってしまうのは自分の悪い癖だ。

 誰かに弱みを見せたり、甘えたりすることが彼女は非常に苦手だった。不慣れだと言ってもいい。

 だが今のままでは、リュシアンに愛想を尽かされてしまうかもしれない。それは困る。

 とっさにそこまで考え、クラリッサは彼を見つめ返しながら再び口を開いた。


「ええ。眼鏡をかけているところも、上着を脱いでいるところも、初めて見ましたので」


 胸がドキドキしてしまいました、とまでは流石に言えなかった。

 

 二人の間に何ともいえない沈黙が落ちる。

 羞恥に耐えかねたクラリッサが視線を外して俯くと、リュシアンはその場にしゃがみこんでしまった。

 がしがしと両手で髪をかき混ぜ、「……そういう不意打ち、ほんと勘弁して」などと呟く。


「とりあえず、送ってく。シルヴィア達が心配してるだろうから」


 やがてすっくと立ち上がったリュシアンは、何事もなかったかのような顔で片手を差し伸べてきた。

 当然のように帰りの心配をしてくれる彼に、クラリッサの胸は温められた。

 馬車を持っていないことを惨めに思う必要も、ほどこしを警戒して心の鎧を堅くする必要も、もうない。クラリッサには、誰憚だれはばかることなく頼れる相手ができたのだ。


「はい。ありがとうございます」


 一人で帰るという返事も想定していたリュシアンだったが、クラリッサは素直に立ち上がり彼の手を取った。

 なかなか人に懐かないヤマネコがようやくテリトリーに入れてくれたような感覚を覚え、リュシアンはこっそり感慨にふけった。もちろん言葉には出さない。野生動物にたとえられるのは彼女も本意ではないだろう。



 アレックスはきちんと役割を果たした。

 シルヴィアとリリーは夕食を済ませ、気を揉むことなくゆったりと姉の帰りを待っていた。

 馬車の到着する音を聞きつけ、二人はいそいそとクラリッサとリュシアンを出迎える。

 今までとは明らかに距離が違う。先に馬車を降りたリュシアンがクラリッサの腰を抱くようにして彼女を降ろすのを、シルヴィアはうっとりと見つめた。姉は恥ずかしそうにはにかんでいるだけで、嫌がる素振りを見せない。

 リリーはわくわくした眼差しで、仲睦まじい彼らを見守った。


「お帰りなさいませ、姉様。お義兄様」


 玄関に入るとすぐ、リリーがよく通る声でそう言ったので、クラリッサはぎょっとしてしまった。


「リリーったら、何を言っているの!」

「だってクラリッサお姉様は、リュシアン様と結婚なさるのでしょう? リュシアン様は私たちのお義兄様になるのよね」


 リリーは不思議そうな顔で姉を見つめ、それから不安げに眉を曇らせた。


「リュシアン様のお使いの方が、そう仰っていたのだけれど……違うの?」


 心細そうな声で問い返されてはたまらない。

 クラリッサは、リリーが頼もしい保護者の庇護を求めていることに、前々から気づいていた。

 母親の代役はかろうじて務められても、父親代わりまでは無理だ。

 返答に詰まり、隣に立つリュシアンを見上げると、ちょうど視線が合う。大丈夫だ、というように目配せし、リュシアンはリリーに向き直った。


「合ってるよ。これからは俺が君たち二人の後見人になる。安心していい」


 力強く言い切ったリュシアンに、クラリッサの胸は喜びと安堵で満たされた。

 妹達を邪険に扱うような男ではないと信じていたが、それでもこうして言葉にして貰えると安心できる。それに今の言い方はとても素敵だった。

 シルヴィアとリリーもクラリッサと同じ感想を抱いたようだ。


「良かった……。クラリッサお姉様、リュシアン様。本当に、おめでとうございます」

「おめでとうございます!」


 シルヴィアが涙ぐみながら祝福すると、リリーもそれに倣う。

 妹たちがこれほどまでに喜ぶのなら、やはりこの道で正解だったのだ。

 リュシアンとなら、きっと幸せな家庭を築ける。クラリッサの前に新たに拓けた未来は、光り輝いて見えた。


「ありがとう、二人とも」


 両手を広げたクラリッサに、真っ先にリリーが飛びつき、遅れてシルヴィアが駆け寄る。


「これでお父様も安心なさるわね。お母様も」

「ルノン達にも手紙を送って下さる? 最後まで姉様のことを心配していたから」

「ええ、そうね」


 手に手を取り合い慶事を喜ぶ三姉妹を、リュシアンがどこか侘しげな表情で見つめていたことに、クラリッサはその時気づくことが出来なかった。



 喪中ということもあり、クラリッサとリュシアンの結婚式は内々で済ますことになった。

 登録事務所へと赴き、登録官の前でお互いが宣誓し、書類を交わすだけという簡単なもので、特に何の準備もいらない。先に申告書を提出しておくくらいのものだ。

 式に着る白いドレスは、デビュー用のものをクラリッサ自身で手直しした。

 時間があればもっと豪華なドレスを注文したのに、とリュシアンは不服げだったが、王城へ届出を出す期限まではもう半月もないのだから仕方ない。

 リュシアンは今住んでいる屋敷を管理人に任せ、オルティス邸へと引越してくる段取りになっている。忙しいのは彼だけで、クラリッサは特にやることがなかった。

 リュシアンが、リューブラント伯のところからそっくり使用人達を引き取ってきたのだ。彼らは喜んでオルティス家へと戻ってきた。

 リリーは飛び上がって喜び、特に仲の良かったルノンにくっついて回っている。シルヴィアは苦手な洗濯から解放され、口には出さないが心底ホッとしているようだ。

 食卓は豊かになり、必要なものは全てあっという間に揃う。マイルズ商会に扱っていない品物はないのだろうか、と執事が目を丸くしながら話しているのを耳にし、クラリッサは誇らしいような申し訳ないような複雑な気持ちなった。何から何までリュシアンに頼ってしまっている。

 幸せなのは自分たちだけなのではないか、という微かな疑惑を覚え、クラリッサは不安になった。彼女の不安を煽る要素は、実は他にもある。


 クラリッサが懸念していた債権者たちが、何故か姿を見せないのだ。

 父が亡くなれば、すぐにでも返済を迫って押しかけてくるだろうと予測していたのに、拍子抜けしてしまう。一体どうなっているのだろう。リュシアンの結婚申し込みを受けてからというもの、家の資財管理は全て彼に委ねてあるから、詳しいことが分からない。

 もちろん彼女はリュシアンに尋ねてみたのだが、「俺に任せろ。君は心配するな」の一点張りだった。

 だが彼のその言い方で、クラリッサはリュシアンが何かしらの手を打ったことに気がついた。


「オルティス家の問題なのですから、私が把握しておくべき事案ですわ」

「もちろん最後の確認とサインはしてもらうさ。だけど、書類を揃えるまでの雑事は俺たちの得意分野なんだ。君のじゃない」


 ぴしゃりと断じられてしまえば、その通りだと頷くより他ない。

 それ以上クラリッサが言い募れば、夫となる彼を軽んじることになる。しかも実際に金を払うのはリュシアンだ。

 説明するのが面倒なのか、隠しておきたいことでもあるのか、リュシアンは仕事関係の話をしたがらなかった。仕事関係だけではなく、彼個人の話自体あまりしない。

 クラリッサはリュシアンの項目に、秘密主義者という言葉を付け加えた。

 

 

 そして迎えた式当日。

 花婿の付き添い人がたった一人なのを見て、クラリッサはとうとう聞かずにはいられなくなった。

 控え室で二人きりになった機会を逃さず、リュシアンをまっすぐに見上げる。


「アレックス・リッジウェイ様、で良かったかしら。彼お一人だけですの?」


 そのアレックスさえ正式に紹介して貰っていないので、つい嫌味な言い回しになってしまった。

 クラリッサの眉間の皺に気づき、リュシアンは怪訝そうな表情になる。


「そんな大勢でぞろぞろ来ることないだろ? 君だって、妹二人だけだ」

「私の身内と呼べるのは、あの子達だけですもの。ホランドの伯父様には知らせを出しましたが、欠席の手紙を頂きましたし、社交界にはデビュー以来顔を出していないので、特に親しい友人もおりません」

「……俺もそうだ」


 一瞬、リュシアンの視線が気まずげに逸らされたのを、クラリッサは見逃さなかった。


「では、リュシアン様は天涯孤独の身でいらっしゃると?」


 念を押すと彼はそっけなく頷き、怒ったような顔で彼女の腕を取った。ぐい、と自分の方へ引き寄せ、クラリッサの顔を覗き込む。


「この期に及んで、結婚をやめたいとか言い出すんじゃないだろうな」

「そんなこと言いません!」

「じゃあ、なんでそんなどうでもいいことをぐちぐち言うんだよ」

「どうでもいいだなんて……」


 クラリッサの瞳が痛みに歪んだ。リュシアンのことをもっと知りたいと願う気持ちが、本人によって無残に踏みにじられる。頬をぶたれたような衝撃だった。

 クラリッサの表情の変化を目の当たりにし、リュシアンはしまった、というように口を噤んだ。

 気詰まりな沈黙が、二人を隔てる。


「どうぞ、中へお進み下さい」


 受付係りが姿を見せ、声をかけたので、不穏な言い合いはそこで中断されることになった。


 

 式の間中、リュシアンは自分の迂闊さに苛立っていた。

 あんな言い方をするつもりはなかった。だが、聞かれたくないことに触れられ、ついカッとなってしまったのだ。クラリッサは平然を装っているが、さぞ傷ついていることだろう。

 それでも、二人の妹を心から愛している彼女に複雑な事情を打ち明けることはリュシアンには出来なかった。そもそも理解して貰えるとも思わない。

 

 リュシアンには、双子の弟がいる。

 幼い時分から、弟のジェラルドとは反りが合わなかった。特に何という訳もない。ただ言動が気に障るのだ。それは向こうも同じだったようで、二人はしょっちゅう小競り合いを繰り返していた。

 其のくせ離れることも出来ず、リュシアンとジェラルドはいつも一緒だった。

 初めて仄かな好意を抱いた少女は、それに気づいたジェラルドに横取りされてしまったし、その報復としてリュシアンは猛烈に勉強し、良い成績を修めて両親の関心を独占してやった。

 そんな双子を、幼馴染であるアレックスはいつも呆れたように眺め、中立を守っていた。どちらに肩入れしても面倒なことになるからだ。

 誰かにジェラルドが貶められれば腹が立つのだが、ジェラルドに生意気な口を利かれれば殴りつけたくなる。それでも何とか均衡は保たれていた。

 同族嫌悪という表現がぴったりの兄弟は、両親が出先の事故で亡くなった時、決定的にこじれた。

 

 実際的な処理を優先しようとするリュシアンを、ジェラルドは「お前は悲しくないのか!? この人でなしが!」と詰った。

 悲しくないわけがないではないか。心は張り裂けそうに痛んでいる。

 だが、ぼんやりしていれば両親が残してくれた財産は、あっという間に名前も知らない親戚たちに食い荒らされてしまう。

 動かなければならないからやっているだけなのに、一番自分に近いはずの弟は共に闘ってくれるどころか、侮蔑に満ちた目を向けてきた。

 その目を見た瞬間、リュシアンの中に残っていたジェラルドへの愛しさは霧散した。

 守りきった財産をきっちり半分に分け、リュシアンはジェラルドと決別した。

 二度と顔を見せるな、と札束を投げつけ怒鳴ったリュシアンを、弟だって決して許しはしないだろう。

 

 両親と弟をいっぺんに失ったリュシアンは、その鬱憤と悲しみを仕事にぶつけた。

 睡眠も食事もろくに取らずに働くリュシアンを見ていられなかったのか、ジェラルドとも親しかったのに、アレックスは自分を選び着いてきてくれたのだ。

 そのアレックスに立ち会って貰えれば、リュシアンは充分だった。


「リュシアン・マイルズはクラリッサ・オルティスを妻とすることに異論はありませんか」

「ありません」

「クラリッサ・オルティスは、リュシアン・マイルズを夫とすることに異論はありませんか」


 登録官の問いかけに、クラリッサは一瞬、躊躇したように見えた。

 リュシアンの胸に過去の苦痛が蘇る。頼む、どうか君は俺を裏切らないでくれ。祈るような気持ちで、リュシアンはクラリッサの返答を待った。

 彼女が小さな声で「ありません」と答えた時には、安堵で膝が崩れそうになった。


「では、こちらの書類にサインを」


 当事者二人と立会人が結婚証明書にサインし、登録官事務所に記録を残せば、婚姻は正式なものとなる。

 リュシアンの署名のあと、クラリッサが流麗な文字で名前を記した。

 それから、アレックスとシルヴィアがそれぞれ登録官の示す欄に名前を書き入れる。証明書を取り上げ不備がないか見直してから、登録官は頷いた。


「以上をもって、二人を夫婦と認めます」


 シルヴィアとリリー、アレックスの三人が嬉しそうに顔を綻ばせる。

 クラリッサも終始にこやかに振舞っていたが、決してリュシアンの方を見ようとはしなかった。

 食い入るような後悔の念にさいなまれ、リュシアンは短く息を吐いた。

 

 

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