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7.リュシアン、歓喜する

 事務所の入口に立っていた時から、クラリッサの顔は緊張で青ざめていた。

 その表情を見た瞬間、リュシアンは彼女の訪問の理由を悟った。

 オルティス侯爵亡き今、クラリッサは決断を迫られているのだ。

 これからの身の振り方を勝手に決めないでくれて良かった、とリュシアンは胸をなで下ろした。

 少なくとも、自分の申し出は彼女の頭の片隅に引っ掛かってくれていたということになる。


 正直な話、リュシアンを貴族の社交場へ連れていってくれるのならば、相手はクラリッサでなくても良かった。一番つけ入りやすそうだから、と選んだのが彼女だっただけだ。

 だが、いつのまにかリュシアンの中で、全てがくるりと反転してしまった。

 クラリッサに会いに行くための口実が、仕事になった。求婚の理由は、ただ彼女が欲しいからだ。

 リュシアンはすっかりクラリッサに参っている。

 

 そんな相手が、肩を震わせぽろぽろと涙を零しながら「見ないで下さい」などと懇願してくればどうなるか。

 リュシアンは理性と常識を総動員して、彼女を驚かせる事態を避けた。

 なんなんだ、この可愛い生き物は。

 リュシアンの慌てぶりを冷静に注意してきたかと思えば、花がほころぶように可憐に笑い、そして泣いた。

 父親が死んだ時も、その場では涙を見せなかったに違いない。

 凛々しく背筋を伸ばして立ち、参列客に応対するクラリッサの姿がありありと浮かぶ。悲しむ二人の妹を慰め、これからの侯爵家について一人悩み、それから思い切ってここまで出向いてきたのだろう。

 喪を示す黒の地味なドレスに着替え、知らない道をてくてくやって来たのだろう。

 想像するだけで胸が痛い。


 「俺に慰めさせてくれ、クラリッサ」


 リュシアンの申し出を、彼女は激しく首を振って拒んだ。


「同情はいりません。私は、だいじょうぶです。すぐに落ち着きます」

「同情なんかじゃないって、俺はさっき言ったと思うけど」


 彼女ならきっとそんな風に固辞すると予想していたリュシアンは、優しく答えることが出来た。クラリッサは人を頼ることに慣れていない。彼女が置かれてきた過酷な状況を思えば、それも仕方のないことだ。


「友人としてでもいいって言ってやりたいが、俺たちにはもう時間がないんだろう?」


 リュシアンの言葉に、クラリッサはハッと顔をあげた。

 青白い頬はしとどに濡れている。

 すぐにでも手を伸ばし、涙を拭ってやりたかったが、ここは彼女の流儀を尊重しなくてはならない。本人の許しなしに、触れてはいけないのだ。

 リュシアンは我慢強く説得を続けた。


「この国で独身の女侯爵は認められない。君は誰かと結婚するか、爵位を返上するしかない。無一文になった元貴族が、女三人で生きていくのは、君の想像以上に辛いと思う。俺は自分の惚れた女にそんな苦労はさせたくない」

「……そこまでご存知でしたのね」

「これでも結構有能なんだぜ?」


 リュシアンがわざとおどけてみせると、クラリッサは泣き笑いのような表情になった。


「今のオルティス家に大した力はありません。リュシアン様の後ろ盾には到底なれないことも、先に調べておくべきでしたわね」

「もちろん、知ってるさ。最初に言ったろ? 俺が欲しいのは招待状だって。乗り込んでいってからのことは、君が心配することじゃない」


 リュシアンには勝算があった。

 マイルズ商会はすでに海を渡っての貿易で大成功を収めている。絹や宝石、茶葉などを安く買い占め、高く卸す。加工した商品を小売する大きな店もいくつか持っていて、そちらの売上も上々だ。

 リュシアンは若手の芸術家に目をつけ、彼らに宝飾品や食器のデザインを任せた。パトロンを兼ねて彼らを囲い込み、マイルズ商会の売り物に独自性を持たせたのだ。リュシアンの目論見は当たり、売上は激増した。

 今は商売に向いた土地を探しては買い取っている。いずれは、そこへ行けばあらゆるものが手に入る大型の高級店を建てていくつもりだ。

 鉄道建設には莫大な費用がかかる。公爵とはいえ、資金は無限ではない。

 賢い男ならば、リュシアンと提携する利点を見逃さないはずなのだ。そこで相手が平民だからと敬遠するような視野の狭い男なら、こちらから切ってやる。それくらいの気概もある。


 クラリッサは、リュシアンのその言葉である程度のことは察したようだ。思案げに睫毛を伏せ、何かを考え始めている。


「……あーあ。涙がとまってる」


 リュシアンはちぇっと唇を尖らせた。


「初めて俺の前で泣いてくれたのに、慰めさせてくれないなんて君は酷い女だな」

「そこを責められてしまいますの?」


 クラリッサは目を丸くし、それから瞳をやわらげた。

 欠点ごとくるんで許してくれるような彼女のこの眼差しが、リュシアンは好きだった。


「いいから、早く許しとやらをくれよ」


 リュシアンは両手を広げ、クラリッサに選択を委ねた。




 飛び込んで来いというように広げられた腕と、自信たっぷりなリュシアンの顔を見て、クラリッサはついに陥落した。

 目の前の男は、彼女には測りきれないほどの器を持っているようだ。でなければ、『招待状だけでいい』などと言い切れる筈がない。

 落ちぶれた侯爵家の入婿という何とも頼りない立場に置かれると知ってなお、リュシアンはクラリッサを望んでくれている。それだけで充分だ。


「……私たちの子供はオルティス家を継ぐことは出来ませんわ。それでも?」

「ああ、その話も知ってる。貴族の継承権ってややこしいよな。ま、俺達には関係ない」


 もちろんリュシアンは、自分の子供に爵位を与えたいわけじゃない、と言ったつもりだった。

 だがクラリッサの中にその言葉は、ざらりとした後味の悪さを残した。

 関係ない、とはどういう意味なのだろう。

 そこできちんと問いただしていれば良かったのだが、クラリッサはすぐに気にしすぎだと流してしまった。


「では、あの――私、リュシアン様のお申し出を受けたいと思います」

「ほんとに!?」


 自信満々だった癖に、クラリッサが告げるとリュシアンは驚いたように目を見開いた。


「俺と結婚してくれるってことでいいんだな? 後からは取り消せないからな」

「取り消したりいたしませんわ。リュシアン様こそ、辞退するなら今のうちですわよ」


 しつこいほど念を押されたことに腹を立て、クラリッサは思わず言い返してしまう。

 軽々しく決めたつもりはないし、簡単に翻意したりもしない。

 リュシアンは喜色をあらわにし、大きく一歩踏み出してきたかと思うと、クラリッサの腰を掴むようにして抱き上げてきた。

 ふわりと体が浮いたことに驚き、クラリッサは慌ててリュシアンの首にしがみついた。


「ははっ。やった!」

「リュシアン様っ」

「怒るなよ、クラリッサ。俺は君の婚約者だ。抱きしめて何が悪い」

「こ、婚約はまだ交わしてませんし、婚約者であっても、本人の――」


 抗議しかけたクラリッサを抱きしめたまま、リュシアンはすとんとソファーに腰を下ろした。

 必然、彼の膝の上に横抱きされる体勢になり、クラリッサは真っ赤になった。


「今日は俺が教えてやる」


 すぐには声が出ないほど恥ずかしがるクラリッサの唇に、リュシアンは人差し指を当てた。


「俺たちの常識ではこうだ。結婚を申し込んだ相手が頷いてくれたら、二人はいちゃついてもいい」

「いちゃ……何ですの?」


 初めて耳にする言葉にクラリッサが問い返すと、リュシアンは色気をたっぷり含ませた微笑みを浮かべながら彼女の耳元に唇を近づけた。


「言葉責めをご所望? クラリッサは案外大胆だな」


 甘い囁き声がクラリッサの耳朶をかすめる。

 これからリュシアンが何をするつもりなのか、クラリッサには分からない。だが、何かいかがわしいことに違いない。心臓が早鐘を打ちすぎて、口から飛び出てきそうだ。

 彼女は動転し、ぎゅっと目をつぶってから叫んだ。


「わ、私は喪中ですっ!」

「あ、そうだった……ごめん。つい嬉しくて」


 リュシアンは流石に反省したのか、クラリッサの首付近から顔を離してくれた。

 彼の獰猛さを帯びた熱っぽい眼差しが、労わりを含んだ優しげなものに変わる。クラリッサはほっと息をついた。

 だが、腰に回った腕はそのままだ。


「下ろしてくださいませんの?」

「いやだ。何もしないから、もうちょっとだけ」

「……仕方のない方ね」

「その言い方、凄くぐっとくる。知っててやってる?」

「まさか! からかわないで下さいませ」


 とうとうクラリッサはリュシアンの胸板に突っ伏してしまった。

 

 リュシアンは目が眩むほどの多幸感に襲われ、短く息を吐いた。

 彼女の触れている場所から甘美な痺れが全身へ広がっていく。たまらず彼は、クラリッサの頭のてっぺんに触れるだけの口づけを落とした。


「親父さん、残念だったな」

「ありがとうございます――困った父でした。自尊心ばかり強くて」


 クラリッサの表情は見えない。

 片側に髪をまとめているせいで、リュシアンからは白い首筋だけが見える。


「回復の見込みがない以上、一日でも長く生きて欲しいとも思ってはおりませんでした。薄情な娘です」


 クラリッサの口調は落ち着いていたが、割り切れなさが滲み出るような哀しい声色だった。


「そりゃそうだ。寝たきりの病人の介護は負担が大きいからな。誰だってそう思うさ」

「……それでも今、寂しくてたまらないのです」

「ああ」


 リュシアンは細い背中をとん、とんと優しく叩きながら、クラリッサの懺悔に相槌をうった。

 家族というのはとかく厄介なものだ。

 好きか嫌いか、必要かそうでないか、はっきり仕分けることができない。血を分けて生まれたこと、そして共に過ごした年月が情となって心を縛る。

 リュシアンにも嫌というほど身に覚えがあった。

 

 しばらくすると、静かになったクラリッサの体がくったりと重みを増し、曲げられていた膝が力なく伸ばされた。

 リュシアンは細心の注意を払いながら、彼女の髪をかきわける。

 やがてあどけない横顔があらわれ、彼はふっと笑みを浮かべた。頬をピンク色に上気させたまま、クラリッサは眠ってしまっている。

 長らく張り詰めていた神経が緩み、どっと疲れが出たのだろう。

 リュシアンはそろそろと身体をずらし、彼女をソファーへ横たえた。スーツの上着を脱ぎ、上からかけてやる。


 なかなか戻らない長姉を、二人の妹が心配しているかもしれない。

 言付を書いて使いに持たせようと机へ足を向けた時、控えめなノック音が聞こえてきた。

 三階に来るのを許しているのは、アレックスだけだ。

 リュシアンは足音を立てないように注意しながら、素早く部屋を横切り、扉を少しだけ開けた。

 大きく開け放したら、クラリッサが見えてしまうかもしれない。子供っぽい独占欲だと自分でも呆れるが、誰にも見せたくなかった。

 後ろ手に扉を閉めながら外に出る。


「うわっ。びっくりした。急に出てくるなよ」

「大きな声を出すな。ちょうど良かった、今からオルティス家へ行ってきてくれないか? 俺がサインした名刺、まだ持ってるだろ。あれシルヴィアに見せたら、話を聞いてくれると思うから」

「いいけど……なんて?」

「クラリッサの帰りが遅くなるけど、心配するなって」

「ふうん……なんで?」


 アレックスの訝しげな表情が次第にニヤけたものへと変わっていくのを見て、リュシアンはぎりぎりと歯を食いしばった。


「ちょうど眠ったとこだから、起こしたくない」

「うわっ! お前、なんて鬼畜な! 喪服にムラムラするのは分からんでもないけど、ないわ。流石にないわー」

「お前のその腐った頭の方がありえねーんだよ!」


 物心がつくかつかない頃からの遊び仲間だったアレックス・リッジウェイは、リュシアンが心からの信頼を置く数少ない友人の一人だ。マイルズ商会を興す際にも随分助けられたし、今だってそれは変わらない。

 無茶ばかりするリュシアンに文句を言いながらも、アレックスは決して彼を見放さなかった。

 今では副社長という肩書きまでついている彼の欠点は、たった一つ。

 とにかく、私生活での言動が軽いのだ。

 仕事の時はきちんと振る舞えるのだから、治す気はないのだろう。


「冗談だよ、冗談。ずいぶん大事にしちゃってるみたいだし、こんなとこで抱くなんて本気で思ってないって。その様子だとうまくいったの?」

「ああ」

「了解。んじゃ、手筈通り、債権整理に入る準備しとく。お嬢さんとこにじゃんじゃん書類がいくと思うから、一応最終確認はしてもらってサインさせて。ご当主さんが随分ゆるかったみたいで、騙された形で土地取られたりもしてるんだよね。そういう舐めたやからには、強気で当たるけどいいよね?」

「いい。思い知らせてやれ」

「はいはーい。そういうの得意な人に伝手もあるし、上手く使い分けるね。オルティス家とうちの名前に傷はつけないようにちゃんと見極めるから安心して」

「仕事でお前を疑ったことは一度もないだろ」


 呆れた口調で言い放ったリュシアンに、アレックスは顔をしかめてみせた。


「ずるいよなー、お前のそういうとこ。普段はくそむかつく俺様野郎なのに、いっちょ頑張ろうかなって気にさせるのが上手いんだから、嫌になるわ」

「褒めるかけなすか、どっちかにしろ。つか早く行けって」

「はいよ。式の段取りはどうすんの?」

「クラリッサと相談するつもりだけど、なるべく早く挙げる。お前が欲しいのは、当主代理じゃなくて侯爵本人のサインなんだろ」

「そういうこと。んじゃ、行ってくるねー。夕食もついでに買って持っていっとくわ」

「……ないと思うが、口説くなよ」

「二十歳と十五歳でしょ。ないない。俺、年上専門だし」


 ふざけたことを言い捨て、階段を下りていくアレックスを見送り、リュシアンはため息をつきながら踵を返した。

 いい加減彼にも落ち着いてもらいたいが、あの調子ではまだまだ先だろう。



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