6.クラリッサ、街に出る
本来なら喪が明けるのを待たなければならないのだが、クラリッサには時間がなかった。
爵位を返上するのなら、その後の段取りを考え始めなければならないし、女侯爵になるのなら夫を見つけ、登録官の前で宣誓しなければならない。ウェディングドレスを着ての盛大な挙式に憧れがないわけではなかったが、時間もお金もなかった。
王城に届けを出すまでの猶予期間、債権者たちがただ黙って待つとも思えない。早めに手を打つ必要があるのだ。父の死を悲しんでいる余裕はない。
葬儀の五日後。
クラリッサは内職用の型紙を使って仕上げたシンプルな黒のモスリンドレスに着替えた。首まで詰まった長袖のドレスにはレースも刺繍もない。胸のくるみボタンがかろうじてアクセントになっているくらいだ。
厳密に言えば、モスリンはまだ彼女が身につけていい生地ではない。
だが荒い毛織で作られた正式な喪服は肌触りが悪く、長い時間身につけていると肌が赤くなってしまう。特に外出には向いていない。
心の中で亡き父に謝り、クラリッサは着心地を選ぶことにした。
ベール付きの小さな帽子を外し、髪を片側で簡単に束ねて、薄く化粧を施す。
鏡の前に立ってみると、そこにはやつれた町娘が映っていた。
知り合いに目撃され、父親が死んだばかりなのに早速出歩いているなどと悪評を立てられてはかなわない。でもこの格好ならば、誰もクラリッサだとは気づかないだろう。
屋敷を出て、乗合馬車に揺られること一刻。
この辺りだろうと見当をつけ、クラリッサは馬車を降りた。
手帳に書き写してきた住所と建物に刻まれている番地を見比べながら、初めての道を歩く。幸いなことに、マイルズ商会まではそうかからなかった。
最近建てられたばかりなのか、首が痛くなるほど見上げなければてっぺんが見えない大きな縦長の建物は真新しい。横ではなく上へと伸びる今流行りの建築様式だ。
大理石の階段を数段登ったところに両開きの扉があり、その脇に真鍮の看板がかかっている。
ピカピカに磨かれたその看板に刻まれた文字をじっくり眺め、クラリッサはほぅと息を吐いた。
確かに、リュシアン・マイルズは金持ちらしい。
建物の前には数台の馬車が停められていたが、すべてマイルズ商会所有のものだった。賑わう大通り沿いに、ここまで立派な事務所を構えることが出来るくらいの財力はあるということだ。
急に自分の格好がみすぼらしく思えてきた。
もう少しきちんとしたドレスで出直すべきだろうか。クラリッサが扉の前で立ち止まり躊躇していると、いきなり向こうから扉が開けられた。
「はいはい。分かったよ、相変わらず人使いが荒いな」
「うるせえ、黙って行け!」
後の方の声は、聞き間違いようがない。リュシアンのものだ。
入口で固まっているクラリッサに気づき、事務所から追い出されそうになっていた青年がおや、と首をかしげた。
男は仕立てのいいフロック・コートに、洒落たネクタイを締めている。年はリュシアンと同じくらいに見えた。
「こんにちは、お嬢さん。うちに何か御用ですか?」
「あ、あの……私」
貴族の邸宅を訪問したことはあっても、商会の事務所に来たのはこれが初めてだ。どう振舞うのが正解なのか分からず、クラリッサは口ごもった。
「ここでは小売はしてないんだけど、間違えて来ちゃったのかな? うちの商品目当て?」
せっかちな性分なのか、この辺りでは一般的なのか、青年は立て続けに尋ねてくる。クラリッサは拳を握り締めた。
「いえ、こちらの社長さんにお会いしたくて」
「え? リュシアン? うちのに、何か悪さされた?」
どうしてこの青年は質問ばかりしてくるのだろう。クラリッサがもごもごと口ごもっている間に、扉が大きく開け放たれた。
「さっさと行って見てこいっつってんのが、わかんねーのか!」
「もー。知らせて貰えなかったからって、八つ当たりはやめてよね」
心底迷惑そうに眉をしかめた青年の背後から、リュシアンが姿を現す。
リュシアンはなかなか行こうとしない部下を追い立てようと口を開きかけ、ふと扉の脇に立っている娘に目を留めた。
黒のドレスをまとった痩せた娘と、目が合う。
「はぁ!?」
予期せぬ来訪者にリュシアンは驚き、思わず叫んでしまった。
すぐ傍で大きな声を出された部下は「うるさいよ!」とぷりぷり怒りながら耳を押さえる。
「分かったよ、行くよ、行きますよ。このお嬢さん、社長に用があるんだって。お前、結婚考えてるなら、身辺整理くらいきちんと……あいたっ」
「もういい。黙れ、アレックス。あと、行かなくていい」
「はぁ? 何なの、一体。行けって言ったり、行くなって言ったり、人が喋ってるのに急に頭叩いたり。何様なわけ? 社長様とか言ったら、殴り返すからね」
リュシアンに拳骨をくらった青年もといアレックスは、涙目で抗議した。
クラリッサは二人のやり取りに圧倒されたのか、あっけに取られた表情を浮かべている。
リュシアンは、まず先に腹心の部下であるアレックスを宥めることにした。
クラリッサとのやり取りを彼にだけは見られたくない。彼女の前では負けっぱなしなのだと知られれば、一生からかわれるに違いないからだ。
「アレックス、俺が悪かった。悪かったから、少し黙れ。……あと、やっぱ出てくれ。ほら、店を見回るとか、色々あるだろ」
「やだね」
リュシアンの懇願をアレックスはすげなく却下し、クラリッサを見下ろした。
喪服姿の彼女は、痩せすぎなのが玉に瑕だが、なかなかどうして美人だ。
どうやらこの二人は訳ありらしい。こんな面白そうなことを見逃せるはずがない。
「さ、お入り、お嬢さん。俺が立ち会ってあげるよ。泣き寝入りさせられそうになっても、助けてあげるからね」
「気安くクラリッサに触るな!」
アレックスが馴れ馴れしい口調で話しかけ、クラリッサの肩に手を回したのを見て、リュシアンはとっさに怒鳴りつけてしまった。
「……クラリッサ?」
アレックスは大きく目を見開き、柄にもなく赤くなり、しまったというように顔をしかめているリュシアンと、ただただ驚いているクラリッサを見比べ、やがて納得したかのように両手を挙げた。
その名前はすでにリュシアンから聞かされている。
では、この女性がクラリッサ・オルティス嬢というわけだ。
「はい、すみません。今のはなしで」
「……席を外してくれるか? リッジウェイ」
「はい、社長。しばらく出て参ります」
青年はクラリッサに「お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」と丁寧に詫び、一礼して石段を下りていった。
何が何だか分からないクラリッサは、ただお辞儀を返すことしか出来なかった。
入ってすぐの窓口にいた受付係りに、しばらく社長あての来客は断るよう言いつけ、リュシアンは三階を目指した。
一階の応接室は商談用だし、二階は商品見本を展示している部屋が多く、従業員も多い。
彼らに気づかれないよう、リュシアンは裏階段を使った。
「こんな狭苦しいとこ通らせて、悪いな」
「いえ、私が急に来てしまったのがいけないのです」
周りからクラリッサを隠すようなリュシアンの態度に、彼女は少なからず傷ついていたのだが、気取られないよう平静を装った。
「俺だって好きな時に訪ねていってるんだ。それは別にいいんだけど」
「けれど?」
「それ、変装のつもりだろ? あんまり人に見られたくないのかなって」
リュシアンはそこで一旦言葉を切り、乱暴な手つきで髪をかきあげた。
「……ほんとは、あいつらにでれでれした顔見られんのが、恥ずかしーの! そんだけ」
クラリッサは唖然として、階段を登る足を止めた。
すぐに気づいたリュシアンが、振り返ってくる。
「もしかして、足が痛い? 大丈夫か?」
「リュシアン様は、私が来ると照れてしまわれるんですの?」
とてもそうは見えなくて、思わずクラリッサは追求してしまった。
「そこ、拾うのかよ……」
階段の手すりに寄りかかり、リュシアンは唸った。
筋金入りの箱入り娘なだけあって、男女の機微に疎いとは思っていた。
だが、全く気づいていないとは思ってもみなかった。抱きしめたり、慰めたり、しょっちゅう顔を見に行ったりしていたのは、では何だと思っていたのだろう。まさか、本気で友情だと?
いや、友人ですらないのかもしれない。父親の葬儀を知らせてもこないくらいだ。
リューブラント伯から話を聞かされ、すっかり落ち込んだリュシアンは、アレックスに様子を見に行かせようとしていたところだった。いつものように直接訪問すれば良さそうなものだが、門前払いされるのが怖かった。
「好きな女が自分を訪ねてきてくれたんだ、そりゃ顔だって緩むだろ」
リュシアンがぶっきらぼうに告げると、クラリッサはまじまじと彼を見つめ返してきた。しばしの沈黙のあと、彼女は真っ赤になった。
「そ、そんな言葉を軽々しく使うものではありませんわ」
薔薇色に染まった頬で、少し潤んだ瞳で怒られたって、ちっとも堪えない。むしろ、嬉しいくらいだ。
リュシアンはクラリッサに向き直り、階段上から彼女に手を伸ばした。
腰をかがめ、熱い頬に優しく手を当てる。
「顔、まっか。そんなの、他のやつに見られたくないだろ? 君がいいって言っても、俺が見せたくない」
「……っ」
もっと戯れていたかったが、やりすぎれば怒って帰ってしまうかもしれない。
とりあえず脈がないわけではないということさえ分かれば十分だ。
リュシアンは頬から手を下ろし、クラリッサの手を握った。
「ほら、あともうちょっとで着くから、頑張れ」
「一人でも登れますわ!」
「いいから、来いよ。ぐだぐだ言ってると、抱えあげるぞ」
リュシアンならば本当にやりかねない。
クラリッサは慌てて彼の手を握り返し、足早に階段を上がった。
三階はリュシアンが個人的に使っている場所だ。
部屋でいくつかに区切るのではなく、壁はぶち抜くよう設計士に頼み、必要な太い柱以外は全てとっぱらってある。広々と自由な空間をリュシアンは非常に気に入っていた。
壁際に仮眠用のベッドと背の高い本棚をしつらえ、ずらりと並んだ大きな窓にカーテンはかけない。部屋のど真ん中には、大きな書き机と座り心地のいい椅子を置いた。
リュシアンはそれで満足したのだが、あまりにも殺風景だと、幼馴染であり仕事の右腕でもあるアレックス・リッジウェイには文句をつけられた。
それで仕方なく客用のソファーと応接テーブルも置いたのだが、今日ほどアレックスの助言に感謝したことはなかった。
「そこ、座ってて。お茶淹れてくる」
こんなことなら三階にも給湯室を作るんだったと、リュシアンは後悔した。
「すぐ戻るから、帰るなよ! 帰ったら怒るからな」
「何もお話していないのに、帰ったりしませんわ」
クラリッサから離れるのは嫌だったが、せっかく来てくれた彼女をもてなさないのは論外だ。
後ろ髪を引かれる思いでリュシアンは部屋を飛び出し、今度は内階段を使い、二階へと駆け降りた。
一人残されたクラリッサは、気持ちを整理する時間ができたことに安堵していた。
あのままリュシアンのペースに巻き込まれてしまえば、どこまでも流されていきそうで怖い。『好きな女』という言葉が耳の奥にありありと蘇り、クラリッサは両手で頬を挟んだ。
彼が嘘をついているとは思わないが、どこまで本気なのだろうか。
いつからリュシアンの中で、クラリッサは仕事の為の協力者ではなくなったのだろう。懸命に思い返してみても、特に彼を魅了するような出来事は起こらなかったように思う。
クラリッサは、自分の真っ平らな胸を見下ろしてみた。
痩せぎすで陰気な顔立ちの、貧しい没落令嬢。
一方、甘く整った容姿を持つ、金持ちの貿易商。
今日のリュシアンは、その引き締まった体躯をより魅力的に引き立てる三つ揃いのスーツを着ていた。ジャケットの前ボタンは開けてあるため、ぴったりと身体にそったベストが嫌でも目に入る。そこに浮かぶかすかな皺さえ、リュシアンにかかれば女性を蕩かす武器になるのだ。
爵位をのぞけば、クラリッサが彼に釣り合う点は一つもない。
彼に提供出来るものがあるとするなら、それこそ初対面の時にリュシアンも言っていた招待状くらいのものだろう。
悲観的な事実をひとつひとつ数え上げてもなお、頬の熱は引いてくれなかった。愚かにも、たったあれだけの言葉で舞い上がってしまっている。
「良かった、ちゃんといた!」
息を切らせて、リュシアンが扉から入ってくる。
クラリッサは立ち上がり、彼が近づいてくるのを待った。
「座ってていいのに――っと、そうか。俺が訪問された側だから、君は立つのか」
「はい、そのとおりですわ。では、リュシアン様。たとえ自分の部屋だとしても、客人を通している場合、ノックなしで部屋に飛び込んでくるのは?」
「だめ」
「温かいうちにと配慮して下さったのは嬉しいです。でもそんなに慌てては、茶器の中でお茶が泡立ってしまいますわよ」
「ごめん」
さっきまでの勢いはどこへやら、しゅんと眉を下げたリュシアンを見て、クラリッサは思わず笑ってしまった。
笑った拍子に、何故か涙がぷつりと浮かび、眦を転がり落ちていく。
誰より驚いたのは、クラリッサだった。
「え……どうして? わたし、泣くつもりなんて」
父の死は、自分で思っている以上にクラリッサを痛めつけていた。
寝たきりでいつ儚くなってもおかしくないと覚悟していたものの、実際に空っぽになった父の寝台からシーツを剥ぎ取った時は、息が止まりそうなほど胸が苦しくなった。
くわえて、今まではあくまで『代理』だったのが、オルティス家は名実共にクラリッサの責任下に置かれることになったのだ。それは凄まじい重圧だった。
いつもと変わらないリュシアンと接しているうちに、クラリッサの中の何かがぷつりと解けてしまった。
今までどんな辛い目にあっても泣かずに乗り切ってきたというのに、どうしたことか涙を止めることが出来ない。
「ごめんなさい。こんなみっとも、ない。……お願い、見ないで」
手提げ袋からハンカチを取り出し、クラリッサは目元を覆った。