5.近づく距離
あれからリュシアンは、暇を見つけてはオルティス家へやってくるようになった。
仕事が立て込んでいる時には、食事時に裏口からひょいと顔を覗かせ、台所にいる三姉妹の顔だけ見て帰って行くこともある。シルヴィアとリリーはまめなリュシアンにすっかり肩入れし、彼が姿を見せるとそそくさとその場を離れてしまうのだった。
「君のおかげで、だいぶ行儀が良くなったって部下にも褒められたんだぜ」
二人きりになった途端、子供のように得意げな顔で報告されては、言葉遣いを窘めることも出来ない。
彼はどうやらクラリッサの前で、そのお行儀の良さを披露する気はないようだ。
「リュシアン様は飲み込みが早くていらっしゃるから。きっと頭がいいんだわ」
貧しい日常を見られたくないと最初は気を張っていたクラリッサだったが、今ではすっかりリュシアン流に慣れてしまい、台所のテーブルに共につくことも気にならなくなっている。
美味しいものは食べ慣れているだろうに、彼はクラリッサの作るスープが気に入ったようだ。
その日も昼食が終わるのを見計らうようにやってきたリュシアンは、早速椅子に座り席を確保すると、コンロの上の大鍋に熱い視線を送っている。
「――何かお飲みになります?」
分かりやすい態度に笑みが浮かびそうになるのをこらえ、クラリッサは真面目な顔で問いかけた。
「水でいいや。あとスープが余ってるなら、それがいい。そういやこの前、リリーが淹れてくれたアミデラ茶とかいうお茶を飲んだんだけど、あの後しばらく腹が痛かった」
「まあ。あの緑色の?」
「ああ。匂いは爽やかだったし、味も渋くはなかったから油断した」
「リリーの胃はおそろしく頑丈ですのよ。庭をあさっては食べられそうな野草を探すのが、今のあの子の趣味なんです。リリーの出すものは口になさらない方がいいかと」
「その忠告、もっと早く欲しかったんだけど」
ため息をつきながらリュシアンはテーブルに両腕を乗せ、そこへこてんと頭を置いた。
「随分お疲れでいらっしゃるのね。あまり無理をなさらない方がいいわ」
無作法さを咎めるべきだったのだが、忙しそうなリュシアンが心配になり、クラリッサはついらしくないことを言ってしまった。
言った後で気恥ずかしくなり、そそくさと立ち上がる。
「スープでしたわね。今、お持ちします」
リュシアンに背を向けようとした彼女の手を、大きな手が掴み、引き止めた。
「……前にもお教えした通り、本人の許しなく女性に触れてはいけません」
「今はレッスン中じゃない」
体を起こしたリュシアンはぐいとクラリッサの手を引くと、椅子をずらし、自分の膝の前に彼女を立たせた。
初対面の時より幾分かはマシになったが、それでもクラリッサは痩せ過ぎだ。
ざらつく感触が気になり、手を持ち上げて見てみると、白く綺麗だった彼女の手は赤く腫れ、指先はひび割れてしまっている。
こんな時は抵抗しても無駄だと諦めたのか、クラリッサは呆れた表情ではあるが、大人しくされるがままだった。
「どうしたんだよ、この手……そうか。使用人がいないから――」
使用人がいなくなったことで、クラリッサ達の生活は一変した。
これまでも簡単な料理くらいは三人ともやっていたのだが、洗濯や拭き掃除など、水を使う下働きは使用人たちに任せきりだったのだ。たとえ手伝いを申し出たとしても、彼女らはそれを許さなかっただろう。
見よう見まねで自分達にも出来ると思っていたのは、大きな誤算だった。
濯ぎが足りないのか皺まみれのシーツはごわごわで、寝巻きのレースは無体なボロくずへと姿を変えている。
労働を知らなかった手は、あっという間に荒れた。
「何ともありませんわ」
「いや、これは痛いだろ。後で軟膏を届けさせる」
「そこまでして頂くわけには……。ただでさえ、リュシアン様には食事を恵んで頂いておりますのに」
汚い手をまじまじと見られ、クラリッサは恥ずかしさに胸を締め付けられた。手を引っ込めようとしても、リュシアンは許してくれない。
混乱した彼女は、わざと嫌な言い方をして彼を跳ね除けようとした。
これ以上、心の中に立ち入って欲しくない。誰かに優しくされる喜びを覚えてしまえば、一人で立つのが辛くなるだけだ。
「そんな言い方はやめろ。一番最初に、君が教えてくれたことだろ」
ピシャリとリュシアンに注意され、クラリッサは唇を噛んだ。
彼は壊れ物でも扱うような優しい手つきでクラリッサの手を握り直し、彼女をまっすぐに見上げてくる。
「君は俺に色んなことを教えてくれる。俺はその礼をしてる。ただそれだけのことだ。お互い卑屈になる必要なんて、どこにもない」
「……そうですわね」
「手荒れに一番効くのを薬屋に頼んでくるから、ちゃんと使うんだぞ。三人ともだ」
そんな言い方をするリュシアンは、ちゃんとした大人に見えた。
子供っぽい言動のせいで忘れがちだが、彼はクラリッサより五つも年上だった。
ほんの少し。ほんの少しなら、甘えても許されるだろうか。彼は年上で、しかも会社を経営している社長だ。いっぱしの大人である彼になら、甘えても許されるのではないか。
クラリッサの心はぐらぐらと揺れ動き、気づけばポツリとこぼしてしまっていた。
「本当はすごく痛むのです」
リュシアンは目元を和ませ、うん、と短く頷いた。
その優しい眼差しに勇気づけられ、クラリッサは口を開いた。
「こんなに大変だとは思いませんでした。世間知らずは私の方です」
家族にさえこぼしたことのない愚痴を吐き出し、クラリッサはぎゅっと目をつぶった。
本当はもう何もかも投げ出し、一日中眠っていたい。身体も心も磨り減り過ぎて、ぺらぺらの紙にでもなった気分だ。
リュシアンは立ち尽くすクラリッサに向かって、静かに問いかけた。
「抱きしめていい?」
「……友人としてなら」
「今はそれでいいから」
逡巡した後、クラリッサが小さく首を縦に振るのを確認し、リュシアンは立ち上がった。
抱き潰してしまわぬようそっと引き寄せ、腕の中にしまい込む。
前はただ身体を固くし、息をひそめていたクラリッサだったが、その日は違った。
彼女も細い腕を回し、リュシアンに抱きついてきたのだ。
驚いた彼の方が、今度は身体を強ばらせた。
「しっかりしろ、と仰って、リュシアン様」
くぐもった声が胸元から聞こえる。
ここまで追い詰められてなお泣かないクラリッサの強さに、リュシアンは感嘆し、それから胸が痛むほどの愛おしさを覚えた。
最初は同情かと思ったが、どうやら違う。どろどろに甘やかし、毅然と振舞う彼女を駄目にしてしまいたいというこの仄暗い欲望が、同情である筈がない。
まだ会ってまもないこの痩せっぽっちな没落令嬢に、リュシアンはどうしようもなく惹かれていた。
「君は充分よくやっている。疲れて当然だ」
優しく囁き、頭を撫でてやると、クラリッサはしばらく黙った後で「ひどい方」と呟いた。
何もかもを俺のせいにして、このまま流されりゃ楽なのに。頑なに一人で立とうとするから、苦しいのに。
だが、今なら考えを変えるかもしれない。
弱っている彼女に再度結婚を申し込んでみようかとも思ったが、リュシアンはようやく手に入れた信頼を、今回は選ぶことにした。
仕事と違って、失敗のやり直しはきかない。慎重にいくしかない。
クラリッサの頑固なところも含めて可愛いと感じてしまうのだから、彼の負けだった。
スープを飲み干し、すっかり満足した様子のリュシアンを見送り、クラリッサは妹たちを探すことにした。
裏庭へ回ってみると、シルヴィアは木製のベンチに腰掛け、そのまま眠ってしまっている。洗濯物を取り込みにきたものの、まだ乾いていなかったのだろう。ベンチの脇には空き籠が置いてあった。
「シルヴィア……こんなところで寝ると風邪を引いてしまうわよ」
クラリッサが優しく揺り動かすと、ハッとしたようにシルヴィアは目を覚ました。
「あ、私、洗濯物を……」
「大丈夫、まだ全部は乾いていないみたい。今日は天気がいいから、じきに乾くでしょう。それまでここで休んでいるといいわ。膝掛けを持ってきましょうか?」
「ありがとう、姉様。でもいいの。待ってる間に浴室を掃除しようと思っていたから」
「リリーは?」
「お父様についてくれているわ。昨日回れなかった部屋を換気するって言ってたけど、どうしたかしら」
「……私たちにこの屋敷は広すぎるわね。使わない部屋は、いっそ閉じてしまいましょうか。家具に埃よけのクロスをかぶせて」
クラリッサが提案すると、シルヴィアは泣き出しそうに唇を歪めた。
「お父様は昨日から何も口にされていないわ。もうじき、私たち三人になるのね。閉じた部屋だらけの大きな屋敷に、三人きり」
「シルヴィ」
「賑やかだった頃が懐かしいわ、姉様」
「そうね。私もよ」
よろよろと立ち上がった妹をぎゅっと抱きしめてやる。
クラリッサはふと、力強い腕の温もりを思い出した。
誰かに大丈夫だと抱きしめて貰うだけで、あれほど安堵できるなんて、出来れば知りたくなかった。
心がどんどんリュシアンに傾いていくのが分かる。彼が求めているのは仕事を有利に進める為の同志。好きになっても虚しいだけなのに。クラリッサは弱い自分を笑った。
シルヴィアの言った通り、それからどれほども経たないうちに、姉妹は三人きりになった。
オルティス侯爵の葬儀はしめやかに執り行われた。
西庭の端にある墓地へ赴き、墓守たちが掘った深い穴に棺が下ろされるのを見届け、喪服に身を包んだ三姉妹は別れの花束を投げ込んだ。
葬儀へはホランド公爵も立ち会ってくれた。
知らせは出したものの、まさか来てくれるとは思っていなかったので、クラリッサは意外に感じた。その他の参列者は、リューブラント伯爵夫妻だけだ。
喪があければ、借金の精算を迫る債権者たちで屋敷はごった返すかもしれないが、今は静かなものだった。
心からの悔みを述べてくれたリューブラント伯へ、父が残した手紙を渡すと、彼は顔をくしゃりと歪めた。
「父がまだ起き上がれる時期に書いたものだと思います。良ければ読んでやって下さい」
「ああ、ありがとう。こんなに早く逝くなんて……寂しくなるよ。とてもね」
「そう仰って下さる方がいて、父も救われます」
参列者はたった六人という、寂しすぎる葬儀だった。
深く考えると鋭い痛みに似た哀しみと寂寥感に襲われる為、クラリッサは目の前の事象全てを上滑りに捉えることで己の心を守った。
表情を消し淡々と受け答えをするクラリッサを、リューブラント伯は痛ましげに見つめた。
「これからのことはまだ考えられないかもしれないが、相談があればいつでも手紙を寄越してくれ」
「ありがとうございます。これまでのご支援にも深く感謝しております、おじ様」
「リュシアン・マイルズには会ったのだろう?」
昏いクラリッサの瞳に、ほんの一瞬光が戻る。
「ええ。今は、礼儀作法のレッスンに見えてますわ」
「そうなのかい?」
意外そうに両眉をあげ、リューブラント伯は首をかしげた。
仕事では行動力とある種の強引さに定評のあるリュシアンだ。とっくに彼女を口説いているものだと思っていた。
「レッスンだけ?」
「ええ、それだけですわ」
案外意気地のない。
クラリッサが最も支えを必要としているこの時期に、何を悠長にやっているんだ。
心の中でリュシアンを罵り、リューブラント伯は妻を伴って帰っていった。
静まり返った屋敷の応接室で、クラリッサは伯父であるホランド公爵と向かい合った。
この部屋だけは欠かさず綺麗に掃除してある。応接テーブルに飾ってある花は、リリーが庭で摘んできたものだ。
「率直な話をしようか。私も多忙な身で、長居は出来ない」
しばらく会わないうちに、伯父はすっかり変わっていた。
気取った話し方はなりをひそめ、実務的な態度が板についている。会社を経営している影響だろうか。公爵というより実業家のようだ。
「ええ、伯父様。私もその方がありがたいです」
「爵位は男子直系相続というのが決まりだが、男児が生まれなかった場合、長女が継ぐことも出来る。その場合、君は結婚をしなければならない。独身の女侯爵は我が国では認められないからだ。そこまでは?」
「はい。父から聞いて、存じております」
「君の年なら、婚約者がいてもおかしくないが、そうか。オルティスは知っていて、君を一人残したのか」
伯父の声に父への嘲りの色が篭るのを、クラリッサは黙って聞き流した。
彼にも言い分があるのだろう。実の妹をあっさり死なせた父を、どこかで憎んでいるのかもしれない。
「本来なら、うちで君の婚約者を用意しなければならないのだろうが、今の状態のオルティス家を引き受ける余裕はない。君は、爵位を王家へ返上することも出来る。納税の義務からも解放されるし、残務整理は国が行ってくれるだろう。そうやって貴族年鑑から消えていく家名は、昨今では珍しくない」
伯父が示した二つの選択肢は、クラリッサもずっと考えてきたものだった。
リュシアンが現れるまでは、爵位を返上しようと思っていた。家屋敷やわずかに残った土地全てを没収される代わりに、借金からも解放される。
街に小さな部屋を借り、そこで二人の妹と暮らすしかないが、クラリッサが頼み込めば、古着屋の主人が針子の仕事を回してくれるかもしれない。
何とか食いつないでいくことは出来るだろう。たとえその先の未来が全く見えないとしても、借金のかたに売り飛ばされるよりはマシだ。
求婚者など現れるはずがない思っていたからこそ、クラリッサは覚悟を決められた。
リュシアン・マイルズさえ現れなければ、侘しい諦念を胸に、今ここで伯父に返事が出来たのだ。
「……私の夫が、貴族でなければならないという決まりはございますの?」
掠れた小さな声が、クラリッサの唇からこぼれる。
ホランド公爵はハッと鼻で笑い、足を組み替えた。
「マイルズ商会の社長だったか? 随分、君に入れあげているそうじゃないか」
クラリッサの頬が朱に染まる。
伯父がリュシアンを知っているとは思わなかった。もしや、社交界中の噂になっているのだろうか。
いかがわしい関係ではないと誓って言えるが、人は自分の捉えたいように捉えるものだ。
「昔は片側が平民の場合、正式な婚姻だとは認められなかったが、時代は変わった。もちろん、君は平民とも結婚できる。が、その子供の爵位継承権は低い。君の従兄弟であるうちの息子。そしてその直系男子の方が順番は上だ。シルヴィアとリリーが貴族と婚姻を結び、その子が男児である場合は、もちろんそちらが優先されるが……」
伯父は部屋をぐるりと見回し、かつて飾ってあった大きな絵が外された跡に目を留めた。
名のある画家の作品だったので、あの絵は高値で売れてくれたと、クラリッサは思い出した。
「その望みは低いだろうな」
言外に「こんな没落した家の娘に求婚する青年貴族はいない」と匂わされ、クラリッサは微笑んだ。
妹たちは二人共、高貴な結婚など望んでいない。
リリーにいたっては、お高くとまった貴族の妻になるより、食いっぱぐれの心配のない肉屋に嫁ぎたいと大真面目な顔で打ち明けてきたくらいだ。
シルヴィアは食堂で働いてみたいと言っている。とても楽しそうに給仕している娘を買い物の途中で見かけて以来、それが彼女の密かな夢だ。
「では、私が家を継ぎ、全ての借金を返せば、その後は好きな時に爵位を譲ることが出来ると?」
意外な申し出に、ホランド公は目を眇めた。
どうやら本気で言っているようだが、それでクラリッサ達が一体どんな利益を得るのかが分からない。借金を無くした後で、こちらにオルティス家を譲るというのは、ホランド公爵家にとって都合の良すぎる話だ。
「女侯爵はそもそも暫定的なもの。王家に申し出、受理されれば、爵位を次の継承者へ譲ることはできる」
伯父は警戒したのか、それだけを口にした。
クラリッサにはそれで充分だった。この後の話は、伯父ではなくリュシアンとするべきだ。
「分かりました。ひと月のうちに王城へ届出を出すのでしたね」
「ああ、そうだ。なるべく早いうちに、賢い決断を下すことを望むよ」
「ご期待に添えるよう、努力いたします」
玄関まで伯父を見送り、クラリッサはしばらく立ったまま、これからのことを考えた。
便宜的な婚姻を結ぶことに抵抗がないわけではないが、爵位を返上するのは、リュシアンからもっときちんとした話を聞いてからでも遅くはないはずだ。
そう、家の為に彼と会わなくてはならないだけ。
決してリュシアンの顔が見たいからでは、声が聞きたいからではない。
クラリッサは両手を握り締め、これから取る自分の行動に正当な理由を押し付けた。