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4.戸惑い

 リュシアンは宣言通り、再びオルティス家にやってきた。

 差し入れの夕食が功を奏したようで、「二度と入れない」などと怒っていたクラリッサは丁寧な物腰で彼を迎え入れた。


「先日はお気遣い頂きまして、ありがとうございました」

「いや、うん。大したことしてないし」


 まさか素直に感謝されるとは思ってもみなかったリュシアンは、拍子抜けしてしまった。どうやら嫌味ではないようだ。

 先日の仮面のような作り笑いではなく、ごく自然な表情でクラリッサは礼を述べた。

 こうしてみると、存外綺麗な娘だ。

 菫色の瞳は惹き込まれそうに深いし、まとめ上げた金の髪も絹糸のように艶めいている。


「そこは『喜んでいただけたのなら光栄です』と仰るのが無難ですわ、リュシアン様」

「ん?」


 気づかぬうちに彼女に見入っていたリュシアンは、何を言われたのか分からず、首を傾げて聞き返した。

 クラリッサは辛抱強く、彼への助言を重ねた。


「聞き取れなかった場合は『失礼、今なんと?』と仰るのがいいかと」

「はぁ……あ、前に俺が言った話か」


 色々教えて貰えるとありがたい、と確かに自分は言った。

 さっそくそれを実行するつもりらしいと遅ればせながら気づき、リュシアンは上着の胸ポケットから手帳を取り出した。


「ちょっと待った。――んじゃ、どーぞ」


 クラリッサは丁寧な言葉遣いについて、根気よく説明した。

 この場合は? こう言われたら? 

 リュシアンは過去の失敗を振り返り、質問攻めにしてきたが、彼女は彼の熱心さに感心さえした。


「――よそで出されたお茶を飲まないって、本気ですの?」


 しばらく話して喉が渇いたので、クラリッサ自ら茶を淹れたのだが、リュシアンはいらないと首を振ったのだ。


「死んだ親父がよく言ってたんだよ。ただより高いものはないって」


 リュシアンは金貸しだったという父の教えを信じきっているようだが、よくそれで大きな揉め事もなく商売をやってこれたものだ。クラリッサは呆れてしまった。


「では、マイルズ商会に商談にいらしたお客様にも、お茶はお出ししないのですか?」

「いや、出すよ。それはほら、わざわざ来てくれたんだし」

「では、そのお茶を飲まない方がいらっしゃったら、どう思います?」

「俺と同類だなって」


 とことん話が通じない。

 クラリッサは内心、頭を抱えた。もちろん表面上は先ほどと同じ態度のままだ。


「もてなしを拒否されれば、大抵の人は気を悪くします。出されたお茶を飲まないということは、相手を信用する気はないという意思表示と同じ。思ったことをそのまま口や態度には出さないのがマナーですけれど、率直に言わねばリュシアン様には通じないので言わせていただければ」


 そこまで一気に説明し、クラリッサはにっこり微笑んだ。

 あ、これは仮面のやつ。

 リュシアンは察し、身構えた。強烈な一撃がこの後くるはずだ。


「私も今、とても気分が悪いですわ。二度とお会いしたくないほどです」

「そこまで!?」


 リュシアンは驚き、慌ててカップを手に取ろうとした。

 そこを扇でぴしゃりと叩かれる。

 赤くなった手の甲を押さえ、リュシアンはぎょっとした表情でクラリッサを仰ぎ見た。


「お茶を頂く際にも簡単なマナーがございますのよ、リュシアン様。そうお慌てにならないで、私の真似をして下さいませ」


 扇を再び膝の上へ戻し、クラリッサは優雅にカップの持ち手に手をかけた。


「先ほどのように、飲み口に手をかけてはなりません。持ち手に指を通し、引っ掛けるようにして飲むのも好ましくないのです。このように、指先全体でしっかりと持ち、飲む。飲んだあと、音を立てて戻してはなりません。そっと置く。できれば温かいうちに飲んでしまわれるのがよろしいかと」

「ああ、分かった。……これ結構、神経使うな」

「大きな音を立てないというのは全てに共通しているマナーかもしれませんわね。日頃から少し意識するだけで、仕草は洗練されてゆくものですわ。リュシアン様の場合、手元に集中するとお背中が曲がってしまわれるようですので、そこにも気をつけて」


 リュシアンは盛大に顔をしかめた。


「いっぺんに出来ない!」

「もちろんですわ」

「出来なくても、怒るなよ」

「怒ってなどおりません」

「……手の甲が痛い。今なんて、俺の背中に棒でも差しそうな顔してたぞ」


 リュシアンが指摘すると、クラリッサはふっと頬を緩めた。

 冷たさを感じさせる陰気な容貌が、一気に和らぎ、あどけなくなる。

 

 この時ようやくリュシアンは目の前の娘が自分より五つも年下であることを実感した。

 リューブラント伯から改めてクラリッサの年齢を聞かされた時は、思わず「嘘だろ」と声に出してしまったほどだ。三十手前くらいかと見積もっていた。

 そんなことを言えば、クラリッサは今度こそ本当に二度と会ってくれないだろう。二十三、二十三、と胸の中で繰り返しながら、今日はオルティス家へ足を運んだのだ。

 

「ご歓談中、失礼します。姉様、例の方がお見えです」

「そう。いつもより早いのね。すぐに行くとお伝えして」


 応接室に姿を見せたシルヴィアに答えた後、クラリッサはリュシアンに向き直り、軽く会釈した。


「申し訳ありませんが、席を外させて頂きます。すぐに戻りますので、しばらくこちらでおくつろぎ下さいませ」

「誰、って聞くのも、マナー違反?」


 リュシアンは不服げな表情で、そんなことを尋ねてくる。

 レッスンの邪魔をされるのが嫌なのだろう。クラリッサは宥めるように微笑んだ。


「こちらが言わない限りは」

「……ッ」

「舌打ちなど、もってのほかですわ」

「はいはい。わかったよ、先生。どうぞ、ごゆっくりー」

 

 すっかり機嫌を損ねたらしく、リュシアンはソファーに深くもたれ、小馬鹿にした態度でひらひらと手を振ってくる。

 他の青年がもしこれと同じ振る舞いをしたのなら、クラリッサは怒り、軽蔑するに違いないのに。

 何故かリュシアン相手だと憎みきれない。仕方のない人だと苦笑いで終わらせてしまう。

 まだ会って二度目だというのに、リュシアンは彼女の心の内側に入り込みかけているのだ。自分の心境の変化に戸惑いながら、クラリッサは部屋を出た。


 

 クラリッサが部屋を出ていくのを見届け、リュシアンは大型の猫のような敏捷さで立ち上がった。

 そのまま足音を忍ばせ、そうっと彼女が出て行った方へと向かう。扉がきしんだ時には、ひやりとした。後で蝶番に油を差してやらねば。

 オルティス家の広い廊下は、毛足の長い絨毯で覆われている。おかげで、足音を消すのは容易だった。長身をかがめ、リュシアンはひょいと曲がり角から玄関の方を見た。


 一人の中年男性が、クラリッサの手を握っている。……ような気がする。

 角度が悪いせいで、はっきりとは見えないが、体勢からいってそうだ。

 リュシアンは、みぞおち付近がもやもやと曇るのをはっきりと感じた。

 最悪の想像が脳裏をよぎる。

 貧しい貴族令嬢が、家族を養う為にてっとり早く金を稼ごうと思えば、身分のある男の愛人となるのが一番の近道ではないだろうか。

 リュシアンはきつく唇を引き結び、更に玄関へと近づいた。大きな螺旋階段の影に身をひそめ、耳を澄ます。


「では、そのように。いつもお嬢様の……人気があって、順番待ち……ありがたいことです」


 途切れとぎれに聞こえてくる男の台詞に、リュシアンの疑惑はますます深まった。

 順番待ちだと? まさか、複数の男を相手にしているわけじゃないよな。


「いいえ。私の方こそ……てどんなに助かったか。……に感謝していますわ」


 心底そう思っていると言わんばかりの優しい声に、リュシアンは腹を立てた。

 自分の申し出はあっさり突っぱねた癖に!

 やはり貴族相手だと態度を変えるのか。

 クラリッサに対する失望と怒りが、リュシアンの胸をひたひたと満たしていく。

 いっそこのまま出て行って、仲介人を追い払ってやろうか。

 慌てふためくクラリッサの様子を意地悪く想像し、リュシアンが腰を浮かしかけたところで。


 ツン、と上着の裾を引っ張られた。

 どこかに引っ掛けたのかと後ろを見れば、ニンマリと笑みを浮かべたリリー・オルティスが同じようにしゃがみ込みんでいる。驚きのあまり声を上げそうになったリュシアンに向かって、リリーは人差し指を唇に当ててみせた。静かにしろということらしい。

 しつこく上着の裾を引っ張られ、リュシアンは仕方なくリリーに着いてその場を離れることにした。


 応接室の前までくると、リリーは詰めていた息を吐いた。

 リュシアンは不機嫌さを隠そうともせず、彼女を見下ろしている。


「で? なんだよ」

「盗み聞きを注意すべきなんでしょうけど、それはいいの」


 リリーはまっすぐにリュシアンを見上げ、腰に手を当てた。


「将来の伴侶になる人のことは、何でも知っておきたいものよね。図書室にある本に出てくるヒーローも、大抵そうだもの」


 うんうん、と頷きながら言葉を続けるリリーの言っていることが、リュシアンには全く理解出来ない。図書室がなんだって?

 それより、と彼は気を取り直した。

 妹の動じない態度を見れば、彼女もまたクラリッサの副業について知っているように思える。リュシアンは慎重に問いかけることにした。


「リリーも、クラリッサのしてることを知ってたのか?」

「ええ。父様にかかる診療代やお薬代は高額なの。姉様が頑張って工面してらっしゃるのよ」


 自慢げに胸を張るリリーを見て、リュシアンは困惑した。

 姉の娼婦のような真似を十五の子供も知っていて、しかも肯定しているだと?

 貴族独特の価値観なのかもしれないが、リュシアンには到底受け入れられない。しかめっ面になった彼に、リリーはムッとした。


「確かに貴族令嬢のすることではないかもしれないけれど、馬鹿になんてしたら許さないんだから!」

「いや、だって……」

「どれだけ姉様が骨身を削っていらっしゃるか、いいわ。見せてあげる」


 キッとリュシアンを睨みあげ、リリーは彼の腕を掴んでずんずんと廊下の奥に進んでいこうとする。

 これにはリュシアンも閉口した。


「それは流石に駄目だろう。離せ、リリー」

「いやよ。ほら、ここよ」


 リリーはひとつの部屋の前で止まり、躊躇いもせずに扉を開け放った。

 部屋を埋め尽くしそうなほどの沢山の衣装が、そこにはあった。

 トルソーにかけられているもの、大きな布の上にずらすようにして並べられているものと様々で、部屋の中央には作業台のようなものが見える。そこには巻尺やはさみ、裁縫道具などが置かれていた。


「最初、姉様は家に眠っているドレスを売ろうとお考えになったみたい。でも、型は古いし無駄に豪華過ぎるしで、街の古着屋さんでは引き取って貰えなかったの」


 リリーの説明に、リュシアンは内心の動揺を隠しながら頷いた。

 それはそうだろう。平民の娘が着るよそ行きのドレスとは、作りからして全然違う。かといって貴族にも売れない。彼らは古着など買わないからだ。


「がっかりした姉様を気の毒に思って下さった古着屋のご主人が、せっかく上質な生地や宝飾が使われているのだから、作り直してはどうか、と申し出て下さったんですって。型紙は用意してもらえるし、使うのは着なくなったドレスだし、糸も解いてほぐせばまた使えるでしょう? 元手が殆どかからずお金を稼げるって姉様は喜んでいたわ。姉様の裁縫の腕は素晴らしいものだし、作り直したドレスはすぐに売れるんですって」


 彼女の得意げな態度の理由が分かり、リュシアンは目を細めた。


「そうか。姉さんはすごいな」


 そして思わずリリーの頭にポンと手を置いてしまった。置いたあとですぐ、リュシアンは相手が貴族令嬢であることを思い出し、慌てて手を引っ込めた。近所の子供を褒めるようなつもりで、ついやってしまった。


 てっきり怒ると思ったのに、リリーは一瞬唖然としただけで、そのあと自分の頭に手をやり、はにかんだ。嬉しそうなその笑みに、リュシアンは目の覚める思いだった。

 

 そうだ。この姉妹にはもう頼れる者も、褒めてくれる者もいないのだ。

 二人の姉にしっかり守られているリリーでさえ、ささやかな褒美に飢えている。

 長女であるクラリッサは、どれほど心細いだろう。

 当主代理としての全ての責任が、彼女の細い両肩にのっている。骨身を削って、という先ほどのリリーの言葉が、リュシアンの胸を締め付けた。

 文字通り、クラリッサは骨身を削って、沈む寸前の船を操縦しているのだ。どれほどの孤独、そしてどれほどの重圧か。会社を経営しているリュシアンには分かった。

 

 それなのに先ほどまでの自分は、彼女を淫売だと決めつけ恥をかかせてやろうとまで考えた。

 今まで感じたことのないほどの深い自己嫌悪に陥り、リュシアンは耳を赤く染めた。


「仕方のない子ね、リリー」


 背後から響いた冷たい声に、二人は揃って飛び上がった。

 恐る恐る振り返ると、そこには顔を強ばらせたクラリッサが立っている。


「ごめんなさい、姉様! あの、これには理由があって」

「あとで話は聞くわ。さあ、もう行って」


 リリーはしょんぼりと肩を落とし、それでも従順にその場を立ち去った。

 二人きりになった途端、緊張を孕んだ空気がクラリッサとリュシアンの間に張り詰める。


「貧乏な侯爵令嬢の内職に興味がおありなら、詳しく説明いたしましょうか?」


 クラリッサの瞳には深く傷ついた色が見え隠れしている。

 リュシアンはたまらず首を振った。


「違う! 俺は、ただ――」

「一着ドレスを縫い上げるごとに頂けるお金は銀貨20枚ですわ。リュシアン様の今日のお召し物を私が買おうと思えば、何着仕上げなくてはならないかしら」


 自嘲するように言葉を吐き続けるクラリッサをそれ以上見ていられず、リュシアンは気づけば彼女を抱きしめていた。

 折れそうに細い身体は、ぶるぶると震えている。


「もういい! 俺はただ、すごいと思ったんだ。君は自分に出来る精一杯のことをやっている。尊敬すべき女性だ。君は」


 こんな時、何を言えばいいのだろう。

 リュシアンは思いつく限りの労りの言葉を並べようと思ったが、ちっとも適切なものは出てこない。

 安い同情はクラリッサを傷つけるだけだ。何か、もっと他にないか。リュシアンは焦った。


「君は本当に頑張ってる。君は……あー、くそ! こういうのはどこで習えばいいんだ?」


 ぎゅっとクラリッサを抱きしめながら、天井を見上げ、言葉を探すリュシアンの腕の中で、震えが止まった。

 透けそうなくらい青白い手が、リュシアンの胸元に置かれる。やんわり押し返され、彼は慌てて腕の力を緩めた。


「あ、ごめん。苦しかったよな」

「ええ……でも」


 クラリッサはもう震えてはいなかった。

 彼女の瞳を翳らせていた暗い色は消えている。唇をきゅっとすぼめた仕草に、リュシアンの視線は釘付けになった。まだ怒っている? いや、違う。笑い出したいのを我慢しているのか。

 人に笑われるのは大嫌いなリュシアンだったが、クラリッサになら幾らでも笑われてやろう、と心に決めた。


「お気持ちは伝わりました。不適切な振る舞いは、今日だけ見逃して差し上げます」


 真面目な表情を拵え、そう言ったクラリッサに、リュシアンは見蕩れた。言葉はいつも通りだが、こちらを見上げてくる眼差しの意外な優しさに胸を掴まれる。完全な不意打ちに、彼はただ黙って頷くことしか出来なかった。

 



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