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3.差し入れ

 生まれて初めて癇癪を爆発させたクラリッサは、釈明しようとするリュシアンの背中をぐいぐい押して、玄関から叩き出した。抵抗しようと思えばそう出来ただろうが、リュシアンは大人しく外に出されてやった。

 

「また来るから」

「二度と入れません」

「即決せずに、よく考えてみろって。そんなに悪い話じゃないはずだから」

「お金の為に身売りをしろという話のどこが!」

「身売りじゃない、結婚だよ」

「同じことですわ」


 リュシアンが堅く閉じられた扉の外から、何とか口説こうと試みるものの、取り付く島もない。それでもその場から立ち去ろうとはせずに返事を返してくるのが、可笑しかった。

 リュシアンは少し思案した後、扉に両手を押し当て聞いてみた。


「もし俺が貴族で、君にこの取引をもちかけたんだったら、受けた?」

「まさか!」


 間髪入れずに戻ってきた声に、リュシアンは満足した。


「あなたがどなたであろうと、あのような失礼な求婚を受けるつもりはありません」

「手間暇かけてる時間は、お互いないと思うんだけどなぁ」


 リュシアンはぼやき、「とにかく、また来るから!」と言い残し、その場を立ち去った。

 玄関先に待たせてあったマイルズ商会所有の馬車に乗り込み、御者へ事務所に戻ると告げる。

 途中、何かを思いついたように彼は瞳をきらめかせ、とある食堂へと立ち寄った。未来の妻を飢え死にさせるわけにはいかない。



 

 シルヴィアとリリーは二階の手すりから身を乗り出し、大階段の一番下に座り込んでいる長姉を見下ろした。誰もいないと油断しているのだろう。でなければ、そんな振る舞いはしないクラリッサだ。

 大声を出したせいで目眩でもするのか、額を抑えている。


「姉様、結婚しちゃうの?」

「分からない……ねえ、リュシアン様ってどんな方だった?」

「顔は美形な方だと思うけれど、立ち居振る舞いは庶民そのものって感じね。言葉遣いにも品がないし、姉様にはもっと素敵な、王子様みたいな方が似合うと思うわ。ほら、クラリッサ姉様は私やシルヴィア姉さまと違って、母様似でしょう? もっとお肉をつけたら、お姫様みたいだもの」

「そのお肉は、一体いつつくのよ」


 シルヴィアはため息をつきながら、遠慮のない末妹の頬を指でつつく。

 確かにクラリッサは、母親譲りの美しい金髪と高すぎない形のよい鼻、それに魅力的なカーブを描く唇を持っている。意志の強そうな眉の下にある瞳は深い菫色をしていて、数年前までは、確かに美しい令嬢だったのだ。

 今では痩せてしまい、見る影もない。

 顔色は常に悪く、瞳は暗い。身内贔屓をもってしても、今の社交界で姉に求婚するものはいないだろう。家の借金を差し引いても、だ。


「じゃあ、シルヴィア姉さまは結婚に賛成だというの?」


 頬を押さえ、不満をあらわにする妹に、シルヴィアは頷いた。


「姉様を楽にしてくださる方なら、もう誰でもいい。一人で気を張っていらっしゃる姉様は、もう見たくないの」

「シルヴィア姉さま……」

「私たちの中で、姉様が一番痩せてしまった理由を考えてみて、リリー。今のままじゃ、父様より先に姉様が飢え死にされてしまうわ。ホランド公爵家やリューブラントのおじ様から何か届けられても、すぐに姉様は私たちと父様に分けてしまわれるんだもの」

「で、でも、姉さまは元々食が細いんだって仰ってたわ」

「心配させないようにする為よ。……あなたに言ったことを知ったら、姉様は私を許さないわね」


 リリーはとうとうしくしく泣き出してしまった。

 シルヴィアは末妹の肩を抱き寄せ、頭をこつんとぶつけた。


「ごめんね、リリー。でも姉様には後がないの。いっそ私が身売りしたいわ」

「そんな!」


 大きく目を見開き、リリーは激しく首を振った。そこまで財政が逼迫しているとは想像もしていなかった。

 感じの悪い男だと思ったが、もしかしたらリュシアンは我が家の危機に駆けつけてくれた白馬の王子様……は言い過ぎにしても、救いの騎士様なのかもしれない。見た目だけなら合格点なのだ。

 あとは、そう。今よりお行儀の良くなった彼が姉に真実の愛を捧げれば、リリーに言うことはない。



 陽が暮れかかり、台所の格子窓から西日が差し込んでくる。橙色の細長い光に、細かな埃が浮いて見えた。

 クラリッサは包丁を握り締め、無心に野菜を刻んだ。

 すこし前から裏庭で作っている葉野菜に根野菜。じゅうぶんな肥料を与えられないからか、それらはクラリッサと同じく貧相だったが、食べられるだけありがたい。

 大鍋に満たした透明なスープに、魚の干物をかるくあぶってほぐした身にクイギ粉を混ぜて丸めたものを、ぽとん、ぽとんと落としていく。そこに刻んだ野菜をくわえてしばらく煮込めば、今晩のおかずの出来上がりだ。魚の骨でだしを取ったから、スープにはコクがある。味見をしたクラリッサは、胃がきゅうと縮こまるのを感じた。パンはまだ少し残っている。これで次の内職までは持つはずだと、彼女は頭の中で計算しながら、エプロンを外した。

 

 父の様子を見に行き、スープを飲ませ、体を拭いて着替えさせる。

 枯れ木のような身体とはいえ、父は成人男性だ。クラリッサは息切れを起こしながら、何とかシーツまで交換し終えた。

 父は目を閉じ、静かに呼吸を繰り返している。痛みを抑える薬の副作用で、日がな一日まどろんでいるのが常だった。

 

 医者の話では、ひと月もつか怪しいらしい。

 眠りに落ちた父の表情は安らかだ。それだけが救いのように思えた。


「父様は母様のところへ行かれるのね。二人できっとまた楽しく暮らせるわね」


 クラリッサが日頃感じている家名への鬱屈は、父に相対している時だけ影をひそめる。

 厳格だった彼から特に可愛がられた記憶はないが、それでもクラリッサにとってかけがえのない家族だった。

 

「もう貴族だとか平民だとか誇りだとか、そんなの全部関係のないところだといいわよね。沢山食べ物があって、悲しいことは何もなくて」


 話しかけながら毛布を引き上げ、細い肩まで覆う。かすかに父が微笑んだ気がして、クラリッサはきつく瞼を閉じた。

 泣くと、体力が削られるのだ。

 今、自分まで倒れてしまっては、妹たちが路頭に迷う。

 クラリッサは大きく深呼吸を繰り返し、階下へ向かった。


 

「姉様、見て、これ!」


 大食堂は今では使っていない。台所に置いてある四角いテーブルが、姉妹の食卓だ。そのテーブルにぎっしりと並んだ沢山の惣菜に、クラリッサは目を見張った。


「今、大通りにある食堂から配達の方が見えてね。料理を置いていったのよ。明日もまた来るって言ってたわ。姉様が注文なさったの?」


 リリーがはしゃぎながら、クラリッサの腕に飛びついてくる。


「いいえ……私ではないわ」

「ホランドのおじ様からではないかしら?」


 眉をひそめたクラリッサを見て、慌ててシルヴィアが口を挟んでくる。

 

 ホランド公爵家というのは、亡くなった母の実家だ。

 娘の結婚に難色を示した祖母は、孫が生まれても決してオルティス家に足を運ぼうとはしなかった。

 今では母の兄が爵位を継いでいるのだが、交流はないに等しい。ホランド公爵家に見捨てられたのは、借金を重ねながら、労働を良しとせず、何も手を打たなかった父のせいでもある。

 それでも公爵は血を分けた姪たちを完全に放置することは出来ないらしく、月に二、三度気まぐれのように食料を寄越すのだった。


「違うと思うわ。今まで食材を送ってくれていた方が、急に街の食堂へ注文をされると思う?」

「そういうこともあると思うわ」


 シルヴィアがやけにきっぱりと言い切るものだから、クラリッサは渋々食卓についた。


「姉様の作って下さった魚介のスープもあるし、今夜は豪勢ね!」


 一人大喜びのリリーが、真っ先に手を合わせる。

 クラリッサが作る干物としなびた野菜のスープを、末妹はいつも魚介のスープと呼んでくれるのだった。


「今宵の糧に、感謝を」


 リリーに続けて、クラリッサとシルヴィアも手を合わせた。


「今宵の糧に感謝を」


 三姉妹はその夜、本当に久しぶりに、心ゆくまで食事を味わった。

 

 空腹で急に食べると体に良くないことを知っていたクラリッサは、なるべく消化の良さそうなものを選び、少しづつ口にした。締めにはデザートまでついていた。季節の果物をつかったゼリーだ。

 久しぶりの甘味に、三人は揃って両手を握り締め、感慨にふけった。

 つるんと喉元を通り過ぎていくのが惜しく、クラリッサはしばらく飲み込むことが出来なかった程だ。口中が幸せで満たされる。


「はぁ。美味しかった。沢山余ったわね」

「普段そんなに量を食べないから、こういう時にも食べられないのね」

「明日の朝とお昼にとっておけばいいわ」


 残念そうなリリーが「みんながいたら、もっと美味しかっただろうな」と呟いたので、クラリッサは彼女の頭を撫で、同意を示した。

 

 順番に湯を使い、それぞれ寝室に引き上げる。

 休む前にもう一度父の様子を見に行ったクラリッサは、一人遅れて自室に戻った。ベッドに入ろうとし、ふと机の上に白い紙が置かれていることに気づく。

 シルヴィアの筆跡で書かれたメモが、見覚えのない封筒に貼られているようだ。


――『あの食事は、マイルズさんが手配して下さったものです。本当のことを言えば、姉様は食事を口になさらないと思って言わなかったの。ごめんなさい。でも、どうしても姉様にも食べて欲しかった。どうか許して下さい』


 妹の気遣いに、クラリッサの胸は熱くなった。

 確かに彼女の言うとおり、あの場でリュシアンからの届け物だと分かれば、意地を張っていたかもしれない。

 久しぶりに満腹な彼女の心は凪いでいた。

 

 鷹揚な気持ちで、封筒を開く。

 便箋には、手習いの教本のように整った字が並んでいた。

 平民の識字率はまだ低い。

 リュシアンも代筆屋に頼んだのかもしれない、と初めは思ったクラリッサだったが、読み進めるうちにそうではないと気がついた。

 きちんと整った字は、よく見ればあちこちが滲んでいる。筆圧の調節が上手くいかないのだろう。数種類の崩し文字や飾り文字を自由自在に操る代筆屋が、こんな力んだ文字は書かないはずだ。

 

 クラリッサは、きちんと椅子に腰掛け、手紙を読むことにした。

 おそらく何枚も書き損じたあと、ようやく清書にこぎつけた一枚なのだろう。

 最後のサインはとびきり力が入ったらしく、太文字になっている。


『クラリッサ嬢へ


 こんな時、どんな手紙を送るのがふさわしいのかも、俺には分かりません

 俺との結婚で得られる利点については話したつもりですが、それでは駄目だと会社の部下にも怒られました

 もっと美辞麗句を並べるものだそうですが、俺は必要のない嘘はつきたくありません

 あなたは貧しい貴族令嬢です

 俺は金持ちなだけの物知らずな平民です(こういう言い方も良くないのでしょうか)

 お互いの足りない部分を補う同志になりたいのです

 あくまで関係は対等です

 差し入れの料理は賄賂ではなく、お近づきの印です

 どうかお受け取り下さい


 リュシアン・マイルズより』


 クラリッサはしばらく手紙を眺め、それからクスクス笑い始めた。


 誰かに怒鳴ったのも初めてなら、こんなに明け透けな手紙を貰ったのも、生まれて初めてだ。

 この拙い文面を、それでもリュシアンは唸りながら、一生懸命綴ったのだろうと、クラリッサにはなぜか容易く想像できた。

 仕事に必要な書き文字の手習いも、ひたすら真面目に取り組んだに違いない。

 浮ついたところのない必死な文字が、リュシアンの本質を表している気がした。


 封筒の裏を見てみたが、差出人の住所はない。

 名前だけが律儀に直筆で記されている。

 マイルズ商会は、スタンプを持っていないのだろうか。住所と社名を入れたスタンプを洒落たデザインでいくつか作らせ、それを押せばいいのに。

 これではお礼状も出せやしない。


 次、リュシアンに会った時には真っ先に手紙についての助言をしよう、と心に決め、クラリッサは微笑みながらベッドに潜り込んだ。

 結婚は論外だが、友人にくらいならなれるかもしれない。

 

 

 

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