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ジェラルド、侯爵家へ行く

「……失礼ですが、約束はお済みでしょうか? こちらの不手際でしたら大変申し訳ないのですが、本日の来客リストにお名前がございません」


 ジェラルドは言葉を失くし、ごくりと息を呑んだ。

 ここはオルティス侯爵家のタウンハウス。

 散々悩みに悩んだ末、恥知らずとは承知の上で兄の元を訪れたジェラルドだったが、まさか取り次いでさえ貰えないとは思ってもみなかった。


 お仕着せ服をきっちり着込んだ、いかにも執事然とした初老の男性が、ひんやりした眼差しでジェラルドを見ている。物腰こそ丁寧だが、彼の瞳に浮かんでいるのは冷たい不信だ。

 男性はジェラルドを見ても、眉ひとつ動かさなかった。リュシアンそっくりな自分に動じないのは何故なのか。様々な憶測が脳裡を掠める。


 言葉を失くしたジェラルドに向かって、男性は上品に小首を傾げてみせた。

 『早く答えろ、もしくは立ち去れ』という意思表示だろう。ジェラルドは慌てて口を開いた。


「約束はしていません。明日国を出るので、別れの挨拶に寄ってみただけなんです」


 内心の動揺を押し隠し、できるだけきちんとした言葉使いで訪問の意図を告げる。

 隣に立った妻・ジャネットは、ジェラルドの握り込んだ拳をそっと包み込んできた。

 ――『癇癪を起さないで』

 ジャネットの合図を素早く読み取り、拳を開いて彼女の柔らかな手を握り返す。

 大丈夫。もう10年前の傲岸な子供じゃない。

 自分にも言い聞かせながら、執事らしき男の反応を待つ。


「さようでございましたか。では、主人に確認して参ります。どうぞこのままお待ち下さい」


 男性は軽く一礼し、玄関扉を閉めてしまった。

 目前でゆっくりと閉まっていく分厚く大きな扉をただ見つめる。

 ぴったりと閉じられた扉の前で、ジェラルドは短く息を吐いた。貴族社会には全く馴染みがない。玄関先で待たされることが普通なのか、失礼にあたるのかさえ分からない。

 失礼な行為だとしても、それに文句をつける資格はジェラルドにはなかった。なにせ、彼はすでにリュシアンからは縁を切られているのだから。

 ここは大人しく、兄の下す決断を待つより他ない。


「……出て来ると思う?」


 分かってはいても、胸に抱え続けてきた後悔は重かった。実際に会った時の兄の反応も、正直怖い。

 出てきて欲しいような、このまま追い払って欲しいような。

 

 複雑な逡巡に耐え切れなくなったジェラルドが小声で吐き出すと、すぐに反応が返ってきた。


「分からないわ。でも、どちらでも受け入れるしかない。傷つけた側の後悔より、傷つけられた側の苦しみが尊重されるべきよ」

 

 ジャネットはきっぱりと言い切った。

 それから、ふう、と息を吐き、目立つようになってきたお腹を撫でる。

 ジェラルドは激しい羞恥を覚えた。妻の言う通りだ。直接会って謝らなければ、というこの責任感すら、リュシアンにとってはいい迷惑かもしれないと思い知らされる。


 ジャネットは、兄から絶縁状を叩きつけられた後、隣国へと逃げたジェラルドの最初の知り合いだ。

 港で切符をすられてしまい、船着き場で右往左往しているところに偶然通りかかったのがジャネットだった。彼女に助けられたことをきっかけに、二人の交流は始まった。


 知り合ってどれだけも経たないうちに、ジェラルドはジャネットを好きになった。

 言いたい事を言い、やりたい事をやっているジャネットは、ジェラルドの周りにはいないタイプの女性だったのだ。初めは物珍しさからだったが、すぐに彼女の苛烈なほどのまっすぐさに惹かれるようになった。

 

 ――彼女しかいない。外国へ来たのも、ジャネットに出会う為だったのかも。


 初めての本気の恋に舞い上がったジェラルドは、堂々とジャネットに愛を告げた。自分の容姿にはそこそこ自信があったし、それまでのやり取りでの手ごたえも悪くなかったのだ。


 結果からいえば、彼の渾身の告白は、鼻で笑い飛ばされた。

 ジャネットは、ジェラルドの浅はかさや短慮をあっさり見抜いていた。

 

 『自分のことしか考えられない人は、タイプじゃないの』

 

 歯に衣着せぬ言葉ではっきり断られたが、ジェラルドは諦めきれず食い下がった。まずは友人になって欲しい。恥も外聞もなく、ジェラルドは懇願した。

 ジャネットは根負けしたのか呆れたように頷き、それから数年はジェラルドを『ただの友人』として扱った。


 今でも何故彼女が、自分の手を取ってくれる気になったのか分からない。

 婚約が決まってすぐ、ジェラルドは思い切ってリュシアンとの諍いを打ち明けることにした。

 後から分かれば、ジャネットに捨てられそうな気がしたのだ。長い付き合いを経て、彼女に隠し事をするのは無理だと悟ってもいた。

 彼が母国を出ることになった経緯について、ジェラルドが触れたのはそれが初めてだった。

 黙って話を聞いていたジャネットは、彼が話し終えると「あなたは最低ね」と言い放った。


 彼女に詰られた時、湧き起こったのは怒りではなく、安堵だった。

 ずっと誰かに断罪されたかったのだと、ジェラルドはこの時、胸の奥底に封じた願いを自覚した。

 両親を失った悲しみを、将来への不安を、最も身近にいた家族にぶつけることで晴らそうとした自分がどれだけ愚かで高慢だったか。ジェラルドは幸運なことに理解できるようになっていた。

 そして一度理解してしまえば、もう分からない振りは出来なかった。


『人生の伴侶になると決めたんだもの、どんな時もあなたの味方をするべきだと思う。でも今の話には擁護の余地がないわ。人でなしだったのは、お兄さんじゃない。あなたよ、ジェラルド』


 ジャネットは淡々と続け、それから表情を和らげた。


『でも聞いてしまったからには、一緒に抱えてあげるわ。……後悔しているんでしょう?』

 

 暖かな眼差しでそう問われ、ジェラルドは何度も頷いた。


 『お前は悲しくないのかよ!』

 かつての自分の声が耳に蘇り、居た堪れなくなる。

 悲しくなかったはずがない。兄は両親をとても大切にしていたし、事故の知らせを聞いた時は今にも倒れそうなほど真っ青になっていた。

 感情を表に出さず黙々と動いていたのは、父の遺した財産を守る為で、そしてそれはジェラルドの為でもあったのだ。その兄の労力にジェラルドが返したのは、感謝ではなく罵倒。縁を切られるのも当然だ。


 札束を投げつけてきたリュシアンの顔からは、一切の表情が消えていた。

 弟が憎くて堪らなかったはずなのに、兄は財産の半分をジェラルドへ渡した。リュシアンはそういう男だった。

 その彼が、今では歴史ある侯爵家の婿に収まっているという。


 ――美貌を武器に世間知らずな没落令嬢をたぶらかし、まんまと鉄道の利権を手に入れたやり手実業家――。

 

 巷ではそんな噂も耳にしたが、兄に限ってそんな真似をする筈がない。

 ジェラルドは確信していたが、結婚相手の令嬢については、どんな人なのか全く想像がつかなかった。


 

 

 追想に耽るジェラルドの前で、扉が動く気配がする。

 彼はハッと我に返り、表情を引き締めた。


 もし兄が出てきたら、なんと切り出そうか。

 長らく悩み考え、ようやく完成させた台詞は、緊張のあまり綺麗さっぱり消えている。

 どうしよう、どうすれば――。

 もういい大人だというのに、心臓は早鐘を打ち、鳩尾がきゅうと痛くなる。


 再び開いた玄関扉の向こうに立っていたのは、金色の艶やかな髪と深い菫色の瞳が印象的な娘だった。

 執事か兄が出て来ると身構えていたジェラルドは、予想外の展開にあっけに取られた。


「はじめまして。私は、クラリッサ・オルティス。オルティス侯爵家の当主です」


 彼女は涼やかな声で名乗ると、じっとジェラルドを見つめてきた。


「……どうも、はじめまして。俺はジェラルドといいます。ジェラルド・マイルズです」


 しどろもどろになりながら、何とか挨拶を返す。

 

「それで、こっちが妻のジャネットです。突然お邪魔して、すみません」


 そこまで言ったところで、頭の中が真っ白になる。

 まさか侯爵本人が応対に出て来るとは夢にも思わなかったジェラルドは、すっかりパニック状態に陥っていた。

 冷や汗が額に浮かび、つーっとこめかみを伝っていく。

 困り切ったジェラルドは、ぎゅうとジャネットの手を握り直した。手の平も汗でベタベタだ。

 ジャネットに強い力で手を解かれる。


 ――妻にまで見捨てられた!!


 絶望で目の前が暗くなりそうだったが、ジャネットはさりげなく手提げ袋からハンカチを取り出し、そのハンカチを握って再びジェラルドと手を繋いでくれた。安堵のあまり、涙が出そうになる。


 クラリッサは、一人あたふたしているジェラルドをじっと観察していたが、やがて長い溜息を吐いた。


「なんか、すみません。あの、またいつか来ます。その時は、ちゃんと予約します」


 貴族との面会予約の取り方など知らないが、ジェラルドは必死だった。

 これ以上、兄を煩わせたくないし、迷惑を掛けたくない。

 深々とお辞儀をし、後ずさろうとしたところで、クラリッサがふっと頬を緩めた。

 冷たく整った顔が、一気に柔らかくなる。

 劇的な雰囲気の変化に、ジェラルドは驚いた。


「せっかく来て下さったのですもの、どうぞお入りになって。リュシアンもじきに戻ります。……何か仰りたいことがあって来たのでしょう?」


 クラリッサの優しい声に、強張っていた肩から力が抜ける。


「はい。でも、兄の――リュシアンの意志を尊重します。彼は俺の顔を見たくないと思うので」


 力なく微笑んだジェラルドを見て、クラリッサは目を細めた。

 悪戯をしでかした悪がきを窘めるかのような表情に、胸を突かれる。

 兄の好きそうな人だ、とジェラルドは思った。10年のブランクはあるものの、18まで双子をしていたのだ。喧嘩の時の攻撃材料を得ようと、彼はリュシアンをよく観察していた。

 甘え下手で強がりな兄が、クラリッサの前でだけはのびのびと過ごしている様子がやすやすと脳裡に浮かんでくる。


「リュシアンがどう思うかを、勝手に決めてしまわないで」


 クラリッサはおっとりと言った。

 ジャネットと系統は違うが、どうやら彼女も強い芯を持った女性らしい。


「……すみません」


 またしても同じ過ちを繰り返しそうになったことに気づき、ジェラルドはうなだれる。

 クラリッサは軽く首を振り、今度はジャネットに向かって話しかけた。


「身重でいらっしゃるのに、待たせてしまって申し訳なかったわ。どうぞ入っていらして。温かい飲み物をお持ちします。避けている銘柄はあって?」

「いえ、勝手に押しかけてしまったのはこちらなので。お気づかい、ありがとうございます。紅茶やコーヒーは刺激が強いので、我慢しているところです」

「まあ、そうなのね。ではホットミルクはいかがかしら? 蜂蜜を垂らしたものが私は大好きなのだけど」

「あ、私も好きです。美味しいですよね」


 女性二人はあっという間に和やかな雰囲気を作り出し、仲良く話しながら玄関ホールへと入って行く。

 

 ジェラルドは、温もりの消えた左手を持ち上げてみた。

 ゆるゆると手を広げる。

 掌には、手汗を吸ったハンカチがぽつりと残されていた。











書籍化記念SS第一弾です。

(詳しくは活動報告をご覧下さい)


この後のジェラルドについては、読んで下さった方の想像にお任せしたいと思います。

再会したリュシアンに嫌味をいわれまくるのか。それともあっさり謝罪を受け入れられて、兄がすでに自分との確執を過去のものにしたことを知るのか。

どちらもあり得そうですが、後者の方が可能性高そうかな~。

リュシアンの関心は全てクラリッサが占めているといいな!と思います。

SSといいつつ、毎回長くなってしまうのをどうにかしたいです……。

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