リリーの魔法のクッキー(エイプリルフールSS)
リリー・オルティスが屋敷の中で一番気に入ってるのは、なんといっても図書室だ。
希少本などは全て売り払われたらしいが、リリーが好むような少女小説や冒険小説は、隙間だらけの本棚にちゃっかり残っている。
かつては天井までぎっしり本が詰まっていたのだろう。
上の方の本を取るための移動梯子、直射日光を避けるための重厚な書架用カーテン。
設備だけは豪奢なままで、かつてのオルティス家の威光を大いに感じさせる。
それが苦手なのか、姉二人は滅多に寄り付かない場所でもあった。
長姉のクラリッサが資産家の夫を迎えたことで、屋敷は見違えるように美しく蘇りつつある。
図書室も例外ではなく、次々と沢山の本が運びこまれた。
ただ使用人の数がまだまだ少ない為、図書室の隅に積まれた箱を開けるのは、もっぱらリリーの役目だった。
「重い本はわたくし共で運びますので、くれぐれもご無理はなさいませんよう」
従僕の一人に釘をさされ、リリーは重々しく頷いてみせた。
「大丈夫よ。並べて欲しい書架の前に、分けて置くだけだから」
手荒れ防止の白手袋をはめ、埃よけのエプロンを身につけたリリーは朗らかな笑みをもって使用人たちを追い出した。
誰にも邪魔されず、真新しい書物を心ゆくまで眺めたい。
リュシアンは街一番の書店にお任せで注文したらしい。
言語学から歴史書に地図、果ては服飾学・植物学まで、箱の中身は様々だった。リリーは夢中になって、次々とそれらを開封していった。
やがて昼時という頃になり、流石に疲れてきたリリーはこれが最後、と手近にあった小ぶりの箱を開けた。中に入っていたのは辞書と辞典だったので、台車に乗せて書架の前まで運んでいく。下ろす段になってリリーは、それらの間に薄い小冊子が挟まっていることに気づいた。
引き抜いて見てみれば、表紙も裏表紙も真っ白で、装丁らしい装丁もされていない。
いったい、何の本なのだろう。
興味本位でパラリ、と1ページ目をめくってみる。
そこに綴られた文字を、リリーは食い入るように見つめた。
【誰でも猫になれるレシピ】ですって!?
【必要なもの……クイギ粉、砂糖、アデメル、朝一番に汲んだ井戸水、猫の毛1本(お好みで増量)・呪文】
アデメル、というのは豆の一種で、そう珍しいものではない。
細かく砕いてクッキーに入れることもよくある。台所を探せば見つかりそうだ。
猫の毛を毟ってくるのは少々骨だが、通いのメイドの中に猫を飼っている者がいたような気がする。頼めば毛の一本くらい持ってきてくれるだろう。
【効用は一日のみ。4月1日だけの特別なレシピです。どうぞお楽しみ下さい】
注意書きまでしっかりと読み、リリーはすっくと立ち上がった。
この本は図書室に置くには危険すぎる。
鍵のかかる机の引き出しにしまっておかねば。
薄い本には、まだまだ面白そうなレシピが書かれてあったが、ちょうど明後日が4月1日。
この機会を逃せば、効用を試すのに1年待たなくてはいけなくなる。
リリーは本を胸に抱え込み、そそくさと図書室を後にした。
4月1日。
リュシアンは珍しく家にいた。
仕事はあらかた片付けてあるし、出勤は昼からでも良さそうだ。
いっそ休みにして、妻と親密なひとときを過ごすというのはどうだろう。
そうだ、そうしよう。
リュシアンはさっそく執事にその旨を伝えにいき、「クラリッサは?」と尋ねてみた。
「今朝はまだお目覚めではないようです」
50過ぎの執事は、困った悪戯っ子でも見るかのようにリュシアンを見た。
……新婚なんだ、しょうがないだろう。
心の中で言い返し、リュシアンは後ずさる。
「あー、そっか。えっと、じゃあ様子見てくる」
「お館さまの体調を第一に、ですぞ、旦那様!」
「分かってるって」
夫婦生活にまで説教されてはたまらない。
リュシアンは早足で執事の部屋を後にし、続きの食器室を通って食堂へと出た。
シルヴィアとリリーがちょうど朝食を終えたらしく、メイドたちが食器を片付け始めている。
リュシアンを見ると、彼女らは手をとめ頭を下げてきた。
「おはようございます、旦那様」
「おはよ。俺のことは気にしないで、続けていいよ」
リュシアンはこの手のやり取りがすこぶる苦手だ。
クラリッサの指導のおかげで、社交界ではある程度取り繕えるようになっているものの、プライベートな空間でまでしゃちほこばるのは真っ平ごめんだった。
そんなリュシアンの気質を知っている使用人たちは、すぐに仕事の続きに戻った。
粗野で荒っぽいところはあるものの、リュシアンは当主であるクラリッサを尊重し、大切にしている。溺愛していると言ってもいい。
オルティス家に仕えて長い彼らにとって、重要なのはその一点のみであった。
「あ、なにこれ。うまそう」
食堂を通り過ぎようとしたリュシアンは、テーブルにポツンと残された皿の上の焼き菓子に目を留めた。
メイドたちが止める間もなく、つまみあげパクリと頬張る。
「うん……ちょっとパサパサしてるけど、うまいよ」
「旦那様。そちらはリリーお嬢様が作られたものです」
「へっ!?」
リュシアンとしては雇ったばかりのコックを褒めるつもりで取った行動だったのだが、メイドの言葉で大きく噎せた。
リリーのお手製だと知っていたら、絶対に口にしなかった。
咳き込むリュシアンの前に、すかさず水の入ったグラスが差し出される。
「ありがと。うわー、やられた。誰か食べた?」
「いえ、お嬢様だけです。『失敗作だから皆も食べていい』と仰っていましたが……」
「誰も食べてないってわけね。了解」
失敗作だから食べてもいい、と言われて挑戦する猛者はいないだろう。
リュシアンは腹のあたりを押さえながら、どうか今回は災厄を免れますように、と祈りつつクラリッサの寝室を目指すことにした。
あと少しで寝室にたどり着く、というところで異変が起きた。
燃えるように胃が熱くなる。
リュシアンはたまらずその場に膝をついた。
かつて感じたことのない熱と痺れに襲われ、手足が痙攣する。
「くそっ……!」
まさかここまでとは思わなかった。リリーは一体何を混ぜたのだろう。
リュシアンは脂汗をかきながら短く呼吸を繰り返し、ついにその場に昏倒した。
再び目覚めると、さきほどの不快感は綺麗さっぱり消えていた。
誰にも発見されなかったところをみると、そう時間は経っていないのかもしれない。
いい年をして廊下で気絶するなんて、特にクラリッサには知られたくない。リュシアンはホッと胸をなで下ろした。
妻に会う前に服装を整え直そうと、手を持ち上げ――。
リュシアンは、変わり果てた己の手を視界に捉え、絶叫した。
実際には「フニャァアアアアア!!」という鳴き声が辺りに響いただけだったのだが。
クラリッサは、ようやく寝台から身を起こし、ディドレスを身につけたところだった。
本来ならば使用人を呼んで着付けてもらうのだが、貧乏暮らしが長かった為、身の回りのことは何でも出来る。リュシアンが残した所有印を見られるのは恥ずかしい、という気持ちももちろんあった。
旦那様は手加減というものをしらないのかしら。
半ば呆れつつも、そこまで求めてもらえることが嬉しいのだから、どうしようもない。
髪を結おうとしたクラリッサは、猫の鳴き声のようなものを耳にし、手を止めた。
――今の、何かしら?
手早く髪をまとめ、部屋の扉を開けて廊下を覗いてみる。
艶やかな毛並みの猫が、ニャーニャーと何かを訴えるかのように鳴いていた。
「まあ! どうしたの?」
猫は今まで飼ったことがない。
デビュー当時まだ付き合いのあった女友達が、自分の猫を持っているのを羨ましく眺めたことがあるだけだ。
どう扱っていいものか分からず、クラリッサはそっと近づき、しゃがみこんでみた。
こげ茶色の毛。灰味がかった青い目。
既視感を覚え、クラリッサは顎に指をかけた。
「猫ちゃん。あなた、リュシアン様に似てるわね」
人間の言葉が分かるはずなどないのに、猫は明らかにギクリとしたように身体を強ばらせた。
その反応がおかしくて、クラリッサはくすくす笑い始める。
「リュシアン様を知ってるみたい。どこの子なの? とっても綺麗な毛並みだし、野良ではないわよね」
クラリッサが手を差し伸べると、猫の方から擦り寄ってくる。
温かく柔らかな感触に、クラリッサは目を見開いた。
怖がらせないよう、ゆっくり背中を撫でてみる。生き物独特の瑞々しい生命力が、手のひらに伝わってきた。
「なんて可愛いのかしら……」
うっとりと目を細め、クラリッサはしばらく猫を撫でたり、顎の下をくすぐったりしてやる。
特別人懐っこいのか、猫は嫌がりもせず、クラリッサのされるがままだった。
「抱っこさせてくれる?」
「ニャア」
手を広げると、猫はぴょんと飛び跳ね、クラリッサの腕の中にすっぽり収まった。
こうして抱いてみるとなかなかずっしりしている。骨格からして成猫なのだろう。じっくり顔つきを見てみると、なかなかの美猫でもある。
「あなた、素敵ね」
溜め息混じりにクラリッサが呟くと、猫は照れたように俯き、鼻先をクラリッサの腕に擦りつけた。
クラリッサは猫を抱いたまま屋敷を歩き回り、飼い主を探そうとした。
ところが不思議なことに、誰も心当たりがないという。
しかたなく再び二階へと戻ってきたクラリッサは、丁寧に猫をおろした。いい加減腕が痺れてきたのだ。
「困ったわね。これからどうしましょう」
「ニャア……」
猫も哀しげに相槌を打つ。
そこへ、浮かない顔つきのリリーが通りかかった。
「何がいけなかったのかしら」などとぶつぶつ独り言をこぼしている。
「フニャッ!!」
猫はリリーを見るやいなや一目散に駆け出し、彼女の足に向かって猫パンチを繰り出した。
クラリッサが止める暇もなかった。なぜか激怒している猫は、リリーの周りを飛び回りながら、執拗に足を狙っている。
あっけにとられたクラリッサと、自分を襲う立派な猫を交互に見くらべ、リリーは真っ青になりながら何とか避けようとステップを踏んだ。
「いたっ! ちょ、やめっ……ええ~、嘘でしょう!? まさか、おに……い、いたっ。いたいわ!」
半べそをかきながら、とうとうリリーは逃げ出した。
毛を逆立てた猫が、その後を追いかける。
「リリーったら、今度は何をしたのかしら……」
一人残されたクラリッサは、呆然と彼らを見送った。
リュシアンはその日、帰宅しなかった。
夕食の食卓で、リリーが「お義兄様は急にお仕事が入ったみたいで、えっと、向こうに泊まってくるんですって」と姉へ告げる。
「そうなの。でも、なぜリリーが?」
クラリッサの不思議そうな声に、リリーは俯いた。
俯いたとたん、足元にうずくまっていた猫に脛を引っかかれる。
「いたっ! た、たまたま、庭を散歩していたら。そう、散歩していたら、マイルズ商会からのお使いの人がいらして、それで」
「そうだったのね。ありがとう、リリー」
「……ごめんなさい、お姉さま」
すっかりしょげかえった妹を訝しげに見つめ、クラリッサは首をかしげた。
「猫を拾ってきたことは、もう怒ってないわよ。みんなで可愛がってあげましょうね」
「ニャッ!」
猫が慌てた様子でクラリッサの足元に駆け寄り、今度はすりすりと彼女の足に身体をこすりつける。
「その猫は、お姉さまにしか可愛がられたくないみたい」
一部始終を見守っていたシルヴィアが、笑いながら口を挟む。
「ニャア」
そうだと言わんばかりに猫がひと鳴きするものだから、上の姉2人は顔を見合わせ噴きだした。
リリー1人が猫に向かって、しきりに両手を合わせている。
――もうあの本のレシピは二度と試すまい。
リリー・オルティスは脛の痛みに涙目になりながら、固く決意した。
エイプリルフールに合わせ、ちょっとしたお遊びSSを書いてみました。
思ったより長くなったので、活動報告ではなくこちらに載せさせて下さい。