11.後悔
リュシアンが二階で従業員たちに商品見本の入れ替えを指示していると、窓ガラスをポツポツと叩く雨音が聞こえてきた。
今日は朝から空が曇っていた。とうとう降り出したようだ。
デュノア公爵が催すキツネ狩りは来月だ。滞在中は晴れるといいのだが。
リュシアンが窓へちらりと目を向け、先の予定を考えてるところへ、アレックスが飛び込んできた。
いつになく慌てている。
「リュシアン、ちょっと来て!」
従業員の居る前でアレックスがリュシアンを呼び捨てにしたのは、これが初めてだった。
基本ふざけた男だが、公私はきっちちりと分けることが出来る彼の動転ぶりに、リュシアンは嫌な予感を覚えた。
船が嵐にあったのだろうか。損害を最低限に抑えるため、出来るだけ荷物は小分けにして運ぶよう手配してあるが、それでも一隻沈めばかなりの打撃を受ける。
「さっき言った通りにやっといて。しばらく出てくる」
「はい、社長」
リュシアンは上着の裾を翻し、入口に立つアレックスの方へ向かった。
「どうした」
「いいから、こっち」
アレックスはリュシアンの腕を鷲掴むと、廊下を突き進み、部屋から離れた。
周りに人気がないことを確認し、アレックスは怒気を含んだ声でリュシアンに迫った。
「お前、クラリッサにジェラルドのこと、話したか?」
「は? なんでそんなことお前に――」
「いいから、答えろ!」
滅多に負の感情をあらわにしないアレックスが怒鳴る。彼の迫力に押され、リュシアンは首を振った。
「いや、まだだ」
「ジェラルドが帰国してる。ミドランド通り沿いのホテルに泊まってるって報告が上がってきてたんだが、お前は知りたくないと思って言わなかった俺も悪いけど、でもやっぱお前が一番ダメだろ!」
「おい。ちょっと落ち着けよ、全く話が見えない」
弟の名を耳にしても、以前のようにリュシアンの胸が焦げ付くことはなかった。
たった一人残った家族に理解されなかったあの日の絶望は、クラリッサのお陰でかなり薄まっている。彼女は一昨日、はっきりと気持ちを打ち明けてくれた。あの時感じた激しい喜びは、今なおリュシアンの胸を温め続けている。
そうだ。今のリュシアンには、親身に寄り添ってくれる妻がいるのだ。はっきり言ってジェラルドなど、もうどうでもいい。
「あいつが帰ってきてることと、俺がクラリッサに弟の話をしなかったことに何のか……」
関係がある、と言いかけ、リュシアンは大きく目を見開いた。
――まさか、会ったのか?
クラリッサとジェラルドが。
兄への消えぬ怒りを抱いて帰国したジェラルドが、兄の妻と知ってクラリッサに近づいたのではないかという疑惑が瞬時に浮かび、リュシアンは血相を変えた。
アレックスの胸ぐらを掴み、ぐらぐらと揺さぶる。
「クラリッサに何かあったんだな! 早く言え!」
「親父さんの墓の前から動かないって、シルヴィアから知らせが来た。外出先から戻ってきた後、もう三刻も地面に座り込んで、妹さん達でもどうにも出来ないらしい。クラリッサは今日、ミドランド通り近くの孤児院を慰問したそうだ。ジェラルドと出くわした可能性は高い」
「すぐ屋敷に戻る。けど、それだけであいつに会ったとは言えないだろ。何か他にショックなことがあったのかもしれない。くそ! 俺も一緒に行くんだった!」
突き放すようにアレックスの上着から手を離し、リュシアンは駆け出そうとした。
だが、アレックスの冷ややかな声が彼の足を止める。
「いや、多分会ったんだと思う。いや、会えば流石に気づくか。見かけたんだろうな」
「さっきから何なんだよ!」
「クラリッサはシルヴィアに言ったらしい。リュシアンには妻子がいるって」
「妻子がいるって、そりゃいるだろ。クラリッサと……いや待て、俺まだ何もしてない」
「ジェラルドのことだよ! 今のあいつには身重の妻がいるんだ。ジェラルドをお前と見間違えたんだ!」
ようやくアレックスの言っていることが分かり、リュシアンは唖然とした。
ジェラルドとリュシアンは双子だ。まるで複製品のように二人はそっくりだった。
身重の妻を連れた弟を見かけ、クラリッサが勘違いしたとしても不思議はない。
「……嘘だろ」
「雨、強くなってるぞ。早く行って、話を聞いてこい!」
アレックスがリュシアンの背中を強く押す。
ハッとしたようにリュシアンは顔をあげ、今度こそ駆け出した。
御者を急かし、馬車を走らせる。リュシアンの乗った馬車が屋敷の門をくぐると、玄関先に傘が一つぽつんと見えた。
リリーだ。
末妹はぼろぼろと泣きながら、外でリュシアンの到着を待っていた。
馬車から飛び降り、リュシアンはリリーに駆け寄った。
「悪い、遅くなった! クラリッサは?」
「まだ、お父様のお墓のところよ。シルヴィア姉様がついてる」
「分かった!」
すぐに踵を返そうとするリュシアンに、リリーは追いすがった。
「義兄様は、姉様を裏切ったの? 奥様とお子様がいらっしゃるなんて嘘よね? そんな酷い仕打ちを姉様にするなんて、私には信じられない。どうか違うと仰って!」
「ありえない! 誤解だ、リリー」
えぐえぐとしゃくりあげるリリーを慰めてやりたかったが、優先順位はクラリッサが上だ。リュシアンはリリーの頭に軽く手を置き、雨の中を飛び出した。
墓地ではシルヴィアが奮闘していた。
「お願い、お姉様。中で話を聞くわ。だから、お願い、私と一緒に戻って」
「……先に、帰って」
「そんなこと言って、戻ってこないのでしょう? お願いよ、姉様!」
傘をさしたまま、シルヴィアがクラリッサの腕を引っ張ろうとするのだが、彼女は頑なに動こうとしない。体はすっかり冷えているし、更に雨まで降ってきた。このままでは風邪を引いてしまう。
母は風邪をこじらせ、亡くなったのだ。姉まで失いたくない。その一心でシルヴィアは彼女を揺さぶった。
亡きオルティス侯爵の墓の前に蹲っているクラリッサを見て、リュシアンの全身の血が引いた。
クラリッサはすでにずぶ濡れで、淡い色のドレスはくしゃくしゃになり彼女に張り付いている。金の髪はほつれ、毛先からはボタボタと雫が滴っていた。
「義兄様!」
シルヴィアは息を切らせ駆けつけてきたリュシアンをみとめると、泣きながら訴えた。
「お昼前から、ここにいらっしゃるの。身体が氷みたいに冷たくて……このままじゃ、このままじゃ姉様が死んでしまう」
「すぐに戻って風呂の準備をさせろ。シルヴィアもだいぶ濡れてる。ちゃんと着替えて温かくしとけ」
「わ、分かったわ」
コクリと頷き、シルヴィアはドレスをたくし上げ、館へと走った。
リュシアンはそのままクラリッサに歩み寄り、スーツが汚れることも厭わず、彼女を横抱きに抱え上げた。
雨水を吸ってすっかり重くなったドレスの中で、真っ青な唇のクラリッサがぶるぶると震えている。
クラリッサは、自分を抱きあげた男がリュシアンだと知ると、途端に暴れ始めた。手足をばたつかせ、彼から逃れようと、か細い悲鳴をあげながらもがく。
彼女の頬は涙と雨でぐちゃぐちゃに濡れていた。
「しーっ。いい子だから暴れるな。もう、大丈夫だから」
「いやっ! 嘘つき! いやっ、いやぁーーっ!!」
一時的な錯乱状態にあるのだろう。大声で泣き叫びながら暴れるクラリッサに、普段の凛とした面影はない。
リュシアンは、鋭いナイフを心臓に突き立てられ、ぐりぐりと抉り取られるような痛みを覚えた。彼女をここまで追い詰めたのは、他でもない自分なのだ。
「クラリッサ!!」
このまま無理やり運んでは、クラリッサが途中で落ちてしまう。
リュシアンは彼女を一旦おろし、逃げられる前にすかさず両手首を握って自分の方を向かせた。そしてそのまま、深く口付ける。
最初は身をよじって何とか逃れようしていたクラリッサの抵抗が、やがて弱まる。
その隙を狙って、リュシアンは手首を解放し、彼女の両頬を包み込んだ。
宥めるような、それでいて全てを奪うような情熱的な口づけに、クラリッサの全身から力が抜けていった。
「聞いてくれ。君が見たのは、俺じゃない」
クラリッサが恐慌状態から何とか抜け出したのを確認し、リュシアンはクラリッサの瞳を覗き込んだ。
深く傷ついた瞳を捉え、必死に訴える。
「俺には双子の弟がいる。めちゃくちゃ似てて、親でさえ俺たちを時々間違えた。ホテルに泊まってただろ? ずっと外国に行ってて、最近帰って来たらしいんだ」
「嘘……だって、奥様の、お腹に赤ちゃんが……」
「そうらしいな。俺は知らなかった。後でちゃんと説明する。今だけでいいから、言うことを聞いてくれ」
リュシアンは再びクラリッサの両手を取り、自分の額に押し当てた。
「君を失うなんて考えられない。頼む、……頼むよ!」
愛する人をずたずたに傷つけたという自責の念で、リュシアンの声が上擦る。
こうしてる間にも、強まる一方の雨が、クラリッサの体力を奪っていく。リュシアンは焦燥で焼き切れそうだった。
とうとうクラリッサは目を閉じ、その場に崩れ落ちた。
慌ててその細い身体を受け止め、リュシアンは彼女を抱き上げた。
意識がないのか、今度は抵抗しない。青白い頬と力なく揺れる脚に胸を締め付けられながら、リュシアンは館へと急いだ。
シルヴィアが案じた通り、クラリッサはベッドに入れられてすぐ高熱にうなされることになった。
取り乱したリュシアンが何人もの医師を呼ぼうとするのを、執事や使用人たちで何とか思い止まらせようとしたが、なかなかどうして難しい。
「旦那様、その方は獣医です!」
階下から聞こえてきた執事の悲鳴に、リリーは自分の部屋でこっそり溜息をついた。
クラリッサの診察を終えた医師は、寝室から出たところを待ち構えていたリュシアンに拉致された。
部屋から少し離れた廊下で、リュシアンは医師に見立てを尋ねた。
湯を沸かせそうなほど、クラリッサの頭は熱かった。息も苦しげで、瞼は開かない。代われるものなら代わってやりたい。
リュシアンの剣幕に押されつつ、医師は優しく答えた。
「温かくして消化のいいものを食べて、きちんと薬を飲んで休めば問題ありません」
「ほんとだな!? それで助かるんだな!?」
「助かるも何も、ただの風邪ですよ。胸の音も綺麗でしたし、肺炎の恐れはないと」
「胸の音!? てめえ、クラリッサに何した!」
全く収拾がつかない。
医師の胸ぐらを掴もうとするリュシアンを、廊下の曲がり角からハラハラと見守っていた使用人達が飛び出し、押さえつける。
「旦那様! お気を確かに!」
「うるせえ、俺は落ち着いてる!」
困りきったシルヴィアは、アレックスに使いを出し、助けを求めた。
遅れてやってきたアレックスは、獰猛に唸りながらクラリッサの寝室の前をうろついている馬鹿を発見し、こめかみを押さえた。
医者の見立ては正しく、夜が明ける頃にはクラリッサの熱はだいぶ下がっていた。
リュシアンは一晩中、まんじりともせずにクラリッサを見張った。少し目を離した隙に、肩まで引き上げてある毛布が彼女の口元を塞ぐかもしれない。
荒い呼吸に泣きたくなったが、静かになればなったで不安になる。おそるおそる耳を近づけ、呼吸音を拾っては安心して身体を引き戻す。
額に載せてある氷嚢を取り替えたり、汗を拭いてやったり、リュシアンの看病は傍からみれば煩いほどだった。途中見かねたシルヴィアが代わると申し出たのだが、リュシアンは頑として譲らなかった。
翌朝。
仕事に行きたくないと言い張るリュシアンを、結局は泊まったアレックスが無理やり引きずって馬車に押し込む。
「アレックス様が来て下って、ようございました」
馬車の見送りを済ませた執事がぽつりとこぼすと、その場に居合わせた使用人たちが一斉に頷いた。
当主にベタ惚れの旦那様が、すでに家庭を持っているなどと、彼らは誰ひとり信じなかった。
口を開けば「クラリッサが」「クラリッサは」しか言わないリュシアンだ。仮にいたとしても、とっくに愛想をつかされているに決まっている。
凄まじい速度で仕事を片付け、残った雑務をアレックスに押し付け、まだ陽が高いうちにリュシアンは屋敷へと戻った。
もう帰ってきたのか、と言わんばかりの執事の出迎えを受け、一段飛ばしで正面階段を駆け上がる。
寝室の前で軽く息を整え、軽くノックをしてみる。
「どうぞ」
聞こえてきたのは、紛れもないクラリッサの声で、リュシアンはその場にずるずると座り込みそうになった。
よろめきながら部屋に入ると、シルヴィアとリリーがベッド脇に腰掛けている。彼女たちはリュシアンを見ると、そそくさと立ち上がり、部屋を出ていこうとした。
「シルヴィア、リリー。本当にごめんなさいね」
「もういいの。早く良くなってね、姉様」
昨日、頑固に動こうとしなかったことをどうやら詫びているらしい。
すまなそうに肩を落としたクラリッサを見て、君のせいじゃないとリュシアンは叫びたかった。
立ち尽くすリュシアンの隣を、シルヴィアとリリーが通り過ぎていく。
「……悪かった」
すれ違いざま、ぽつりとリュシアンが謝ったので、二人は揃って首を振った。
部屋を出て階下へ向かいながら、シルヴィアは小さな声でリリーへ言った。
「リリーの言うとおり、義兄様は素敵だけれど、王子様ではないわね」
リリーはさもあらんといわんばかりに片眉を上げる。
「ええ。王子様ならどんな時でもパリッとしてなくちゃ。やっぱり義兄さまは英雄よ。ほら、英雄なら、戦い帰りはボロボロでもおかしくないでしょう?」
リュシアンの目の下にはクマが出来ていたし、髪はあちこちが跳ねていたし、シャツの首周りは緩められ、ネクタイは曲がっていた。
泥で汚れた上着とスラックスはかろうじて着替えていったようだが、マイルズ商会の従業員達は、普段とはかけ離れた社長の様子にさぞ驚いたことだろう。
「でも私は、王子様より義兄様の方がいいわ。パリっとしてなくても、心の底から姉様を想って下さっているのが分かるもの」
シルヴィアがそう言うと、リリーも頷いた。
気が動転するといつも以上に口が悪くなるリュシアンのことを、リリーだって気に入っている。
一時はどうなることかと思ったが、きっと二人は今まで以上に仲睦まじくなるに違いない。
リリーは満足げに微笑んだ。やっぱり物語はハッピーエンドでなくちゃ。
ヒロインが実の姉なら尚更だ。