10.衝撃
クラリッサ・オルティスが第十四代オルティス侯爵となってからひと月が経過し、喪が明けた。
由緒だけは正しいオルティス家には再び、パーティや夜会を催す貴族たちからの招待状が舞い込んでくるようになった。
平民であるリュシアンと結婚した影響はさほど出ていないようだ。
ホランド公爵が言った通り、今は時代が違うのだろう。
社交界から弾き出されること自体、クラリッサは何とも思わないが、リュシアンは困るはず。何とか彼との契約を果たすことが出来そうで、クラリッサは胸をなでおろした。
招待状には、リュシアンが狙っている鉄道計画の主導者であるデュノア公爵からのものも混じっている。
キツネ狩りを行うようだ。デュノア公爵が所有しているカントリーハウスはそれは見事なもので、クラリッサもまだ母が存命中に一度だけ行ったことがある。
一週間ほど滞在したのだが、ボート遊びや射的など沢山の遊戯が準備されており、飽きずに過ごすことが出来た。タウンハウスで行われるパーティとは違い、基本宿泊する為、リュシアンがデュノア公爵と顔を繋ぐ時間は充分あるように思えた。
その日、珍しくリュシアンが早めに帰宅したので、二人は主寝室と繋がる隣の居間で寝る前のひとときを過ごしていた。
お互い湯上りの寝巻き姿だ。揃いのローブを羽織り、熱々のホットチョコレートに息を吹きかける。リュシアンのカップには、ブランデーが足してあった。
クラリッサは、久しぶりに心が安らぐのを感じた。
普段と違うことと云えば、手を伸ばせば届く距離にリュシアンがいることだけ。それだけでクラリッサはたとえようもなく幸せになる。
いつになくリュシアンもくつろいだ雰囲気を漂わせている。ちょうどいい機会だ。クラリッサは招待状を彼に手渡し、話を切り出した。
「こちらの招待状に返事を書こうと思うのですが」
「ん? ――ああ、いいと思う。仕事を調節して休みを取るよ。それにしても流石だな。デュノア公爵がカントリーハウスに招くのはごく限られた貴族だけだって聞いてたのに」
「祖父の代は、かなり親しくさせて頂いていたようですから」
「へえ。でもこれで助かった。ちょうど今、新しい鉄道計画の賛同者を募ってるらしい。間に合ったな」
リュシアンが表情を明るくして喜んだので、クラリッサは嬉しくなった。
結婚して初めて、彼の役に立てた気がする。
「それなら良かった。食事の時間にエスコートしていただければ、基本的に向こうでは別行動になるので、お邪魔にはならないと思います」
「え? 別行動?」
急にリュシアンの顔が曇る。
初めて参加する貴族の集まりだから、リュシアンでも緊張するのだろうか。
向かい合わせに座っていたクラリッサはカップをテーブルに置き、立ち上がって彼の隣に移動した。
なぜか驚いているリュシアンに手を伸ばし、励ますようにきゅっと手を握りしめる。
「紳士用に準備されている催しと、淑女用に準備されている催しは違いますもの。リュシアン様は、乗馬と射撃は?」
「……どっちもそこそこってとこかな」
「キツネ狩りには一度は参加しなくてはならないでしょうから、片手で乗馬する練習をしておく方がいいかもしれませんわね。敷地の東に空き地がございますでしょう? あそこは昔、訓練場でしたのよ」
「ああ、あれ、何かと思ってた。忠告ありがと。まだ時間はあるし、練習しとく」
リュシアンは目元を和ませ、クラリッサの手を握り返してくる。
クラリッサは微笑まずにはいられなかった。
「……ほんとだ」
「え?」
「いや、こっちの話。今日は機嫌がいいんだな」
「そう、でしょうか?」
こてんとクラリッサが首をかしげると、動きに合わせ、長い髪がさらりと揺れる。日中はまとめあげているので、髪をおろした無防備な彼女を見られるのは僅かな時間だけだ。
リュシアンはその艶やかな金色の髪を掬い、彼女の耳にかけてやった。
「今みたいに君が笑ってくれると、ホッとする」
「……リュシアン様」
「仕事で神経すり減らして馬車に乗るだろ? 今までは、暗い屋敷に帰るだけだった。通いの使用人しか雇ったことなかったし、夜なんてほんと真っ暗でさ」
リュシアンが自分からそんな話をするのは、これが初めてではないだろうか。
クラリッサは高鳴る胸を押さえ、彼に向き直って相槌を打った。
「一人で冷めた飯食って、湯浴びて寝るんだけど、それが時々すごく虚しくなる。あれ、俺なにしてんだろって。だから事務所に泊まり込むことも多かった。仮眠用のベッド置いたのも、それでなんだ。あれに寝転んで、明るくなってから着替えに戻ったりしてた」
「そうでしたのね」
「でも今はさ。馬車に乗るともう心が緩むんだよ。どんなに遅くなっても、玄関の明かりは灯ってる。台所に寄れば、誰か起きてきてスープやパンを温めてくれる。そんで、寝室に行くと君が眠ってる」
リュシアンはそこで言葉を切り、クラリッサの頬に手を当てた。
「めちゃくちゃ可愛い顔して、ぐっすり寝てる君をしばらく眺めて、隣に潜り込むだろ。そしたら一日の疲れなんて吹っ飛ぶんだ。明日もまた頑張ろうって思える」
その口調があまりに愛しげなものだったので、クラリッサは胸がいっぱいになってしまった。
彼の手に自分の手を重ね、頬を寄せる。
「私も同じですわ」
「……どういう意味?」
「朝、目が覚めるとリュシアン様が隣にいて下さいます。リュシアン様はいつでも私の手を握って眠っていらっしゃるんです。ですから、起こさないようにそっと指を解いて私は起きます。でもすぐに着替えにいくのは何だか惜しくて、リュシアン様の髪を撫でてみたりしていますの。……ふふっ。私たち同じことをしてましたのね」
クラリッサが思わず微笑むのと、リュシアンに抱きしめられたのは同時だった。
リュシアンはクラリッサの肩口に顔をうずめ、掠れた声で呟いた。
「そんな話聞くと、まるで君は俺のこと好きみたいだ」
その時になって、ようやくクラリッサは気づいた。
今まで一度だって本当の気持ちを口にしたことがないという事実に。
だからリュシアンは、いつもどこか線を引いたような態度だったのだろうか。夫婦の契りを交わそうとしないのも、そのせいなのだろうか。
「リュシアン様のことをお慕いしておりますわ」
クラリッサはリュシアンの堅い身体を抱き返し、心を込めて彼に伝えた。
「リュシアン様がそばにいて下さるのなら、他には何もいりません」
その言葉を聞き、リュシアンはようやく顔をあげた。
彼もまた幸福感に満たされていることは、その表情ですぐに分かった。
「俺が一文無しになったら、そうは言ってられないだろ?」
リュシアンの口元はかすかに震えている。
ようやく弱みを見せてもらえた。クラリッサは、泣きそうになった。
自分の価値はお金だけだとでも思っているのだろうか。そんなことは有り得ないのに。
「平気ですわ。私はお針子の仕事をします。シルヴィアは食堂で働くでしょう。リリーは……そうね。きっと食べられる野草を探してきてくれるわ」
「それだけは勘弁して」
間髪入れずリュシアンが答えたのがおかしくて、クラリッサが噴き出すと、リュシアンも声を立てて笑い出す。二人は額をこつんと合わせ、いつまでも笑った。
その夜、クラリッサは覚悟を決めてベッドに入ったのだが、リュシアンはいつものように彼女の頬にキスし、手を握り、そのまま眠ってしまった。
――もしかして子供が欲しくない、とか?
自分に手を出そうとしない理由が分からず、クラリッサはしばらく考え込んだ。直接理由を尋ねるのは、あまりにはしたない。
クラリッサは諦め、どうか痩せっぽっちなこの身体に魅力がないからではありませんように、と祈り目を閉じた。
ところが翌々日。
クラリッサの抱いていた疑問は、最も残酷な形で解消された。
貴族の義務の一つとして、慈善事業がある。オルティス家にも長年支援している孤児院があった。
多額の負債を抱え、日々の暮らしにすら困っているというのに、父は援助を打ち切ることを許さなかった。応接室の絵も確か、その時売り払ったのだ。
それほどまでに貴族としての体面が大事なのか、と当時のクラリッサは憤ったものだが、今になれば父の気持ちも分かる。
仮にも侯爵を名乗るのならば、義務は果たさなければならない。
クラリッサは半年の一度の視察に出かけていき、子供たちと院長先生たちの温かな歓迎を受けた。
その帰り、彼女はふと街の花屋に目を留めた。
いつから父の墓へ参っていないだろう。今日はもう他に予定がない。花を手向けにいく時間は十分にある。
「ここで待っていて。花を買ってくるわ」
オルティス家の紋章が入った馬車を降り、御者に伝えてから、小走りに花屋へと向かう。
父の好きだった白い薔薇を数本リボンで束ねてもらい、代金を払って店を出たところで、クラリッサは信じられないものを見た。
リュシアンが、目の前の通りを、見知らぬ女性と共に歩いている。
デュノア公爵のカントリーハウスへ行く為、一気に仕事を片付けると言って、昨日の夜は家に戻っていなかった彼が、なぜこんなところにいるのだろう。
マイルズ商会の事務所は、ここから随分離れたところにある。
クラリッサはふらふらと彼らの後を追った。
リュシアンの方も、まさかこんなところにクラリッサがいるとは思ってもみないのだろう。こちらに気づく素振りもなく、隣の女性にしきりに話しかけている。外出用のマントを羽織った黒髪で背の高い女性だ。
ちらりと見えたリュシアンの表情は甘く蕩ける様で、クラリッサは心臓がぎゅうと絞り上げられるのを感じた。
二人が曲がり角を曲がろうとしたところで、クラリッサは更にガツンと頭を殴られたような衝撃を覚えた。
それまで背中しか見えなかった女性のお腹は、一目で妊婦と分かるほど脹らんでいたのだ。産み月は近いのではないだろうか。
息が上手く吸えなくなる。
クラリッサは最悪の想像を必死に打ち消した。仕事関係の相手かもしれない。そうに決まっている。
立ち止まっている隙に、リュシアンは女性の頭を撫で、そして膨らんだお腹を撫で、通りを横切っていってしまう。どちらを追うべきかクラリッサは一瞬迷ったが、リュシアンの姿はもう見えない。
仕方なく、妊婦の女性の後を追うことにした。
つかず離れずの距離でついていくと、やがて大きなホテルの前に出た。
どうやらここに宿泊しているようだ。
彼女が建物の中へ消えてすぐ、クラリッサも入口に近づいた。ぶるぶると震える唇をハンカチで押さえ、何でもないような表情を作って、ドアマンに尋ねる。
「今、入って行かれたのは、ロレーヌかしら。私の知人によく似ていたのだけど」
「いいえ、違います。今の身重の方ですよね?」
まだ若いドアマンは親切に教えてくれた。
「あの方は、ジャネット様ですよ。ジャネット・マイルズ様です」
「……ジャネット・マイルズ」
「ええ、ご主人はマイルズ商会の――」
「ごめんなさい。人違いだったみたい」
クラリッサはドアマンの説明を遮り、かるく頭を下げてその場を離れた。
足元だけを見て、よろよろと前へ進む。
私は何をしているのだったかしら。
そうだ、家へ戻らなければ。
戻って、父様のお墓に花を備えて、それから。
それから、リュシアンの帰りを待って。それから。それから。
クラリッサの脳裏に、過去の場面が鮮やかに蘇る。
『……私たちの子供はオルティス家を継ぐことは出来ませんわ。それでも?』
『ああ、その話も知ってる。貴族の継承権ってややこしいよな。ま、俺達には関係ない』
関係ないはずだ。
クラリッサを決して抱こうとしないはずだ。
リュシアンには、すでに妻と子がいるのだから。
だが、どうやって結婚証明書を偽造したのだろう。確かに登録官の前で、リュシアンは宣誓したのに。
『オルティス家の問題なのですから、私が把握しておくべき事案ですわ』
『もちろん最後の確認とサインはしてもらうさ。だけど、書類を揃えるまでの雑事は俺たちの得意分野なんだ。君のじゃない』
そうだ。得意分野だと、彼は言っていたではないか。
クラリッサはただ足を前へ、前へと押し出した。
彼がクラリッサに与えてくれたものが全てまやかしだったとは、それでも、どうしても思いたくない。
抱きしめてくれたことも、慰めてくれたことも、好きだと赤くなったことも。あの全てが嘘だったとは思えない。
クラリッサ達に多くの贈り物をしてくれたのは、慰謝料のつもりだったのだろうか。
リュシアンを信じたい気持ちと、今自分の目で見た現実が、クラリッサを混乱の渦に叩き込んだ。
『ええ、ご主人はマイルズ商会の――』
『今みたいに君が笑ってくれると、ホッとする』
リュシアンの眩しげに細められた瞳と、抱きしめられた時の甘い香りを思い出し、とうとうクラリッサの心は耐え切れず、醜い音を立てぐしゃりと潰れた。
後に残った空っぽの娘は、ただ右、そして左、と機械的に足を動かし、待たせてある馬車を目指した。