1.困窮
クラリッサ・オルティスは何度見ても変わらない帳簿の数字を見て、泣きそうになった。
このままでは年に一度の納税に間に合いそうにない。またしても借金が増える。
いや、増える余地すらもう残っているかどうか。
オルティス侯爵家の内実が火の車だということは、今では誰もが知っている。没落の一途を辿る家系図だけは立派な貴族に、誰が援助を申し出るだろう。
オルティス家は開国の祖であるバルドゥル王に連なる名門中の名門だった。
クラリッサの曽祖父の代までは、それは豪奢な暮らしをしていたらしい。貴族がただ貴族であれば良かった古き懐かしき時代。
だが、時は移り変わるもの。
諸国の例に漏れず、この国も近代化の波に飲み込まれた。
時代の風を読んだ賢い貴族らは、働くことを覚えた。厳密には、労働者を行使することを。
ところがクラリッサの祖父は、頑なにその変化を拒んだ。
「尊き血筋の者は、常に奉仕される側であるべき」という信念を生涯貫き通し、そしてクラリッサの父にも同じ思想を植え付け、他は何もしなかった。何もせずに凛と頭をあげ、オルティス家がみるみるうちに貧しくなるのをただ見ていた。
家名と心中するつもりだったのなら、なぜ後継を作ったのか。いっそそこで終われば良かったのだ。クラリッサは祖父を恨まずにいられなかった。
彼の選んだ道の果てに、クラリッサ達は立たされている。
クラリッサと二人の妹は今、一日をしのぐパンすら満足に得ることが出来ない。
「姉様。お客さまがお見えになったわ」
すぐ下の妹に声をかけられ、クラリッサはハッと我に返った。
帳簿を閉じ、扉の前に立つシルヴィアに向き直る。
「お客さま? どなたかしら。それより……」
どうしてあなたが取次に? と問いかけそうになり、クラリッサは自嘲した。
執事も使用人も、もういない。ついに全員に暇を出したのだ。
彼らは余命幾ばくもない当主と残される姉妹を気にかけ渋っていたが、これ以上は共倒れになると気づいたのか、ようやく頷いてくれた。最後の給金を支払う為、クラリッサは母の形見である宝飾品をすべて売り払うことにした。
その前に使用人の次の奉公先を見つけようと、クラリッサは適当に選んだ招待状に返事を書き、流行遅れのドレスに袖を通し、一人出かけていった。
オルティス家の馬車はとっくにない。
仕方ないので、クラリッサはなけなしの銀貨をはたいて、馬車を借りた。
夕闇の中、煌々と照らされた玄関先にずらりと並ぶ、家紋入りの立派な馬車。クラリッサはそれらを遠目に見ながら、少し手前で馬車を降りた。御者の老人は、大勢の招待客で賑わう立派な屋敷とクラリッサを見比べ、首を傾げた。
パーティに居合わせた客の視線は同情と好奇心に満ちており、本音を言えばクラリッサはすぐにでも家に戻りたかったが、何とか目当ての人物を見つけることが出来た。
父の学友だったリューブラント伯爵は、快くクラリッサの頼みを聞いてくれた。その上、「しかし使用人がいなくては不便だろう? うちから通わせようか」と心配までしてくれる。クラリッサは他にあてがある、と嘘をついて彼を安心させた。
「それで彼は、どんな風だい? 見舞いの品を送るだけの薄情な友ですまないが、来てくれるなと念押しの手紙まで貰ってしまってはね」
「いつもお気遣いありがとうございます、おじ様。残念ですが、もう長くはないかと」
「そんなに悪いのかい?」
「すっかり衰弱しておりますし、薬もろくに受け付けなくて……。一日中微睡んでおりますわ。母が亡くなったことが、やはり酷く堪えたようです」
「ご両親はとても仲睦まじかったからね」
リューブラント伯爵は、痩せ細ったクラリッサを彼女には悟られないように観察し、心の中で深くため息をついた。彼女の両親がまだ元気だった頃には無かった諦観の色が、その瞳を翳らせ、すっかりクラリッサを年寄りに見せている。
クラリッサはまだ二十三。
本来なら、新調したばかりのドレスに身を包み、立派な青年に傅かれていただろうに。
「やはり近々見舞いに寄らせてもらうよ。滋養のつくものを食べれば、少しはいいかもしれない」
リューブラント伯爵の申し出に、クラリッサはゴクリと喉を鳴らした。
滋養のつかないものでもいい。お腹いっぱい食べたい。
脳裏を満たした浅ましい欲望に、すぐさまクラリッサは恥じ入り、小さく首を振った。
「本当にありがとうございます。ですが、父は誰も通すな、と。今の姿を見せたくないのだと思います。どうか、汲んでやって下さい」
クラリッサは最後に使用人たちのことをもう一度頼み、深々とお辞儀をして部屋を退出した。
帰りの馬車代はない。外套のフードを深く被って、身分を知られないようにしながら屋敷まで帰らなければならない。
空腹で痛む胃を押さえながら、クラリッサがそっと玄関を出ようとした時、一人のメイドに声をかけられた。彼女はずっしりと重たげなバスケットを差し出しながらこう言った。
「何も供さず帰すのは失礼にあたるので、とのことです。どうぞお持ち下さい」
どうやらパーティの主催者がクラリッサを哀れみ、施しをくれるつもりのようだ。
カッとクラリッサの頬は染まり、頭が熱くなる。どこからどこまでを見られていたのだろう。
古ぼけたドレスを着て貸し馬車でやってきたかと思えば、旧知の貴族に使用人を引き取ってくれるよう頼み込み、そそくさと逃げるように去っていく。落ちぶれた侯爵令嬢の姿は、さぞ滑稽に映ったことだろう。
「要りません」と突っぱねたかった。だが、屋敷で待つ二人の妹のことを思えば、断ることは出来ない。
「ご厚情に感謝しますと、お伝え下さい」
クラリッサは途切れとぎれに返事をし、バスケットを腕にかかえ、よろよろと歩きだした。
ようやく屋敷に帰り着いた頃には、クラリッサは限界を迎えていた。ずきずきとつま先が痛む。パーティ用の華奢なブーツは彼女の足を全く保護しなかった。身体はくたくたで、あまりの惨めさに頭だけがまだ熱い。
二人の妹が起きて待っていてくれなかったら、クラリッサは馬鹿げたブーツを脱ぎ散らし、大通りに走り出て、馬車の前に飛び込んだかもしれない。
「どうなさったの、姉さま! 馬車でお戻りでは?」
すぐ下のシルヴィアは顔を青ざめさせたが、末の妹はバスケットを見て瞳を輝かせた。
「おかえりなさい! ああっ。もしかして、お土産なの? 姉さま、開けてもいい?」
「リリー。みっともない真似はおよしなさい」
「シルヴィア姉さまだって、気になってる癖に」
シルヴィアには「歩いて帰りたい気分だった」と誤魔化し、クラリッサはリリーの手にバスケットを渡した。
「ええ、お土産を頂いてきたわ。二人で分けてお食べなさい」
「わあ。お肉にパンに、葡萄酒まで!」
「リリーにお酒は早すぎるわね。葡萄酒は、台所に置いておいて。料理に使うから」
「分かったわ。ねえ、姉さま。寝る前に、少しだけ。ほんのちょっぴり味見してもいい?」
「ええ」
「嬉しい! お腹空いてたの」
「リリー」
シルヴィアはすかさずリリーを窘めたが、クラリッサはただ胸が痛かった。
十五になったばかりの末妹は、育ち盛りだ。それなのに、満足に空腹を満たしてやることも出来ない。
「姉様の分は?」
去り際、シルヴィアに尋ねられ、クラリッサはにっこり笑ってみせた。
「パーティへ行ったのよ? 沢山食べてきたに決まってるじゃない」
それなら何故、自分も連れていかなかったのか、とはシルヴィアは聞かなかった。姉の瞳は苦痛を訴えていたからだ。
「……いつも、本当にごめんなさい。私にも何か出来たらいいのだけど」
「あなたが気にすることないわ」
唇を噛んで俯く妹の頭をそっと撫で、クラリッサは彼女を部屋から出した。
そして、二人が寝静まるのを待って、台所で水を沢山飲んだ。何かで胃を満たさないと眠れないからだ。皮がめくれた足に塗りこむ軟膏は見つからなかったので、水に濡らした布で丁寧に拭うだけにした。
それが半月前のこと。
涙を浮かべて後のことを案じる使用人たちに紹介状と金貨を握らせ、送り出したのが昨日のことだった。
「姉様、どうしましょう?」
妹の問いかけに、クラリッサは即答した。
「お父様はお会いにならないと思うから、断ってくれる?」
「それが、姉様にって仰るの。リューブラント伯爵のお知り合いなんですって」
シルヴィアも不思議でたまらないらしく、言付けられた名刺をクラリッサに渡すと、隣から覗き込んできた。
「――リュシアン・マイルズ様、と仰るのね。名刺なんて初めて見たわ」
「お仕事をされる男性が使う自己紹介のカードみたいなものよ。爵位はお持ちじゃないようね」
クラリッサは名刺の裏表を慎重に調べ、結論を出した。
「確かにおじ様の筆跡だわ。送り出した使用人の件かもしれないし、とにかく会ってみます。応接室にお通ししてある?」
「ええ、リリーがお茶を持っていくって」
「茶葉なんてまだ残っていたかしら?」
クラリッサの懸念通り、台所に客に出せるような茶葉はなかった。
まさか水を持っていくわけにも行かず、リリーはしばらく考えた末、裏庭で摘んだアミデラの葉っぱを揉み込んで煮出してみた。最近のリリーの趣味は、食べられる野草探しだ。
姉たちの目を盗んでは、だだっ広い荒れた庭をうろつき、毒性のない草や葉っぱを探している。油で軽く揚げただけでも美味しいし、お茶にも出来るのだ。昨日まで台所にいたルノンも、喜々としてリリーを手助けしてくれた。
「毒がなけりゃいいんですよ。まずちびっとだけ齧って、飲み込まずに苦味や痺れがないか確かめるんです」というのがルノンの教えだった。「色鮮やかなものは要注意」というのも、ルノンから教わった食材見分けのコツだ。
そんなリリーが最近見つけてまあまあ気に入ってるのが、アミデラ茶だった。
リリーは応接間へと向かい、クラリッサから教わった通りまず扉をノックした。
「はい」
すぐに返事が聞こえる。
リリーが姿を見せたのに、中にいた男性は座ったままだ。
クラリッサの教えと違うことに、リリーは少し腹を立てた。淑女が部屋に入ってきた場合、殿方は席を立つと姉さまは仰ってたのに。
リリーはつかつかと歩み寄り、応接テーブルの上にトレイを置くと、招かれざる客をじっと見つめた。
焦げ茶色の髪に、灰みがかった濃い青の目。
よく鍛えられ引き締まった体つきであることは、着込んだスーツの上からも分かる。髪は耳にかかる程度の短さで、顔立ち自体は甘く整っている。くっきりとした二重瞼とすっと通った鼻筋に目を留め、リリーは羨望の眼差しを送った。彼女は父親似な一重瞼と丸い鼻を気にしているのだ。
だが彼は、どことなく粗野な雰囲気を纏っている。リリーの知っている貴族とは種類の違う男だ。
彼は膝の上に肘をつき、掬いあげるようにリリーを見返した。
「俺はクラリッサという名前のお嬢さんに用があるんだが、まさか君じゃないよな?」
「違います」
「良かった。こんな子供じゃ後味が悪すぎる。悪いが、飲み物は結構だ」
「まあ、どうして?」
リリーは彼の台詞の後半部分だけを聞きとがめた。せっかく葉っぱから調達してきたのに、と不満げに唇を尖らせる。
「不味くはなくてよ」
「自分で買ったもの以外には口をつけないことにしてる」
こちら側の人間ではない、とリリーは口調とその言葉で判断した。
御用聞きの商人だろうか。だが、うちに何かを注文する余裕などないはずだ。
「何をしにいらしたの?」
リリーは嫌な予感を覚え、率直に尋ねてみることにした。
母はもういない。父は寝たきりだ。長姉が一人、この家を必死に守ろうとしているのは知っている。その姉を困らせにきたのなら、容赦はしない。
「……その前に、君は?」
「私は、リリー・オルティスよ」
「そうか、俺はリュシアンだ」
彼はその段になってようやく立ち上がり、リリーに手を突き出してきた。
ポカンとした彼女の顔を見て、苦虫を噛み潰したような表情になる。
「握手はしないんだったか。貴族ってのは決まりが多くて嫌になるな」
「――あなた、一体何者?」
「ただの貿易商だよ。君の姉さんと取引しにきた」
「うちにお金なんてないわよ」
「そんなの知ってるさ。だが、売るものはまだ残ってるだろ?」
不敵に微笑みながらリュシアンと名乗る男は言い放った。
リリーは今度こそ、一歩後ずさった。