始まりの日
ピンポーン!ピポピポピンポーン!
9月18日。
創立記念日で、シルバーウィーク最初の日。
まだまだ朝と言っていい8時45分、ひどく賑やかにドアチャイムが鳴らされた。
(誰だろ、こんな時間に……)
いつものように出勤する両親を見送って、トーストと目玉焼きにミニサラダという、これまたいつもの朝食をのんびり取っていた僕は不思議に思いながら、築40年ちょっとガタつく引き戸を開けた。
「結城くん!これ、何書いてるかわかる?」
顔を合わせるやいなや、こんなセリフが彼女の口から飛び出した。
彼女の名前は織原綾瀬。
僕のクラスメイト。
クラスで一番背が高く、足も長くて、体育はいつも5。
ついでにクラス一番の美少女だって、新聞部の会田は言ってた。
見ての通りの元気な子で、僕はいつも苦手に思ってる。
だって、人前でろくに喋れない僕には荷が勝ちすぎるもの。
「な、何、唐突に……」
「あのねあのね、先週廃品回収の日だったでしょ。うちの父さん新聞マニアだからさ、たっくさん新聞出るの!でね母さん手伝って公民館にもっていったらさ、これ見つけたの!」
「新聞マニア……」
(って何?……ひょっとして活字中毒のこと?)
「係の人に聞いたら、その人が来た時にはもう置かれてたんだって。多分いらないものだから持ってってもいいよって言われて、貰って来ちゃった!」
消え入りそうな僕の言葉を気にせず、彼女は飛び跳ねる子猫のようにくるくると表情を変えながら楽しそうに戦利品を見せてきた。
それは、古い古い本だった。
ダークブラウンのきれいな装丁がしっかりされていて、見るからに格式高い字体で『Lion Quest』と書かれてる。
「でもね、なんて書かれてるかわからないの。父さんたちは忙しいって相手してくんないし、結城くんなら頭いいから分かるかなって!」
「ちょっと見せて……」
ニコニコしてる彼女に気圧されながら、その分厚い本を借りてパラパラめくってみる。
それはまるで古い聖書のように、精密に飾られた文字から始まる物語だった。幾つものセンテンスに分けられて番号が振られ、センテンスの最後には『Go
to ○○』というふうに進むべきセンテンスが示されている。
「あ、これゲームブックだ……」
「げーむぶっく?」
「うん、文の指示に従ってサイコロを振って、物語を読み進めてくんだ。途中選択次第で展開が変わるから、ゲームみたいに結末が変わるんだよ。」
「本当?面白そう!」
彼女はそういうと身を乗り出して本を覗きこむ。キラキラした大きな黒い目に、本の精妙なイラストが映り込んで、ちょっと見とれた。
しばし彼女は楽しげに単語を追っていたが、直に情けない顔で訴えてきた。
「何書いてるか全然わかんないよぉ~」
(あ、そういえば織原さんて、英語の成績クラスで最下位……)
正確に言えば5課目みな赤点なのだが、それは彼女の名誉のために黙っておく。
「えっと……あなた、つまり主人公は、魔法の鏡を洞窟の底で見つけるんだ。
そこに触れると、いろんなプレーン……だから異世界かな。異世界にいけて、そこで冒険をするんだ。」
辞書なしに和訳するのはちょっと疲れる。教科書じゃ使わない単語も多いし。
「結城くん、すっご~い!あたし感動しちゃった。ねぇお願い、何書いてるか教えて!もうこれ見つけた時から気になって気になって!」
「え……でも僕の訳が間違ってたら悪いし……」
「大丈夫だよ、結城くんすごいもん!」
(その根拠は何さ?)
「ねぇお願い!ここでお預けされたら、あたし気になって眠れなくなっちゃうよぉ~」
「わ……わかったよ。」
「やったぁ!ありがとう!」
その大きな瞳で上目遣いにおねだりされ、思わず頷いてしまう。
わかった、わかったから、僕の手を握って小躍りしないでください。
家の中でもなんか恥ずかしいです……
(結城くんていい人だね、あたしの我儘に付き合ってくれるんだから♪)
(あ、でもココアが良かったなぁ……コーヒーちょっと苦いし)
一彦に出してもらったミルクたっぷりのカフェオレに口をつけながら、織原綾瀬は思った。
スラリとした長身、長い足、均整のとれた体つき。
艶々した長い髪を祖母からもらった白いリボンでポニーテールに結び、慎ましやかにカフェオレを飲む姿は、どこに出しても恥ずかしくないお嬢様である。
が、しかしそれは黙ってじっとしている間だけのこと。
その本質は、興味を持てば後先考えずに突撃する直情娘、好奇心の塊でやんちゃなお子様そのものなのである。
今回の件だってそうである。
如何に美しい書物とはいえ、ゴミとして出された物を「持って帰っていい?」などと聞くのは相応に自意識が発達した少女なら慎むところだろう。
だが綾瀬は全く躊躇しない。
綺麗なものは綺麗だ、美しいものは美しい、不思議なものは面白い、知りたいことは追求する。
逆に言えば、関心のないものはまったくもってどうでもよいのである。
彼女の成績が振るわないのも、そうした子供っぽい感性が大いに影響している。
彼女のようにずば抜けて美しい少女というものは、往々にして嫉視の的となりグループの中で居場所を定めるのに苦労するものであるが、この子供っぽさのお陰で、グループにおけるマスコットという稀有な位置を確保し皆に可愛がられているらしい。
全く世の中何が幸いするかわからないものである。
(まだかな、まだかな♪)
英語で書かれたきれいな本には、白くて乾いたサイコロと指くらいの大きさの緻密な人形がついていて、いやがおうにも彼女の好奇心を刺激してやまない。
日本でよくあるディフォルメ化された可愛らしい人形ではなく、妙にリアルでバタ臭いというのだろうか、彫りが深い人形たちはいかにも異国情緒を掻き立てる。
白くて細い指先でこうした人形をそっと撫でながら、辞書片手に苦闘する一彦を眺めやるのだった。
(う、見られてる、見られてる、見られてるよね?)
手垢で隅が丸まり細かなメモでびっしりの、ちょこちょこガタの来た英和辞典を片手に、僕は『Lion Quest』を翻訳中だ。
大学講師をしてる叔父から進学祝いともらったこの相棒は、見た目のみすぼらしさとは裏腹にこうした面倒な作業には実に頼りになる。
もともと子供向けに書かれたのであろう平易な内容と、古式ばった文体、叔父の豆知識が満載の相棒のお陰で翻訳自体はそうそう難しくない。
厄介なのはこちらをチラチラ見てる織原さんだ。
今は僕が出したカフェオレとクッキーをおとなしく召し上がってらっしゃるけれど、作業中もひっきりなしに
「このことばなに?……へぇそうなんだ。あ、かっこいいイラスト!やっぱ戦士は筋肉だよね♪」
と言った具合に述べつなく話しかけてくるもんだから、もう僕としては気になってしようがない。
まぁ正直に言おう。
織原さんは掛け値なしの美少女だ。
キラキラひかる瞳に白い肌、艶艶した長い髪は手入れが行き届いている。
背も高くスタイルも良くて、シャツを大きく持ち上げる胸元は正直目の毒だ。
でも何よりすごいのはくるくるとよく変わる表情だ。笑ったり驚いたりちょっと膨れたり、見てて飽きることがないほど活力に満ちている。
人形のようだと言われる僕とは正反対の、生命力あふれる美少女、それが織原綾瀬なのだ。
いかに僕が対人関係が苦手で人見知りをするからといって、いや、人見知りをするからこそこんな美少女に注目されるのはとても息が詰まる。
(とにかく早く、一分一秒でも早く、そう……できれば彼女がおとなしくクッキーを食べている間にでも!)
定期試験の最中でさえ感じたことのない意味不明なプレッシャーの中、僕はようやく最初の冒険を翻訳し終えたのであった。
「とりあえず一つ出来たよ。」
「うわ、本当!すごい、早いね!」
「あくまで一つだけだけどね。えと、この本では全部で16の異世界を探検するんだけど、その中の最初の冒険を訳してみたんだ。」
そう言って約1時間の苦闘の成果、10ページ足らずのルーズリーフの束を渡す。
「ありがとう!、ねぇここで読んでもいい?」
「いいよ、それにわかりにくいところがあったらごめんね。」
「ううん、無理を言ったのはあたしだもの。だけどほんと嬉しい、ありがとう!……えっと、『あなたはながいながいぼうけんのはてに、ようやくめいきゅうのそこにたどりついた……』」
礼を言って彼女はたどたどしく読み上げ始める。
(うわぁやめてやめて、恥ずかしすぎるから!?)
「あ、飲物なくなってるね?おかわり入れてくるよ。」
人生始めての作品を音読され、僕はいたたまれない気持ちで申し出た……のだが。
「結城くん、質問いい?あの……この漢字なんて読むの?」
形の良い眉をへの字に曲げて、彼女が上目遣いに聞いてくる。
「獅子、ライオンのことだよ。」
「ありがとう!ええと、『きみは、ししのたん…たん…たん…』」
「探索ね!ええと、目的のある冒険のこと!」
まだ序文だというのに、詰まりまくってる織原さん。
そんなに僕の字って汚いのだろうか……かなり凹む。
「……結城くん、お願いしていい?」
「な、なにかな?」
「ごめん、漢字が難しすぎて、詰まっちゃうの。読み上げてもらえないかな?」
「ええ!?」
(自作の訳文を他人の前で読み上げるってどんな拷問ですか!?)
「ごめん、お願い、結城くん!」
両手を合わせて拝まれても、その、恥ずかしいんですけど……
「……だめぇ?」
そ、そんな大きな目を上目遣いにされたところで……ところで……
「……結城くん?」
「……分かりました、やらせていただきます。」
陥落早いって言わないでください、僕が一番良くわかっています。