師走の果て
“師匠も小走りするほど忙しい”
師走。
その言葉の起こりは諸説あると聞くが、僕はこれが起源であると思わざるを得ない。
蕎麦打処“誠”
ここは北国の町外れにある小さな蕎麦の製麺所。工場は小さいが代々受け継がれてきた技法と品質。それに親父の男気も相成って、誠の蕎麦を求める者は県内のみに留まらない。
僕が”誠”で修行を続けて八回目の師走を迎えるわけだが、師走を駆ける師匠もとい親父の仕事っぷりは小走りなんて可愛らしい比喩で片付けられる代物ではない。年末の風物詩年越し蕎麦の仕込みに湧く工場で、疾風の如く注文を捌き迅雷の如く指示を飛ばす。宛ら阿修羅の如し。
御歳六十二を数えて益々気は充実し肉体未だ衰える事を知らず。まあ昨年合気道の最高段位である八段に一発合格した筋金入りの猛者に、衰えなんて言葉は無縁な気もするのだが。
自己紹介が遅れた。僕は西永愛斗、二十三歳。幼少期より合気道を学び、先日四段を取得。中学卒業を機に“誠”で修行を始めた、否引き取られる形になったと言った方が正しいのか。
父は自衛官であったが、僕が小学五年の年に中東の復興支援活動中人質の身替わりとなって殉職した。古風な性格で思慮深い。曲がったことが大嫌いで正義感が強く僕に武道を学ぶことを勧めた張本人である。これが僕の合気道との出会いであり、親父との出会いのきっかけであった。
母は僕が中学を卒業する直前に蜘膜下出血でこの世を去った。編み物の職人として女手一つで僕を育てた心労が母の体を蝕んでいったのか。
今となっては分からないが、母の気丈で実直な後ろ姿を見て育った僕は、そこから一所懸命に働くことの美しさを何となく感じ取っていった。
まわりくどくなったが、要するに僕は中学卒業の時点で頼るべき両親を失ったわけだ。県内有数の進学校への推薦入学が内定していたが、金銭的な余裕もなくなり、偏差値至上主義の教育現場に嫌気を感じずにはいられなかった僕は、近所の合気道場で先生をしていた親父の一言に飛びついた。
「うちで修行しないか」
こうして僕は蕎麦打ちの世界に身を投じることになった。働く事のなんたるかも知らないままに。
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「美奈です。よろしくね!」
私榮美奈が所属する“風雅”は繁華街の端っこにあるスナック。十二月はとにかく忙しい。忘年会帰りのお客様が多くて層も悪くなる。いさかいもザラになる。
でも私には関係ない。お客様に取り入って気に入られ、お店の売り上げが立てばそれで。男なんて所詮福沢諭吉。信用できない生き物。
私のお父さんは小さな町工場の社長をしていた。事業に失敗して自棄っぱちになって、女作っておねえちゃんに現場見られて、挙句騙されて借金して病気がちのお母さんと喧嘩して離婚。最低。
それ以来男はそういう物だという固定観念が。六個上のおねえちゃんと私は勿論お母さんについて行ったのだけど、お金がなくて。おねえちゃんは早々に歌舞伎町のホステスになってお金持ちの若社長さん引っ張って結婚した。
私はお母さんの看病があるし、都会いっても頼るあてもないし。とにかくお金を稼がなきゃいけなくて高卒で入った“風雅”のママはお母さんの同級生で、十八歳だった私を快く雇ってくれた。私も容姿には自信あったし、言葉遣いとか礼儀作法もお母さんは厳しかった。
でも、ほんとスナックでのんだくれてる男なんてロクな奴じゃない。ママは優しかったしお店のみんなは美人で素敵でいい人たち。やるからにはとことんやってやろうじゃない。って思ってたんだけど、お仕事とはいえやっぱり偽りの恋ってのは良心が痛む。
いや、思わない思わない。地獄の沙汰も金次第。
そう。あの日が来るまでは。
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「バカ野郎!いつまで眠りこけとんじゃ」
今日も親父の一喝で真に寝覚めのよい一日が始まった。昨日日付が変わるまで酒をかっくらっていても朝も四時前にきっちり起きる辺り、このクソオヤジはチートとしか思えない。顔に出そうものなら関節を極められて肩肘がお釈迦になりそうだからそっと心に仕舞って置くことにしよう。
蕎麦打ちの朝は早い。宵が明ける前に仕込みを始め、包装・仕分け・配達まで親父と二人で行う。親父の奥さんであるお袋は”誠”直営の蕎麦屋でスープを仕込む。配達が終わったら僕はネット通販の出荷やメールのやり取り、営業周り。親父は翌日の準備と仕入れ。飯もろくに摂らずにふと時計に目をやると二十時。普通に労働基準法違反である。が、親父に言わせれば
「其の程度の腐りきった根性だからお前は仕事ができないのだ」
とのこと。しかも親父は一日それ以外に四時間を合気道の稽古に充てていたらしいのだから、筆舌に尽くしがたいストイック人間である。尊敬を通り越して畏怖すら覚える。
入って先ず叩き込まれたのは心遣いであり責任である。仕事とは百%やって当たり前であり、お客様が求める所を超えた心遣いや日々の品質の向上こそが信頼や安心へとつながっていく。
そこには責任が伴い自分の発する言動や仕事中の所作一つひとつに至るまで神経を張り詰めなければいけない。それが“誠”の伝統であると。
故に三年間はただひたすらに地獄だった。色恋などには目もくれずに一心不乱に駆けずり回り、光陰は矢の如く過ぎていった。一歩あるけば怒鳴られ、一言発すれば殴られた。そして思い知らされた。働くとはなんたるかと。一角の大人になるとはどういうことなのかと。何度も逐電してやろうと思ったが、真面目な両親の顔が浮かんでは思いとどまる日々を繰り返していた。
地獄に一筋の光明がさしたのが四年目。
先代からのお得意様の板長さんにご挨拶に伺った折、ふと頂戴した一言は自分の人生を大きく変えるものとなった。
「何故親父さんが弟子を取らなかったか知っているかい」
そういえば、あれほど名のある店なのに何故事業拡大を図らなかったのだろうか。
「昔は何人ものお弟子さんがいたんだが親父さんが厳しくて皆続かなかったのだよ。そしていつの頃からか“誠”さんは奥さんとの二人三脚になったってわけさ。愛斗君が入った時はいつまでもつか、うちの連中も面白半分で見ていたんだよ」
物凄く共感できる。五秒に一回怒鳴られていたら普通の人間なら精神に異常をきたして当然だ。幼い頃から道場で親父に怒鳴られ続けていた分、僕は多少耐性があった気はするが。
「でも、愛斗君が二年たっても三年たってもやめないもんだから、みんな驚いたってわけさ。君自身は怒鳴られてばかりで気づかないと思うけど、それって凄い事なんだよ」
「うちの連中だってほかに行けば長を張れるような板達で、そいつらから一目置かれたわけだから。辛い事も多いと思うけど、見ている人は見ている。これからも精進しなさい」
無駄じゃなかった。止めど無く溢れる涙が上着の袖を濡らす。求めていたわけじゃない。でも形が欲しかった。自分の努力は間違っていない、その証が欲しかった。お客様の前であることも忘れ、僕は大泣きに泣いてしまった。
落ち着いた頃を見計らって板長は最後にこういった。
「今度親父さんと三人で飲みに行こう」
そこで僕は図らずも親父のもう一つの顔を知ることとなる。
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ありふれた美辞麗句を並べたて、今日も私はモエ・ロゼやピンドンを開けさせていた。あまり好きじゃないシャンパンも、仕事と思えばこそ飲める。
分刻みで客席間を駆け回り、掛け持つこと五卓。五つのお客さんにそれぞれ別の顔をするのももう慣れっこ。うん。完璧。昨日で二十二を迎えた私は太客を呼び集めて店を巻き込んでど派手にシャンパンパーティー。
次の日はオフだったけれど、ママから呼び出しがあった。ちょっとやりすぎたかな。少しの反省を胸に静まり返ったお店のドアを開ける。
「貴女に伝えておきたいことがあるの」
主室にそう言うと、ママは語り始めた。
お父さんの事。娘に後ろめたい気持ちを抱いてしまったお父さんは離婚という形でけじめを取った。体の関係は無く、普通に仲良くなって飲みに行って店をでたところをおねえちゃんに見られてしまい、激しい嫌悪感を抱かせてしまった。
法的に見れば不倫でもなんでも無いのだけど、根が真面目なお父さんは自分がいることで娘たちに迷惑をかけると言って聞かなかったそうだ。それに尾ひれがつき、借金がどうとか騙されたとかって話になった。
実際に借金なんてなくて、分かれるためにつかなきゃいけなかった嘘。今もお母さんはそんなお父さんを愛していることを知った。余生が長くないお母さんは私たちに心配をかけまいとして何も語らなかった。
そういえば高校は三年で中退しちゃったけど、学費がどこから出てるかなんて考えたこともなかったけど、お父さんがちゃんと払ってくれてたんだ。
水商売に身を投じた今だからわかるその痛み。行き場のない感情を吐き出すためにスナックを訪れるお客さんは少なくない。お母さんはそれをわかった上で、何も知らなかった私たちのために。
ダメだ私。揺らぎそう。愛って何なの。私のしてきた仕事って間違ってるの。
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初めての飲み屋はキャバクラだった。親父と板長は女を余りに知ら無さ過ぎる僕を心配して女慣れさせようと画策していたらしい。余計なお世話である。
英雄色を好むというが夜の親父は正しくそれだった。仕事ができる男は女にモテる。板長とのダンディでお金持ちなおじさまコンビは巧みな話術と仕事以上の細やかな心遣いで夜の蝶たちを虜にしてゆく。“誠”の心意気を何もこんなところで発動しなくてもと冷ややかな目線を送っていると、やわらかくて心地の良い声が不意に耳に飛び込んできた。
「一緒におしゃべりしませんか。お名前は?」
「あ、はい。愛斗です。」え、どうしよ。何話せば。
「愛斗さん。素敵なお名前ですね。お仕事はなにをされてるんですか?」
「蕎麦打ちを少々。あと合気道やってます」合気道って仕事じゃないか。
「へぇ〜そうなんだ!職人さんてかっこいいですよね」
「マジっすか!」かっこいいとか初めて言われた。幸せ。
「うんうん。しかも武道もできるなんてすごい!男らしくて頼りになりそうですね。今何段なんですか?」
「この前四段とりました」すごいでしょ。
「すご~い。お強いんですね!あ、あたしも一杯頂いてもいいですか?」
「いいよ」君と一緒に飲めるなら。
「ありがとうございます。私綾って言います。メアド書いとくんでお時間あるときにメールしましょ!愛斗さん」
「うん。しよ」
まじで。この子僕に惚れてんの?可愛いやつだな。僕も好きだよ。
結論から言えば勘違い残念野郎の誕生である。嬢の常套手段である色恋営業にここまでストレートに引っかかる人間も珍しい。女慣れしていない童貞男をいきなりキャバクラに連れてくるなんて親父も人が悪い。
この後僕が足繁くキャバクラに通った挙句、嬢が店を辞めるタイミングでシャンパンタワーを作り、次の日から彼女との音信が不通になるという末路を辿ったのは想像に難くない。
……倍返しだ。負けっぱなしじゃ終われない。僕の内に宿る不屈不撓の武人の魂に火が付いた(アホだな完全に
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次の日、私は初めてお店を休んだ。その次の日はとりあえず出勤したけど、自分の男性に対する価値観が砕けてしまったとあってまともな接客なんてとてもできなかった。シャンパンを始めお酒が強くない私は、緊張の糸がないとあっという間にアルコールの波に潰されてしまう。
「どうしたの、いつもの元気ないね。大丈夫」
そんな上辺だけの言葉は私の心には響かない。悪い流れはお店の売上にも響き出す。みんなの視線が白い。事情を知ってるママが咎めないので表立っての嫌がらせとかはなかったけど、ヘルプでついてくれる子がお客さんに私の悪口言ってたりとか、弱肉強食の世界ならではの重たい空気流れ始めていた。
もうお店やめよっかな。
ここで働く意味も見いだせなくなったのに無理して夜遅くまで嫌いなお酒を飲んでるのってほんとバカバカしい。
彼と出会ったのは、私がそこまで弱りきった時だった。
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昔から一度決めるとのめり込む性分だった。合気道も勉強も蕎麦打ちも。そう、恋愛も。
あの日から僕は恋愛に関する書物を読み漁った。如何に女を口説くか。しかも相手は難攻不落のキャバ嬢である。だが譲る気は毛頭、無い。
先ず彼女等ならではの特徴について探る。基本的に容姿がよく、それをわかった上で商売をしている。故に褒められるなんて当然でプライドも人一倍高い。先ずこのプライドを如何にしてへし折るかが攻略への糸口となる。ツンデレの有効利用が効果的かな。トークは七対三くらいで聞き手に回る。
次に自分自身。服装は綺麗目がベタでスーツがベスト。イケメンか否かより清潔感、一流になればなる程服以上に頭髪・爪・靴をチェックする傾向にあり。
酒の飲み方、お金の使い方も綺麗でなくてはいけない。特にこの地域の労働層の質が悪いことを考えれば尚効果が期待できる。
その他連絡先交換の際の注意点からメール、デートの誘い方まで諸々の座学を武装して武者修行に励む。狙うは普通っぽくてお疲れ気味で経験が浅い子。
ナンパ師もびっくりの成長速度で僕は夜の世界に染まっていった。はず。
眼鏡に叶う子が現れる迄、野獣が如く目をギラつかせて。
人肌が恋しくなる吹雪の夜のこと。その出逢いは訪れた。
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十一月も半ばを過ぎたあたり。忘年会帰りのお客さんも増え始めお店も稼ぎ時なんだけど。大雪で閑古鳥がなくお店に、彼は颯爽と入ってきた。整えられた頭髪に積もった雪を落としながら。
現場のおじさんみたいな人達が客層の多くを占めるこの店で、彼の清潔感は群を抜いていた。無意識に好印象を抱く。
彼の席についた私は、名前や職業など当たり障りのない事から会話をはじめる。そのあいだ彼は終始視線を合わせてくれなかった。名前すら教えてはくれず、わかったのはお仕事のみ。正直こんな事は初めてだった。
天性の人あたりの良さと容姿のお陰で、今までどんなお客さんでもそこそこ打ち解けることが出来たのに。
弱っていた心と相成って不安と焦りが募り始める中、三十分が過ぎてボーイさんから声がかかる。何とかしなきゃと、一コール目を無視して私は席にとどまった。
ややあって、彼が不意に口を開く
「もう少しいてくれませんか」
「えぇっっ!」
思わず小さく叫んでしまった私が恥ずかしい。そんな私を横目に彼はボーイさんに指名の旨を伝えた。そしておもむろに話し始める。
「無愛想でごめん。愛斗です。こんな可愛い子初めてで、緊張しちゃって。これメアドと携番です。これからもよろしく」
言い終わるか否かのタイミングでカルーアミルクが運ばれてくる。私が強いお酒がダメなのをまるで知っていたかのように。
それからの三十分は一瞬だった。愛斗君の包容力ある話術と、さっきとは打って変わって見せる屈託ない笑顔に私の心は奪われてゆく。
トークが佳境を迎えた所で一セット目が終わりを迎える。彼は早朝から仕込みがあるらしく、今日はこれで帰るという。
もっと愛斗君を知りたい。もっと愛斗君と話したい。
次の日、小さなメモに達筆な字で書かれた番号に私は無意識に電話してしまった。この人なら今の自分の気持ちを受け止めてくれるかもしれない。そんな淡い期待も抱きながら。
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経験とは恐ろしい物である。合気道に於いても、稽古でいい動きが出来ているのに試合でなかなか初勝利を挙げられない人が多いが、これは往々にして勝ち方を知らないことが原因である。一度勝つとがらっと変わる。恋愛も同じ。
大雪の日にふらっと入ったスナックで出逢った子。可愛くて明るくて接客慣れしてるのにどこか自信がない感じの子。この子は落ちる。
そう直感した僕は今までの修行の全てをぶつけた。入りのツンデレ、ギャップの笑顔。ボーイさんに予め聞いておいた彼女の好みのお酒。盛り上がったところで帰る絶妙な引き際エトセトラ。
絶対に勝つために徹底して準備するのはプロの条件である。
結果は上々。世の童貞諸君よ。努力で恋愛は実るのだよ、俺様を見習いたまえとドヤ顔で言いふらしたくなったのは秘密である。
かく言う僕も童貞なんだけどね。
ほら、電話がかかってきた。
向こうが僕に好意を抱いているのは最早明らかである。世間話をしつつ次の休みに晩御飯を食べに行く約束を取り付け、その日は電話を置いた。
選択したのは近所の和食屋。お互い気を遣わず、でも雰囲気のいい店。旬の寒ブリや牡蠣などを楽しみながら、僕は熱燗、美奈ちゃんは梅酒を。相変わらず可愛い。
しかもスナックの中独特のお仕事感が抜け、彼女本来のやわらかさと素直さが顔を覗かせる。それにしても酔が回り始めた女の子の目って、なんでこんなに色っぽいんだろう。
ほろ酔い気分でお互い饒舌になり、彼女は自分の身の上について語り始める。既に両親のいない僕はその話も交えつつ相槌を打つ。意外な共通項が二人の距離を一層近づける。そして僕の自信は確信に変わった。
そのまま彼女の店に行く。その日は新規のお客さんと指名が被ったみたいで彼女は何度か席を外す。その間ヘルプでついてくれた子にも細やかな心遣いは欠かさない。外堀もきっちり埋めるべし。
どうでもいいようなことを考えていると隣の席から突如として怒声が飛ぶ。どうせアフター誘って断られたとかそんなんだろう。荒くれ者の多いこの辺りの酒場ではよくあることなのだが、やられた方は商売あがったりである。
ボーイさんがすかさず止めに入る。が、酔っぱらいは何やら相当ご立腹な様子でボーイさんを張り倒す。男性店員三人総出で抑えにかかるが手に負えない。
相手は大柄な男二人。問題はあるまい。死角から一瞬にして間合いを詰めると一人目を床に投げる。
二人目が気づいて右ストレート見舞ってくるが、冷静に躱して右肘を極め、一人目と折り重ねるようにして床へ。その間僅か四秒。
この街では親父以外には負ける気がしない、うん。
お縄になった連中を尻目に、これは間違いなく株が上がったと皮算用をしながらヘルプの子とのトークを再開する。そこで何気なく放ったその子の一言は僕を凍りつかせるのに十分だった。
「この業界の子って、軽いとか股が緩いとか思われているけど、嬢である以前にみんな一人の女の子なんだよ。男連中ってどうしてそれに気づいてあげられないんだろうね」
はたと気づかされる。僕はそもそも美奈ちゃんが好きなのだろうかと。座学を学びテクニックを駆使し女を口説く術を手に入れた。
しかしそれは己のためではなかったか。己の欲望を満たすためではなかったのかと。僕のことを信用し、揺らぐ心の内を吐露してくれた彼女と女を口説き落とすことを最終目的としていた僕。
決定的な温度差が心にのしかかる。付き合うとかそれ以前の問題。僕は彼女を、一人の嬢ではなく、榮美奈として心の底から愛していたのだろうか。僕は彼女を愛する資格があるのだろうか。
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初めての店外デートだったのに、自分の身の上ばかり話してしまった。
お酒の席だったのもあってか、止めど無く溢れる言葉を抑えることができなかった。それくらい彼は優しく、あたたかく私を受け止めてくれた。
でも、あの日から彼のメールがどことなく素っ気ない。やっぱりまずかったかな。重い女だと思われたかな。
マイナスはマイナスを呼び、少しずつではあるけれど愛斗君と疎遠になって行く気がした。どうしても送信ボタンが押せない。これ以上嫌われるのが怖い。
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それからは苦悩の日々が続いた。師走も半ばに差し掛かり、彼女のことを忘れんが如く僕は一心不乱に働いたのだが。考えるほどに深みに嵌まる。
不運な境遇にも負けずに一生懸命生きてきた彼女。学歴もなく世の中も知らない学生風情が働くことの辛さを身を以て知っていた僕は、無意識に美奈ちゃんに惚れていたのかもしれない。あの笑顔がもう一度見たい。もう一度会って、心の内を伝えたい。
途絶えがちだったメール。文章構成に異常に悩む。好きになった気持ちに気づいた今、素直になれない自分がいる。決死の想いで指先を動かす。
「大晦日の仕事終わり、初詣行きませんか?」
二時間ほど経っただろうか、眠れずに星空を眺めていた僕の携帯が振動する。
「十一時半まではお店なので、そのあとでもよければ……」
二十四時に迎えに行く旨だけを伝え、短いやりとりは終わった。
忘れもしない。
吐息さえも凍て付きそうな夜だった。
最後の年越し蕎麦の配達を終えた僕はフルスロットルで身支度を整え、彼女の待つ店に向かう。現在二十三時三十分。時間は十分すぎるほどある。
女の子を迎えに行くのに配達用の二トントラックなんて一寸常軌を外れている気もするが、見てくれなんて気にしない。唯思いの丈をぶつけるだけ。仕事に、合気道にそれを捧げたように。いやそれ以上に。
朝の道場で稽古前に組む黙想さながらの澄み切った心で、僕は静寂に街に飛び出す。
「お前もやっと男の面構えになってきたな」
すれ違いざまに呟やかれた親父の一言は空耳だったのだろうか。
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除夜の鐘が街にこだまし始める。その数と共に私の心も膨らんでゆく。
予定通りにお店は締まり、片付けをして着替えを済ませ、彼の到着を待つ。時刻は二十三時四十五分を指していた。
二分後に携帯が鳴る。
「お仕事大丈夫?」
「大丈夫です。いつでも出発できます!」
「よかった。表にいるから出てきてもらってもいい?」
心を躍らせながらお店を出ると、トラックの上から愛斗君が手を振っている。ちょっと呆気にとられてしまったけど、乗るときに彼が手を握ってくれたから嬉しさの方が強かったかな。
程なくして神社につく。さすがに手水は凍ってたけど、形式通り参拝した。
おみくじを引き露天で甘酒を飲んで温まる。それでも寒そうにしていた私に、彼はそっと自分のコートを羽織らせてくれる。
温かい。とても温かい。
「ありがとう。ところで愛斗君は何をお願いしたの」
「いつも見守って下さって有難うございますってさ。神社って本当は願う所じゃなくて、感謝する所なんだって親父にいつも言われてて。蕎麦にも武道にもその道の神様がいてさ、それで……」
やっぱり武道やってる職人さんは違うなーなんて思ってたら、恥ずかしそうに上ずった声がする。
「でも今年は一つだけ神頼みしちゃった」
「え?なになに?」
「……それはね」
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片思いの切なさを超えた二つの想いは、今宵神の宮代の下で一つになった。