クリスマスのおはなし 前編
人生初めての彼氏ができた。私は浮かれていた。
何気ないことをメールしたり、夜には必ず電話したり、週末にはどこかに出かけたり。友だちじゃ感じられなかったこの楽しさと嬉しさを、私は29年間知らなかったのだ。何とか元(?)をとろうと、毎日毎日毎日、滝岡のことを考える日々を過ごしていた。
「明日、仕事入った」
「……」
とりあえず無言になってみる。天気予報が晴れマークを告げる連休、少し遠出でもしてみようと持ちかけたのは私だ。寒い季節だけれど家にじっとしているなんてもったいない。お寺巡りがいいなあと車でいける範囲のガイドブックを買い漁っていたというのに、滝岡からの無情な宣告は前日急に届いた。
彼の仕事上、休みの日に仕事が入るのは仕方ないと分かっている。情報システム部とは社内のあらゆるシステムの管理をしている部署であり、メンテナンスをするとなればシステムが動いていない休日になってしまうのだ。もちろん繁忙期でなければ平日に代休をとれるのだが、それだと2人揃っての休日を過ごすことができない。そんなの意味がない!!と私は、最近彼のスケジュールに敏感になっていた。
「理子?」
「あ、はい。ええっと」
「焦げてる、それ」
焼肉屋。金曜日の夜は外食をすることが多い。一週間分の仕事を労う意味でも、ちょっとした贅沢をしている気分だ。これも独り身のときでは味わえなかった。
でも肉は焦げ始めている。野菜も、ホタテも。私を待ってはくれないのだ。
滝岡が明日、仕事だということの事実に変わりはない。
「……急にテンション下げるなよ」
ぼそりと呟いた目の前の人は、焦げ始めたそれらを器用に自分の箸で掴む。
「だって」
「しょうがないだろ。急なメンテだから家族持ちの人らは難しいんだよ」
滝岡の言い分は分かる。そりゃ独身の彼のほうが動きやすいし、スケジュールだってどうにでもなる。でもそれって、結婚して子どもがいりゃいいのって言いたくなる。まだ付き合って日が浅いから決して口に出しては言えないが、そんなふうに独身者がコキ使われるなんて明らかに不当だ。付き合い始めの、しかも初めて彼氏ができた私にも似たような気遣いがあってもいいのではないのか。
「あ、ホタテうま。もういっこ頼んでいい?」
骨張った浅黒い手がメニュー表を掴む。
「……ねえ、明日って、何時から何時まで?」
「仕事? 朝早めに出て、終わりはいつも通りくらい」
「えー……メンテナンスってそんな時間かかるの?」
「まあ、早く終わる可能性もあるけど、動作確認とか休日じゃないとゆっくりできないし、それも全部片付けてると定時過ぎるな。理子はどっか出かけてきたら、せっかく天気いいんだし」
えーえーえー、と心の中でブーイングをかます。
できることなら滝岡の家で、滝岡の帰りを待っていたい。でも素直にそう言えない私は、あからさまに不機嫌顔でこう言うしかない。
「……一人ででかけても、つまんないもん」
「誰か友だちとか誘えば?」
「そんな急に誘っても、みんな予定入ってるもん」
これはおそらく本当だ。この歳になると大体の友だちは結婚しているか、彼氏持ちか。そんな子たちを週末急に誘っても結果は見えているだろう。
「映画は? この間観たいのあるって言ってただろ。なんだっけ、何かの漫画を実写したやつ」
それは、滝岡と観たかったのに。映画も何度か行ったけれど、一人で行くのと、彼氏と行くのでは全然違う。もちろん前者も気楽でいいのだが、まだまだ私には彼氏との時間のほうが大事なのだ。
「……混んでるし、いい。家にいる」
「ふーん」
私が拗ねたととったのか、滝岡はそれきりメニュー表に視線を走らせ黙りこむ。
本当ならこの一週間でのこと、ほとんどはどうでもいい報告や愚痴だけれど、たくさん話をしながらご飯を食べたかった。なのに彼から告げられた「明日仕事」の一言でこんなに気分も空気も下がってしまう。もともと滝岡はそんなに喋るほうじゃなくて、私のほうがぎゃあぎゃあとうるさいのだ。つまり私のテンションが下がってしまうと、自然と2人の空気も決まってしまう。
「じゃあ、飯食ったら送ってく」
じゅうじゅうという音しかしない中で、滝岡はぼそりと伝えてきた。
お泊まりもなしか。そうだよね、明日早いんだもんね。同じ社内といっても滅多に会えることもなくて、人前でベタベタするタイプじゃない彼がこの店に来るまで私に触れることすらなくて、手を繋ぐこともキスも貰えていない私はおあずけを食らった犬のように見えない尻尾を下げていた。
「……日曜は?」
私がやっとの思いでそれだけ絞り出すと、重い空気を和らげるように滝岡は表情を緩めた。
「なんだっけ? 寺? どこがいいんだよ」
「……あ、えっと、ここ。これ!」
鞄につっこんでいたガイドブックには付箋がいくつか。
「あー……ここなら日帰りで行けるな。早起きしろよ?」
「うん……うん!」
喉が詰まったような感覚が、ようやくなくなる。私は目の前の少し焦げたお肉に、箸を伸ばした。
お店を出ると一台のタクシーに2人で乗って、滝岡が私の家の住所を運転手に伝える。こういうときにべらべらと話しかけてくる運転手もいるけれど、今日の人は寡黙なタイプのようで静かに発車させた。
「ね、ね」
小声を出しながらそちらに手を伸ばし、座席をぽんぽんと叩く。窓の向こうを見ていた彼は私に気付き、「ん?」とこちらを見た。
「あれ、すごいよね。近くで見たくない?」
さきほどまで滝岡が見ていたのは、駅前に彩られるクリスマスイルミネーション。正直なところ、会社帰りに遠目には何度も見てはいる。でも彼氏と2人でそれを目的にデートするとなるとまた特別だ。私が憧れていた彼氏とのシチュエーションのひとつだ。
「まあ……うん」
いまいち、か。
私がこうやって提案したときの滝岡の反応は色々あって、例えば間髪入れずに「行く?」と言ってくれれば好感触で、今みたいに間があいて返事があればいまいちということ。本当に行きたくないときは、「微妙だな」と非常に微妙な返事が返ってくる。
でもこの程度で私はめげない。さすがに「微妙」だと言われたら引き下がるが、説得すれば頷いてもらえるレベルだということを知っている。
「あれ毎年違うイルミネーションなんだって。写真撮るだけでもいいんだけどなあ。あそこなら会社帰りに行けるし、もうほんの一瞬、行って帰るだけ」
なおも小声のまま続ける私に、滝岡は視線を合わせる。もうイルミネーションの場所からは離れて、お店が続く国道沿いを走っている。
「ああ、うん。いいよ」
やったあ! おゆるしがでた!!
「ほんと? じゃあ、行こうね。24日、大丈夫?」
24日、今年は平日。特に会う約束はしていなかった。でも私にとっては人生で初めて、彼氏と一緒に過ごすクリスマスだ。一緒にイルミネーションを見に行くとしたら、絶対に25日よりも24日に行きたい。
「24日って、水曜日か」
「だめ? 水曜日、だめ?」
「いや、遅番だからなあと思って」
滝岡の所属する情報システム部には早番と遅番がある。私のような営業事務は日によって勤務時間が変わるなんてことはないが、会社のシステムに関わる部署なので定時の前後2時間をずらして出勤しいているらしい。つまり遅番だと仕事終わりが20時になるというのだ。
「年末だし、定時すぐに切り上げられないかもしれない」
「あ……そうなんだ。そうだよね、忙しそうだもんね、情シス」
来年から社内のパソコンを入れ替えるらしく、必要台数や型番のアンケートがまわってきていた。付き合い始めのころは平日も会っていたが、ここのところは週末だけになっていた。
「また、連絡する」
「うん。あの、無理ならいいから」
負担にだけはなりたくない。間違っても、滝岡のお荷物にはなりたくない。
私がそう言ったきりタクシーの中には沈黙が落ち、移りゆく外の景色に視線を向けた。
自分の部屋に戻ってきて、テレビの前に座ってふうと息を吐く。クリスマスイブに約束をはっきりと取り付けられなかったことに落ち込みつつも、とりあえずは明後日のお出かけのことを考えようと思い直す。ガイドブックをもう一度見ようと鞄をあさっていると、携帯電話の着信ランプが点灯しているのに気付く。もしかして滝岡かな、と慌てて携帯を開くと久しぶりに見る名前。
「……陽子?」
大学時代の友人の一人である陽子とは、長らく「彼氏いない同盟」を組んでいた。それも大学時代までで社会人になった陽子にはあっさりと彼氏ができたのだが、彼女は彼氏と別れるたびに私に連絡を寄越してくる。今回もきっとそうだろうな、折り返すかどうか迷った。携帯を握りしめたままぼうっとしていると、再びそれは鳴りだした。
「もしもし?」
『あ、理子ー! ごめんごめん、今大丈夫?』
「うん、平気」
実はまた彼氏と別れちゃってさあ、なんて続くのかと思っていたら、陽子の口から出てきたのは予想外の言葉だった。
『理子、明日暇? ちょっと付き合ってほしいところがあるんだよね』
「明日……あー……まあ」
家のことでもしようかと思っていた、何もすることのない休日。どうせ滝岡を待つしかできないのであれば、久しぶりに友人と遊ぶのも悪くない。
「いいよ。でも夜には帰りたいから、夕方まででいい?」
『オッケー、オッケー。じゃあ駅前に10時で!』
「で、どこ行くの? 買い物?」
『まあ、明日になってのお楽しみってことで。きっと理子も喜ぶよ』
なんだろう、何か大きなイベントでもあるのかな。バーゲンだろうか。どちらにしろ明日になれば分かるのだし、と私は気にも留めず電話を切った。
きっと街中に出かけるのだろうと思ってきれいめのワンピースにブーツを穿いた私は、翌日駅前に現れた陽子の姿を見て呆然としていた。
「陽子、服の趣味変わったの?」
お姉さん系(といっても年相応なのだけれど)の服が多い彼女にしては、カジュアルな服装だった。細めのデニムに、Vネックのカットソー。ダウンジャケットを羽織っていた。
「ふふ、今日はこれでいいのよ。……あー、理子にも行き先言っておけばよかったかな」
「え、何? どこへ行くわけ?」
「これ!」
彼女は自分のスマホを私の目の前に近づける。大きめの画面にはカラフルに『婚活バーベキュー』という文字が踊っていた。
「こんかつ?」
「婚活。うちらもう29歳でしょ? もうすぐ29歳のクリスマスだっていうのに、私ここのところまったく男運なくってさあ……一発逆転、結婚する気のある男との出会いを求めてみようと思ったのよ」
そういえば陽子が最近付き合っていたのは、随分年下の子だと風の噂で聞いた。
「ね、もしかして、また別れたの……?」
「やっぱ若い男はだめだね。結婚する気ないし、稼ぎも私のほうが上だし。そいつが適齢期になるの待ってたらこっちはおばあちゃんだよ。だからね、今回は私からさよならしたんだ」
そうか、その意気込みだから今回は連絡がなかったのか。妙に納得していると、ふとあることに気付く。その婚活バーベキュー……今から行くのだろうか?
「どうせ理子も彼氏いないんでしょ? 20代最後のクリスマスに即席の彼氏でもいたら思い出になるじゃん。それが結婚に繋がれば万々歳だよねー!」
じゃあ行くよ、と私の手を引いて改札を通ろうとする彼女を私はやっと引き止めた。
「ちょ、ちょ、待った! 陽子、私彼氏いるから!」
言った後少し感動した。私、彼氏いるんです。この台詞、言ってみたかった……。
そんな私とは違い、陽子は「はえ?」という声を出しながら振り返る。
「え……理子、彼氏いるの? いつから?」
「今年の春くらいから、かな。前に陽子に会ったのお正月だったから、ちょうど言えてなかったけど」
「え、でもあんたいつも、彼氏できても長続きしなかったじゃん……私たち同じだと思ってたのに……!」
私の単なる見栄っ張りで、彼氏がいたこともある、という嘘をついていたら勝手に同志だと勘違いさせてしまった。初めてできた彼氏の滝岡と別れるつもりはさらさらないし、私のほうは今がラブラブ絶頂期だと思っている。
「いや、ごめん……そういうわけだから、その婚活バーベキューには行けない……」
「えっ、でもでも、もう参加料払っちゃったし、何より冬のバーベキューって人集まらなくて女の人は絶対来てくださいって主催の人からわざわざ連絡きてさあ……。最初は会社の同僚と申し込んでたんだけどその子インフルエンザになっちゃって、代わりの子探さなきゃいけなくて、でもこんなときに顔が思い浮かんだの理子だけなんだよー……」
「何で私……」
若干情けない気持ちになりながら、そういえば大学時代の友人はあらかた結婚していたと思い当たる。もし滝岡と付き合っていなければ、陽子の申し出はありがたいものだろう。
「理子、彼氏いたんだ……そうだよね、しばらく連絡とってなかったのに、近況も確認せずに婚活行こうなんてほうが無謀だよね……ああ、どうしよう……うう」
「ごめん、陽子……」
どうして私はこういうとき、困っている人を見ていられないんだろう。
「主催の人に絶対行きますって言っちゃったから……私は一人でも行かなきゃ……一人って結構きついよなあ……いくら男のほうが多い集まりっていってもさあ」
「陽子……」
私はこのまま家にUターンすれば、きっと陽子のことが気になって眠れないだろうなんて思ってしまって。
「あの、もし良かったら近くまで送って行こうか? 会場の雰囲気見て、一人でも入れそうなら行けばいいし、気まずい感じなら帰っちゃえばいいじゃん」
「え、理子……ついてきてくれるの?」
「うん、参加はできないけど、近くまでなら一緒に行くよ」
気まぐれにしか連絡してこない友人でも、大学時代を楽しく過ごした中の一人だ。幸せになってほしいと願う気持ちもある。そこに行けば陽子が、私にとっての滝岡に出会える可能性だってあるのだ。そう考えたら、できることがあるのならしてあげたいと思った。
電車に乗って少し歩いたところにある河原が会場になっているらしい。私たちはゆっくりとその集まりに近づきながら様子をうかがう。明らかに男性の多いそのグループは、私たちと同年代もいれば、ずいぶんと年上の方もいるようだ。婚活とはこういうことか、と私はぞくりとした。
「……陽子、どう?」
「うーん……どうしよう……行ってみようかなあ」
「同い年くらいの人もいるし、大丈夫かもよ? がんばれ」
私が背中を叩くと、陽子は何とか笑った。彼女が一歩踏み出そうとしたところで、その輪の中にいた一人が大きな声で
「安井さーん!」
と叫んだ。安井は陽子の名字だ。知り合い?と私が陽子の顔を見ると、気まずそうな顔でそちらに会釈を返していた。
「誰?」
「主催の川田さん。前のイベントでもお世話になったの……」
え、それって、私ここにいたらまずいのでは……と思っている間に川田さんは私たちとの距離をつめた。
「いやー、ありがとうございます! もう今日は本当に女性の方少なくて、みんな安井さんのお友だちを楽しみに待っていたんですよ」
安井さんのお友だち、イコール私。
「あ! 違うんです。私は、彼女をここまで送ってきただけで……あの!」
「えっ、ご参加になられないのですか……」
川田さんは変わりやすく肩を落とす。
「どうにかお願いできませんか……ほら見てください。私の背後の男性陣……」
そう言われて彼の後ろに見える人の塊。ちらちらとこちらを気にしている人もいれば、満面の笑みを向けている人もいる。
「ねえ、理子も参加しようよ?」
陽子は自分の肩を私の肩にぶつけて、とんでもないことを言い出す。
「いや、だから」
「彼氏いるのは分かってるよ? あ、川田さん。この子彼氏いるんです」
泣きそうな顔をした川田さんは、口をあんぐりとあけてさらに呆然としている。
「でも婚活じゃなくて異業種交流だと思えばいいじゃない。理子はお金出してないんだし、ただでバーベキューで飲み食いできると思ったらお得でしょ?」
「あのね、ただの事務職の私に異業種交流なんてメリットないし、私昨日も焼き肉食べたからただでバーベキューとか言われても……」
「お願い! もうこれ以上のことは何も言わないから!」
陽子はパンっと両手を合わせて私に頭を下げる。
滝岡の顔が思い浮かんでいたのに、私はそんなふうに頼まれることに弱かった。
駅前で陽子と別れ、一人歩き出す。
バーベキューは楽しかった。婚活といっても合コンのような雰囲気ではなく、男女交えて趣味のことや仕事の話をしていることが多かった。恋愛の話をいきなり出してくるような人もいなかったし、連絡先の交換というような空気になると川田さんと陽子が私をガードしてくれた。他にもみんなでゲームをしたりしているとあっという間に夕方の時間になっていた。
こちらに戻ってくるともう外は真っ暗で、街にはクリスマスを思い出させる音楽が流れている。
再来週はもう、クリスマスか。
今までの人生で、高校時代や大学時代はかろうじて友だちと過ごすこともあったが、社会人になれば一人で迎えるのがお決まりだったイベント。平日だったとしても無駄に夜更かししていて、定番のバラエティ番組を見て心を落ち着かせていた。今年、もし滝岡と24日を過ごせるのならば、ケーキを予約しなくてはいけないし、料理だってどういうものを作るのか考えなくてはいけない。やることはたくさんあるのに、肝心の約束が取り付けられなかった。
遅番ってことは、残業なく会社を出たとしてもイルミネーションをみて家に帰ってきたら22時過ぎてしまうだろう。そこからご飯やケーキを食べるのは少し重いし、うう、どうしよう。そうは思いつつも通りかかった書店で、クリスマス特集の雑誌を立ち読みしてメニューを考えてしまう。
「まあ、今はいいや」
小さく呟いて、雑誌を元に戻し書店を出る。もう19時近い。明日早起きすることを考えたら、早く帰って早めに寝なければ。
急ぎ足でマンションに戻ると、部屋の前に大きめの影ができていた。
「滝岡?」
その声に顔を上げた彼は、最初に目を見た後、私の格好を上から下まで確認する。どうしたんだろうと思って近づくと、寂しそうに顔を伏せていた。
「仕事早く終わったの? 寒くない? 中に入って」
気遣うように私が言っても、滝岡はそれを避けるように顔をそらした。
「いや、ここで」
「でも、寒いでしょ? あの、今、鍵あける……」
小さめのハンドバッグから鍵を出していると、滝岡はコートのポケットからスマホを出して何やら操作をしていた。ガラケーの私にはよく分からないその物体。鍵を開けながらその様子を見ていると、彼は私に画面を差し出してきた。
なにかの写真。その風景はどこかで見たことがある。十数人が全員ピースをして映っているそれは、間違いなく私がさきほどまで過ごしていた時間の情景と同じだった。
「これ、理子?」
滝岡の指差す先には、控えめに映る私がいた。今日のイベントの最後に行われた記念撮影。バーベキューの途中でも写真は何枚か撮っていたが、川田さんが気を遣ってくれて私にはカメラを向けなかった。男性から誘われても、「写真苦手なんです」と嘘をついて断っていた。でも最後の全員映る記念撮影だけは断れない雰囲気で、端っこのほうにいるようにしたのだが。
「……知り合いのフェイスブック、見てたら、知ってる服で。よく見たら理子っぽいし」
言い訳したいのに、言葉が出ない。今着ているワンピースは間違いなくよそ行きで、もちろん滝岡とのデートでもよく登場する一着だ。
「でもこの写真ぼんやりしてるし、違う人かなと思ってた。お前今日は、家にいるって言ってたから、きっと人間違いだろうと思って仕事終わってすぐ、ここに来てみたんだ。そしたら、お前はこの服を着て、今の時間に帰ってきた」
どういうこと?
そう言った滝岡の声は今まで聞いたことのない低さだ。
友だちに頼まれて、私は行き先を知らなくて。そう言い訳したいけれど、最終的にこのバーベキューに参加をすると決めたのは私だ。自分の軽卒な行動で滝岡に誤解されるかもしれない、傷つけてしまうかもしれないと分かっていたのに、そこを問われると否定することはできない。
「あ、あの……」
「これって、婚活なんだろ?」
「でも、何にも、なかった……誰も、なにも」
ちやほやはされたが、誰にも連絡先は教えてない。そう言いたいのに、うまく口が動かない。
「結婚したいの?」
顔を上げると、細い目は彼の胸のうちを痛いほど伝えてきた。なのにどう答えたらいいのか分からない。もし自分の心をさらけ出して、拒否されたら。「微妙」と言われたら。
自分がどうなってしまうのか、自分のことなのに分からない。
はあと吐いた息は、白く大きく私たちの間に広がった。
結婚の話は、今まで一度も私たちの間に出たことはなかった。滝岡の大学時代の友だちの結婚式の写真を見ても、それを自分たちに置き換えての話にはならなかった。付き合い始めだったし、お互いそこまで考えてなかったというのもある。でも何となく話題に出さないのは、暗黙の了解だと思っていた。まだもう少し時間が必要なのだと、私は思っていた。
私がそれを願う先にいるのは、もちろんたった一人なのに。
「俺じゃ、だめなのか」
慌てて首を横に振った。言葉が出ない代わりに、必死に態度で伝えた。もう誰に見られても構わないと、滝岡の腕にすがりついた。
「じゃあ、結婚する?」
じゃあ、なんて言わないで。そんなふうに簡単に、滝岡の言葉に明らかに心はこもっていなかった。世間でいうところのプロポーズなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。
私の頬を伝う涙が答えと受け取ったのか、滝岡は静かに私の体を離し部屋のドアを開けて中に押し込む。ほんの少しあいた隙間から彼の顔を見上げると、私を見ていたその瞳は気まずそうに違う方へ向いた。
「……明日、無理そう。仕事、残してきたから」
滝岡はこの時間に私を待っていた。きっと定時になってすぐに会社を出たのだろう。すぐには帰れないなんて言っていたのに。
別にそれはいい。明日のことなんてどうでもいい。
「……ねえ」
終わりじゃないよね。またメールしてもいいよね。
私がそう言う前に、私たちを繋いでいたほんの少しの空間は彼の手によって閉ざされた。ゆっくりと離れていく足音が聞こえなくなるまで、私の涙は止まることがなかった。