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滝岡の寝息が規則正しくなってきたのを確認して、寝室を出てリビングに戻る。来客用の布団を貸してもらったので、テーブルは端に寄せて支度をする。こうする前にも、どっちがリビングで寝るか一悶着あった。もちろん滝岡にベッドで寝てもらうことを譲らなかったが、私がいることによって逆に気を遣わせているようで申し訳ない。明日は早めに起きようと、リビングの電気も消し布団に入った。
先週も借りた、サイズの大きいパジャマ。滝岡の匂いが心地よい。
ごろんと寝転がっていると、真っ暗な中でも目がさえてくる。すぐには眠れなくて視線を彷徨わせていると、きらりと小さく光るものに気付いた。テレビ台の下の隙間だ。何だろう、時間を持て余していた私は特に深く考えず、体を起こしその光の方向に手を伸ばした。
ひんやりと固い感触。咄嗟に、アクセサリーのたぐいだと分かった。すぐにそれを掴むことはせず、その場で形を確かめる。ピアスだ。おそらく女物だ。引っ張りだすのが怖いのに、もう止められなかった。恐る恐るそれを手にとり、至近距離で確認する。
花の形の真ん中に、小さなストーンが埋め込まれている。念のためもう一度テレビ台の下を覗いたが、対のピアスは見当たらなかった。
朝は苦労せずに目覚められた。というよりもほとんど眠れなくて、明るくなるのを心待ちにしていた。
できるだけ音をたてないように、布団を片付ける、テーブルを元に戻しているところで、寝室から足音が聞こえた。まずい、起こしてしまっただろうか。
「……おはよ」
半分寝ぼけたような声で、扉から姿を見せた滝岡は昨日より随分顔色が良かった。
「おはよう。調子どう?」
「あー、うん、結構楽。多分寝不足もあったから」
「熱は?」
今から計る、と昨日私が買ってきた体温計を振ってみせる。
テーブルの前に腰を下ろし、スウェットの首から体温計を脇に挟んでいる。もう少し寝ててもいいんだけど、と思いながら隣で体温計が鳴るのを待つ。
「……37.2。微熱ってとこか」
「良かったね。風邪薬効いたのかもね」
「これって、もう治ってんのかな」
滝岡が私の顔を覗き込みながら尋ねてくる。私に言われても医者じゃないのに分からない。
「お医者さん、行く?」
「いい。もうそんなに熱ないし」
「……そっか」
もし今日の朝回復してなかったら病院に連れて行って……と考えていたが、その必要もないのだ。
「理子?」
「はえ?」
急に名前を呼ばれ、動揺して変な声が出た。
「昼、うどんが食いたい。きつねうどん」
「うど……え、うどん」
「うん。で、夜は、親子丼」
え、私が、作るの?
思わず尋ねたら、「当たり前だろーが」と返された。
ピアスのことをいつ切り出そう。ポケットに強く感じる存在感を常に意識しながら、私は様子をうかがっていた。
滝岡は私のそんな葛藤を気にすることなく、昨日の残りのおかゆと煮物を食べている。
あのピアスが、元カノのものなんて分からない。滝岡に元カノが何人いるのかなんて私には分からないし、彼女以外の女性がこの部屋に入ってる可能性だってあるのだ。
食べ終わった食器を片付けながら、ぼんやりと滝岡の過去に思いを巡らせていた。
「手伝うか」
薬を飲んだ彼が、シンクの前に立つ私の隣へやってきた。
「いいって。寝てなよ、まだ微熱あるんだし」
「いっぱい寝たから眠くない」
子どものようなことを言っている。こんなふうな姿は、友だちとしてだけの付き合いのときには、絶対に見せなかった。きっと今までの彼女は、こんな滝岡を知っているんだろうな。
そう思うと、妙に悲しく、そして羨ましい。
「これ洗ったら買い物行ってくるから、お昼までは寝てなよ。薬効かないよ」
「買い物? 俺も行く」
「病人でしょ、何言ってんの」
私が出かける寸前まで自分も行くとごねていたが、何とか寝室に押し込め一人で部屋を出た。また持たされた財布をとりあえず鞄にいれ、スーパーではなくいったん自分の家に戻る。今度はそれも彼に伝えてきたため多少帰りが遅くなっても大丈夫だ。
再び滝岡の部屋に戻ってきたとき、玄関に入ると楽しそうな話し声が聞こえた。普段あんまり笑わない奴なのに、ご機嫌に電話をしているようだ。私の足音に気付いて、数秒目が合ったけれど何もなくまたそらされる。
寝てろって言ったのに、言うこと聞かずに起きて電話しているなんて。人に看病しろとか、治るまで傍にいろとか言うくせに、誰と喋っているの。
想像もしたくなくて、私はもくもくと買ってきたものを冷蔵庫に詰めた。
「ありがと。美味かった」
うどんは滝岡のリクエストだっただけあって、おかゆよりも食いつきが良かった。調子が戻って食欲も出てきたんだろう。昼が終わったあとに熱を測ると、今度は36.8℃。熱は完全に下がったようだった。
「お粗末様です」
「なあ、片付けやるよ」
器を持とうとした滝岡に負けないように、さっさと二つのそれを重ねて持ち立ち上がる。
「……理子?」
「いいって。それより、体調戻ったなら私、帰るよ。材料買ってきたから、親子丼は作るけど、夕方には帰るからね? 私だって、休みには帰って家のこと色々、片付けたいし」
何を私は、帰る帰ると連発しているのだろう。まるで止めてほしいみたいじゃないか。決してそんな意図ではないのに、後ろめたさは拭いきれない。
「……あそう」
「そうだよ。私だって、貴重な休みだもん」
嘘ばっかり。滝岡に会いたいって自分から押し掛けたくせに。看病だってできたの嬉しかったのに。
本当に可愛くない。言ったあと後悔したのに、言葉は止まらなかった。
「あとこれ。昨日夜に見つけた。テレビ台のあたりに落ちてた」
ポケットに入っていたピアスを、ころんとテーブルに出す。明るいところで見ると、ぴかぴかと輝いているが形が少しいびつだ。
「ピアス、か?」
分かりきってるくせに、白々しくそれに顔を寄せている。でも私には誰のものだんだとか、いつ落とされたものなのかとか、滝岡を責める権利はない。ただ事実をありのままに伝えるだけだ。
「……あ!」
何か思い出したように、傍らに置いてある携帯を手に持つ。私が不審げに見ていることなんて構いもせずに、迷わずリダイアルボタンを押していた。
「……もしもし? さっき言ってたピアス出てきた。花の形のやつだろ? 一個でいいんだよな」
持ち主はすぐに思い当たったようだ。しかも会話の内容からして、さきほど帰ってきたときに電話していた相手らしい。タイミングが良いようで悪い自分が恨めしい。
「うん、そうそう。テレビの辺り。……あー、だよな。確かあんとき掃除とかしてくれてたし、それで落としたんじゃね」
掃除。なんだ、掃除してくれる相手いるんだ。だから昨日私が掃除しよっかって言っても断ったんだよね。今日だって部屋、そんなに汚くないし。
「おー、じゃあちょうどいいじゃん。うん、30分後な。了解」
電話は切れたが、真横でがっつりと話を聞いてしまった私は、急に気まずくなる。
今からその彼女がここに来るらしい。あと30分で片付けて親子丼作って帰れるだろうか。でも、掃除をしてくれる彼女が来るなら、私が作らなくてもいいんじゃないのか親子丼。
ぐるぐると考えすぎて、次何をすればいいのか頭がそちらに働かない。
「もうすぐしたら人が来る」
分かってますよ、彼女でしょ。それとも私みたいな人があと何人もいるわけ?
イライラして、まともに返事をするのを忘れている。
「理子?」
「……ん?」
「コーヒー飲みたいから付き合って」
病人のくせにコーヒーとか。
心の中でグチるが、滝岡がコーヒーサーバーのスイッチを押したので諦める。こいつがその彼女のことを隠さないのであれば、私だって構わない。
「何時頃帰る? 送ってく」
「……いいよ、人来るんでしょ」
うどんが入っていた器を洗いながら返事をした。水は明らかに強めに流れてきている。
「来るっつっても本当に来るだけ。風邪うつしても悪いし、そんな長居してもらうつもりない」
私に対しては、風邪がうつるなんて気遣いなかったくせに、その彼女にはあるんだ。
もう自分の卑屈さが最高潮まで高まっているのが分かる。こいつの発言ひとつひとつに、私へは感じない優しさを知って辛くなった。
でもこんな自分を知られたくない。嫉妬深くて、可愛くない、最悪な私。
まだプライドが捨てられない。滝岡は持ってればなんて言うけれど、これほど邪魔なものはない。
「……したは、」
顔を上げる。私を見ていた滝岡と目が合う。
何か言いかけていたのに、唇はその瞬間きゅっと結ばれた。
「……なんつー顔してんだよ」
「え……」
「何、思い詰めた顔してんだよ」
自分で自分の表情は分からず、水でぬれた手のひらを頬に当てる。
それきり黙ったまま、二つのマグカップにコーヒーが注がれるのをただ見ていた。
コーヒーを飲んだあと親子丼の準備をしていると、インターホンが鳴る。咄嗟に時計を見ると、ちょうど30分経った時間だった。滝岡はテーブルに置いてあったピアスを手に取り、室内からオートロックを解除している。そしてそのまま玄関へ向かった。
私の知らない彼女と顔を合わせても構わないと思っていたが、いざその時が訪れるとやはり怖い。けれど私が出て行って挨拶するなんておかしいだろう。なぜか息を殺して、玄関の気配に集中していた。
「これ、真由子のだろ」
滝岡の声が聞こえる。真由子と呼ばれた彼女は、
「あー、これ! すごく探してたのー、ありがとう!」
と高い声で喜んでいる。声だけで外見なんて想像できないけど、某アナウンサー似の元カノがいたくらいだから、きっと美人な子なんだろう。
「手作りだから落ちやすくって気を付けてたのに……ごめんね、健吾くん」
「俺もすぐ気付かなくて悪かった」
「ううん。私が悪いんだ。せっかくのプレゼントなのに大事にしないで」
あのピアスで手作りでプレゼント。それは、滝岡からだろうか。下の名前で呼んでいることが、その親しさを表している。
「……良かったな、真由子」
明らかに、滝岡とは違う男の声が聞こえる。
どういうわけか理解できず、耳をすます。
「ごめんねえ、玲司。でも見つかってよかった。もう、付けない! 鑑賞用にするから」
「鑑賞って……まあ落ちやすい造りにした俺が悪いわな」
「もう一個作ってやれよ。今度は落ちないやつ」
これは滝岡の声だ。冷やかすような口調。
「え、ほんと!? 玲司、また作ってくれるの?」
「いやいやいや、勝手に話を進めるな」
人数は二人ではなく、三人だ、どうやら。
「コーヒーでも飲んでく?」
「ごめん、これから式の打ち合わせなんだ。あ、14時だっけ?」
「うん。残念だけど、また今度遊びにくるね、健吾くん」
式?と首を傾げていると、玄関のほうから「理子!」と呼ばれた。もちろん滝岡の声で。
私はぎょっと固まる。これ、呼ばれているのでしょうか。
もう一度、今後はさらに大きな声で呼ばれて、私は仕方なく廊下にひょこっと顔を出す。そこから見えたのは穏やかそうな顔をした男性と、ふんわりとした可愛らしい女性の、明らかにカップルと分かる二人だった。
「……で、え? マジ?」
「え……えー! 健吾くん、彼女できてたの?」
私はひたすら驚いているその二人ばかり見ていたので、滝岡がどんな顔をしていたのかは分からない。
でもこうして顔を合わせたからには挨拶をしなくてはいけないのだろう。おずおずと体を全部出し、
「初めまして、内田理子です」
とお辞儀をした。
「……あ、どうも。すみません。えっと、仙波玲司です。滝岡とは、大学んときゼミが一緒で」
「あ! 私、遠藤真由子です。同じく、けん……滝、岡くんとゼミが一緒でした!」
どこからどう見ても幸せそうな二人は、何となく雰囲気も似ていて微笑ましかった。
「なんだよー言えよなー。色々聞きたすぎるんだけど……マジで近いうちにまた来るからな」
「そうだよね、絶対そうしよう! 内田さんも、ぜひご一緒してくださいね」
真由子さんにまぶしいほどの笑顔でそう言われて、こちらもつられて笑顔で頷いた。
素敵な二人と別れ、ふうと息をついた。玄関先で滝岡が私を見ている。目を合わせるのが妙に恥ずかしくなって、キッチンに戻った。
あのピアスは滝岡の彼女ではなく、友だちカップルが前に来たときに落としていったものらしい。くだらない想像でイライラしていた自分が馬鹿みたいだ。こんなに自分が嫉妬深い女だなんて初めて知った。今まで片思いばかりで終わっていたから、嫉妬という感情まで行き着いていなくて。
「手伝う」
滝岡は私の隣に立つ。こんな自分、彼には知られたくない。
それをごまかすように、卵を割ったボウルを手渡した。
「かき混ぜて」
「……これでいい?」
全く料理をしないわけではないのだろう。手際は悪くない。
うんと頷いて、私は黙った。
「……ちょっと前、あの液晶テレビ。貰ったんだ、玲司に。二人結婚して一緒に暮らすから一つテレビが余るからって。うちに運んでくれたとき、真由子が落としていったんだ。色々家具動かしてたから、その拍子だと思う。見つけてくれてありがとうな」
「ううん。……偶然、だから」
「あれ、玲司が真由子の誕生日に手作りでプレゼントしたやつで、すげえ思い入れあるものらしいんだ」
二人は大学卒業してずっと付き合ってて、来月結婚式を挙げるらしい。大学時代はよく三人で遊んでいて、真由子さんとも男女の隔たりなしに信頼し合っているようだ。滝岡は、すらすらと私に二人のことを教えてくれた。
「また、会うか?」
溶き終わった卵のボウルを、シンクに置いて言った。
「あの二人に」
「私、が?」
「うん、四人で」
確かに真由子さんはまたご一緒してくださいと言っていた。私もそれに頷いた。でもそれはいわゆる社交辞令というやつなのではないか。嬉しくなかったわけではない。今まで彼氏のいなかった私は、友だちカップル同士の付き合いというものに憧れもある。
ただ私は滝岡の彼女でもなんでもない。その場にいる資格はあるのだろうか。分からない。
「……それって何か、私、居づらいかも」
「別に、あいつら気安いし、平気だよ。今日のあの感じ見てもそう思うだろ」
「そうじゃなくて」
言い方が少しきつくなってしまった。滝岡は欲しい答えはくれない。でもそれは滝岡のせいじゃない。私がちゃんと気持ちを言えば、ケリがつくのだ。
私にはそんな勇気ない。滝岡がくれる優しさに、甘えることに味をしめてしまったから。
「何だよ、どうした?」
「……今日、二人。勘違いしちゃったんじゃないの? 大丈夫?」
自分だってあんなふうに紹介されて、否定しなかったくせに。私は本当にずるい。自分が自分で嫌になるほどに。
滝岡は返事をしない。
「すごく驚いてたね、二人とも。がっかりさせちゃうんじゃない? 彼女じゃなかったんだーって」
「……あのさあ」
シンクを叩く大きな音。
昨晩は私にされるがままだった滝岡の手のひらは、自らの意思をもってその音をたてている。
「お前は、」
ふと顔を上げると、滝岡は今までよりもずっと真剣な表情で私を見ている。
「どういう気持ちで、俺の看病してたんだよ」
「……え」
「好きでもないやつの体拭いて、飯作って、一晩中同じ家にいるのか?」
視界に入るのは、滝岡が喋るたびにゆらりと揺れる溶き卵。シンクに置かれた手のひらは、今度は固く握られている。
「俺が、どういう覚悟でお前のこと」
初めて抱いてもらった夜。たった一度きり。
私はずっと目を瞑っていて、滝岡がどんな顔をしていたのかなんて知らない。
滝岡が何を思って私を抱いたのなんて、知らない。
「協力する、って言ったから……」
「言った」
「だから、そういう、意味でしょ」
同情。友情。哀れみ。
だんだんと酷い言葉が思いついては、消えていく。どれが当てはまるなんて考えたくない。滝岡への気持ちがはっきりとしてしまっているからこそ、確認するのが怖い。
「お前は本当に恋愛経験ないんだな」
「ああ、ないですよ。なくて悪うございました」
「何だその開き直り」
歳をとっても恋愛経験がないと、その人自身に何か問題があるのだと言われることも多い。いたって真面目に生きてきたつもりなのに、そんなふうに言われることが心底辛いのだ。
「……もういい。帰る。親子丼は自分で、作って」
「俺、親子丼の作り方分からん」
「この材料めんつゆで煮て、最後卵でとじればできるよ」
切っていた玉ねぎや鶏肉を指差して適当に伝える。
滝岡の横を通り抜け、自分の荷物を手に取る。
何で今まで自分に彼氏ができなかったのか、今浮き彫りになった気がする。全部逃げてきたのだ、大切な場面から。チャンスがあっても自信がなくて楽なほうにばかり流されてきた。自分から可能性を広げる努力をしなかった。
でも、怖くて仕方ない。
どうすればいい。こんなときに自分の気持ちがうまく言葉にできない。
鞄を持ってしゃがみ込んだまま動かない私を、滝岡が覗き込んでくる。
もう会えなくなっても、喋れなくなっても、いいのかもしない。今までだって好きな人ができても告白もできずに恋が終わってきた。好きになったのはその後だったけれど、力いっぱい抱きしめてもらえるという思い出だって貰えた。しばらくは苦しいかもしれないけれど、これを乗り越えるとまた何か新しいことが始まるかもしれない。
前に滝岡が、「これ」をきっかけに何かが始まるかもしれないと言っていた。妙に納得して、私は深く頷いた。
「……滝岡が、私が捨てたいって思ってるもの、捨てないで持ってろって言ってくれて本当に嬉しかった。もういいやって思えるようになるまで持ってろって言ってくれて、私このままでいいんだって、こうやって生きてきて間違ってなかったんだって思った。でもね、今、もういいやって思ったから、捨てる」
息を、すうと吐いた。
「滝岡が、好き」
ふわりと重かった心が、軽くなったような気がした。言いたいことを言えた瞬間が、こんなに気持ちいいんだと初めて知った。
「滝岡のこと何も知らないし、別にその先のことなんて何も望んでないけど、とりあえず言いたかった。ごめんね、困らせたいわけじゃないんだ」
自分の手が震えている。目からは涙が溢れる。
捨てたいものを捨てて、自分の気持ちをさらけ出して、清々しいはずなのにどこか悲しい。振られることの怖さは、すぐそこまで迫っていた。