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捨てたいもの  作者: 青子
3/7

 添い寝だけの週末を過ごして、また新しい一週間が始まってしばらく経った。

 自分の席に座って、パソコンを起動させる。ふと席の一番目につく場所に置いた、内線表に視線を巡らせる。情報システムは、070番。用事もないのにかけたら、迷惑だよね。その前に滝岡が出るとも限らない。この前だって違う人が出た訳だし、あいつだってそれなりに忙しいだろうし。電話番号だってメールアドレスだって知っているのだから、そちらで連絡をとればよいではないか。机の上に置いてある私物の携帯電話を引き寄せるも、少し考えて元に戻す。用事はないのだ、元々。

 でも無性に声が聞きたい。顔が見たい。つい数日前まで一緒にいたのに、一番近い場所にいたのに、人を好きになるってこういうことかと、自覚する。

「内田さん?」

 営業の古野さんの呼びかけで現実に戻される。

「あ、はい。すみません」

「ううん? えっとね、この会社の過去の受注履歴調べてくれる? できたら取引が始まってからの全部欲しいんだけど」

「あー……っと、ここは六年前からの、取引なので」

「うん。五年以上前のは情シスに言ってもらってきてね」

 去年から、部署で管理するデータは五年以内のものに限ると変更された。数が膨大になって部署単位では管理しきれないのもあるし、全てを一つの部署に集めることによって集約・検索しやすくしたとも言える。

 思いがけぬ仕事から、滝岡と接点をもつことができるかもしれない。古野さんからの仕事は少々面倒くさいものだが、これは神様がくれたチャンスに違いない。さっそく取りかかろうと、古野さんの指定した会社の専用ファイルを開いていると、横から声がかかる。

「あ、内田さん、急がなくていいからね」

「……へ?」

「全然急がないから、内田さんが今持ってる仕事ぜーんぶ終わってからでいいからね?」

 今持っている仕事ぜーんぶ。

 それ終わってからだと、おそらくいつになるか分かりません。だって営業事務の仕事は日々増えて行くのだから。古野さんは気を遣ってくれているのだろうけれど、余計に焦りが増すだけだった。

「……分かりました」

「うん、じゃあ僕は朝のうちお客さんのとこ回ってくるから、昼からは戻るけどその後会議と研修だから、何かあったら戻ってきたときに確認できるようにしておいてね」

 すぐにその仕事に取りかかることは諦めて、手持ちの仕事から片付けることにする。とにかく今日中に仕上げなくてはいけない仕事のほうが、優先順位が高いのは分かりきっている。


 お昼の時間も削り、今日中にやらなくてはいけなかった仕事を片付けた。他に何か依頼のメールが来ていないかチェックし、やり残した書類がないか机周りも確認する。大丈夫、古野さんから頼まれた仕事を始めよう。

 焦っていたくせに、いざそのときが来ると手が震えてしまう。受話器をとるも、070が押せない。内線でかけてしまうと、滝岡が出ない可能性もあるよなと思う。しばらく頭を項垂れて考えるが、うだうだしていても仕方ないと思い切ってプッシュボタンを押す。

『はい、情報システム滝岡です』

 心の中で、やった!と思わず叫んだ。数日ぶりの声。私の心を掴んで離さない。

 でも前に、会社では普通にしろと言われた言葉を思い出して、必死で感動を抑える。

「あ……えと、営業一課の、内田です」

『お、……あー、おう』

「ごめん、忙しいよね?」

 一応挨拶代わりのつもりで、聞いた。

『まあ、うん。ちょっと』

 本当に忙しいのか、滝岡の言葉は歯切れが悪かった。後ろではがやがやと電話をかけている声が聞こえる。問い合わせでも集中しているのだろうか。

「急がないんだけど、2008年のM社の受注データ貰えないかな。本当、急がないから」

『2008年……M社。分かった。でも今ちょっと、すぐは無理かも』

「うん、大丈夫だから。あの、暇なときで」

『おう、また社内メールで送るな』

 用件はあっという間に終わってしまい、電話を切るしかなくなってしまう。

「あの……あのさ、滝岡」

 会社で何か言おうとしているわけではない。ただ、もう少し繋がっていたいだけ。

『……ごめん、切る。じゃあ』

「え……」

 私の返事を待たずに、滝岡は話を終えた。ツーツーという機械音しか聞こえないのに、私はまだ耳元に受話器をあてたまま。

 何を話したかったの。何を聞きたかったの。向こうだって仕事中なのだからと自分に言い聞かせても、虚しい思いで気持ちが埋め尽くされてしまった。


 その週の金曜日になっても、結局滝岡から目当てのデータは送られてこなかった。本来なら残業など必要ない日でも、メールソフトの送受信ボタンを無駄に連打する手を止められずになかなか帰らなかった。

「内田さん、まだ帰られないんですか?」

 丸山さんに声をかけられるも、曖昧に頷く。

「おつかれさまです」

「おつかれさまです。お先です」

 週末ということもあって、一課に人がいなくなるのもいつもより早い。フロアの電気も半分ほどはすでに消されている。

 携帯電話は当然ながら、何も知らせてはくれない。

 あの滝岡の態度からして、今週末誘ってもらえることは難しいと思っていた。自分から誘ってしまえばとも考えたが、迷惑だけはかけたくない。同じ会社だからこそ、あいつが忙しいことも分かっている。

 帰り支度を始め、席から立ち上がる。少し頭を冷やそう。

 会社から出て、いつもなら私鉄に乗って帰るところを少し歩くことにする。歩き慣れない通りには、たくさんお店が出ている。美味しそうなパンや、外国の珍しいビール。お取り寄せのホタテ薫製を見つけ、思わず手を伸ばす。滝岡が喜びそうだなと、思わず二つ手にとる。レジに持って行こうとしていると、ポケットで携帯が震えていることに気づいた。ホタテを片手に持ったまま、素早く取り出す。サブ画面に表示されたメールのアイコンの隣には、『滝岡健吾』と見えた。急に胸が高鳴る。ひとつ大きな深呼吸をして、メールを開いた。

『遅くなってごめん。頼まれてたデータ、さっき社内メールで送っといた。』

 たった二言だけの伝言に、嬉しい気持ちと、寂しい気持ち。もう私を誘ってはくれないのだろうか。迷いなく、返信画面を開く。

『おつかれさま。無理言ってごめんね、ありがとう。月曜日にデータ確認するね。もう仕事終わったの?まだ会社にいる?』

 祈るような気持ちで送信ボタンを押す。恋愛経験豊富な友だちに、男からのメールにすぐ返信はするなとか言われたような気もするけれど、そんなことに構っていられなかった。

 レジで会計を済ませて、店を出る。それと同時にまたメールを受信した。

『もう終わった。やっと忙しいの一段落。内田もお疲れ。』

 本当に疲れているんだろうなと思わせるほど、素っ気ない文章。

『今から帰るとこ? どこにいるの?』

 分かってほしい。気づいてほしい。その一心でこの短いメールを打った。

 立ち止まり、辺りを見回す。滝岡が歩いているわけないのに、人ごみの中にあの目をした男を探している。私の気持ちとは裏腹に、それきり滝岡から返信はなかった。


 自分の記憶力を褒めてあげたいと思うくらい、私は一度来た道をはっきりと覚えていた。確かここの薬局の角を曲がれば、滝岡が住んでいるマンションが見えてくるはずだ。恐る恐るとその方向へ向くと、目的地が暗闇の中でもはっきりと見えた。携帯は握りしめたまま、センター問い合わせは10分おきに行っている。もし、私が家の傍まで来ていると分かったらどんな顔をするだろう。なんて言うだろう。悪い想像だって色々思いつくけれど、会いたい気持ちのほうが強かった。

 ゆっくりと歩みを進めて、やっとマンションの前までやってくる。あいつの部屋は確か、2階の一番端だ。どっちの端だったかはさすがに忘れたが、両サイドともカーテンの向こう側に灯りは見えない。エントランスにはオートロックで閉ざされた入り口。ここで待っていれば確実に滝岡は帰ってくるだろうけれど、いざ対面するとどうしたらいいのか分からない。エントランスの前に植え込みがあり、汚れるのが気になったが足が痛かったのでレンガの上に腰を下ろした。

 目を瞑ると、思い出せる。あの夜私を抱いてくれた滝岡の声。

 息が途切れながらも、私がひとりぼっちにならないように支えてくれた。

 不思議だ。目を開けると滝岡との記憶はどこか遠いところへ行ってしまいそうになる。忘れたくないと思うのに、まるで夢でも見ていたんじゃないかというくらいに色褪せていく。


「……内田?」

 ずっと聞きたいと思っていた声に顔をあげると、滝岡がいた。やはり疲れているようで、顔色はあまり良くなかった。

「あ……あの」

「……何か、用事?」

 思いのほか突き放すような口調で、慌てて理由を探す。手に持っていたホタテに気づいて、パンや外国ビールを避けて、それを目の前に出す。

「これ今日、見かけて。滝岡ホタテ好きでしょ? だから」

「あー……ありがと」

「ごめんね。お礼、したくて」

「お礼って、何の」

 咄嗟に問われて言葉に詰まる。

「色々……その、励ましてもらったりして、嬉しかったから」

 先週のことだ。涙が止まらない私を無理矢理にはせずに、ずっと隣にいてくれた。

「メールとかも、送っちゃってごめんね? どうしても今日渡したくて」

「え……? あ」

 滝岡が怪訝そうな顔をして携帯をポケットから出す。何度か操作をしてみて、はあと大きなため息をつく。

「充電、切れてる」

「ほんと? なんだ、だから返信、なかったんだあ」

 安心して、思わず笑ってしまった。滝岡の細い目が少し見開かれて、じっと私を見ている。

「……悪い。言い訳するわけじゃないけど、ここ何日か会社泊まり込みだったから」

「え!? 嘘」

「システムトラブルで。経理システムが止まってて、毎晩その対応。システム発注した業者とのやり取りとかでほぼ徹夜だったし……経理の奴らには早く直せって罵倒されるし……マジで最悪だった……」

 どこか遠い目をしている滝岡を見て、本当に疲れているんだと、きっとゆっくり休みたいんだと分かる。私なんかが来てしまってきっと逆に迷惑だろう。もう帰らなくちゃと思うけれど、どうしても触れたかった。自分でもどうかしてしまったのかと思うくらい、体が勝手に動いていた。

「……うち、だ?」

 滝岡に自分自身を寄せて、すうと大きく息を吸う。先週よりも濃い、滝岡の匂い。でも全然嫌とか思わない。むしろ安心する。私の大好きな匂いだ。

 荷物を持っているから手は回せない。いや、そんな勇気がまだないだけだ。

 至近距離で滝岡を見上げて、精一杯笑ってみせる。

「おつかれさま」

「……うん」

「ゆっくり、休んでね。無理しないでね」

 彼の顔が少し赤いことに気づく。おかしいなと思って、荷物を片手に持ち替えてゆっくりと頬に添えてみる。

「……あ、熱くない?」

「やっぱり?」

 嫌な予感がして、頬に置いた手を額に移動させる。じんわりと広がる手のひらの熱に、滝岡の体に異常事態が起こっていることを察した。

「何か……熱いし……頭いてーし……」

「風邪かな。うー……とりあえず今日は何か食べて寝て、明日の朝病院に行った方が」

 何か食べるものあるかな。こんなときにホタテ薫製なんて、私は空気の読めないやつだ。果物の缶詰とか、ゼリーとか、気の利いたもの買ってくれば良かった。

 元の場所に戻ろうと体を引こうとすると、あいているほうの手を取られて抱きしめられる。

「……看病してくれないのか」

 そんなふうに、弱々しく言われると、私が断れるはずもなかった。


 シャワーをあびたいという滝岡を何とかなだめて寝室に追いやり、キッチンに立つ。体温計がないのでどれくらいの熱かは分からないが、お風呂には入らないほうがいいことは私でも分かる。冷蔵庫をのぞくとあまりめぼしいものはなかったので、ここへ来るときに見かけた薬局へ行ってみようかと思いつく。鍵を借りようとノックをして寝室に入ると、滝岡は掛け布団の上に寝転んでいた。

「ちょっと、余計悪くなるから布団入りなよ……」

「昨日風呂入ってないから気持ちわりい……風呂入りたい……」

 そりゃ気持ちは分かるが、ともう一度額に手をあてる。さっきよりも熱い気がする。

「じゃあ、濡れタオルで体拭こう? それならいいでしょ?」

 小さい頃、熱が出てお風呂に入れなかったときにうちのお母さんがよくやってくれた。バスルームから綺麗なタオルをひとつ借り、熱湯を含ませ固めに絞る。しばらく両手で馴染ませてから、再び寝室へ向かった。

「これで拭いたらちょっと気持ちいいから」

 ぼんやりとした目で私を見上げている滝岡を、よいしょと上半身だけ起き上がらせる。ワイシャツのボタンをひとつひとつ外し、下に着ていたインナーも脱がせる。よく鍛えられた体に一瞬見惚れてしまうが、そんな場合じゃなかったとだらんとした滝岡の手にタオルを持たせた。

「ほら、自分で拭いて」

 しばらくタオルを見ていた滝岡が、私の目をじっと見つめ返してくる。

「……何」

「こーゆーときは、拭いてくれんじゃないの」

「はあ!? 何……甘えてんの」

「頼む……理子」

 こんなときに名前を呼ぶなんて反則だ。ベッドサイドに腰掛けた私の首元に、滝岡が顔を埋めている。掠れた唇が鎖骨のあたりを彷徨い、離れては吸い付く。

 滝岡の右腕を持ち上げ、タオルを滑らせる。少し時間が経って、熱すぎずちょうどいい温度になっているはずだ。腕の表と裏を二回ずつ、手のひらも指も丁寧に拭いていく。私とは違う、浅黒くて血管が太く浮いた腕はなされるがままだ。

「そっちの腕も」

 私が言うと、滝岡は素直に左腕も差し出してくる。その後、首筋、肩と拭ったところでタオルを裏返す。そして背中、胸、お腹と拭き終えた。

「着替え出すけど、どこにある?」

 俯き加減の滝岡の顔を覗き込む。まだ肩にもたれたままなので、今は身動きがとれない。

「滝岡?」

「……そこのクロゼットの中。グレーのスウェット」

 指定された場所を開けると、やや乱暴にたたまれた服が積まれている。洗濯ものをたたむのはどうやら苦手のようだ。

 スウェット広げて滝岡の頭からかぶせる。下はどうしようかと少し迷ったが、まごまごしていてもしょうがないと、覚悟を決めてベルトを外す。できるだけ下着は見ないように努め、機械的にスラックスを脱がせスウェットの下を穿かせる。

「そうだ、私近くにある薬局行ってきたいんだけど、鍵貸してくれない?」

「何、買いに行くんだよ」

「体温計と、あと薬。それにレトルトのおかゆでもないよりマシでしょ」

 やることがあると、妙な緊張感は薄れてくれてちょうど良かった。それに相手が病人だということも大きい。

「……いいよ。俺あとで行ってくる」

「だめだよ。寝てなきゃ」

「いーって。わざわざ、んな外出なくても」

「じゃあ私帰るよ? やることないもん。自分で買いに行けるなら平気じゃん」

 滝岡が、じゃあ帰れとは言わないとは、なぜか分かりきっていた。これだけ弱っているのだから、一人になるのは不安なはずだ。

 はあ、と大きなため息。数秒目を瞑って、開き、私の手を握る。

「そこの鞄の中」

 視線の先には、投げ捨てられたような黒い革の鞄。

「財布、俺の持って行って」

「え、いーよ」

「いいから」

 強めの口調で言われてしまい、仕方なく鞄の中から鍵と財布を借りる。

「じゃあ行ってくるね」

「……気をつけろよ」

「うん」

 寝室の電気を消して、自分の荷物も持ちすばやく部屋から出た。時間は20時すぎだから、下手すると薬局が閉まってしまうかもしれない。小走りで今日来た道を戻る。薬局のある辺りはまだ明るい電灯が点いており、閉まってないことが分かった。

 体温計と、薬は薬剤師さんに症状を伝え最適なものを選んでもらった。あとはおかゆ……と思いレトルトを探したがお世辞にも美味しそうには見えない。数日会社に泊まり込んだと言っていたから、おそらくろくなものは食べてないだろう。栄養のあるものを食べてほしい。とりあえず体温計と薬、念のため栄養ドリンクを買い、薬剤師さんにこの辺りにスーパーがないか尋ねる。

「24時間あいてるところなら、ここから10分くらいのところにありますよ」

 教えてもらった道を行くと、大きめのスーパーがあった。

 すばやくカゴを持ち、めぼしい食材をどんどんとそこに入れていく。何を作るかは決めてないが、大目に買って大目に用意しておけばこの土日で食べてもらえるだろう。ついでに大きいペットボトルのスポーツドリンクも購入し、買い物袋二つを抱えて気持ち走りながらスーパーを出た。時計を見ると、もう20時40分だ。大きいスーパーだけあって、この時間でもレジが混んでいていた。この荷物を持ってだと滝岡の部屋に着くのは21時前になってしまうだろうか。

 できる限り急いで歩いていると、あの薬局が見えてくる。その前に、ぼんやりとグレーのスウェットが見えた。

 その人は所在なさげにきょろきょろと辺りを見回している。薬局は21時が閉店時間なのか、さっきの薬剤師さんが店じまいをしているところだった。

 滝岡のそんな姿を見て、なぜか泣きそうになってしまった。

 心の底から好きだと思った。私どうして今まで、この人のことを気づいてなかったんだろう。

「滝岡!」

 私の声に気付き、滝岡はこちらに駆け寄ってくる。少しふらふらとしながらも、私の前まで来ると口を開く前に私の持っている買い物袋を持とうとした。

「あ、大丈夫だから」

「……お前な、マジで、どこ消えたのかと思った」

「ごめん。やっぱりおかゆだけだと栄養足りないかなと思って色々……」

 行くぞとぼつりと呟き、滝岡は買い物袋二つとも持って歩き出した。


 彼には今度こそ寝室で寝ていてもらい、私は再びキッチンに立つ。スーパーで買った冷やご飯でおかゆを煮ながら、違う鍋で簡単な野菜の煮物を作る。味付けはちょっとだけ薄めにしておいた。

 静かに寝室を覗くと、滝岡は寝返りを打っているところだった。

 寝ているのかどうか分からず、足音をたてないように近づく。壁のほうを向いてる顔を、上から覗き込んだ。

「……理子」

「うわ」

 起きていた。また名前を呼ばれたことも併せて驚き、私は思わず仰け反った。

「頭いてー……」

「薬飲もっか。その前に何か食べられそう?」

 うんと頷く。

 二人揃ってリビングに出て、さっき作ったばかりのおかゆをお茶碗に盛る。どれくらい食べるか分からないので、とりあえず半分くらい。そこへ冷蔵庫に入っていた梅干しをちょこんとのせて、テーブルで待っている滝岡の前に置く。

「……いただきます」

「……どうぞ」

 ゆっくりだが食べ始めた滝岡に少し安心して、いったん席を立ちさきほど一緒に作った煮物もお皿に盛りつける。

「これ、味薄めにしてあるから食欲あれば」

 梅を崩していた滝岡は煮物をちらりと見て、「食う」と呟く。

「他なんかやることある? 掃除とか、洗濯は……夜だから無理かな」

「いいよ。大丈夫だから」

 素っ気なく返された言葉に、居場所がなくなっていく感覚。

 看病してなんて言われて、舞い上がって色々世話をしてみたが、すでに一通りのことは終わってしまったのだ。つまり、用済みなのだ。

「……じゃあ、これ食べたら薬飲んでね。あと熱もこまめに計って、明日の朝になっても下がってなかったら病院行った方がいいよ。冷蔵庫の中に飲み物と、あとゼリーとか食べやすいものあるし、おかゆも煮物も大目に作ったから……」

 そうだ、と思い出して自分の鞄を引き寄せる。

「これ、鍵と財布」

 結局使わなかった滝岡の財布。渡そうと差し出すも、彼は食べ続けており受け取ろうとしない。どうしようかと思い、テーブルの端に重ねて置く。

 さきほど迎えにきてくれたのも、甘えてくれたのも、こんな些細なことでかき消される。これは体調が悪いからだと自分に言い聞かせ、鞄を手に持ち立ち上がろうとしたとき。

「……帰るみたい」

 え、と声には出さずに滝岡を見る。

「……滝岡?」

「看病してくれんじゃねーの」

「あ」

 家族や友だちを看病したことはあるが、着替えを手伝い、食事を用意するくらいしか経験がない。あとは病院に付き添うくらいしか思いつかないが、どうせ明日の話だと思っていた。もしかして私が気が利かないだけで、世間でいう看病はもっと色々とすることがあるのだろうか。

「え、えっと。何か、ある?」

 さきほど、大丈夫とは言われたが。

「普通は、治るまで傍にいるだろ」

「……ああ、そっか。うん、分かった」

 こんなにも簡単に、傍にいる権利を与えてもらえた。嬉しくて顔が綻びそうになるのを必死で堪える。滝岡は体調不良なのに、こんな場面で笑うのは不謹慎だ。再び腰を下ろし、おかゆを食べ終えそうな姿の彼に向き直る。

 まさか好きになるなんて思ってなかった相手だからこそ、どうしていいのか分からない。しかも好きになる前に関係を持ってしまうという、普通の恋とは順番がめちゃくちゃで今まで散々見たドラマも小説も全く参考にならない。

 滝岡の考えていることもよく分からない。

 すごく優しくて私を舞い上がらせる天才のくせに、「同僚の関係を壊す気はない」などと言う。これって世間で言う、体だけの関係というものなのだろうか。行為そのものが初めてだった私には、それ自体がものすごくハードルが高い。でも先週は無理にしなかった。だから、勘違いしてしまう。

 私の気持ち、いつか伝えられる日が来るのだろうか。

 そのときは迷惑な顔しないで、いつもみたいに真剣に聞いてほしい。断ってもいいから、笑わないでほしい。私を抱いたこと、後悔しないでほしい。

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