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捨てたいもの  作者: 青子
2/7

 体にずんと重みが増している。これ起き上がってまともに歩けるのだろうか、ということをベッドの中でぼんやりと考える。

「へーき?」

 少し距離を空けた場所から、滝岡に問われる。

 平気といえば平気だが、あんまり動きたい気分ではない。このまま寝たら楽だろうけれど、あの緊張感がまだ残っているのですぐには無理そうだ。

「平気」

「良かった」

 さっきからずっとだ。こんなふうな、短い会話ばかり。

 やっぱり初めての女なんて面倒くさかったのだろう。私なんて相手にしなければ良かったと思っているのだろう。得意のマイナス思考が頭を占め、せめて迷惑をかけないように滝岡のテンションに私も合わせている。

 でも、滝岡はこれでもかというくらいに優しく、気遣ってくれ、私がリラックスできるようにと声をかけてくれた。だからこそこんなふうに滝岡を利用してしまったことを、申し訳なく思う。

「……内田はさ」

 顔だけ、彼のほうへ向ける。なぜだろう、いつもはきついと感じていた目つきが、やんわりと優しく見える。

「自分のこと悪いように言うけど、そんなことない」

「そうかな」

「自信、持てよ。今日のが、何かのきっかけになるかもしんないだろ」

「……何それ、どういう意味」

 それきり、黙る。

 確かに私は、自分の中で最も面倒だと思うものを捨てた。でもこれが何かのきっかけになるんて、実感がなかった。

「寝るね」

 まだ寝られない気がしていたが、それだけ告げると滝岡に背を向けた。口元まで布団を引き上げ、無理矢理に目を瞑る。蘇ってくるのは、耳元で優しく声をかけてくれる彼の声だった。


 そのまま頭がぼうっとしたまま休日を過ごし、月曜日を迎えた。あれから滝岡とは連絡をとっていない。土曜日の朝、ビジネスホテルの前で別れてきりだ。

 どうしてだろう。ずっと滝岡のことばかり考えている。今までただの同期だった。100%恋愛対象には考えていなかった。こんなに気になっているのは、私の初めての相手になってくれたから、それだけの理由だろうか。自分のことなのに、分からない。

「おはようございます、内田さん」

 うだうだと考えてゆっくりめに出社してしまった。丸山さんに明るく挨拶されて、ようやく現実に引き戻される。

「おはようございます」

「さっき情シスの滝岡さんから内線ありました。出社したら内線下さいとのことです」

 滝岡の名前が出て、心臓がうるさくなる。何、ドキドキしているんだろう。きっとパソコンのことだと思いながらも、なかなか受話器に手が伸びなかった。

「内田さん……? 多分、パソコンのことだと思うんで」

 丸山さんも伝えた手前、ぐずぐずしている私が不可解なのだろう。愛想笑いで返し、仕方なく内線表に視線を走らせる。

「おはよう、ございます。営業の、あ、一課の内田と申します、けれども」

 何度言っているか分からないお決まりの挨拶も、上手く言えない。電話の向こうの相手が滝岡かもしれないと思うだけで、緊張が最高潮になっていた。

『おはようございます。情報の真砂です』

 滝岡ではなかった。安心半分、落胆半分。……落胆て、なに。

「滝岡……くんはいらっしゃいますか」

『ちょっと待ってくださいね』

 優雅な保留音楽が流れるも、すぐに滝岡の声に変わった。

『内田?』

「…………っ」

 生の滝岡の声を聞いて、思わず言葉が出なかった。あの夜、耳元で聞いた声だ。優しくて甘くて、私を心地よくしてくれたあの声。

『え? ……内田? 聞こえてる?』

 私はこんなに動揺しているのに、こいつは至って普通だ。何もなかったかのような。

「はい。内田です」

『おはよう。今からパソコン持って行っていいか?』

「はい。大丈夫です」

『……お前、変じゃね』

 むっとしたような声に変わったのが分かった。

「そんなことありません」

『……は。まあ、いいや。じゃあ行くからな』

 やや震えている左手を必死で抑えながら、受話器を置いた。

 滝岡はしばらくして、大きな段ボールをひとつ抱えて現れた。中には見慣れた、私のパソコン。滝岡が直してくれたんだと思うと、なぜか嬉しかった。

「……ありがとうございます」

 とりあえずそう声をかけるも、滝岡はちらっと私を見ただけですぐにパソコンに顔を戻す。

「配線やってくから」

「すみません」

 席を空けると手際よく代替機をどかし、持ってきたパソコンを設置していく。どれがどう違うのか分からない線を次々と繋いでいき、あっという間に配線は終わった。

「また何か変なとこあったら言って」

「はい、分かりました」

「……お前なあ」

 いつもの目つきの悪さで、ぎろりと睨まれる。残念ながら見慣れているため、怖くはない。

「ちょっといいか」

「え」

「来い」

 代替機の入った段ボールを抱えて、さっさと営業部を出て行く。幸いなことに、近くにいた丸山さんは電話対応をしていてこの成り行きには気づいてないようだ。仕方なく滝岡の出て行ったほうへ私も向かった。

 滝岡は、エレベーター前で待っていた。情報システム部のある1階へ向かう降下ボタンはまだ押してないようだ。

「お前な」

「……はい」

「変な態度すんな。こっちも対応しづらいだろ」

 確かに変だとは思う。でも、自分で自分の気持ちが分からないのだ。これがもし、滝岡自身に起こった出来事なら同じことが言えるのだろうか。

「少なくとも、会社ん中では普通にしろよ」

「……はい」

「だから」

 そのとき、目の前のエレベーターが開き中から人が出てくる。がやがやと出てくる人たちは立ち話をしている私たちを気にも留めないけれど、滝岡は言葉を止めた。

 営業部のほうへ流れて行く人たちは、私のあまり知らない顔だからおそらく二課の集団だろう。十分に彼らと離れたあと、滝岡は再び口を開いた。

「お前、マジでキャラ変わってるレベルなんだけど」

 そこまで!?と顔を上げる。段ボールとパソコンに邪魔されて、顔が全部見えないが。

「そんなふうに、なるんなら」

 関係を持たなきゃよかったとか、言われるのはあの後からずっと恐れていたこと。

 息を飲んで、言葉を待つ。

「慣れるまで、試してみる?」

「……はい?」

 目を丸くして、口は開きっぱなしになっていたと思う。あほみたいな顔をしていただろう。

「男に慣れてねーから動揺してんだよ。回数こなして慣れろ」

 いえ、私がこんなふうになっているのは、決してそういうことではない。

 ……と思う。何しろ自分で自分が分からないので、自信はない。

「そう、なのかな」

「じゃ、決まり」

 もう一度エレベーターが到着したタイミングで、すばやく降下ボタンを押しそのまま中に乗り込む。言いたいことだけ言って去って行った滝岡は、どうしてか格好よく見えた。


 二回目は、同じ週の金曜日の夜だった。今回もどこがいいと聞かれて、即答はできなかった。もごもごとしている私に、

「金ないから、俺んちでいい?」

と言ったのは滝岡だった。先週同様、部屋に行くことは躊躇われたが、滝岡の部屋を見てみたいという気持ちのほうが勝ってしまった。

 ごく普通のマンションだけれど、きちんとした管理人室があったり、オートロックだったりと品の良さを感じた。立地と家賃重視で学生ばかりのマンションに住んでいる私とは違って、落ち着いた佇まいのところだ。

「あんま片付いてないけど」

 そう断ってくるも、部屋に物は少なくこざっぱりとしている。入り口からすぐに見えるキッチンも片付いていて、すぐ横のリビングには液晶テレビとテーブルが置いてある。奥にある扉は寝室へ繋がっているのだろう。

「俺これチンするから、内田は飲みもんあけといて。グラスはそっちの棚から出して」

「……はい」

 滝岡はてきぱきと動く。まるでこの間パソコンの配線をやってくれたときのようだ。無愛想だけど情報システムにいるということは、細かい作業は得意なんだろう。あまり今までそういうところに注目していなかっただけに意外だった。

 買ってきたのは、家飲みをするための酒と惣菜、つまみを少し。滝岡はいつの間にかスーツのジャケットを脱いでシャツだけになっていた。薄い生地からほんのりと肌が透けている。そういえば、筋肉が結構ついた体だった。先週の夜はほとんど目を瞑っていたために、だから耳元で聞いた声ばかりを覚えているのだけれど、まじまじとは見ることができなかった。

 グラスを選びながら、筋肉を盗み見ていると不審だったのか滝岡と目が合った。

「何、じろじろ見て」

「えっ……見てない、見てないし」

「あっそ。別にいいけど」

 テーブルにグラスを置き、ビールを二缶残して後は冷蔵庫に仕舞う。滝岡がレンジで温めていたのは、惣菜屋で買ってきた牛肉とピーマンのオイスター炒めと、ホタテフライ。どこまで好きなんだ、ホタテ。

 それに加えて、おそらく冷蔵庫に入っていたであろう冷や奴とキムチもテーブルに並んだ。

「じゃ、おつかれ」

「おつかれさまでーす……」

 二人で乾杯し、グラスに口をつけた。妙な緊張のせいで、一口含んでグラスを置いた。

 滝岡はそれきり黙ったまま、ホタテフライを頬張る。備え付けのソースをたっぷりつけて、薄い唇にホタテフライは運ばれた。何度か大きく咀嚼して、ごくりと飲み込む。大きな喉仏が上下し、少しドキッとしてしまう。

「……お前な」

「は、はい?」

「絶対おかしい。敬語で喋り始めるわ、人のことじろじろ見るわ」

「あー、ええっと、うん。ごめん」

 慌てて自分の手元に視線を戻す。おかしいな、食欲が出ない。牛肉とピーマンのオイスター炒めを選んだのは私だ。お店で見たときは美味しそうだと思ったのに、こうやって滝岡を前にしていると一気に食べる気が失せてしまった。しょうがなく、食べやすいであろう冷や奴に箸を伸ばす。

「……正直に言うけど」

「え?」

「俺、この間のことで、お前との関係が壊れるのは絶対嫌だから」

 それは、どういう意味なのか。問う前に、滝岡は続ける。

「気まずくなったり、いつの間にか疎遠になったりとか、絶対しないからな」

「……それは」

「だから頼むから、会社では普通にしてくれ。前みたいなのは、勘弁してくれ」

 何かがこみ上げてきて、胸をぎゅっと締め付ける。誰なのか、何なのか分からない、私の心をぐうっと鷲掴みにしている。それくらい痛くて、苦しくて、泣きそうだった。

 つまり、表面上は私たちは、今までと何ら変わりない同僚でいるということだ。

 私は何を夢見てた? 滝岡の横に並んで、一緒に歩んで行けるとでも思っていたのだろうか?

 首を大きく横に振る。そうじゃない、そんな具体的に滝岡との未来を考えていたわけじゃない。ただシンプルに、たったひとつ感情が生まれただけ。

「……内田?」

 急に頭をぶんぶん振った私に、滝岡が近寄る。

「どうした?」

 でも私に選択肢はない。こうなることを望んだは紛れもなく自分だ。

「何でも、ないよ」

 無理矢理に笑顔をつくり、滝岡に見せる。久しぶりに笑ったような気がした。


 ドライヤーで髪の毛を乾かしている間に、滝岡もお風呂からあがってきた。交代でドライヤーを渡し、テレビを眺めているといつの間にかその音は止んだ。

「……もう乾いたの?」

 うん、と返ってきた返事はどこか上の空だった。

 滝岡の長い腕がテーブルのリモコンを掴み、テレビの電源を落とす。

「寝よう」

「うん」

 一緒に立ち上がり、寝室へ入る。電気は点けずに、部屋の端に置かれたシングルベッドまで進む。ベッドにあがろうとしたところで、滝岡に後ろから抱きしめられた。少し前につんのめったが、力強く引き寄せられた腕は熱かった。

「どした、の……」

 声をかけたが、返事はない。どうすることもできなくて、しばらく抱きしめられたまま立ち尽くす。首筋の温度を確かめるように寄せていた滝岡の顔が、耳元に来たのが分かった。

「……こ」

 低い声が呟いた言葉が、また私の心を苦しめる。

「理子」

 どうして名前を。

 今までずっと名字で、多分先週だってそう呼んでいたのに。

 その瞬間ぐっと体を押されて、ベッドに二人なだれこむ。仰向けになった自分の体に滝岡の体重がかかり、物理的にも苦しい状態。

 溢れてくる思いが抑えきれない。伝えたいけど、伝えるのが怖い。

 首筋を這う彼の唇が、優しいはずなのに痛くて切ない。頬を伝う液体を拭いたいけれど、抱きしめられているせいで腕が動かない。

 異変に気づいた滝岡が、顔を上げて私を覗き込む。暗い中だけれど、泣いているのはバレていた。

「理子……?」

 名前。呼ばれるたびに、胸の痛みが増す。

 大きな手が私の頬をゆっくりと撫でる。抱きしめている体が震えていることに気づいたのか、滝岡はゆっくりと体を起こした。

「怖いのか?」

 私は慌てて首を横に振る。

「嫌なら、嫌って言ってくれ」

 そんなふうに言うけれど、暗闇に浮かぶ滝岡の顔は苦しそうだった。でも私から溢れる涙は、気持ちの代わりに止まることがなかった。

「……ちが、違う……あの、ごめん」

「謝るなよ、今日は、しないから」

 私の体を壁側に移動させ、滝岡は横向きになって並んで寝る。涙の止まらない私の頬にティッシュをあてながら、隣にいてくれた。

 しばらく黙っていたが、泣き止まない私を見て言った。

「何か、話してたほういいか」

 私はゆっくり頷いた。

「……俺さ、入社からずっと情シスにいるけど、本当は営業志望だったんだよな」

「え……うそ」

「俺文系だし、パソコンとか機械とか全然だめで、まさか情シスに配属されると思わなくて。つうか、面接もずっと営業に行く前提で話してたのに、内定式の帰りに呼び出されて情シスになるからって言われてマジで内定辞退しよーかと思った」

 初耳だった。私は内定が出たのが秋を過ぎていたため内定式には出席していないが、そんなことがあったとは。

「でも情シスの社員ってみんな良い人ばっかでさ。男ばっかで男子校みたいなノリで、あ俺、高校が男子校だったからすんなり馴染んでさ。同期で集まると結構グチばっか言ってる奴もいたけど、俺はそういう人間関係の面では恵まれてるなーって、運良かったなーって思ったんだ」

「……いいな。営業は、人の出入りが激しくて」

 最後まで言わなくても、滝岡は分かっているよと頷く。

「だからって、営業に未練ないかっていったら、よく分かんねんだ。もし情シスの部長に、新しいこと何やってみたいって聞かれたら、営業やってみたいって言ってしまうかも分からない。俺は今の自分で満足してるわけじゃなくて、もっと勉強しなくちゃいけないし、先輩に追いつきたいって気持ちもある、でも営業をやってみたいっていう自分を捨てたいわけじゃないんだ」

 矛盾してるだろ、と笑った。

「多分、捨てるのって難しいんだよ。そこに何の思いもなければ、その場その場で忘れたり捨てたりしてるはずなのに、ずっと持ってるってことは本当は自分には必要なんだよ。だから……理子の、捨てたいものも、もうどうでもいいやって思えるまで、持ってればいいんじゃないか」

 震えの止まった体を、ぐっと抱き寄せられる。

 涙はいつの間にか、乾いていた。

 パジャマ越しに伝わる体の温度。ひどく安心するその温かさに、私の固くなった心や胸が解されていくのが分かった。

 耳元で「おやすみ」と聞こえ、私は目を閉じた。深く深く眠れる、そんな確信とともに。

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