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捨てたいもの  作者: 青子
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 29歳の誕生日は、一人暮らしの部屋でひっそりと、スーパーで買った安いキムチとビールを飲みながら迎えた。

 悲しいとか、虚しいとか、そういう感情はとうの昔に置いてきた。誕生日だからといって友だちに祝ってもらったり、ケーキを食べたり、ごちそうを用意したりするのがばかばかしいとさえ思う。今日は金曜日だ。休みまではまだ一日仕事が残っている。まあ、週末に何か予定があるわけでもないから、誕生日が平日だろうと関係はないのだが。

 でも私って一生このままなのかな。このまま。変わらない。見えている世界が同じ。

 朝起きて、仕事して、帰ってきて、ビール飲んで。休みの日にはごろごろして。

 世間に当たり前のように溢れている、幸せそうなカップルや、家族連れがどんなふうなドラマによって生まれたのか、私には想像もつかない。

 生まれてからずっと、彼氏がいたこともないのだ。29歳にもなって、こんなこと、誰にも言えない。


「お前、今日誕生日じゃねえの」

 金曜日。会社に着いてコーヒーでも飲もうかと自動販売機に向かっていると、同期の滝岡が話しかけてきた。私は営業部営業一課で、彼は情報システム部だから同期の集まりでもないとほとんど会うことはない。今日会ったのも一ヶ月前に食堂でたまたま遭遇したとき以来だった。

「あ、そうかも」

「なんだそれ。自分の誕生日だろ」

「別に嬉しくないから。じゃあね」

 滝岡は何か話したそうにしていたが、私は見ない振りをして目的の場所に向かった。昨日、いや正確には今日だけど、散々惨めな思いをして迎えた20代最後の誕生日を、人にとやかく言われたくなかった。


 コーヒーを手に入れ自分の席に着く。机の上には、おそらく昨日退社してから積まれたであろう書類の束がある。今からメールチェックして、この書類片付けてたら、お昼少し過ぎるな……と見立てる。とりあえずパソコンを起動させようと電源を押すと、いつも見る起動画面ではなく黒い画面に妙なアルファベットが羅列されている。

「は?」

 思わず大きな声が出てしまい、周りの人の視線が集まる。

「どうしたの、内田さん」

 同じく営業事務の丸山さんが私の後ろからパソコンを覗き込む。

「これ、壊れてません……?」

「でも私、昨日帰ったときには普通に電源落として」

「あ、昨日内田さんが帰ったあとに二課の大倉がそのパソコン使ってたよ」

 横から会話に入ってきたのは、私が担当している営業の古野さん。

「大倉くん? 何で……」

「何でも二課で研修やっててパソコンがふさがってるから、一課のを使わせてくれとか言ってたかな」

 よくよく机を見ると、決まった位置に置いている備品が微妙に動いている。それは良いとしても、パソコンをおかしくしていったとなると黙ってられない。私はたまらず内線表を確認し、受話器に耳をあてた。

「おはようございます、営業一課の内田ですけれども」

 電話の向こうは二課の大倉くんだ。確かまだ二年目か三年目の若い子だ。珍しい相手からの内線に少し声が怯えていた。

「昨日私が帰ったあとにパソコンを使われたということで、確認なんですけども、そのときに何か変わったことはなかったですか? 実は今日起動したら、変な表示が出ていまして」

『そ、そーいえば、電源落とすときに動かなくなって固まっちゃったんで……強制、終了したかもしれま、せん……』

「……そうですか」

『あ、すみ、すみません! 俺のせい、ですかね』

 機械のことは詳しくないから、それが原因なのかは分からない。でも苛立つ気持ちは隠せない。何とか静かにフックを押さえ、そのまま別の内線にかける。まったく今日みたいな朝にこんなばたばたするとは思わなかった。事の成り行きを見守っていた丸山さんも古野さんも、もう自分の仕事に戻っている。

『あれ、内田? 滝岡ですけど』

 偶然滝岡が出たことを、幸運に思う。情報システムへの内線は一本しかなくて、誰が出るか分からない。知り合いのほうが、気兼ねなく頼れる。

「ごめん、パソコンが起動しないんだ。助けて」

『了解。すぐ行く』

 他の人ならどういう状態で、ということを一から説明しなければいけないところを、同期が出てくれたおかげで連絡は簡単に済んだ。

 滝岡は本当にすぐ来てくれて、席に座り私にはよく分からない操作を始める。

「とんだ誕生日だな」

 前を向いたまま、彼はにやりと笑いながら言った。

 悔しいが反論できない。営業事務という職種上、パソコンがないと何も仕事が進まないのだ。刻一刻と過ぎて行く時計の針に焦りを感じる。

「なあ、これ、多分復旧難しい」

「……え?」

「復旧できるかもしれないけど、できない可能性も高い。とりあえず今すぐは直んない」

「え、困る困る困る。今日の仕事どうすんの」

「他のパソコン借りるかー……、代替機申請出して」

 滝岡は唯一持ってきてた荷物のクリアファイルから、一枚の書類を取り出し私に渡す。この会社ではパソコンが壊れて使えなくなった場合、代替機を貸し出すにも課長の判を貰った書類が必要なのだ。

「無理だよー……課長は昼まで会議行ってるし、部長は出張中だし」

「じゃあ誰かのパソコン借りれば? 空いてるじゃん」

 滝岡が控えめに指差す先には、営業さんたちが使う席がいくつか。確かに今は空いているが、営業先から戻ってきたら私は席を空けなければいけない。そんな落ち着かない状態で仕事なんてできない。

「頼むよー……ちょろっといいじゃん、同期じゃん」

 そう言いながら、滝岡の腰のあたりをつんつんと突いてみる。こんなふうに甘えてみせるのは、滝岡を100%男として意識していないのと、自分の仕事が大切なのとだ。

「俺も平社員なんで、そんな決定権ないんすけど」

「でもさ、社内申請なんか正確に処理してんの? ちょーっとくらいごまかせたりするんじゃないの?」

 滝岡がうんざりしたような目で見てくる。少し考えるように宙を見て、私に視線を戻した。

「……分かったよ。すぐ用意する」

「やった、ありがと! 助かる!」

「けど俺にはリスクしかねえんだから、今日飯おごれよ」

「……えー!」

「決まり。じゃあ、俺代替機とってくるわ」

 誕生日に予定ができた。しかも男と食事なんて。(私持ちだが)

 ただ相手が滝岡となると、嬉しくとも何ともなかった。


 入社してすぐ、同期同士はすぐに仲良くなって月に何回か、飲み会を開いたり屋外へ遊びに行ったりしていた。男女比率がほぼ同じだったのと、十数人という人数だったのことも影響していた。中にはカッコいいジャニーズ系の男の子もいる中、滝岡はスポーツ刈りに色黒、目つきの悪い顔に無愛想とあって女の子からは避けられることもあった。私も最初から滝岡を男としては見ていなかったが、同期として他の男の子とたちと同じように接していた。そうしたら、ある現象に気づいた。

 例えばボーリングに行って男女ペアになろうというとき、必ずといって滝岡と組んでいた。スキー旅行へ出かけたとき、いつの間にか何組かのグループにわかれるといつも私の隣には滝岡がいた。

 滝岡には遠距離恋愛している彼女がいたし、私とくっつきたくてこうしているとは思わなかった。私たち二人は、いわゆる「余り者」だったのだろう。

 だから滝岡と一緒にいるとすごく惨めな気分になる。華やかな同期たちが楽しそうに過ごしている時間を、私は毎度おなじみの滝岡とドキドキする気持ちもなく送るのだ。

 今でこそ退職した同期もいて、さすがに男女比率同じともいえなくなり、飲み会を開く程度の集まりとなっているからそんな気分になることはない。でももう戻ってくることのない20代前半の思い出は、無愛想で目つきの悪い男が隣にいたという記憶に占められているのだ。


 そうは言っても、滝岡自身はいいやつだ。私が勝手に卑屈になっているだけで、目つきも生まれつきのどうしようもないもので、無愛想なのも単なる人見知りだということが分かった。ちなみに今はスポーツ刈りではく普通の髪型だし、肌の色も大分薄くなった。大学時代野球をやってたから入社してすぐは黒かったんだそうだ。

「何食いに行く?」

 会社前で待ち合わせた滝岡は、無表情で、でも嬉しそうな口調だった。

「私が決めていいの?」

「いーよ。俺そんなに詳しくないし」

 自分持ちということもあって、値段の優しい場所を選ぶ。居酒屋だが、野菜や魚を中心に出してくれて、ご夫婦で経営しているこぢんまりとした店にした。

 週末ということもあって、席はカウンターしか空いておらず端のほうに座る。

「とりあえず、ビールと」

 私が大きく頷くと、滝岡が「ビール二つ」と言い直す。

 小柄な奥さんが奥に戻り、私と滝岡は顔を寄せてメニューを見る。こんなに至近距離にいても、全然ドキドキしない相手って逆に貴重かもしれない。

「新じゃがの素揚げ」

「いーね」

「厚揚げのぱりぱり焼き」

「いーね」

「刺身頼む?」

 私が尋ねると、滝岡はにっこりと笑う。まだ酒入ってないのに、珍しい。

「盛り合わせるね? タコと、シマアジと」

「ホタテ」

 はいはいと頷いていると、ビールを持ってきた奥さんが微笑ましい様子で私たちを見守っていた。

「あ、すみません」

 寄せていた顔を上げ、テーブルを空ける。奥さんは二人分のビールと、突き出しをテーブルに置くと伝票を構えた。さきほど決めた注文を伝え、「お疲れ」と軽く乾杯をする。

「あー、うま」

 一気に3分の一ほど飲む。こんなふうに女らしくない飲み方を見せるのも、滝岡だからだ。

「そういえばお前のパソコン、復旧できそうだ。言い忘れてた」

「ほんと!? 助かるー!」

 仕事に使うデータのバックアップは別のパソコンにとってあったので特段困ることもないのだが、馴染みのパソコンだけに戻ってくるのは嬉しい。新しくもなく、何のデータも入ってない代替機は使いづらいことこの上なかった。(が、リスクを冒して用意してくれたので、これは滝岡には言わない)

「ほんとにとんだ誕生日だったな……ただでさえ」

 昨日一人寂しく飲んでたのに、と言おうとしてやめた。さすがに惨めだ。

「ただでさえ、何?」

「いや、ううん。何でもない」

「彼氏とかと過ごさなくていいのか、そういえば」

 ご飯に誘っといて何を言っているのだろう。彼氏がいないことなんてとっくにバレているのだと思っていた。ビールをまた半分まで一気に飲む。体に染み渡る感覚、気持ちいい。

「彼氏なんかおりません」

「そう」

「滝岡は? 彼女いたじゃん、遠距離の」

 昔はこいつと二人きりになることも多くて彼女の近況を聞いたりもしていたが、最近はそんなこともめっきり減っていた。大勢がいる場所だと滝岡もそんなに喋らないし、しばらく彼女のことを聞いてなかった。

「別れた」

 あっさりとそう言いながら、突き出しに箸を伸ばす。

「え? いつ? 何で?」

 確か、どこぞのアナウンサーに似ているという噂の、美人の彼女。私は見たことがないが、写真を見たという同期の子の情報ではそうだった。

「結構前。向こうの心変わり」

「……そうなんだ。知らなかった」

「まーもう吹っ切れたし、平気だけど」

 急に言葉が見つからなくなる。私は今まで彼氏がいたことなくて、もちろん別れの悲しみも痛みも分からない。だからこそ、なんて言ったらいいのか分からない。

「何暗くなってんだよ」

「……いや、ごめん。聞いたら悪かったかなと思って」

「別に悪くないから気にすんな」

 新じゃがの素揚げも、厚揚げも、刺身も運ばれてきて、お腹が減っていたはずなのにお互い遠慮がちに黙って食べ始めた。

 改めて何を喋ったら良いのかということばかり考えている。そういえば昔も彼女の話ばかりしていたように思う。その話題がなくなった今、滝岡との間がもたなくなっている。所詮友だち未満の同僚だ。一緒に仕事をしたこともほとんどなく、信頼し合っているわけではない。

「……誕生日、何か欲しいもんあるの」

 ぽつりと呟かれた言葉は、賑やかな店内では聞き逃しそうで。

「何かくれるの?」

 思わずそう聞き返してしまったが、自分の卑しさが露呈されて自己嫌悪になった。さすがに滝岡相手でも恥ずかしくなり、顔を伏せて新じゃがを口に放り込んだ。

「聞いただけ。何か、通夜みたいだし、今」

 つまりは、ただの話題に過ぎないと。

「うーん……欲しいものってないんだよね。この歳になるとさ、極端に高くなければだけど、買いたいものって買えるじゃん。我慢をしないで済むっていうかさ」

「まあ、分かる」

「物が欲しいならいいよね。お金があれば大体手に入るし、すぐには無理でも頑張って働いて稼げばいつかは手に入るんだから。そうじゃなくてさ……」

 今私が、欲しいもの。

 29歳という年齢になって、もう自分に彼氏ができるという実感は持てない。どうせこのまま30代に突入して、お見合いでもして結婚できれば御の字だろう。心の底から好きだと思える相手と結婚できる、そんな長年の幻想を諦めることになる。だから何か欲しいなんて、さらさら思ってない。

 そうじゃなくて、捨てたいのだ。

「内田?」

「……ううん、何でもない」

「それ二回目」

 顔を上げると、目つきの悪い滝岡が私を心配そうに見ている。

「本当に、何だろうね。大丈夫、口に出して言うようなことじゃないから」

「余計気になるんだけど」

「無理無理。じゃなくて、食べようよ。刺身乾くよ」

 ほとんど手のつけられていない刺身の盛り合わせを、滝岡がいるほうへ押しやる。あいつが食べたいと言ったホタテも、まだそのまま。


 何となく気まずいまま食事を終え、店を出た。私の奢りだといったのに、滝岡は割り勘にしてくれた。

「じゃあ、私、私鉄だから」

「内田、もう一軒行かない?」

 別れ際、こんなふうに滝岡が誘ってくるのはおそらく初めてだ。でもこれ以上酔っぱらってしまうと、自分の胸の内をさらけ出してしまいそうで怖かった。いくら社内ではほとんど接点のない滝岡だといっても、そこまで落ちぶれたくない。

「行かない。帰る」

「どうせ彼氏いなんだからいいだろ」

「はあ!? 関係なくない? 彼氏いないと断る権利ないわけ?」

 急に声を荒げた私に驚いたのか、滝岡は一歩後ずさる。

「俺まだ飲みたい」

「一人で行けばいいでしょ!」

「何イラついてんだよ」

 私はイラついても、焦ってもいない。決して焦っているわけでは、ない。

「……さっき言ってた、内田の欲しいものって、何。物じゃない、欲しいもの」

 どうしてこいつはこんなにも、さっきの話に固執するのだろう。そう思う反面、頭にぽっかりと捨てたいものが浮かぶ。

「欲しいものなんてない」

「あるって言ってたじゃん。さっき、そういうふうに聞こえた」

「だから……」

 店の外は、裏通りで人は少ない。道行く人も週末の楽しい気分で、私たちのことなんかお構いなしに明るい灯りのほうへ歩いて行く。

「欲しいんじゃ、なくて」

 滝岡は、眉をひそめる。

「……その逆」

「逆?」

 分かれよ察しろよバカ男。

 この行き場のない気持ち。全部吐き出したら楽になるだろうか。そんなふうに一瞬思ってしまったために。

「……私ね、今まで誰とも付き合ったことないの。それ、友だちにも誰にも言った事なくて、恋愛の話になっても適当に話合わせて、最悪嘘ついてさ、自分のくだらないプライド保ってきた。プライドって歳とるたびに増えてくんだよね。きっと私はずっとこのままで、捨てたいもの自分の中に溜め込んで、虚勢はって生きてくんだなーと思うと、なんてつまんない人生なんだと思って、辛くなる。でももう30年近くも生きちゃったし、もうやめたなんて、言えないじゃん。今さら生き方変えるなんて、できないじゃん」

 滝岡は静かに聞いている。雑音の中から私の小さな声を探すように、真剣に目を見つめながら。

「……捨てたいものいーっぱいあるんだよね」

 努めて明るく言う。

「くだんないプライドでしょ? すぐに卑屈になる性格でしょ? あと」

「……あと?」

「手も、繋いだ事ない。男の人と。そういうの全部捨てたい」

 直接的に言ったわけではないが、私からしたら相当なカミングアウトだった。滝岡相手に、泣きそうになりながら言ったなんて後から思うと、穴を掘って埋まってしまいたいほどの出来事だろう。

 すぐそこまで溢れそうになっている涙を堪え顔を伏せていると、鞄を持っていないほうの手をぎゅっと握られた。

「捨てたいなら、捨てれば」

 咄嗟に意味が分からず、手を引くも離してもらえなかった。

「協力する」

「……滝岡。それ、意味分かってる?」

 涙はどこかへ消えていた。びっくりしすぎて、予想外の反応すぎて。

「俺も一応男なんで」

「いや、え……でも」

「お前見てると心配だ。どっか変なところに捨てそうで」

「へ、変なとこってどこよ!」

「分からん。何か、いかがわしいところで」

 私に対しておおいに失礼な発言をしていることに気づいているのだろうか。

 数秒、見つめ合った。滝岡に対して一度もドキドキしたことなかった。今だってあんまりしていないけれど、握られた手はすごく温かくて気持ちよかった。


 どこがいいと聞かれても、経験のない私には分からなかった。

「俺んちか、お前んちか、ホテルか」

 選択肢を出されて、生々しさがその場を漂う。

 私の家は無理だ。掃除もしばらくしてないし、布団も干してない。いや、そういう問題か?

「私の家は……無理」

「じゃあ俺んちでいい?」

 しばらく考える。滝岡の家に行ってしまって、本当に大丈夫だろうか。私、冷静でいられるだろうか。終わったあとだって、滝岡とは顔を合わせなければいけないのだ。できるだけ自分が平静を保てるところのほうがいい。二度と、訪れない場所のほうがいい。

「あの、ホテルのほうが。ふつーのホテル」

「……了解」

 手を握られたまま連れて来られたのは、私の言葉を察してくれ普通のビジネスホテルだった。チェックインを済ませると、滝岡からカードキーを渡される。

「先行っといて」

 同時にぱっと手も離される。自由になったのに、不安がつきまとう。

「え……滝岡は?」

「ちょっと買い物。んな顔してんな」

 ぽんと頭を叩かれて、エレベーターのほうへ体を押される。仕方なく一人で部屋へ向かう。出張もない私は、あんまりこういうホテルには泊まらない。若いときは旅行先で節約のために泊まることもあったが、今は贅沢重視の旅行ばかりだ。

 部屋に入ると、真ん中にダブルベッドがどんと置いてあり、あとは隙間を埋めるようにテレビや冷蔵庫が置かれていた。どこに居ればいいのか分からず、とりあえずベッドの端にちんまりと座る。

 落ち着いて考えてみると、何も用意してない。下着は全く可愛くないし、むだ毛の処理もしたかどうかあやふやだ。でも、滝岡だったら許してくれるかな。そんな甘い考えもある。

 それはそうと、滝岡は何を買いに行ったんだろうか。何か用事があるなら来るときついでに寄れば良かったのに、と思う。逃げる口実、という考えがふと脳裏をよぎる。ここまで来てみて、やはり嫌になったのだ。私なんか抱くのか面倒くさくなったのだ。だからとりあえずホテルに入るふりだけして、買うものがあると理由をつけて逃げたんじゃ。ずんずんと悪い考えは進み、このままだと私あほみたいに滝岡を待ち続けることになる。そんなの嫌だ! がばっと立ち上がり、勢いをつけて走る。

 扉をあけて目の前に現れたのは、白い買い物袋を持った滝岡だった。彼は今まさにインターホンを鳴らそうとしていたのか、中途半端に手をあげていた。

「どうした、内田」

 驚いた顔の滝岡は、私の考えとは裏腹にちゃんと戻ってきてくれた。

「……別に」

「あっそ。入れてよ」

 道をあけると、中へ入り今さっき私が座っていた場所に深く腰掛ける。

「何、買ってきたの?」

 不思議そうに尋ねると、滝岡は私の顔をまじまじと見た後、袋から何か取り出しこちらに投げてよこす。それは、クレンジングと化粧水・乳液が一緒になったコンビニによく売っているセットだった。

「風呂、先入って」

「え、私が? 先に?」

 入り口のあたりで戸惑い右往左往していると、私をじっと見ていた滝岡が立ち上がり再びこちらへやってくる。あっという間に詰められた距離は、いつの間にか数センチになっていた。居酒屋で至近距離になっても全然心臓は鳴らなかったのに、さすがにこのシチュエーションだと違う。瞬きも忘れて滝岡の細い目から視線を外せないでいると、唇を塞がれた。

 柔らかい感触は、優しく触れるだけ。

 ほんの数秒だけ触れて離れた唇はほとんど動かずに「風呂入れ」と、再び私の体を押した。

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