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続々編 「ベィビー・Lady!」③

「じゃあ、明日忘れずに病院まで行ってくれよ」


大村圭介は念を押すように、何度も健太郎に明日の約束を告げてから、玄関のドアを閉めた。

健太郎は門に手を掛けると、どうしたら一番効率的かを計算し始めた。

家の前の道路に出ようとすると、スウッと黒光りするアウディが目の前に停車した。

車のウィンドウが開いて、運転席から武重が顔を出す。


「若、今すぐ花鈴様をお連れ下さい。ついでに大村も」


健太郎は一瞬止まってから、振り返ってさっき出たばかりの玄関を開けた。

後ろで車のドアが閉まる音がする。武重が付いて来てくれた。

健太郎が靴を脱いで家に上がると、応接間の方で大村が電話で話している声が聞こえた。

〝報酬〟とか、〝口座〟という言葉が断片的に聞こえる。大村のことは後ろにいる人物に任せて、健太郎は花鈴の部屋まで直行した。

花鈴はさっきと同じ姿勢で眠っていた。「花鈴?」と声をかけても「・・・ん」という返事しか返ってこない。一応「持ち上げるよ」とだけ告げて、毛布ごと花鈴の小さな身体を抱き上げた。

健太郎は花鈴を抱き上げたまま、一階に向かって階段を降りる。応接間に向かう廊下を進むと、気絶した大村を肩に担ぎ上げている人物がいた。健太郎はその人を見て、叫び声を上げそうになった。


「ハロー、ケン。こんなにすぐ会えて嬉しいです」


目の前でにこやかに微笑むのは、スキンヘッドを輝かせたDr.ローリングサンダーだった。カナダでは英語で話していたが、今の言葉は完璧な日本語だ。呆気にとられる健太郎に軽く頷くと、自分と同じくらいの身長がある大村を軽々と担いでドクターは玄関に向かった。

健太郎は混乱したままドクターの後に続いた。玄関を出ると、武重が花鈴の家のものと思しき鍵をもって待っていた。健太郎が玄関口を出ると、武重がきちんと家の鍵を閉めてくれる音がする。

通りでは、青い目でスキンヘッドにチャイナ服のドクターが大の男を担いでいるのを見て、通りすがりの近所のおばさんが目をむいていた。


「オー、このヒト、酔っ払いネ。ノーテンパー」などと適当な事をドクターが喋っている。

なに人のフリをしているのかは不明だった。


ドクターは助手席に大村を座らせると、後部座席につく。健太郎は既に花鈴を膝に乗せて後ろの席でドクターが来るのを待っていた。

ドクターは最初、トランクに大村をぶち込もうとして武重に止められていた。

「日本には日本のルールというものがあるんです」と武重がドクターに諭している。それではまるで、カナダではトランクに人を乗せるのが普通みたいではないか。健太郎は変人二人と愛しい花鈴に囲まれて、車の中におさまった。


アウディが滑らかに滑り出すと、「なんでドクターがいらっしゃるんですか?」と健太郎は日本語で問いかけた。

「昨日タケに呼ばれて、昼に成田に到着しました。ケンの恋人を助けて欲しいと言われました」

ドクターは健太郎の腕の中で眠る花鈴に視線を投げた。その眉根が心配そうに寄せられる。

ドクターから見ても花鈴の容態は良くないらしい。


「大村は花鈴様のお母様方の従兄弟です。

 それと、FC社という健康食品会社に勤めているのも本当です」


武重がハンドルを操作しながら健太郎に情報を提供する。健太郎は花鈴の頭を軽く撫でると、武重の言葉に意識を集中した。


「このFC社、経営状態はかなり悪いようです。

 効き目の不確かなサプリメントを強引に売りさばいていたのだから当然でしょう。

 仕事は開店休業状態。給料は不払いです。

 そして昔、ライズ製薬とも取引がありました」


健太郎はやはり、と思って武重を見た。バックミラーから武重の視線が健太郎に頷きかける。


「明らかに大村は、ライズからの回し者でしょう。きっと最初から若が狙いだったんです」


分かってはいたものの、その武重の言葉は健太郎の胸に突き刺さった。結局花鈴をオレの災厄に巻き込む事態に陥らせてしまった。しかも病気のような状態にするなんて・・・!

それは正面から襲いかかって来られるより、恐ろしいやり方だった。手が込んでいて、えげつない。

健太郎は自分が怖くなるほどの強い怒りを、身のうちに感じた。


「オレの周りをうろついていた八人は?」

「奴らはニューフロンティア製薬の方です。

 きっと兄の経営するライズ製薬が大村を使って若の血を手に入れようとしている情報を聞きつけたんでしょう。

 若がライズに血を提供する前に、多少強引にでも身柄を拘束しようとしているのかもしれません」


健太郎は頭を抱えたくなった。どうしてそこまでしてオレの血が必要なのか分からない。

オレの体は、どちらにしても偶然の産物だ。同じような生まれ方をすれば、同じ体質の人間を作れるかもしれないが、それには両親が怪しい薬を飲んで早死しなければならないのだ。

何が人類のためだ。それでは本末転倒ではないか。


「なりすましメールの方はどうだ」


健太郎の質問に、武重はほう、という感じで眉を上げた。

「お気がつかれましたが?さすがですね」と返してくる。


「いや、残念ながら気づいたのはオレじゃない。柾だよ」


それを聞くと武重は楽しそうな笑い声を上げた。もちろん、武重は柾の事を知っている。見た目は貧弱なものの、鋭い見識の持ち主の柾は、武重のお気に入りだった。


「そうでしたか。確かにあの方なら気づきそうです。

 将来は是非、〝レジスタンス〟で活躍していただきたいですね」


レジスタンスは榊原カンパニーの雇うハッカー集団だった。これからはサイバー攻撃に対応できねばならん、と爺様が日本各地からコンピューターに強いと評判の者たちを集めて結成された。

健太郎から見ると、レジスタンスの奴らは皆、狂人だ。いつ寝てるのか分からないほどパソコンの前から離れない。青白い顔をしてひたすら画面を見つめる姿は、麻薬にどっぷりハマリ込んだジャンキーの姿と通じるものがある。


「メールの発信源の解析は進んでるのか?」

「はい、もちろんです。レジスタンスの方たちは喜々として対応しておりますよ。

 もうすぐ犯人の身元が割れるでしょう」


これで一つ、解決できるものが出来たことになる。でも犯人が分かったらオレはどうするだろう・・・。健太郎には今、答えを見出すことは出来なかった。

「そうだ」と気がついて、健太郎は制服のポケットを探った。先ほど大村からもらった封書を探し当てると武重に差し出す。武重はハンドルを片手で握ると、後ろ手に健太郎から封筒を受け取った。 


「それが大村に行けと言われた病院の地図だよ。出来れば今すぐ火をつけてやりたいくらいだ」

「そういう楽しいことは後に取っておきましょう。それと、そちらの病院なら既に割り出してあります。

 最も、大村は今日一日岡崎家にいて、花鈴様を連れて出かけるなどしておりませんが」


健太郎は助手席に座るの大村の髪の毛を睨みつけた。花鈴がこれほど具合が悪くなっているのに、医者に診せようとは思わなかったのだろうか。大方、ライズに言われて花鈴に良くないものを飲ませるか食べさせるかしていたのだろうが、寝込んでいる人間を放置しておく神経が理解できない。


車は榊原家の私道を抜け、正面玄関の前に横付けられた。エントランスの下では、健太郎の祖母が緊張した面持ちで一行を待ち受けていた。花鈴を抱えた健太郎を、即席の医務室に変えた一部屋に案内してくれる。健太郎は花鈴をドクターとおばあ様に任せて、自分は榊原家の地下室に向かって走っていった。




大村圭介は、頭から冷たい水をバケツいっぱいかけられて目を覚ました。

「うぅっ」と呻く。水も冷たいが、お腹の痛みの方が神経に響いた。

ゆっくり記憶が戻ってくる。ライズ製薬の幹部と電話をしている時に、いきなり殴られたのだ。その後の記憶はない。目を開けると、コンクリートに囲まれた薄暗い場所に倒れているのが分かった。


「気がついたか?」


何もない密室に特有の、変に反響する声が大村の耳に届いた。聞こえたのは榊原健太郎の声だ。大村はすぐに答えなかった。全てバレたのかと思うと恐ろしくて声が出てこない。


「目が覚めないようなら、今度は熱湯をかけてやる。武重」


はい、と答える太い声が響く。大村は跳ね起きて、声の主に顔を上げた。

冷たいコンクリートの床に座り込む大村を見下ろしているのは、間違いなく榊原財閥の御曹司、健太郎だ。学校の制服を脱いで私服に着替えている。黒のタートルネックの袖をまくり上げ、下は洗いざらしのブラックジーンズだった。アイドルみたいに整った顔と、スラリとした長い手足。

ちきしょう、と大村は思った。

俺にこれだけの顔とルックスがあれば、毎晩女とヤリまくりだぜ。


「花鈴に何をした。答えろ」


冷たい視線と声が大村に突き刺さる。岡崎家の応接間で、大村をすがるように見ていた健太郎からは想像もつかないほど別人に見える。

尻餅をついた状態で座っていた大村の両脚が、左右に揺れるほど震え始めた。

健太郎は両手を体の前で組み合わせると、パキパキと指をならした。


「答えられないようなら、体に聞いてもいい」

「わぁっ。言うよ。喋ります!」


健太郎は、組んでいた手をほどくと、今度は腕を組む。後ろでは考えつかないくらいデカい男が直立不動で控えていた。

大村は声が震えてしまうのを恥じている暇もなく、健太郎に事情を説明しだした。


「一週間くらい前に、ライズ製薬の幹部という男から是非会いたいと俺の会社に連絡があったんだ。

 それでそいつから、何とか機会を作って従姉妹の花鈴にこれを飲ませて欲しいと、変な薬を渡された。

 たまたま花鈴の両親が旅行に行って留守にするって言うから、

 泊まる予定だった姉貴に頼み込んで、代わってもらったんだ。

 花鈴の調子が悪くなったら、必ず榊原健太郎が出てくるはずだから、

 その時は花鈴を不治の病だと偽って、榊原健太郎から血を取れるように交渉しろと。

 俺・・・怖かったけど、報酬がもらえるって言うからつい引き受けちゃったんだ。

 悪気はなかったんだよ。信じてくれ」


健太郎は目を細めて大村を見た。

「報酬はいくらだ?」

「さ・・・三百万」

金額をごまかそうと思ったが、無駄な抵抗はやめて正直に伝える。


「大村には二百万の借金があります」

健太郎の後ろの大男が、太い声を割り込ませた。


もしかして借金の為にやってしまった、と同情してもらえるかもしれない。

大村は浅はかな期待を胸に抱いた。


「何で作った借金だ?」と健太郎が後ろの男に問う。

「パチスロです」と男が答えると、は、と健太郎が息を吐く音がする。

大村は怖くて顔を上げられなかった。


「そのはした金のせいで、花鈴が死ぬかもしれない」

健太郎の声は、北極の冷気を思わせるほど凍りついていた。


「そっ・・・そんなことはない。

 ライズ製薬の幹部は死ぬような薬だって言わなかったぞ」

「でも実際あんたの目の前で、花鈴は弱っていった。

 それを見て、薬の投与をやめようとは思わなかったのか?」

「お・・・俺は、花鈴の食事に、薬を砕いて混ぜいていただけだよ」


大村は、直接薬を飲ませた訳じゃないということで、罪から逃れられるとでも思っているような口ぶりで言った。健太郎の大村に対する心の温度は、マイナス五十度を遥かに下回っていた。


健太郎は大村に近づくと、シャツの襟を掴んで自分の方に引き寄せた。綺麗に整った完璧なラインを描く目の中は、ブリザードが吹きまくっている。


「顔面に鼻がめり込むのと、股間にタマがめり込むのと、どっちがいい。選べ」


大村の目は大きく開かれ、その顎は骨の音が聞こえそうな程震えていた。

正に究極の二択。

パーフェクトな容姿を持つ榊原家の御曹司は、本当にそれをやるだけの度量と技術があると、本脳で大村は感じ取った。


大村はいまや全身を高熱に襲われた人間のように震わせていた。

もうダメだ。ここはどうやらどこかの地下室で、助けを呼ぼうにも声など誰にも届かない。

大村は覚悟を決めて、鼻、と言おうとした。少なくとも鼻なら、小便をする時に困らないで済む。


「若」と大男の声が健太郎に掛かる。健太郎は武重の方を振り向いた。

武重の横に、榊原家の当主、榊原健之介が立っている。「爺様」と健太郎はつぶやくと、大村から手を離した。

榊原健之介は、大村に向かっていきなり何かを放り投げた。大村の顔に、紙の塊がぶつかって床に落ちる。パラパラとそれが散らばる音がした。目を閉じていた大村は恐る恐る目を開く。床には百万の札束が二つと、閉じていた紙ひもが切れて散らばったお札が水に濡れていた。


「三百万ある。持って行きなさい。

 そして健太郎にも花鈴さんにも、二度とその顔を見せるでない」


大村は突然のことにしばし呆然としていたが、お金に目をやると、鬼気迫る勢いでそれをかき集め始めた。水に濡れて床の汚れがついてしまったお札を、大切そうにまとめていく。健太郎は数歩離れて、嫌悪とも悲哀ともとれる視線で、その姿を黙って眺めた。


大村は最後に卑屈な笑いを榊原健之介に向けると、シャツの中に札束を抱え込んで地下室を出て行った。ドアを開けた武重から、軽蔑を通り越した侮蔑の視線を送られていることにも気づかずに、下を向いてコソコソと去っていく。

 

健太郎は唇を噛み締め、拳を握って力を込めた。爪が手のひらに食い込んで、皮膚を破るのが分かった。怒りをどこにぶつけたらいいか分からない健太郎の肩を、そっと爺様が掴む。


「あんな若者を作り上げた、会社が憎い。世間が憎い。

 あの若者はある意味被害者なんだよ、健太郎。

 あいつの会社がもっとしっかり給料を払って、

 いい仕事をさせてやればこんなことにはならなかった。

 わしは自分が情けない。日本をこんな社会にしてしまった、

 わしら大人が情けないんじゃ」


健太郎は爺様の声を聞きながら、ギュッと目を閉じた。爺様の言いたいことは分かる。でも花鈴の今の状態を思うと、なぜ大村を一発ぶん殴ってやらなかったのか、と後悔した。


「若、ドクターがお呼びです」

武重が携帯を片手に健太郎に呼びかける。健太郎は肩に掛けられた爺様の手に一度自分の手を重ねると、即席の医務室に向かうべく、地下室のドアを抜けた。





その医務室は、即席の割には機器が充実していた。ピッ、ピッ、という花鈴の心音を告げる機械の音が部屋に広がる。でもその機材を見て健太郎は逆に怖くなった。まるで・・・花鈴が本当に危篤状態のように見える。


「どうですか?」

健太郎は恐れを隠してドクターに聞いた。チャイナ服を脱いで白衣に着替えたドクターが花鈴のそばから健太郎のところまで来る。

「楽観は出来ません。どんな薬を盛られていたのかまではまだ分かりませんが、

 どうやら免疫系統が機能しなくなるような効用のあるものだったと推測します。

 免疫システムが弱体化してしまい、

 普通なら跳ね返せるウイルスや細菌に感染している可能性がある。

 通常インフルエンザに掛かると高熱が出ます。

 人間は発熱することでウイルスに抵抗しようとするのです。

 でもカリンには今、熱を出すだけの体力も残っていないようだ。

 このまま栄養も取れない状態が続くと、どんどん衰弱してしまうでしょう」


健太郎は悪夢を見ているような気がした。なぜオレは大村を殺さなかった? もし花鈴がこれ以上ひどい目にあったら・・・。


「あの・・・差し出がましい申し出ですが・・・」

躊躇い勝ちに武重が口を挟んだ。健太郎とドクターは揃って武重を見る。


「ウイルスや細菌が原因なのだとしたら、血清を使ってみてはどうでしょう」

「血清?」

健太郎は小説やテレビでしか聞かない言葉に首をかしげた。ドクターは険しい顔で武重を見る。

「血清は目的がハッキリしていないと使えません」

「はい、わかってます。でもここに、どんな感染症にも有効な抗体を持つ血清を作り出せる、

 特殊な血液を持つ人物がおります」


健太郎はポカンとして武重を見上げた。

オレの血・・・。オレの血から出来る血清で花鈴を救えるかもしれない・・・?

 

「ドクター、オレの血を取ってください。なんなら全部抜いてくれていい」


ドクターは目をまんまるに見開いて健太郎を見た。その目がゆっくり眇められ、またもや普通の人には見えない何かを見ようとしている眼差しになる。


「どこまで効くかは不明ですが、やってみる価値はあると思います」

武重の再度の進言にドクターは一つ息を吐き、「分かりました。やってみましょう」と言った。

健太郎はベッドに横たわる花鈴に視線を向けた。

まだ効くかどうか分からなかったが、健太郎は生まれて初めて、この体に生まれたことを神様に感謝した。





「・・・健太郎くん?」


薄暗い部屋の中で、花鈴の小さな声が健太郎の耳に届いた。

花鈴のベッドのすぐ横に布団を持ち込んで丸まっていた健太郎は、知らず知らずのうちにウトウトしていたらしい。

血清を作るために血を抜かれてダルかったせいもあったが、それでも花鈴の声を聞き漏らすことはなかった。

健太郎は体に巻き付く毛布を横に追いやると、花鈴の顔が見えるように身体を起こす。

花鈴はベッドの上に半身を起こしていた。血清を投与してから急激に容態が落ち着いたので、花鈴に付けられていた医療機器は全て取り外されている。

薄闇の中で見ても、花鈴の顔に生気が戻っていることがわかった。健太郎はベッドの上に腰掛けると、腕を伸ばして夢中で花鈴を抱きしめた。


「良かった。 ほんとに、良かった・・・!」


健太郎の腕の中で、最初身体を硬直させていた花鈴だったが、おずおずと両手を健太郎の背中に回した。しばらくそのまま抱き合っていたが、急に花鈴は健太郎の胸に手を当て、離れようとする。


「ごっ、ごめん。嫌だった?」

健太郎は焦って手を離す。でも心に受けたショックは隠せなかった。


「ううん、違うの。だってあたし・・・あたし二日くらいお風呂に入ってないの。

 だからいい匂いしないと思う」


花鈴は両手を頭に当てると、キュッと縮こまって下を向く。

健太郎はまた両手を広げると、小さく丸まった花鈴を自分の腕でくるみこんだ。


「そんなの構わないよ。調子悪くて入れなかったんだから、仕方ない」


健太郎は花鈴の、汗でごわついた髪を手で梳いた。

花鈴の香りなら、いついかなる時もシャネルの五番より香しい。


一瞬、体の緊張を解いた花鈴だったが、今度はキュウウとお腹が鳴る。

ああもう! どこでもドアがあれば、地の果てまで逃げ出すのに・・・と思って花鈴が顔を手で覆うと、健太郎は携帯を取り出し、電話をかけ始めた。


「ミネばあちゃん? ごめん、こんな明け方に。なんか食べるもの残ってる?」


相手が何か答える声が細く聞こえて、「分かった」と健太郎が答えた。

花鈴はボサボサの髪のまま、捨てられた子犬みたいに下を向いている。


「あのメール、オレじゃないから」

健太郎が言うと、花鈴は驚いて顔を上げた。訳がわからない、という表情で健太郎を見返す。


「あの時間、オレは飛行機の中で携帯の電源は入れてない。柾が言うには、なりすましメールだってさ」


健太郎の言葉に、花鈴の目から涙が溢れ出る。数日食事が細かったせいか、小さい顔が余計小さくなったように見えた。心なしかバストの方も少し縮んだように見える。これは健太郎にとって大問題だった。


健太郎が花鈴にもう一度手を伸ばそうとした時、部屋のドアをノックする音がした。

ミネばあちゃんが、ドクターと共に入って来る。薄暗かった部屋に灯りがともった。


女性の食事と風呂と着替えの世話に、ぼっちゃまは必要ありません、ときっぱりミネばあちゃんに言われ、健太郎は自室で自分も風呂に入った。

リラックスできるルームウェアに着替えて、座り慣れた自分のソファに腰掛ける。そしてじんわり沁みる喜びに浸った。

この体が、花鈴の命を救ったんだ。


健太郎は、さっき憤りのあまり爪を立てた自分の手のひらを目の前に掲げた。既に傷は痕も残さず消えている。

幼い頃は自分の体質が怖かった。他の子と違う、という事が日本人にとってどれほどのプレッシャーになるかを、健太郎は子供の頃から身をもって覚えてきた。自分の身体を憎んだことすらあった。

でも今日、花鈴を助けられた。それだけでも生き抜いてきた甲斐がある。


コンコン、というノックの音のすぐ後に、「若、よろしいですか?」と声が掛かる。

「ああ」と答えると武重が入って来た。朝五時前でもきっちりスーツを着込んでいる。


「本日未明のことですが、隣町の病院で火災が発生しました」

武重は健太郎の前に直立不動で立つと、報告を始める。口元には相変わらず軽い笑みを浮かべていた。


「火事はたまたますぐ近くに消防車が待機・・・いえ、見回りをしていた為、半焼で消し止められました。

 しかしお気の毒な事に、ライズ製薬お抱えの院長は下半身にやけどを負ったそうです。

 なぜかきっかり、腰から下のみ。しかも局部の損傷は相当だったようです。

 同じ男として同情致します。

 あ、その院長はずっとこう叫んでいたと聞きました。サカキバラには逆らわない、と。

 なんのことでしょうね。きっと火事の恐怖のあまり、神経症にかかったのかもしれません」


しゃあしゃあと武重は報告を終えると、では休ませていただきます、と告げて退室した。

入れ替わりに、ヒラヒラのフリルがたくさん付いたネグリジェに身を包んだ花鈴を連れて、ドクターが入って来る。


ドクターは優雅に花鈴の手を引くと、立ち上がった健太郎のすぐ横に連れてきた。花鈴は健太郎に促されて、何度も座ったことのある高級ソファに小さなお尻を置いた。

隣に健太郎が座ると、ドクターが花鈴の経過を伝える。


「カリンは完全に健康体に戻っています。ケンの血から作った血清は素晴らしい。

 ケンの血清はただ病原体を攻撃するだけじゃなかった。

 盛られた薬すら解毒してしまったのです。

 奇跡が起こりました。これでカリンは安心です。若いし、体力もすぐ元に戻るでしょう」


ワンダフル! と両手を広げてドクターが健太郎を褒め称える。健太郎は少し不安になってドクターに頼んだ。


「Dr.ローリングサンダー。花鈴を助けていただいて感謝します。

 でもどうか、オレの特異体質の事は、他言しないでいただきたいのです」


ドクターは立てた人差し指を唇に当てると、チッチッと舌を鳴らした。


「私は医者です。患者のプライバシーは絶対漏らしません。もし誰かに喋りたくなったら、

 ロッキー山脈の奥深くで〝王様の耳はロバの耳〟と叫ぶかもしれません。

 まぁ日本語を解するシカでも現れない限り、私から外部に漏れる可能性はない、

 と考えてもらって結構です」


ドクターはそれだけ言うと、手を振ってドアから出ていった。

花鈴は横に座る健太郎に目を向けた。

「健太郎くんのおかげで、あたしは助かったの?」と聞いてくる。

健太郎は、どう説明しようか迷った。花鈴は輝きを取り戻したつぶらな瞳を、真っ直ぐ健太郎に向けてくる。健太郎は息を吸い込むと、思い切って花鈴に言った。

「長い話になると思う。眠くはない?」

「うん。大丈夫」

花鈴の答えを聞いて、健太郎は自らの手を組み合わせた。そして神に祈るようにして、花鈴に自分の出生の秘密を語り始めた。




花鈴は一度も言葉を挟むことなく、健太郎の長い話を聞き終えた。

花鈴の目からは、ずっと涙が流れていた。時々手の甲で自分の涙を拭っていたが、健太郎が語り終えた後も、その涙が止まることはなかった。

健太郎は花鈴が自分をどう思うかが怖かった。確かに奇跡の体質は素晴らしいものかもしれないが、その人物が直接自分と関わる立場に立つとなると、人間は間違いなく恐れを抱くものだ。

花鈴はオレを怖いと思うかもしれない。そしていつか・・・離れていくかもし・・・。


健太郎はうつむいていた顔を上げた。花鈴の小さな手が、健太郎の頬に触れたからだ。

花鈴は泣きながら、右手を健太郎の左頬にあて、健太郎の目を見つめる為に、顔を傾けた。


「健太郎くんは、たからものなんだね」


花鈴はネグリジェに涙を落としながら、静かに語りかける。健太郎は言葉もなく花鈴を見返した。


「健太郎くんは、お父さんと、お母さんと、お爺様と、おばあ様にとって・・・

 そして、その血の繋がらない伯父さんにとっても、大事な、大事な、たからものなんだ」


健太郎の目が、一度大きく見開かれる。その瞳から、涙が溢れ出た。

健太郎は花鈴の手に自分の手を重ねると、下を向いた。毛の長い絨毯の上に、音もなく健太郎の涙が落ちていく。

健太郎の心の中を、花鈴といるといつも感じる陽だまりの暖かさが、今度こそ本当の春になって満たしていく。過去に自分で何かしてしまったわけでもないのに、何故か「許された」という気がした。自らを縛り付けてきた呪縛が、花鈴のおかげで解けた、と思った。


「ずっと・・・言おうと思って、言いそびれてたことがあるんだ」


健太郎は花鈴の手を頬から離すと、今度は両手でその手を包んだ。

涙に濡れた顔を上げて、正面から花鈴を見る。本当の気持ちが、ちゃんと伝わるように。


「オレは花鈴が好きだ。正式にオレと、付き合って欲しい」


我ながら、もう少し気の利いた言い方はないのかと、言った直後に後悔した。でも出してしまった言葉はもう、取り戻せない。健太郎は緊張して返事を待った。

花鈴は感情をなくしてしまったように、口をつぐんで健太郎を見つめた。健太郎が息を詰めて見ているうちに、花鈴がまばたきする。するとその目からまた、新しい涙がこぼれ落ちる。


「あたしも、健太郎くんが好き」


花鈴は健太郎に握られていない方の手を自分の目に当てた。「好きなの・・・」と続けた言葉は、夜明けの静けさが満ちた部屋に、柔らかな振動を与えて消えた。


健太郎は花鈴の手を離し、両手を肩に置いた。そのまま自分に花鈴を引き寄せる。健太郎は花鈴に向かって身をかがめると、以前のように唇を、濡れた頬にそっとあてた。

花鈴のため息が健太郎の耳に届く。花鈴の髪の毛からは榊原家御用達のアロマシャンプーの甘い香りがした。

健太郎は片腕を花鈴の背中に回し、もう片方の手は後頭部を包む。一度離した唇を、今度は花鈴の正面から近づけた。


あと三ミリで健太郎の唇が花鈴の唇に重なりそうになった時、健太郎の携帯が着信を知らせた。

「男はつらいよ」のテーマ曲は、武重からのものだ。

健太郎は無理矢理、自分を花鈴からもぎ離した。

武重は普段用もないのに電話などしてこない。

・・・でも、これで重要でもない内容の電話だったら、謹慎処分一ヶ月は食らってもらおう。


「なんだっ」と怒りを隠さず健太郎は電話に出た。「わかわかりました!」と武重の声が答える。

「わかわかウルさい。何が分かった」

「レジスタンスが突き止めたんです。なりすましメールの犯人を!」


それは軽視していいことではなかった。

健太郎はため息をついて、武重に自室に来るように伝えた。






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