続々編 「ベィビー・Lady!」①
数名の暖かい読者様から「続きが読みたい」というコメントを頂き、それを多くの方の声だと勘違いして、本当に続きを書いてしまいました。
ほとんど嫌がらせの様な四万五百余字。
一日置きに四回に分けて掲載させていただく予定です。
尚、内容は小風裕による完全無欠のフィクションです。
「お帰りなさいませ、若」
国際線の通用口から出てきた健太郎に直立不動で声を掛けたのは、教育係兼、ボディーガードの武重だった。
「・・・ただいま」
健太郎は気怠げに答えた。
長い時間飛行機の中にいて、まだ浮遊感が取れていない。
いくらファーストクラスでゆったり出来るといっても、カナダから日本まで狭い空間に閉じ込められていることには変わりない。
無事成田空港に到着してから、ベルトコンベアに乗って出てくる荷物をジリジリ待っているのも健太郎の疲れに拍車をかけた。
もちろん、健太郎はVIPしか入れない待合室でゆっくりすることも出来たが、携帯とにらめっこしていて、ちょっとお茶でも、という気分にはなれなかったのだ。
しかも出迎えに来た武重の隣に、見つけたかった人物の姿が見当たらなかったので、この三日間の特訓の疲労が二、三倍の重さとなって健太郎の心と身体にのしかかかる。
「Dr.ローリングサンダーはお元気でしたか?」
いつものように一見人懐こそうな微笑を浮かべて、大きなスーツケースを受け取りながら武重が健太郎に問いかける。
健太郎はドクター・雷鳴親父を思い出してますます身体に重力が掛かったように感じた。
「元気過ぎるほど元気だったよ。ていうか、あのオッサンほんとに医者なわけ?
実は本職が忍者だったって言われてもオレは驚かねぇよ」
健太郎は学校が秋休みに入ったこの五日間、武重の師匠であるアメリカ人の医師ローリングサンダーにカナダの山奥で特訓を受けた。
健太郎の通う高校は、昨今では珍しくなった二期制を取っている。夏休みがほかの高校より三日程短く、その分を十月の最後の週にあてがう形になっていた。
土日と合わせて五日連休の日が出来る事になる為、生徒たちはみんなとても楽しみにしていた。もちろん健太郎もそうだった。どこに行こうか・・・と考えていたら、武重から「わたくしの師匠にお会いになりませんか?」と言われたのだ。
ローリングサンダー氏は健太郎より十センチ程背の低い、痩身の白人男性だった。
まつげの長いキラキラした青い瞳とスキンヘッド。うっすらとした微笑みを常に顔に浮かべて、何故かいつもチャイナ服を着ている。童顔で若く見えるが、年齢は不詳だった。武重の師匠というくらいだから三十五よりは上なのは確かだが、いくつなのかはどんなにカマをかけても絶対口を割らない。
武重とローリングサンダー医師との出会いは、武重が米軍に所属していた二十代前半の頃だと聞いた。
「いえ、なに。ちょっと軍隊でほふく前進をしてみたくなって入隊したら、
同じ部隊の軍医がDr.ローリングサンダーだったという訳ですよ」
柔らかに微笑みながら武重は健太郎にそう言った。
米軍が〝ちょっと入隊〟出来るものなのかどうか健太郎には分からなかったが、十代後半から二十代前半の頃の武重は、世界各国を渡り歩いていたらしい。
その体験談を聞こうと思うと何日かかるか分からないので、必要に応じて武重が話してくれる奇想天外な物語をほぼ話半分で聞くことにしている健太郎だが、武重がローリングサンダー氏から受けた特訓の話はまごう事なき真実だと判明した。
確信できるのは、たった三日間だけだったがその恐ろしさを直に体験できたからだ。
最初は語学教育という名文でDr.と会う約束をしていた。
軍医を数年勤めてからローリングサンダー医師は凄腕の外科医としてアメリカの大病院で働いていたらしい。でもその後、突如自然の中で生きることに目覚め、カナダのバンフに居を構えた。市街地で開業医として小さな病院を経営する傍ら、山登りを楽しむ生活を送っている。健太郎はドクターの病院で、五日のうちの移動日を覗いた三日間、ネイティブの英語を仕込んでもらう予定だった。
でも空港に着いた途端、待っていたドクターが示した休暇の計画は、カナディアンロッキーを奥深くまで探索することだった。
ドクターは驚く健太郎を、武重を彷彿とさせる薄ら笑いで煙に巻き、サバイバル用の装具一式を担がせて、人の踏み込まない国立公園に連れて行った。
ナイフやらロープやら、基本的な山用品はリュックに詰め込まれていたが、口に出来るものは塩、砂糖以外一切なし。マッチやライターなど火をつけられる物も入っていなかった。
既に寒さの厳しくなった山の中で食べられるものを見分け、採取しなければならない。食料を確保する事が、この特訓の重要事項の最上位に君臨することとなった。
木の実を探し、罠を仕掛けて動物を捕る。健太郎には全て初めてのことだった。
健太郎にとって一番嫌だったのは、仕留めた動物を食べるためにさばかなければならなかった時だ。魚はまだいい。でも捉えたウサギを殺すのは、苦痛のあまり涙が滲んだ。
「感謝しなさい」とドクターは言う。
「スーパーでパッケージされた肉も、元は生きた動物だったんです。
誰かが手を汚してくれている。その事を忘れないようにしなければなりません」
健太郎は神妙な面持ちでその言葉を胸に刻み込んだ。
でもその後、〝お手本〟と称してドクターがウサギをさばいてくれた時の、嬉々とした表情と滑らかな手さばきを見て、神聖な気分がぶち壊しになった。
「これが肺、腎臓、肝臓、心ぞ・・・おや? どうしました?」
たまらず草陰に吐いてしまった健太郎に向かって、ドクターは不思議そうに問いかける。
その手のひらに湯気の出る内蔵を乗せたまま言うのだから、健太郎の胃がそっくり返っても仕方ないだろう。ファーストクラスで出された高級ステーキを全てもどしながら、このオッサンは明らかな変人だ、と健太郎は確信した。
どうかドクターが若い男を切り裂きたい衝動に駆られませんようにと、口元を拭いながら健太郎はこっそり祈った。
サバイバルの中でも食料確保の次に苦労したのは、火を起こすことだった。
木をこすったり、石を打ち付けたりと色々やったが、どれもうまくいかない。
一番良かったのは氷の塊だった。山も上の方に行くと大きな氷がゴロゴロしている。
それをナイフで綺麗に凸状に削って、手で撫でながら滑らかさを出し日光に当てる。虫眼鏡で火をつける要領と同じで、光を集めた氷の先に枯れ草を置いたら、結構あっさり着火に成功した。
昼間つけた火を絶やさないようにしながら、山の中で長い時間を過ごす。
夜はさすがに怖かった。この国立公園内には、コヨーテだのブラックベアだのが一般の観光客でも見かけるくらいウロウロしている。一番怖いのはグリズリーだが、幸い三日の間で出会うことは免れた。一人用テントを張って、交代で火の番をしながら朝を待つのも「忍耐」という事を身に滲みさせるのに有効だった。
トイレも水道もない原初の世界で学ぶことはたくさんある。たった三日間ではそのさわりの部分に触れたくらいだろうが、健太郎は充分、お腹いっぱいになった気がした。
この小旅行で大きな益になったのは、ドクターの特技を伝授してもらえたことだ。
ローリングサンダー氏は拳法の達人でもあったため、食料集めが終わると川原で武術の技を健太郎に教えてくれた。
健太郎は本気でやってもドクターに勝てなかった。身体は小さいのに動きが早い。
「五感を使うんです。生きるための感覚を研ぎ澄ませる。その為にここまで来たのですよ」
ドクターに諭されながら、たった三日の間でも健太郎は急激に成長した。
何しろこのサー・ローリングサンダーは神出鬼没だった。木の陰に隠れたと思ったら突然後ろを取られたりする。健太郎がこれほど完璧に、気配を全く消してしまう事が出来るようになるには、相当の訓練が必要だろう。
でもそこで、ある秘術も教わった。体の作りに関してはプロ中のプロであるドクターから授けられる術は、短い時間の為かいつまんだものではあったけれど、かなり有意義なものだった。
空港での別れ際、ヘトヘトになった健太郎に「次は夏に一ヶ月間大自然を満喫しましょう」とドクターが言う。背筋が寒くなる思いでドクターを見返した健太郎に、明るいブルーの瞳を少しぼかして医師が続ける。
「・・・あなたには、大きな災厄が待っている。
この先いくら鍛錬しても、しすぎることはないでしょう。
でもあなたはそれを乗り越えるだけの身体能力と強力な運がある。
そう、女神だ。ケン、君の隣には美しいレディが寄り添って見える」
ドクターに普通の人には見えないモノが見える超能力があるのかどうかは疑わしいところだったが、隣に女神が寄り添っている、と言われるのは心強かった。
ふと思いついて健太郎はドクターに質問した。
「そのレディっていうのは、小学生みたいに背が低いですか?」
期待を込めて聞いたのに、ドクターは珍しく愁眉を表す。
「いえ、私に分かるのは輝く影だけです。ただその光は美しい。
本物のレディだと思いますよ。
きっと胸は〝ボイーン〟で腰は〝バイーン〟のナイスバディの美女でしょう」
その表現に仕方に、いささかドクターの個人的趣味が入っているのではないか・・・という思いが頭をかすめたが、ナイスバディの美女と聞いてちょっと落ち込んだ。
花鈴は胸はボインだろうがその他は12歳以下だ。自分はロリコンではない、と自覚するため時々花鈴の素晴らしいバストをこっそり愛でている健太郎だが、この先花鈴が美しい女性に成長する可能性は限りなく低いと思わざるを得ない。
どうやら健太郎の女神は花鈴ではないらしい。
健太郎は落胆を顔に出さないようにドクターに別れを告げ、四日しか離れていないのに一年も経ったような思いで成田空港に降り立ったのだった。
武重が榊原家のアウディのトランクにに荷物を押し込んだところで、健太郎は聞きたかった質問を武重に投げかけた。
「花鈴は・・・どうしてる?」
健太郎が花鈴のことを聞きたいと思いながらも、躊躇っていたのには理由がある。
ドクターの特訓を受けたカナダの山奥では、もちろんのこと携帯は不通だった。突然カナダに行く羽目になったことだけは花鈴に伝えてあったが、携帯が繋がらないところに行くことになるとは思わなかった。だから、電波の通じる場所まで来て電源さえ入れれば、花鈴からのメールや着信の履歴がズラリとディスプレイに並ぶと勝手に期待していたのだ。
それなのに、友人数名からの連絡は確認できたが、肝心の花鈴からの履歴は見当たらない。
おかしい、と思って成田に着いたあと荷物を待つ間、花鈴宛にメールを三度ほど送ったが、未だ折り返しのメールは入ってきていなかった。
武重は健太郎の質問に、一瞬ピクリと背中を強ばらせると「・・・あの・・・その・・・ええと・・・」と言葉を濁らせ、身体をもじもじと動かした。
二メートルの巨体にもじもじされても、可愛気など微塵も感じない。
健太郎は軽い癇癪を覚えて武重を見返す。全く・・・いつも余計な事はベラベラ喋るくせに人が早く確認したいことを言いよどむとは何事だ。健太郎は冷たい視線を武重に投げて答えを待った。
「実は花鈴様とはここ四日程連絡を取っておりません。
若が不在の間、わたくしが花鈴様に拳法を教える約束でございましたが、
初日にいらしただけで、後は用事が出来たから行けなくなったとお電話を頂いたのです。
そう言われてしまうと、わたくしと致しましてはどうしようもありませんので、
そのまま連絡は取らず終いでありました」
武重は申し訳なさそうにそれだけ言うと、口をすぼめて黙り込んだ。
花鈴と武重は別に友達という訳ではない。拳法の練習を休むという連絡がきちんと入っている限り、四日くらい連絡がなくても武重が責任を感じる必要性はないはずだ。健太郎は武重の態度に不穏な空気を感じずにはいられなかった。
その後健太郎は武重の運転で榊原家に着くと、爺様とおばあ様に帰宅の挨拶をしてから、出かける準備をした。成田から自宅までの移動時間に睡眠を取っていたため、体力は既に元に戻っている。普段健太郎の身体は、二時間も眠れば充分睡眠が取れている状態になる。これも両親から受け継いだ特異体質の副産物なのだろうが、眠れるときにはなるべく長く寝るようにしていた。
健太郎の両親も睡眠を必要としなかったが、寝なかったというより、眠ることが出来なかったと聞いた。その事が命を縮めたと云う事になるなら、睡眠は長く生きるために重要な役目を果たすことになると分かる。健太郎は幸い睡魔が襲ってくれる体質だ。試験の前など頑張らなければならない出来事がない限り、一日五時間以上は眠るように気をつけていた。
今回は少しの睡眠で疲れまでは取れなかったが、ベッドに倒れこむほどではなかった。
花鈴に会いに行こう、と決めた。一応お土産も用意してある。
こいつを大義名分に「渡す為に来たんだ」とさりげなく家を訪れてみよう。よし、行くぞ。
時刻は午後六時。まだ遅いという程でもない。健太郎は意を決して玄関を出た。
通用門に続く中庭の通路を歩いていると、広い芝生の上を武重の愛犬が飛び跳ねている。
健太郎を見つけると嬉しそうに尻尾を振ったが、絶対に吠えることはない。武重はチャッピーとプッチーに持っていた棒を投げると、健太郎のところまでやってきた。
「若、今からお出掛けですか?」
「ああ、このところライズからの接触もないし、危険はない。 ちょっと出てくるだけだ」
「それがそうとも言えないのです。あの時ライズは誘拐未遂が警察にバレましたが、
権力と金でもみ消しました。
でもその後、ライズ製薬の中で内部分裂が起こっていたらしいのです。
ライズの社長の弟が、新会社を立ち上げたと聞きました。
ニューフロンティア製薬とか云う会社なのですが、
どうもこの新社長はやり方が強引だといいます。
あちこちの製薬会社に密かに産業スパイまで送っているという話ですよ。
多分、目玉になる新薬を早く開発したいのでしょう。
という事はいつ、若を狙ってくるとも限りません。
気をつけるに越したことはない、と武重は考えます」
武重の表情はいつもの笑いが消えて厳しいものになっていた。どうやら確実な情報らしい。健太郎は武重から、ライズ製薬に不穏な動きアリ、という報告を受けていたが、ここまで具体的に伝えてくるということは事態が切羽詰っていると見ていいだろう。
でも、それでも、どうしても花鈴に会いたいという想いを消すことは出来なかった。
「大丈夫。気をつけていくよ。その為にドクターから特訓を受けさせたんだろ?
携帯も持ったし、すぐ戻る」
「・・・もしかして花鈴様にお会いになりたいのですか?」
武重はさっきの真剣な表情から、少し不安げな顔になって健太郎に言った。
健太郎は、武重が何か知っているのではないかと思った。さっきから花鈴の話になると、いつもの武重らしくない様子になるのが不思議な気がしていたからだ。
「武重。何か知ってるのか?」
「ああ、ええと、そのう・・・
わたくし、花鈴様が拳法のレッスンをお断りになった時、
何だか花鈴様らしくない、と思ったのです。
断りの電話を掛けてきてくださったのですが、
どうもいつもの朗らかな花鈴様の話し方ではない様に感じました。
だってこの数ヵ月、週二回のレッスンを一度も休まずいらしてたんですよ。
拳法は力のない花鈴様にはなかなか難しいので、
敵を欺くための新技を二人で考えたりしてました。
花鈴様はとても楽しそうにレッスンを受けてくれたんです。
それなのに、なんだか暗い声でお断りされて・・・。
それで心配になり、昨日思い切って花鈴様のご自宅まで行ってみたのです」
武重の最後の言葉に健太郎は思わず身構えた。武重は花鈴の家までいった。それなのに浮かない表情をしている。とすれば、今から健太郎が得る武重からの情報がいいものであるはずがない。武重は浮かない顔のまま、ゆっくりと次の言葉を吐き出した。
「花鈴様は殿方と一緒におられました」
「へ?」
健太郎は一瞬、武重が何を言ってるのか分からなかった。
花鈴が・・・殿方・・・要するに、オトコと一緒にいた?
「どういうことだよ、それ」
思わず声を荒げて健太郎は武重に言った。普段は自分の感情を極力抑えることに慣れてしまった健太郎だったが、こと花鈴に関する情報には落ち着きなど空の彼方に飛んでいく。
「ああもう、そのように気持ちを乱されると分かっていましたから、
若にこの事をお伝えしたくなかったのです。
さぁ、心を落ち着けて。深呼吸、深呼吸」
ヒッヒッフー、と武重が息を吐く。
それはラマーズ法だ。オレに何を産ませる気だ?
健太郎は余計イラついて武重を見上げた。
「わたくしは花鈴様のご自宅に向かっていく途中、
偶然花鈴様とお若い殿方が道を歩いているのを見かけました。
何だか出て行くのも気が引けて、わたくしは遠くから見ておりました。
どうもお買い物の帰りだったようで男性がエコバッグを肩に掛けていました。
で、その時・・・」
少し言いにくそうに武重は言葉を切る。健太郎は緊張して続きを待った。
「花鈴様がよろけた拍子に、男性が花鈴様の肩を抱き寄せたのです。
直ぐに手を離すと思ったのに、結局家の中に入るまでそのままでございました」
思い切ったように全てを健太郎に伝えると、武重は眉を落として申し訳なさそうな顔になる。健太郎は武重に一言も告げず、そのまま門までダッシュした。もちろん、花鈴の所に向かうために。
市道を走りながら、健太郎は連休前に花鈴と会った時の様子を思い出していた。
変わったことは何もなかったはずだ。いや・・・確か両親が旅行に行くと言っていた。
お父さんが勤続二十周年で会社から旅行券が出たので、二週間ほど夫婦で留守にすると健太郎に教えてくれた。
花鈴は一人っ子なので両親は心配して、親戚の人に来てもらうと言っていたと思う。
それなら、その男性というのは親戚の人間なのか?
でも親のいない家に若い男を泊まらせるだろうか。
もし親戚の者ではないのなら、肩を抱かれるくらい親しい親類でない男がいるということだ。
花鈴は元々男性が苦手だと言っていたはず。オレ以外の男とは上手く喋れない、とも。
ではそいつは何だ? まさかこの数日であっという間にカレシが出来たとか・・・。
健太郎の脳裏に、小さな花鈴を抱き寄せる謎の男が黒い影となって浮かび上がる。
あともう少しで花鈴の家に着いて全てが分かるというのに、健太郎の思考は色々な可能性を推測することをやめてくれなかった。
外はかなり暗さを増していて、住宅街の通りにも街灯が灯され始めていた。花鈴の家の近くまで来た時、電柱に設置された灯りの下に二人の人物が確認できた。
男の方は女性の肩を抱き寄せていて、やはり買い物帰りなのか大きなバッグを肩に掛けている。女性の顔を覗き込んでいた男が、健太郎の足音の方に向かって顔を上げた。
男が手を掛けている女の子は明らかに花鈴だった。男の胸に頭を軽く当て、寄り添っているという風情に見えた。
健太郎が立ち止まると、男は警戒するようにこちらを観察した。武重の言う通り若い男だった。身長こそ健太郎より少し低かったが、なかなか端正な顔立ちだ。多分、二十代前半というところだろう。
男の様子が変わったのを感じ取っとのか、花鈴が顔を上げた。視線の先に健太郎の姿を見つけると、大きく目を見張って硬直する。健太郎は自分の胃がキリリと痛むのが分かった。
「・・・健太郎くん」
花鈴がつぶやく。五日ぶりに聞く可愛らしい花鈴の高い声。
花鈴は大きく開いた瞳を急に細めて、すがるように健太郎を見た。健太郎は思わず花鈴に向かって手を伸ばす。花鈴の口が軽く開けられ、何か言いたそうに身体を前に出した。
でもそこで花鈴の肩を抱いていた男が、グッと自分の胸元に花鈴を引き寄せる。
男は健太郎に敵意のこもった視線を投げた。花鈴は首をひねって彼を見上げると、不意に視線を下に落とし、言葉にならなかった自らの息をそっと吐き出した。
「君が健太郎くんか」
初めて、若い男が言葉を発した。健太郎は今度は自分が警戒してその謎の男を睨む。
なんだよ、こいつ。花鈴に対して馴れ馴れしい。
オレだってまだ肩を抱き寄せて歩くなんてしたことないぞ。
というか、誘拐事件の時以来、花鈴にあそこまで深く接近した事がないけど。
情けないことだが、健太郎は花鈴に触れようとするとものすごく緊張してしまうのだ。もし嫌がられたらどうしよう・・・と余計な感情ばかりが先に立ってしまい、結局自分の欲望を実行することが出来ずにいる。
こんちくしょう、どんな権利があって花鈴に触りやがる。
健太郎は歯を食いしばった。
健太郎が彼の質問を肯定も否定もせずじっと見ていると、またその男は口を開いて言葉を告げた。
「悪いけど、もう花鈴に関わるのはやめてほしい。
君のせいで花鈴は嫌な目にあってるんだ。
花鈴を守ることが出来ないなら、親しげな態度を取ることはやめるべきだろう」
健太郎はパンチを食らったように顔を上げた。
オレのせいで・・・花鈴が嫌な目にあってる・・・?
「どういうことですか? 説明してください」
健太郎は真っ直ぐ謎の人物を見つめていった。敬語を使ったのは相手が明らかに年上だったからだが、立場上、沢山の重役達と渡り合ってきた健太郎は、これしきの若造にひるむことはない。
健太郎の臆さない態度に一瞬気を削がれたのか、若者は口をつぐんで身をそらした。
でもすぐ気を取り直して、苦々しい顔でまた花鈴を抱き寄せる。
「自分の胸に聞けばいい。花鈴は体調が悪いんだ。これで失礼する。さ、花鈴行こう」
男は花梨の肩を抱いたまま、体の向きを変えた。健太郎は呆然と二人を見た。
自分の胸に聞けと言われても全く思いつかない。
花鈴は促されるまま足を前に出したが、突然、自分を抱く若者の腕を振り払うように顔を上げた。
「健太郎くん、あたし・・・っ」
言葉を続けようとした花鈴を隣の男がまた引き寄せる。それでも花鈴は軽く抵抗して健太郎に向き直った。その顔はいつもの明るさが消え、キラキラ潤む愛玩動物の目も輝きを失っている様に見えた。
「あたし・・・携帯が壊れちゃったの。だから、連絡くれても返事出来ないと思う。
もし今までメールとか送ってくれてたら・・・ごめんね」
花鈴の声は震えていた。その様子はまるで・・・病人みたいだ。それもかなり重い症状が出てしまって必死で耐えている人のそれに見える。
「花鈴、行こう」と若者が花鈴の腕を引く。花鈴はもう一度健太郎を凝視すると、今度は彼の助言に従った。
花鈴は男に支えられながら、家に向かって歩いていく。健太郎はこのまま見過ごすわけにはいかなかった。ギュッと自分の手を握ると、二人の後ろ姿に向かって声を掛けた。
「すみませんが、話を聞かせてもらえませんか?」
男は一度立ち止まると顔だけ健太郎に向けた。彼は何か考えるように眉根を寄せる。花鈴は力なく男に身体を預けていた。
「分かった。とりあえず花鈴を横にならせてくる。体調が悪いのに買い物に付き合ってくれたんだ。
ゆっくり休ませてあげたい」
「ではここでお待ちしています」
健太郎が答えると、短く男は頷いて花鈴と家の中に入っていった。
健太郎はしばらく外で待った。昼間は晴れて暖かかった空気が、夜の訪れとともに急速に冷えていく。その大気の変化に合わせるように、健太郎の心にも冷気が滑り込んでくるような気がした。
玄関のドアが開く音がした。自宅より遥かに小さい門塀の前に佇んでいた健太郎は、背筋を伸ばしてグッと顎を引いた。あいつが花鈴の何なのか、そしてオレはどんなヘマをやらかしたのか・・・聞き出せることは全て聞かなければならない。
男は門を開けると、外に出て健太郎の前に立つ。表情は以前硬いままだった。
「話ってなんだい?」
男は腕を組んでめいいっぱい胸を張り、自分より背の高い健太郎に対峙した。少しでも大人としての余裕を出そうと、懸命に努力しているように見える。
「まず、あなたと花鈴の関係を教えていただきたい」
スパッと切り込むように健太郎は男に問いかけた。
健太郎自身気づいてはいなかったが、その言い方は祖父とほぼ同じだった。
威圧的ではないが、相手が従わずにはいられなくなるような抑揚を持っている。
自覚はないままに、健太郎には〝上に立つ者〟の威厳が既に存在していた。
男は気圧されて組んでいた腕を解いた。その様子を見て健太郎は、この男は結構小心者なんじゃないか、と判断した。
「・・・僕は、花鈴の母方の従兄弟だよ。今花鈴の両親が旅行で留守にしているんで、
用心棒としてこの家に泊まってるんだ」
家に泊まっている、と聞いて健太郎の視線が鋭くなる。男は明らかにひるんで、聞かれてもいないことを説明しだした。
「いや・・・ほんとは僕の姉が来る予定だったんだ。
でもここに来る当日、マイコプラズマ肺炎にかかって寝込んでしまった。
仕方ないから僕が代打に抜擢されたんだ。
たまたまこの家からの方が会社に近かったし、
マイコプラズマから遠ざかれると思ったから」
「職場はどちらですか?」
「ええと、ここからひと駅先にある健康食品の会社だよ。FC社って聞いたことないかな」
健太郎には聞き覚えのない会社名だった。でも実在する会社かどうかなど、調べればすぐに分かる。「失礼ですが、お名前は?」と健太郎は続けて問う。
「大村圭介。花鈴より八つ年上だよ」
という事は必然的にオレよりも八歳上になる。名字が違うのは花鈴の母方の従兄弟に当たるからか。健太郎はとりあえず男の正体が分かって、少し落ち着きを取り戻した。
「花鈴はいつから具合が悪いんですか?」
全く、なんでこの質問を一番最初にしないんだ?
健太郎は花鈴の体調より先に男の正体を確かめようとした自分の身勝手さに、怒りすら覚えた。健太郎にとってこの男はただの〝情報〟に過ぎないが、花鈴は別だ。何より大切な存在のはずなのに・・・。オレはまだまだ未熟者だ、と健太郎は自覚して自分を恥じた。
「五日前に会った時は、まだあれほど辛そうじゃなかった。
ただ、何か思いつめているようで憂鬱そうだったけどね。
最初は何か物思いにでも浸っているように見えたんだ。
でもその内、体の調子そのものが徐々に悪くなっていくのが分かった。
昨日まではもう少しましだったんだけど・・・。明日医者に診せるつもりだよ」
「明日と言わず、今すぐ医者に診せた方がいい。
なんなら、オレの主治医に頼んで来てもらっても構いません」
大村圭介はギョッとしたように一瞬身体をこわばらせた。そしてちょっと不自然なほど大げさに両手を振って健太郎の申し出を断った。
「いや、そこまでしてもらう必要はないよ。
僕は健康食品を販売してる関係から、いいお医者さんを知ってるんだ。
明日予約を取ってあるからそこに連れて行く予定だ」
大村はそう言って健太郎から目をそらすと、神経質そうに口元を引き締めた。
健太郎はそんな大村の態度に違和感を覚えたが、まだ聞きたいことがある。
軽く頷いてから、今回一番衝撃を受けたことの内容を聞くために健太郎は息を吸い込んだ。
「花鈴が、オレのせいで嫌な目にあってるというのは本当ですか?」
これには今までの質問にはなかった弱気な気持ちが外に出てしまい、迫力が今ひとつになってしまった。そういう感情を出してしまうあたりが、健太郎の未熟さだった。
大村は片方の眉を上げて、改めて健太郎を見る。
どこにいてもそうだが、小心者ほど相手の卑屈に気づきやすい。大村は急にまた自信を取り戻し、余裕のある皮肉気な笑いを口元に浮かべた。
「それは君が一番良く分かっているだろう?
そりゃあ君にとっては当たり前の事だったんだろうけど、
同じメールをみんなに送るなんて無神経にも程があるよ」
健太郎はますます訳がわからなくなって混乱した。同じ内容のメールをみんなに一斉送信したということだろううか。普段健太郎は一斉送信などそうそう利用しない。
もっと詳しく聞きたかったのに、大村は「じゃ、僕はこれで」と言ってそそくさと家の中に入って行ってしまった。
健太郎はすぐに動けず、花鈴の自宅の玄関灯をじっと見つめた。でもどんなにその光を見ていても、答えは浮かび上がってこなかった。
「若」と後ろから声が掛かる。
「連絡はしたか?」
健太郎は振り返らず、武重に問いかけた。
武重が健太郎の後ろに付いていたのはずっと気づいていた。武重はそれと分かるように気配を全く消さずにいたからだが、それでも大きな体を目立たないように電柱の陰に隠していた。大村圭介は武重の存在に微塵も気づいていなかった。
「はい。大村圭介、FC社、共に既に調査にかかっております」
「分かった。メールの方は?」
「若には身に覚えがない、と受け止めてよろしいですか?」
「何が何だかサッパリだ」
「そうですか。それなら武重には思い当たる事があります。
少し時間をいただけますか?」
健太郎は振り向いて武重を見た。
武重の顔にはいつもの微笑が戻っている。健太郎はこの笑顔を見ると、イラつきと安堵を同時に覚える。「そうか、任せる」と答えてから、携帯の方からの調査は武重に一任して、自分は自分で出来ることをしなければ、と決心した。
「若、お気付きですか?」
暗くなった榊原家までの道を歩いている時、武重が小さく問いかける。
「ああ。四、五人いるか?」
「八人、でございますね。完璧ではありませんが、気配は消せています。
プロ、又はセミプロと判断出来るかと」
「ライズかな」
「それはまだ何とも。今は攻撃の意思はなさそうです。二名は花鈴様のご自宅を見張っています」
健太郎はため息をついた。それだってややこしい事態になっているのに、ここに来てまた外部からの不穏な動きがある。
人気者はつらいよな、とほとんどヤケクソな感想を抱きながら、元来た道を健太郎は戻っていった。