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続編 「KARIN」

※優しい読者様から、子供は元気に育って欲しいという感想をいただきましたので、続きを書いてみました。続編のみ、うさんくさい三人称です。良かったらお読み下さい。

「健太郎くん」


学校からの帰り道、後ろから声を掛けられ健太郎は飛び上がりそうになった。

常時さりげなさを最大限に装った視線を受け止めることに慣れていたはずなのに、

友人と別れて一人になった途端、神経が張り詰めていたらしい。


何ビクってんだよ。しっかりしろ。


健太郎は強く自分に言い聞かせると、動揺で不自然にならないように気をつけながら振り返った。

後ろにはクラスメイトの岡崎花鈴(かりん)がいた。


「おう。今帰り?」

「うん。今日は部活早めに終わったの」


花鈴がちょこちょこと小走りに近づいてくる。

それを見て、健太郎はチワワみたいだな、と思う。

花鈴に会うといつもフワフワの小動物を連想してしまう。

180センチに近い身長の健太郎から見ると、背の低い花鈴は小学生みたいだ。

多分150センチちょっとしかないだろう。

しかし絶対的に小学生と違うのが、その豊かなバストだ。


なかなか見ごたえのあるおっぱいをしてるよな、と健太郎は思った。

そういう所は、いかにも思春期真っ盛りの男子高校生らしさを思わせる。


ただ健太郎は〝普通〟の16歳の高校生ではなかった。

何しろ・・・黒服でサングラスを掛けた屈強な男三人にいつも見張られているのだから。


「で、絵の方はどうよ?」

「あうう・・・聞かないで。今回のは失敗かも」


花鈴は両手を頭に当てて両脇の髪を握った。

こういう仕草も愛玩動物を見てるみたいで何だか気持ちがふわっと暖かくなる。

両腕を持ち上げたことで小刻みに揺れる柔らかそうな二つの胸も、健太郎の心の温度を高める重要な役目を果たしていた。

健太郎は釘付けになりそうな視線を、花鈴の胸元から無理矢理離す。

これ以上見てたらもっと他の部分がアツクなってきそうだ。


「にじみが綺麗に出せないの。水彩画ってもっと簡単だと思ってたのに甘かった」

「なんで? 花鈴ちゃんはいつもきれいな絵を仕上げてるじゃん。

 ぼやけた感じなのに、きちんと描かれたものが引き立って見える。

 すごく不思議で、オレは好きだな」


花鈴は無言で、めいいっぱい首を上げて健太郎を見返した。

頬がほんわりピンクに染まる。自分が赤面していると自覚してか、花鈴は急いで下を向く。

「もう、そんな風におだてたって何も出ませんからね」と照れ隠しの為か少し怒った声で言った。


「オレはいつでも全力で本気だけど?」


健太郎は目元を細めて薄い微笑を浮かべながら花鈴に言う。

この笑い方をして、健太郎が見つめた女の子はその場で確実に恋に落ちる。

その事を健太郎が自分で気付いてからは、なるべくこの殺人スマイルを女子に向けないことにしていた。

こんな笑顔一つで何度もラブレターをよこされたり、家にまで押しかけられたりするのは迷惑以外の何者でもない。


案の定花鈴も、健太郎の笑顔で軽い目眩に襲われたようだった。

目を何度かしぱしぱさせてから、「・・・ありがと」と小さい声でお礼を言った。


花鈴は別だ、と健太郎は思う。

花鈴にならこの微笑みを都合よく取ってもらって構わない。


健太郎が花鈴と話すようになったのは、入学してひと月ほど立った初夏の頃だ。

美術の時間に筆拭き用の雑巾を美術室に置いて、そのまま教室に帰ってしまった。

後からそのことに気付いた健太郎は、放課後美術室に取りに戻った。

美術部員は5人しかいなかった。4人は油彩画に取り組んでいる。

花鈴だけが一人、水彩絵の具を紙に染み込ませていた。


紙は一面青に塗られていた。

ぼかしが効いているのに、何故か高く透き通るような空を思わせる。

「何描いてんの?」と思わず健太郎は声を掛けた。


花鈴は最初ポカンとした顔で健太郎を見上げた。

目の前にあるのは、女子のアイドル榊原健太郎くんの顔だ。

大手玩具メーカーの会長の孫で運動神経抜群、入試トップで高校に入学。

俳優のオカダマサキくん似の淡麗な容姿。

非の打ち所がない、というのはこの人の為にある言葉だと女子は騒ぐ。


同じクラスだし、もちろん花鈴は知っている。ただクラスメイトなのに一度も喋ったことはない。というか、花鈴は男の子と話したことがない。男子は苦手だ。みんな乱暴で言葉遣いが悪い。身長の低い花鈴にとって、男の子はすべて〝大きくて危険な動物〟だった。


父親以外の男子に免疫のない花鈴は、突然クラスの男の子に声を掛けられた事にどう対処していいのか分からなくなっていた。しかも相手はみんなの憧れ、榊原くんだ。

由紀におこられちゃう、と花鈴は思う。隣のクラスで親友の由紀は榊原くんにメロメロなのだ。


絶句したままの花鈴を根気よく見つめていた健太郎だったが、返事がないのでもう一度聞くことにした。

「・・・空?」と問いかけてみる。


花鈴は一度息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。例え榊原くんが〝男の子〟で〝人気者〟だったとしても、同じ高校生ではないか。それほど緊張しなくていい。立場は同じはずなのだから。


「そう、空。・・・のつもり」


花鈴は断言するのをやめておいた。ただひたすら青のみの絵。絵画による精神分析でもされたら、あっさり「要注意」と出されそうな絵だと自分で思う。


「高い空、だね。秋?」

「ううん。冬」

「・・・そうなんだ、やっぱり」


やっぱり?

花鈴は健太郎を振り仰いだ。

椅子に座ってイーゼルの上に板を載せ、水彩専用の荒目画用紙にアクアレルを染み渡わせていた花鈴から見ると、健太郎の顔は遠くに見えた。

健太郎は腰をかがめると、絵に顔を近づける。男の子の顔がすぐ近くに来て、花鈴の心拍数は走ったあとみたいに早い。

でも動揺してばかりはいられない。花鈴は思い切って聞いてみた。


「やっぱりってどういうこと?」

「うん。見た途端、冬の空って気がした。こういう空を見たことがあるから」

「・・・どこで?」

「那須。冬にそこに行ったんだ。那須の別荘で見た空に似てる」


別荘か・・・。さすがお金持ちは違うな、と花鈴は心の中でつぶやく。

でも食い入るように自分の絵を見つめる健太郎の表情を見て、花鈴はそんなやっかみも含めた自らの卑屈な感情が消えてなくなるのを感じた。

絵を見つめ続ける健太郎の目は、懐かしそうで、愛おしそうで・・・どことなく苦渋を秘めているような色をしていた。

何故自分がそんな風に思うのか花鈴には分からなかったが、健太郎が花鈴の描いた空の絵の中に、見つけたかった何かを見て取ったのだと確信を持つことが出来た。


「あの・・・良かったらこの絵あげようか?」

「え!?」


花鈴の突然の申し出に、健太郎は驚きを隠せなかった。

自分はろくに話したこともないクラスメイトの女の子に唐突に近づき、殆ど不躾とも言える態度で接している。彼女は健太郎を不審がってしかるべきなのだ。

普段、健太郎は不用意に女子に近づかない。

祖父母の思い出話でしか聞かない自分の父親の女性遍歴からは想像もつかないほど、女の子に対して奥手だった。


「ええと、完成したらでいい? まだあたしの中では出来上がってないの。

 もう少し色に納得することが出来たら、あげる」


健太郎は目の前で微笑む花鈴の小さな顔を改めてじっと見つめた。

クラスメイトだけど、実は名前もよく知らない。確かオカザキ、だったと思う。

クリクリした大きな目は潤んでいて、真っ直ぐ健太郎の目を捉える。

その目は純粋に自分で描いた絵をあげたいと思っているように見えた。

媚を売っているとか、好かれたいとか、あわよくば付き合いたいとか、そういう下心を全く感じさせない綺麗な瞳だった。


健太郎は物心ついた頃からずっと、多数の人間からのいやらしい利己心に振り回されてきた。それこそ、人間不信に陥りそうなくらい。

人に対して慎重ならざるを得ない健太郎だからこそ、見抜けたと思った。

他意はない。この子の心には。


一方花鈴の方は、近い場所で見ても美しく整った健太郎の瞳が、見開かれたまま自分を注視しているのを不安な思いで受け止めた。

思いつきで言ってしまった自らの申し出が、健太郎にとって迷惑だったのではないか、と思ったのだ。

こんな・・・全然上手くもない絵なんか、いきなりあげると言われても困るだろう。

しばし見つめあった後、花鈴はツイと視線をそらして健太郎に告げた。


「ごめん。いらないならいいんだ。気にしないで」

「・・・あ、いや。違うんだ」


健太郎は焦った。彼女の純粋さが新鮮で、思いのほか長く見つめてしまったらしい。

しょんぼり下を向いてしまった彼女は、雨に打たれた子犬みたいだ。

見ているだけで胸が痛む。申し訳ない、と思った。


「もらえるとは思わなかったから、ビックリした。オレにくれちゃっていいなら、是非欲しいよ」

「うん。いいの、くれちゃって。もらって。その方が頑張って仕上げようって目標が持てるし」


ふふ、と笑った彼女の顔に、健太郎は今まで感じたことのない感情が体の芯から芽を出すのを感じた。

胸の中心に暖かいかたまりが出来て、外に向かって溢れ出てくる。こんな感覚を味わったことは一度もなかった。春みたいだ。いつもどこか薄ら寒かった心の中に、春の陽が差し込んだ。

健太郎はその初めての想いに、我知らず涙が出そうになった。

急いで額に手を当て、髪を直す振りをする。


「じゃあ、有り難くいただく。仕上がったら言ってもらえるかな。あ、全然焦らなくいいよ」

「わかった。それじゃ出来たら渡すね」

「うん、よろしく。楽しみにしてるよ」


健太郎の最後の言葉に花鈴は頬を染めて嬉しそうにうなずいた。

心に差し込まれた春の日差しが、明るい陽だまりになったのを健太郎は快く感じた。

それじゃ、と手を上げて花鈴から離れる。花鈴は小さく手を振って見送ってくれた。


数日後、帰宅途中の道端で花鈴の姿が見えた。

児童公園の出入り口にある自動車侵入防止用のポールにちょこんと座って、所在なげに行き交う人々を見ている。

健太郎に気がつくと花鈴は急いで立ち上がり、ととと、と走ってきた。手にはビニールに包まれて丸めてある画用紙を、大切そうに抱えている。

最近教室でも見るともなく花鈴を見てしまう健太郎だったが、花鈴の方は挨拶するだけで近づいてこようとはしなかった。

あれ以来、言葉らしい言葉を交わしていない。もしかしたら絵のことを忘れられてしまったのではないか、と不安になるくらいに。


「絵が出来たの」


前置きは何もなく、花鈴はいきなりそれだけ言うと持っていた画用紙を健太郎に差し出した。ちょっと手が震えている。かなり緊張しているようだ。


「あ・・・ありがとう。ホントにもらっていいの?」


こくり、と首を縦に動かす花鈴を見て、健太郎は絵を受け取った。健太郎の手に渡った画用紙を見て花鈴は力が抜けたように肩を下に落とす。

健太郎は早速絵を見ようと包んであるビニールを開けようとした。

「あっ、ダメダメ!」と花鈴が健太郎を止めに入る。


「なんでさ? オレ見たいんですけど」

「だって・・・だって、下手くそだもん。家でこっそり見て」

「それじゃ感想が聞けないだろ? こっち来いよ」


健太郎は花鈴を促して公園の中に入った。樹の下にある空いているベンチに腰掛ける。

花鈴はオロオロしながらベンチのそばに立っていた。健太郎は花鈴を見ると、自分が座ったベンチのすぐ横をトントンと叩く。花鈴は健太郎からなるべく離れた位置に縮こまって腰掛け、小さい体を余計小さくした。


健太郎は画用紙をビニールから取り出し、丸められた絵をそっと開いた。

そこにあったのは、どこまでも続く青空だった。四角い画用紙に描かれているのに、吸い込まれそうな程の奥行きがある。

あの空だ、と健太郎は思った。

父さんと母さんが愛し合い、二人で旅立った那須の青空がそこに存在した。

不意に涙が湧き上がってきた。女の子の前で泣くなど、情けないことはしたくない。でもどうしても止められなくて、一粒だけポトリと落ちてしまった。


花鈴はただ黙って健太郎を見ていた。涙に気がついたはずなのに、一切何も詮索しない。

しばらく絵を見つめた後、健太郎は花鈴に顔を向けた。

驚いて息を呑む。隣では花鈴が下を向いて涙を流していた。


健太郎の視線に気がつくと、花鈴はげんこつに握った手でぐいぐい顔を拭いた。

赤くなった頬を健太郎に向けると、恥ずかしそうにえへへ、と笑う。


「あたし、ハンカチ忘れちゃって・・・。バカでしょ」


健太郎は無言で制服のポケットからハンカチを取り出した。白いハンカチは毎日お手伝いのミネばあちゃんがポケットに入れてくれる。過保護だけど、おぼっちゃまなのだから仕方がない。

健太郎は少し躊躇ったが、自分の手を伸ばして花鈴の顔にハンカチを当てた。花鈴は一瞬ピクっと背筋を伸ばしたが、その後は逆らわずに顔を拭いてもらった。


「ありがとう。ハンカチ汚してごめんね」


花鈴はそれだけ言うと、また下を向いた。

「聞かないの?」と健太郎は花鈴に問う。


「・・・え?」

「理由だよ。この絵に惹かれたワケ」

「・・・いいの。気に入ってもらえただけでいい」

「そう・・・。じゃあオレから質問していい?」

「なに?」

「なんで空の絵を描いたの?」


花鈴は顎に指を当てると、小首をかしげて自分の絵を見る。チワワだ、と健太郎は思った。CMで見たチワワに似ている。


「去年の冬、家族とスキー旅行で北海道に行ったの。

 でもあたし、風邪ひいて熱出しちゃって、ホテルでずっと寝てるしかなくて。 

 そのホテルの目の前が湖で、結局帰るときまでにしたことはその岸辺を歩くことだけだった。

 北海道の思い出は、空が綺麗だったってことだけ。

 だから湖のそばから見た空を描きたいと思ったの。悔しい思い出なんだ、実は」


花鈴は口を尖らせて脚をブラブラさせた。健太郎はまた胸に陽だまりが出来るのを感じた。


「それは悔しいな」

「うん」

「オレの両親、那須の別荘で死んだんだ」


花鈴は電気ショックでも受けたみたいに顔を上げた。どんな反応をしたらいいのか分からないようで、口元に両手をあてて目を見開いている。


「死んだのは冬だった。雪が深くて、冬は誰も来ないような場所なんだ。

 別荘は避暑として使うように建てたものだったからね。

 そこで二人は死んでた。死因は病死だよ。 

 多分、ほとんど同時に亡くなったんじゃないかって医者から言われたと聞いた」


そんな・・・と花鈴がつぶやく声が聞こえる。健太郎は花鈴の描いた空にもう一度目をやった。


「両親は二人共、ちょっと特殊な病気にかかっててね。

 母はオレを産んだけど育てられないと判断して、祖父母に預けたんだ。

 オレは時々会ってたみたいなんだけど、

 三歳の時に死んだから実を言うとそれほど記憶にないんだ。 

 なんか悲しいし、那須の別荘には行ったことがなかった。 

 でも高校に上がる前に一度行ってみようと思って、冬休みに行ってきた。

 両親が死んだのは冬だったから同じ風景を見たかったんだ。 

 別荘の周りは広くて、一面雪に覆われてた。 

 見上げると空が澄んで透き通っていて、ものすごく綺麗だった」


健太郎は絵の青を見据える。この色と同じ空だった。もうあそこに行くのはつらすぎて出来ないかもしれないけど、あの空だけは切り取って持って帰りたいくらい美しいと思っていた。

両親のことを、健太郎はすべて知っていた。何故若くして死ななければならなかったのかということも。

両親の死の原因を作った血の繋がらない伯父のことも聞いていたが、恨みに思いたくてもあまりに漠然とした印象しかなくて特別な感情は湧かなかった。

祖父母も伯父の話は滅多にしないが、一度祖父が健太郎に語ったことがある。


お前の父親は学校の成績は今ひとつだったし、お前の母さんと付き合うまでは女泣かせのちゃらんぽらんな奴だった。

わしはそう思ってなかったが、客観的に見れば軽薄な男に見えたことだろう。

でも経営に関しては天賦の才があった。

あいつには中学の頃から会社の経営に関して叩き込んできたが、売上不振の時あいつのアイデアで危機を乗り越えたこともあるんだ。

健一は成績は良かったが、学者タイプで経営には向かなかった。

わしはそれが分かっていたから、健一が出て行く時止めなかったんだ。

結果的にそのことがあいつを追い詰めることになるとは思わずに・・・。

未だに後悔している。

出ていくことを認めたにしても何か言葉を掛けてあげればよかった、と。

父さんも母さんも、お前を大切に思っていると伝えればよかったんだ。


祖父の苦悩は健太郎が元気にすくすくと育ってくれたことで少しは解消されたらしい。

それでも思い出は時々、心に爪を掻き立てる。


鼻をすする音で健太郎は我に返った。横を見ると花鈴が両手の甲を目に当てて泣いている。

こいつは・・・と健太郎は思う。

小学生の頃から泣き方が変わってないみたいだな。


健太郎はハンカチを花鈴に渡した。花鈴はつかえながら「ありがとう」というと、ハンカチで顔を拭った。健太郎は視線を砂場で遊ぶ子供たちに向けた。

誰だって泣いているところをジロジロ見られたくないだろう。


「ご、ご、ごめんね・・・。あたし、なんだか悲しくて」

「オレこそ悪かった。こんな暗い話、いきなりされても困るよな」


花鈴はちぎれるんじゃないかと思うほど首を振った。


「ううん。話してくれて嬉しい。あたしなんかが聞いてよかったの?」

「良いも悪いも、オレは岡崎に話したかったんだ」


花鈴はハンカチを口に当てたまま、目をパチクリさせた。健太郎はまた花鈴の絵に視線を戻す。そこで初めて絵の右下に小さく、文字が記されているのに気がついた。


「KA、RI、N」


健太郎は書かれた文字を読んだ。「なにこれ? 雅号?」と花鈴に聞いた。


「え? まさか違うよ。それ、あたしの名前。かりんっていうの。花に鈴って書くんだ」


健太郎は絶句して花鈴を見る。今の今まで目の前のクラスメイトの名前を知らなかったのも間抜けだが、その偶然に胸が高鳴るのが抑えられなかった。


「・・・オレの母さんはかのんっていうんだ。花の音って書く」

「えっ、ホント!?」

「近いよな。なんか・・・すごいや」

「うん、すごいね。嬉しいな、あたし」


花鈴はそう言ってニッコリと笑った。泣いたせいで鼻が赤くなっていたけど、健太郎は可愛いと思った。

その名の通り、まるで花のようだ。


「何か絵のお礼がしたいな。何が欲しい? 自慢じゃないけど、大抵の物なら揃えてあげられると思うよ」


花鈴はちょっと眉間にしわを寄せた。「いらない」と一言いう。


「そんな大層な絵じゃないもん。金銭に替えられるような価値はないよ」

「そうかな。オレには価値があるけどな」

「いいの。そう思ってもらえるだけで十分」

「でも気がすまないよ」


うーん、と花鈴は考えて「じゃあ、友達になって」と言った。


「友達?」

「そう。教室でも仲良くしてもらっていい?」

「もちろんいいけど。そう言うのって断りを入れてからやるもの?」

「・・・あたし、男の子ってなんか怖くて上手く喋れないの。

 榊原くんは話しやすいなって思ったけど、

 あたしなんかが教室で話しかけたりしたら迷惑かなって思って今まで近寄れなかったんだ。

 だから、許可をもらえたら安心できるの」


健太郎はその謙虚さに呆れもし、また、好感も持てた。「それなら一つ条件がある」と花鈴に畳み掛ける。

花鈴は唇をこわばらせた。何を言われるかと身構えている。


「オレのことは健太郎って名前で読んでくれ。その代わり岡崎のこと、花鈴って呼ばせて欲しい」


花鈴は目に見えてホッとしていた。大きく頷くと、また小さい顔を笑顔でいっぱいにした。


その後二人が急に仲良くなったことで、クラスメイトを始め学校の生徒たちは色々噂し合った。

でも花鈴はカノジョ気取りの馴れ馴れしい態度など一度も取らなかったし、健太郎も他の子より多く話しかける程度で過ごしている。

時々花鈴は健太郎の大邸宅にお呼ばれするが、自分の描いた絵が立派な額縁に入れられているのを見て、恐れおののくくらいだった。


まだだ、と健太郎は思う。

焦らなくていい。少しずつ、花鈴を知っていきたい。

その為には〝今〟という時間を、二人で大切に分け合っていこう。

花鈴とはいつか、友達を超えた関係になれるような気がする。


それぞれの家に帰る分かれ道までの短い距離を、花鈴とゆっくり歩く。

出来れば長く一緒にいたいけど、最近の健太郎の身辺はちょっと物騒だ。

まったく、赤川のおじさんも余計な事を喋ってくれたもんだ、と思う。


「健太郎くんはこれから習い事?」


花鈴が愛玩動物の目を向けて聞いてくる。


「そう、今日はドイツ語」

「うわー、すごいね。あたしが知ってるドイツ語は〝ベンツ〟くらいだよ」


ニコニコしながら花鈴が言った。

まぁ確かに〝ベンツ〟はドイツ語だろうけどさ・・・。

健太郎は花鈴のこういう天然発言を聞くと、力が抜けてリラックスできる。

一度花鈴が風邪で学校を休んだ時は、寂しさのあまり熱で苦しんでいると分かっていて電話をかけてしまった。

「大丈夫か?」と問うと、ぜいぜいと息を切らして「喉にイガグリがいる」と返事がきた。


「じゃあ、また明日ね。ドイツ語頑張って。えっと・・・サリュー」

「それフランス語」


笑いながら健太郎は花鈴に手を振って、道角を曲がり自宅に向かった。

10メートル程進んでから、背筋に嫌な悪寒が走るのを感じた。

オレは何を見落とした? 花鈴の後を、黒い何かが追いかけて行かなかったか?

健太郎はクルッと振り向くと、今来た道を走って戻った。


花鈴と別れた場所まで行って、誰もいないのを確認する。

健太郎は右に折れたが、花鈴は真っ直ぐ進んだはずだ。花鈴の家の方向に向かってダッシュする。結構走ったが、花鈴の姿は目に入らない。追いつけないはずがないのに・・・。


フッと視線を左に向けると、入居者がいなくて廃屋になった鉄筋のアパートが見えた。そこの駐車場に、場違いに大きい黒い車が止まっている。

健太郎は総毛立った。


やっぱりあいつらだ。

いくら申し込まれてもオレが毛髪と血液の提供と、全身の精密検査を拒んだので、ついに強硬手段に出てきやがった。


健太郎は気配を殺して車に向かって歩いて行った。護身術は一通り習っている。問題は実践で役に立つかどうかだが、予告なしの襲撃に備えることも武重(たけしげ)から仕込まれていた。最近は変な奴らの影に付け狙われているという自覚があったので、結構入念に練習したつもりだ。

健太郎は背をかがめて、黒い車の横についた。


ハマーだ。外車かよ。〝ライズ〟の奴らこんな車で何する気だ?


デカい車の奥に三人の黒ずくめの男たちが見えた。ボソボソと話合う声も聞こえる。ゆっくり男たちの後ろに回る。しゃがんだ目線に、奴らの黒いズボンとグレイのスカートが重なって見えた。大きな男たちに埋もれて見えないが、花鈴が捕まってしまったことは確かだ。

間合いを取って一番近くの奴に飛びかかるタイミングを計っていると、花鈴のか細い脚が視界に入った。恐怖でガクガク震えている。

健太郎はそれを見て頭に血が上った。花鈴はオレの災厄に巻き込まれている。

あんなに小さくて頼りなげな花鈴が男に身動き取れなくされていると思うと、怒りのあまり全員の息の根を止めたくなってきた。


健太郎は一番近くの男に、ほとんど何も考えずに突進した。肩で背骨をえぐる様に体当たりする。こっちも痛いけど、相手には相当の衝撃を与えたはずだ。

予測通り「ぐえっ」という声を上げて手前の男が地面に倒れる。

健太郎は瞬時に体勢を整えると、残りの二人に対峙した。

両手を前に出して構えた健太郎の目の前で、男に口を塞がれた花鈴が目を見開いている。

その目は涙に濡れていた。

健太郎は軽く腰を落とすと左足を軸にして花梨を抱えた男に回し蹴りを入れた。

相手は製薬会社のSPだか、雇われ誘拐人だか知らないが、多分プロだろう。

それでも健太郎の攻撃をかわすことは出来なかった。健太郎の足は正確に男の左上腕部に入る。花鈴にも衝撃が伝わってしまうがしょうがない。

男の腕の力が緩んだ瞬間、健太郎は花鈴をその牢獄から引っ張り出した。

かなり乱暴に花梨を後ろに追いやると「逃げろ!」と叫んだ。視線は男達から離さない。

タタッと軽い足音が遠ざかる。花鈴が逃げた。

それに視線を投げたのは健太郎に蹴られた男だ。息をつく間もなく、そいつの首筋に健太郎の手刀が直撃する。声も出さずにその男は崩折れた。


あと一人、と思った途端後ろから羽交じめにされた。強い腕が健太郎の首にしっかり巻きついてくる。強い腕のもう片方の手は、健太郎の両手を後ろに回す。よくわからないが、この四人目の男は相当の手練らしい。隙がない。


「あなたの血がほしい。我々の目的はそれだけです」


第四の男は野太い声で健太郎に言った。


「・・・血だけで満足するわけ? 全身切り刻みたいってのが本音じゃねえの」


「そんなことをする訳がないでしょう。あなたは大切なサンプルだ。

 生きている〝不老不死〟の証拠なんです。だから殺すようなことは絶対しない。

 どうか協力して欲しい。我々は『完全なる肉体』を研究したいだけです」


「オレはそんな大層なもんじゃない。あの薬は失敗作だったんだ」

「そうかもしれません。でもどちらにしても興味は尽きない。

 あなたは怪我をしても一時間後には完治し、生まれてから風邪ひとつ引いたことがない。

 全ウイルス、全細菌に免疫を持つ人間は確かに存在しますが、

 それを人為的に操作出来るかもしれない可能性があなたの中にある。

 人類の為です。ご協力ください」


「嫌だね。オレは実験動物じゃない。赤川さんから何を聞いたのかしらないけど、全部嘘だよ。

 あの人研究が行き詰まって、結果が出せないから焦ってたんだ。

 ライズ製薬をクビになりたくなかったんだろ?

 オレはあの人の、昔の友達の息子でちょっとばかし〝健康〟だってだけだ。

 普通の人間だよ。マジで勘弁してくれ。それと・・・」


健太郎は声を低くした。これだけは、はっきり伝えておかなければならない。


「オレの大切な友達に、絶対に手を出すな。

 もしあいつに何かあったらオレはガソリンをかぶって自分に火をつける。

 そうすりゃ、一切のサンプルは残らない」

 

「今更そんなことは必要ない。さぁ、来ていただきますよ」


くっ、と息を吐き出す。どうやら逃げられそうにない、と健太郎は思った。

この腕は、どう頑張っても外せない。


ドゴッ、という鈍い音がしたと思ったら、健太郎を締め付けていた腕の力が唐突に抜けた。

健太郎は後ろの男から飛び退って離れる。

振り返ると、花鈴が肩で息をして立っていた。その足元には黒服の大きな男が倒れている。

頭から血が出ていた。

花鈴を見ると、両手でビニール袋の取っ手を握っている。スーパーでもらったらしいレジ袋には、重そうな石が入っていた。花鈴はその袋を振り回し、遠心力を使って男の頭に石を当てたのだ。

花鈴は涙をボロボロこぼしながら、両手を震わせて倒れた男を見ていた。

健太郎が花鈴に近づこうとした時、後ろに気配を感じた。

一人残っていた男が両手を広げて健太郎に向かってくる。

健太郎が脚を上に蹴り上げると、そのまま足が男の顎にぶつかる。

ガキ、と歯がぶつかり合う音が聞こえたと同時に白目を向いて男が倒れる。

これで全員ダウン。


「あ・・・あ・・・あ・・・」


花鈴が震えながら声を出そうとしている。健太郎は急いで花鈴に近づいた。

大丈夫か? と聞こうとしたら、花鈴がやっと言葉らしいことを言った。


「・・・あ・・・あちょーって言わないの?」


「んあ!?」


健太郎はショックのあまり花鈴がおかしくなったのだと思った。でも花鈴は震える声で続けて話す。


「あたし・・・お父さんがブルース・リーのファンで小さい頃から映画見てたの。

 健太郎くんの今の技、拳法でしょ? 拳法は掛け声をかけるんだと思ってた」


「・・・・」


健太郎には答えようがなかった。花鈴は天然だと分かっていたが、今この場で拳法の掛け声の話をされるとは予想していなかった。咄嗟の気転で屈強な男をのしてしまうのも全くの予想外だったが、この質問は驚愕の域を超えている。


「いや・・・、練習中もオレは特に掛け声はかけない」

「そうなんだ。・・・つまんない」


健太郎は呆れて天を振り仰ぐ。まったく、花鈴にはいつもビックリさせられる。花鈴が見ていたのがブルース・リーで良かった、と健太郎は思った。

もしお父さんが「北斗の拳」のファンだったとしたら、敵を倒した後に「お前はもう死んでいる」と言ってほしい、とか言われそうだ。

そんなことを言わされたら、オレがその場で死んでいる。


花鈴はしばらくそのまま立っていたが、やがてレジ袋を下に落とし、ブルブル震えだした。

そこで健太郎は気がついた。花鈴が相当ショックを受けていることは確実だ。

でかい男達に囲まれて連れ去られそうになったのだから、当然だろう。

しかも健太郎は、花鈴に助けられた。花鈴がいなかったら、今頃ハマーの車の中だ。

その後製薬会社でどんなことをされたか解らない。


健太郎は花鈴に近づく。今までで、一番近い距離に。

健太郎は腕の中に花鈴を抱いた。


花鈴の体は小刻みに震えている。肩を抱き寄せると頭を健太郎の胸元に預けた。

花鈴は信じられないくらい細く、そして考えられないくらい、柔らかかった。

こんな感触がこの世にあるんだ・・・と健太郎は感嘆の想いを深くする。

その肩は頼りなく小さい。

でも同時にふわりと溶けそうなほど、優しい手応えのある弾力を感じる。

女の子はクリームで出来ている、と何かで読んだことがあったのを健太郎は思い出した。

慎重に扱わないと崩れてしまう。でも上手に扱えば、極上の甘さを与えてくれる。


健太郎は花鈴の頬に優しく手を当てた。花鈴の震えはもう止まっている。

花鈴が健太郎を見上げるために顔を上げた。

健太郎は身をかがめると、花鈴の頬にそっと唇を押し当てた。


花鈴の頬は涙に濡れて、塩っぽい味がした。

でも甘い。女の子は甘い。

花鈴は今まで味わったことのある高級料理店のどんなスイーツより、とろけそうなほど甘い味がする。


健太郎はまた花鈴の背中に腕を回すと、ギュッと力を込めて抱きしめた。

花鈴も健太郎の背中に手を回す。

健太郎のお腹の上のあたりに、どの部分より柔らかい塊が強く押し付けられた。

きっとそれはふわふわの甘いケーキ。食べても、食べても、なくならない。


でも今、ことを急いではならない。

大切なものを確実に手に入れる為には、いつだって努力が必要だ。

そしてその努力を一生続けていく根性も、なくてはならないものだ。


それでも健太郎は花梨を離すことが出来なかった。もう少しこのままでいたい。

出来れば・・・あと二、三日は。


うおっほん、と咳払いする音が後ろから聞こえる。

「若」と声が掛かった。

健太郎はイラっとして花鈴から手を離す。まったく、いつもタイミングが悪い奴だ。


「遅いぞ、武重。もう出番はない。一体何してたんだ?

 オレが予定通り帰らない時はすぐに来る約束だろう。暑いからアイスでも食ってたのか?」


「いいえ。食ってはおりません。買っておりました。若の好きなメロンメロンチョコサンドバーを」

しれっとした顔で武重が答える。


「具体的な商品名を言うな!」 

健太郎は頬に血が上るのを感じて怒鳴った。


武重のやつ、この状況が分からないのか?と健太郎は彼の神経を疑う。

同級生の、しかも好きな女の子がすぐそばにいるというのに、よりによってメロンメロンチョコサンドバーが好物なことをバラしやがるなんて。


「あー、あたしもメロンチョコ好きー」


花鈴は子犬が尻尾を振るようなニコニコ顔で、健太郎と武重を交互に見ながら言った。

花鈴と武重は面識がある。武重は健太郎のボディガードだから、花鈴が自宅に遊びに来た時何度か会ったことがあるのだ。


榊原家の嫡子には、代々幼稚園入園と同時に教育係が付けられる。

本来、ただの教育係で護衛まではしない。だが武重は健太郎が製薬会社の連中に付きまとわれるようになってから、四六時中ついている事まではしないが、いつでも駆けつけられるように待機している事になっている。

榊原家の子供たちを祖父の代から順に世話して来て、現在の跡取りである健太郎の担当が武重になる。

年齢は三十半ばくらいだが、妙に飄々としていて、年齢より若くも見え、もっと年上にも見える。

二メートル近い身長と、いつもきっちりスーツを着ている割には、茫洋としたつかみどころのない印象を人に与える。

それでも武術はひとかどのものがある。健太郎は一度も武重に勝てたことはない。


「花鈴さまもメロンがお好きなのですか。ようございます。

 ご趣味が合うのも、愛の弊害を退ける絶好の条件の一つに数えられます」


ほほほ、と笑って武重が言う。


「ああもう、うるさい。ライズの連中はどうした」


「もちろん、若がイチャイチャされておられる間に、

 ぎっちぎちの亀甲縛りにしてあの趣味の悪い車の中にぶち込んでおきました。

 きっとあの四人は今、興奮の渦の中にいるでしょう」


いちいち言い方が下世話で嫌らしかったが、武重の仕事はソツがなくて確実だ。健太郎は安心した。


「若、一つよろしいですか?」

「なんだ? 手短に言えよ」


「女性と抱き合う時は、絶対的に周りに配慮すべきだと武重は進言致します。

 あの状況で気絶していた男が正気を取り戻して攻撃してきたらどうします?

 せっかくのラブシーンも、ベッドではなくここで血を流すことになるのですよ」


健太郎はその言い回しのくどさに新たなイラつきを覚えたが、言っていることは正論だった。何があっても自分のせいで花鈴に血を流させるような事があってはならない。

そう、・・・初めてのベッド以外では。


「まぁでも、初の実践にしては上々の出来です。90点というところですね。

 残りの10点は事後処理の悪さで減点です」


武重に90点と言われ、健太郎はちょっと嬉しくなった。武重は何においてもやたらめったらけなす事も褒めちぎることもしないが、結果を正確に伝えることは怠らない。


「あのう・・・武重さん」


花鈴が躊躇い勝ちに武重に声をかけた。健太郎が花鈴を見ると、心配そうに両手を前に組んではるか遠くにある武重の顔を見上げている。まだ捕まった時のショックから抜けきれないでいるのかもしれない、と健太郎は不安を覚えた。


「さっきあたしが石で殴った人、生きてますか?」

「ああはい。ご心配には及びません。まだ三途の川の手前あたりにおりますよ。 

 例え川を渡ってしまったにしても、大旦那様が全てもみ消してくださいます。

 お気になさらなくて結構です」


「そうなんだ。良かった」


いや、それよくないだろ?

そこで納得する花鈴も花鈴だが、武重の、榊原家にとって不都合な事は金の力で全部帳消しにしてしまうという事を暗に匂わせた発言にも戦慄を覚えた。

爺様は本当にそこまでやるのだろうか・・・。健太郎はまだ榊原家の暗部を教えてもらっていない。いずれ自分もそういう事に加担しなければならなくなるのだろうか。


「あいつら、どうなんの?」

健太郎は寒気を覚えながら武重に聞いた。


「そうですね・・・。大旦那様に連絡して指示を仰ぎましょう。

 警察に連絡するか、こちらで〝処理〟するかご判断していただきます。

 大旦那様が煮るなり焼くなり、海に沈めるなり好きにしろ、とおっしゃられたら、

 わたくしは〝焼く〟を選択させていただきとうございます。

 愛犬のチャッピーとプッチーの食事に、当分の間困らないで済みますので」


武重の愛犬は榊原家の番犬、ドーベルマンだ。一体どんな躾をしているのか、普段は大人しいのに、一度号令がかかると情け容赦なく敵を食いちぎる。

飼い主に似ているのかもしれない。


どこまで真面目に言っているのか判別つかない飄々とした顔で、武重は携帯電話を取り出した。

爺様の支持は、「警察に連絡しろ」だった。武重は至極残念そうにそれを健太郎に伝える。

健太郎はホッとして肩の力を抜いた。


考えてみれば今回こそ上手く行ったが、この先何度こういうことがあるか分からない。

ライズの連中からもし他の研究施設に情報が漏れれば、健太郎はもっと危険な奴らに狙われる可能性もあるのだ。

花鈴がオレの近くにいる限り、危険な目に遭う確率も増える。

花鈴にとっても、健太郎にとっても、それは避けたい事態だった。


「花鈴。オレはこれからもこんな目に遭うことが沢山あると思う。理由は・・・まだ言えないんだけど」


花鈴は神妙な顔で健太郎を見上げる。そして心配でたまらないという表情で健太郎に言う。


「そうか。健太郎くんはおんぞーしだから命を狙われたりするんだね」

「・・・そうだね。おんぞーしだからね」


花鈴が御曹司の意味を理解しているのかちょっと疑問が残るところだったが、健太郎が狙われる本当の理由について深く追求するつもりはないらしい。

いずれ・・・きちんと花鈴には説明したい。

だけど健太郎が花鈴に惹かれれば惹かれるほど、今回のように花鈴を狙ってくる奴らも増えるだろう。

健太郎は胸が張り裂けそうな思いで花鈴に言った。


「オレは、花鈴がさっきみたいに人質にされるような事態になるのが怖い。

 だからこれからは、オレのそばにあまり近寄らない方がいいと思う」


「抱きしめておいてそれはないでしょう」と武重の声が小さく割り込む。

うるさい外野。黙っとけ。


花鈴はちょっと考えるように首をかしげた。相変わらずチワワだ。

しばらくその状態でいたあと、突然パッと顔をあげ、武重に向き直った。


「武重さん。あたしに拳法を教えてください」


健太郎はギョッとして花鈴を見た。花鈴の目はどこまでも真剣だ。

武重はいつもひとをくったような微笑を浮かべているが、その顔が本当の笑みに変わる。


「なに言ってんだよ。花鈴にそんなもん出来るわけないだろ?」


健太郎は焦って止めた。例え花鈴がどんなに拳法を習ったにしても、あの屈強な男どもに勝てるとは到底思えない。


「そう決め付けるのはいかがなものかと思います。

 あの大男を仕留めたのですから、いい筋をお持ちだとお見受け致します」


また武重のヤツ余計な事を。花鈴が本当にやる気になったらどうするんだ。

花鈴が練習で武重に吹っ飛ばされるのを思い描いて、健太郎はゾッとするのを抑えられなかった。


でも、花鈴が拳法を習いたいと言うのは、健太郎から離れて身の安全を図るのではなく、危険でもいいから一緒にいたいと思ってくれたからだと分かる。

その気持ちが、健太郎には嬉しかった。


「あたし、いっぱい練習してムキムキのマッチョになるの。

 そんで悪いヤツをボコボコにして、最後に言いたいセリフがあるの」


花鈴が目を輝かせて両手を構えた。キュッと眉を寄せ、キリッとした顔になるように工夫する。

下手っぴな構え方だったが、揺れる胸だけは見事だった。

花鈴が言葉を続けようとした瞬間、健太郎は嫌な予感が頭をかすめた。

花鈴のセリフを聞かないで済むように、急いで耳を塞ごうと両手を頭に上げる。

でもその手が耳に届く直前、高い声を無理に低くした花鈴の声が、指のすき間から耳の中に滑り込む。


「お前はもう死んでいる」






・・・ありがとうございました。

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