<最終話>語り継がれるもの
タイタニック号の事故は、当初、乗客全員が救助されたという誤った形で世間に報道された。しかし、その後すぐに膨大な犠牲者の数が明らかになり、人々に大きな衝撃を与えた。
犠牲者は、乗員乗客を合わせて約千五百人。実に、全体の七割にも及ぶ人々が命を落としたのである。この史上最大規模の海難事故の情報は瞬く間に世界を駆け巡り、各紙の紙面を騒がせた。
中でも、船を建造したイギリスと、多くの自国民が乗船していたアメリカが受けた衝撃は大きく、生存者を乗せた救助船がニューヨークに到着するや否や、現地で事故の原因を探る査問委員会が開かれた。
しかし、本来そこで証言するべき人々は皆、語る術を持たなかった。タイタニック号船長エドワード・スミス、主席航海士ヘンリー・ワイルド、一等航海士ウィリアム・マードック――あの日の夜、重要な決断を下した彼らは、全員が船と運命を共にした。上級士官の中で生き残ったのは、二等航海士のチャールズ・ライトラーだけだった。
アメリカ、そしてその後に行われたイギリスでの査問委員会の調査の結果、事件に関わる様々な事実が浮かび上がった。それを基に、二度とこのような事故を起こさないための対策が各国で、あるいは多国間でとられた。
イギリス商務省は客船の救命ボートに関する規則を改訂し、全員分のボートを用意しなければならないと改めた。沈没の直接的な原因となった氷山に対しても対策がとられ、アメリカ沿岸警備隊が中心となり二十四時間体制で氷山の流れを監視する枠組みが作られた。
タイタニック号の所有者であるホワイトスター社は、起工間もない姉妹船のブリタニック号に大幅な設計変更を加える対策をとった。その内容は、船体の二重構造を船底だけでなく舷側にも適用し、防水隔壁の高さも引き上げるというものだった。
改設計の結果、ブリタニック号は連続する六つの水密区画に浸水しても浮力を保てるようになり、タイタニック号を超える不沈性を手に入れた。もう一隻の姉妹船であるオリンピック号に対しても、可能な範囲でこれに準ずる改造が施された。また、タイタニック号の悲劇を生んだ原因の一つである救命ボートに関しても、全員が乗っても余りあるだけの数が備えられた。
しかし、いかに事故の原因が調査され、対策が練られても、失われた命は戻ってこない。あの夜、船と共に沈んだ千五百人は、どうやっても帰りはしない。だが、極限の状況下で後世にまで語り継がれる数々の逸話が誕生した事も事実である。
選りすぐりの奏者ばかりを集めたバンドの楽士たちは、船が沈みゆく事など一向に気にせず、平然と演奏を続けていた。乗客が次第に落ち着きを失う中で、彼らの心を宥めようと楽士たちは命の危険を省みずに演奏した。いよいよ危ない状況となり団長が解散を命じた後も、誰一人としてその場を離れる者はいなかった。結局、八名の楽団員は全員が帰らぬ人となった。
無線室を預かっていた二名の通信士のジョン・フィリップスとハロルド・ブライドも、出力の落ちた無線機を必死に動かして救助を求め続けた。船長から職務を解かれた後も、彼らは海水が無線室に流れ込んでくるまで救助要請を止めなかった。その後、二人は共に船から脱出したが、助かったのはブライドだけだった。
その二人がぎりぎりまでSOSを打ち続ける事ができたのは、船底で働く機関士と火夫のおかげだった。海水が渦巻く船底で、彼らは初め全力で排水作業に取りかかり、船の沈没が避けられなくなってからは電気を絶やさないよう発電機を回した。
刻一刻と終わりの時が近づく中で発電を続ける事は、死を選ぶ事と同義だった。しかし、彼らは自分の命よりも電気を送り続ける事を優先した。彼らの命を懸けた活躍は、沈没の直前まで船から電気が消えなかったという事実が如実に物語っている。もしも早々に電気が失われていたら、混乱の度合いはより増し、より多くの人が命を落とした事だろう。彼らはほぼ全員が亡くなったが、その犠牲は間違いなく多くの乗客の命を救ったのだ。
乗客の中にも、印象的な最期を遂げた人が多々あった。
一等船客の鉱山王、ベンジャミン・グッゲンハイムは、救命胴衣を着けてデッキに上がったが、じきにそれを外して部屋に戻った。彼は引き連れた従者と共に夜会服に着替え、粛々として最期の時を迎えた。
この船の設計者であるトーマス・アンドリュースも、船と運命を共にした一人だった。生き残った乗客は、彼は一人でも多くの命を救おうと懸命に動いていたと証言する。ある乗客は、彼は率先して乗客の避難誘導を行っていたと言い、別の者は、生存者が掴まれるように水に浮く物を片端から海に投げ入れていたと語った。
温和な物腰の彼は、元から仲間内での評判も良かったが、沈没を前にして彼が取った行動は世間から高く評価された。事故の後、彼の故郷であるアイルランドのコンバーには、彼の行動を称えてその名を冠した学校やホールが作られた。
長さの差異はあれ、彼らはいずれも唐突に降りかかった悲劇によって一生を終えた。しかし、それによって彼らの名は、彼らが本来生きたであろう時間よりも長く残る事になった。そして、それは悲劇の舞台であるタイタニック号についても同様だった。
客船の寿命は、長く見積もっても三十年ほどである。寿命を迎えた船は解体され、姿を消す。よほど鮮烈な印象を残した船でない限り、その名は時の経過と共に人々の記憶から薄れていく。
タイタニック号の場合、一般的な客船と同じ生涯を歩んだとしても、その名は長く記憶される事になっただろう。彼女の巨大さと豪華さは、それに足るものだった。
しかし、タイタニック号を襲った悲劇は彼女の名をより強く歴史に刻みつけた。タイタニックの船名は悲劇の代名詞として語られ、それは百年後の世にまで続いている。その間、何度も映画や小説の題材となり、船としてはより幸運な一生を過ごした姉妹船のオリンピック号よりも有名な存在になった。
二〇一二年四月五日には、ユネスコが海底に眠るタイタニック号を水中文化遺産保護条約の対象にすると発表した。これにより、タイタニック号は単なる沈没船ではなく、国際的に保護されるべき文化遺産として認識された。
世界を震撼させた大事故からまる一世紀。空前の豪華客船タイタニック号は、波間にその姿を消してなお、人々の耳目を集め続けているのである。
ここまでお読み下さり、ありがとうございます。作者の石田零です。
週一回の更新と言っておきながら、後半はペースが落ちてしまい申し訳ありませんでした。ともあれ、今回でこの作品は完結です。
タイタニック号の事故から百年という事で書き始めたこの作品、如何だったでしょうか。拙い文章だったと思いますが、楽しんで頂けたならば幸いです。
最後に、この作品を読んで下さった読者の皆様に心からの感謝を申し上げます。ご意見・ご感想も遠慮なくお寄せ下さい。
それでは、機会があればまたお会いしましょう。