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<第五話>不沈船の沈没

 スミス船長が初めに乗客に避難指示を与えるように言ったのは、日付が変わった零時五分のことだった。しかし、それから避難行動が開始されるまでには暫くの間があった。

 それも仕方の無い話ではあった。衝突の衝撃を感じたのは船首の三等船客くらいであり、他の乗客は船に異変が発生した事にすら気づいていなかった。床に就いていた彼らの多くは、扉を開けた客室係にボートデッキへ集合するよう言われて、ようやく何かが起こったのを知った。

 しかし、その時点でまだ、彼らは事態を深刻なものとは捉えていなかった。船は行き足を止め、船体も若干右に傾いていたが、依然として健在であるように思われた。婦人客の中には、煌々と明かりが輝く船を離れて小さなボートで暗闇の中へ漕ぎ出すのを嫌がる者もあった。

 零時四五分に最初の救命ボートが海面に下ろされた時も、ボートデッキの一等船客たちの様子に変わりは無かった。彼らは皆、この船が沈まない事を信じて疑っていない風だった。

 けれどもそれは、トーマスにとってはひどくじれったいものだった。未だ危機を認識しているとは見えない人々に対し、彼は避難を促して回った。

 「時間がありません! 女性と子供は、すぐに近くの救命ボートに乗って下さい! さあ早く!」

 普段の穏やかな物腰を投げ捨てて、トーマスは声を張り上げる。と、乗客の一人が救命胴衣を身に着けていないのを見つけた。

 「救命胴衣はどうしました?」

 「持っていると思っていたけれど、ありませんわ」

 聞かれた婦人客は、ハンカチを落としたような気軽さで答えた。

 「私の物を渡しますから、着用して下さい」

 「私はいいわ。あれは不格好なんだもの」

 「皆さん着けていますよ」

 「嫌よ。恥ずかしい」

 「そんな事を気にしている場合ではありません!」

 なかなか救命胴衣を着けようとしない女性を相手に、トーマスはとうとう声を張り上げた。

 「自分の命を守りたいのならば、貴女はこれを身に着けなければなりません」

 トーマスは有無を言わさぬ調子で言い、女性に救命胴衣を着けさせた。彼女が救命胴衣を着用したのを確認すると、彼は一転して穏やかな口調で言った。

 「これでもう大丈夫です。あとはボートに乗れば、貴女は助かります。さあ、ボートが下ろされない内に早く」

 トーマスは最寄りのボートを指さして彼女の背を軽く押した。女性はトーマスに短く礼を言うと、ボートに向かっていった。

 トーマスや船員たちがデッキの上で奮闘している間にも、船は刻々と傾斜を強めていた。初め、船体は右舷に傾いていたが、船内通路を伝って左舷にも水が流れ込んだ結果、一時的に水平を取り戻した。しかし、それもほんの僅かの間の事であり、今度は左舷に傾斜し、船首の沈下も一層増していった。

 衝突から一時間半近くが経過した午前一時十五分頃になると、船首の沈下は誰の目にも明らかな状態となった。船首には真鍮で作られた『TITANIC』の船名板が取り付けられていたが、海面はそのすぐ下まで迫っていた。反対に、船尾は次第に持ち上がり、赤い船腹を海面上に露出させるようになっていた。

 事ここに至り、乗客たちも船の沈没が避けられぬ事態である事を悟った。デッキの各所では、妻をボートに乗るよう説得する男性の声が聞かれた。

 「大丈夫だよ、リジィ。安心して。私は次のボートに乗るから。ほんの少しのお別れだ。またすぐに会えるさ」

 トーマスが通りかかったボートの傍でも、とある男性が妻に優しく声をかけていた。泣きながら拒否する妻を、彼は辛抱強く説得していた。

 「この船にはたくさんのボートがある。一隻見送ってたとしても、十分間に合うさ」

 「それなら、私も一緒に次のボートを待つわ!」

 「それは駄目だ。君は先に行くんだ」

 「嫌よ!」

 「……仕方ない」

 彼は一つ呟くと、強攻策に打って出た。

 「下ろして!」

 「大人しくするんだ!」

 暴れる妻を抱え、夫は彼女をボートに乗せようとする。妻はボートに乗ってからも夫の腰にしがみついて離れなかったが、デッキの男性客が数人がかりでこれを引き剥がした。近くにいたトーマスも、これに加わった。

 「やめて、私を一人にしないで! マイク!」

 夫が見守る中、彼女の乗ったボートは甲高い叫びを残して海面へと下ろされていった。

 「皆さん、ありがとうございます。これで妻は助かるでしょう」

 振り返った夫は、寂しさと安堵が入り交じった表情を浮かべて言った。彼は身を翻すと、船の中へ去っていった。

 他のボートの周りでも、同様の光景が幾つも見られていた。しかし、中には夫と別れるのを拒み、ボートへの移乗を辞退する妻もいた。陶磁器商から大富豪にまで上り詰めたストラウス氏の夫人も、その一人だった。南北戦争の頃から夫と二人三脚で歩んできた老夫人には、ここで夫と別れる考えなど毛頭なかったのである。彼女は夫の手を握り、落ち着いた足取りで船内に消えた。

 午前二時を回ると、船はいよいよ末期の様相を呈してきた。ダビットのボートは全て下ろされ、残っているのは四隻の折り畳みボートだけだった。そのボートも、船が大きく傾いているために上手く下ろす事ができずにいた。

 トーマスは、今は乗客の誘導をしてはいなかった。代わりに彼は、海に投げ出された人々が掴まれるよう、デッキに転がっているデッキチェアーを片端から海に投げ込んでいた。

 一つや二つならまだしも、広大なタイタニック号のデッキにある椅子を全て海に投げ入れていくのは、かなりの重労働だった。しかし、額に大粒の汗を浮かべながらも、彼は手を休めはしなかった。

 やがて、投げる椅子も無くなるに及んで、ブリッジを出てから動き通しだったトーマスはようやく一息ついた。やれるだけの事をやった彼は、人々の叫び声が飛び交うデッキに背を向け、船内に戻った。

 扉を一枚隔てた船の中は、思いがけないほどに静かだった。傾斜のために歩行は困難になっていたが、それを除けば船内の光景は前日までとほとんど変わらなかった。

 一歩ずつ踏みしめるように、トーマスは大階段を下っていく。大部分の乗客がデッキに集まる中、船内に人の気配は無かった。流麗なラインを描く手摺に、柔らかなカーペット――つい数時間前まで、ここが大勢の人々で賑わっていた事など、想像もできなかった。

 トーマスは、特に行く先を決めてはいなかった。ただ足の動くままに、彼は船内を歩いていく。そして――彼は、血にまみれた少女を見つけた。

 「ティーナ!!」

 トーマスが彼女の姿を目にしたのは、一等喫煙室の中だった。絨毯に血を染み込ませ、少女は力無く床に倒れていた。

 「ティーナ! しっかりしろ!」

 血の海に沈むティーナの姿を見たトーマスは弾かれたように駆け寄り、彼女を抱き起こす。肩を揺すって呼びかけると、ティーナは薄く瞳を開いた。

 「トー……マス……?」

 か細い声を返すティーナに、トーマスは頷く。

 「そうだよ、ティーナ。私だ。分かるかい?」

 「もち、ろん……」

 浅い息を吐きながら、ティーナは答える。トーマスは、そんな彼女を見下ろして顔を歪めた。

 少女の小さな身体は、満身創痍と言ってよい状態にあった。右の側胸部から腹部にかけて剣で斬られたような深い傷があり、そこからの出血は彼女の服を鮮血に染め尽くし、足元の絨毯にまで広がっている。トーマスが抱いている間も、傷口からは血が止め処なく溢れ続けていた。

 「ひどい怪我だ……。どうしてこんな……一体、何があったんだ?」

 見るに堪えない光景から目を背けたくなる衝動を抑え、トーマスは尋ねる。それに対し、ティーナは小さく笑った。

 「そういえば……まだ、話してなかったわね……」

 「何を?」

 問いを重ねるトーマスに、ティーナは答える。

 「艦魂と船は、一心同体……船の損傷は、そのまま艦魂にも反映されるの」

 「なっ……」

 ティーナの返答を聞いたトーマスは、驚きに目を見開いた。

 「それじゃあ、君のその傷は――」

 途中で切れた言葉に、ティーナは首肯する。

 「自分の身体だから……何が起こっているのかも、よく分かる……。私が、もう助からない事も……。もって、あと十数分……そうでしょ、トーマス?」

 彼女の言葉に、トーマスは答える事ができなかった。彼女が示した時間は、まさしく彼の計算結果と同じだったからだ。

 「すまない、ティーナ」

 おもむろに、トーマスが言った。

 「私がもっと頭を働かせていれば、こんな事にはならなかった……。くそっ、何が不沈船だ。船体強度も隔壁の高さも、全て不十分だったじゃないか!」

 ティーナの痛々しい姿を前に、トーマスはブリッジで覚えた悔恨の念を甦らせる。自分自身に対する怒りから、トーマスは拳を強く握り締める。だが、そんな彼の手を、温かな感覚が包んだ。

 「トーマス……あまり……自分を責めないで」

 感覚の正体は、目の前の少女の両手だった。小さい、しかし柔らかく温かな手が、氷を溶かすように彼の拳を解していく。

 「私は、トーマス……あなたに設計されたことを、後悔……してない……。例え誰が設計しても……こんな事が起こるなんて、想像……つかなかった。だから……一人で抱え込まないで」

 「しかし――」

 「それにね」

 反論しようとしたトーマスの機先を、ティーナが制する。

 「私は……あなたに、最高の船だと言ってもらえて……本当に嬉しかった……。だから……それを否定されるのは、悲しい……」

 か細い息を吐きながら、ティーナは言う。その時、鋼鉄の軋む音と共に船体が傾きを増した。

 「――――っああああ!!」

 船体の軋めく音に被せるように、ティーナが悲鳴を上げる。大きく背中を仰け反らせ、少女は痛みに悶えた。

 「うっ……ぐ……ああっ……!」

 「ティーナ! どうしたんだ!?」

 彼女を抱く腕に力を込めたトーマスに、ティーナが答える。

 「痛い……。骨が……折れ、そう……」

 「骨……竜骨(キール)かっ……!」

 ティーナの言葉から、トーマスは彼女の痛みの原因を推測する。竜骨とは、船の底に通った一番太い構造材で、人間に例えると背骨に当たる。人体における背骨がそうであるように、竜骨もまた船の構造を支える上で欠かせない存在である。

 その竜骨が、折れそうだという。竜骨が折れれば、船は真っ二つに切断され、瞬時に沈没する事になる。その光景を想像したトーマスは背筋に寒気が走ったが、一方でそれが自然な結末であるとも感じていた。この船の現状を考えれば、それは簡単に分かる事だった。

 タイタニック号は現在、浸水によって船首を大きく沈下させている。船首区画は既に最上層まで浸水し、隔壁を越えた海水は、これまで無事であった区画にも押し寄せている。トーマスがスミス船長に言った連鎖反応が、現実のものとなったのだ。

 浸水の拡大が進んだ結果、船首は更に沈み、逆に船尾はスクリューが水面上に姿を現すまでになった。空気中に上がった船尾には重力が働き、船底の竜骨には膨大な負荷がかかる事になる。

 しかし、設計者であるトーマスはこの船の竜骨がそれに耐えられない事を知っていた。正常な航海に耐えられるだけの強度を持った竜骨に、浮き上がった船尾を支えるだけの力などあるはずもなかった。

 タイタニック号の船体は、傾斜によって軋み、たわみ、捩れている。船体の異常がそのまま艦魂に伝わるならば、ティーナは今、巨人の手に握り潰されるような苦しみを感じているはずだった。

 「ひぐっ!」

 船体が再び軋むのと同時に、ティーナが声を上げる。浸水が拡大したのか、出血量も増える。

 船の沈没は、もう目前に迫っていた。

 「ティーナ、気を確かに持つんだ! 私がついている!」

 ティーナの身体を強く抱き締め、トーマスが言う。しかし、ティーナは首を左右に振ると掠れた声を発した。

 「だめ……トーマス……」

 「何だって?」

 驚きの声を上げるトーマスに、ティーナは言う。

 「私と一緒に、いたら……だめ……。あなたは……ここで、死んじゃいけない。今なら、まだ……間に合うから……。早く、逃げて……」

 浅い息を継ぎながら、ティーナは訴える。全身を襲う激痛に堪えながらの言葉はとてもか細く、弱々しかったが、その中に彼女の強い意思が隠れているのが感じられた。

 「ありがとう。ティーナ」

 温かな微笑を浮かべ、トーマスが答える。その表情のまま、彼は言葉を続けた。

 「しかし、それはできない」

 「どうして……」

 丸い瞳を見開くティーナに、トーマスは答える。

 「私は紳士だからね。女性や子供を置いて自分だけ先に避難する事はできない。それに――」

 トーマスは、そこで一度言葉を区切り、ティーナと視線を合わせる。鮮やかな碧眼を真っ直ぐに見つめながら、彼は言葉を紡いだ。

 「私は、君の父親だ。自分の娘をこんな目に遭わせておきながら、おめおめと生き延びるわけにはいかない」

 「でも……あなたには、本当の娘がいる……奥さんやその子を、悲しませちゃいけない……」

 「……ヘレンとエリザベスには、悪いと思っている」

 家族の名を出したトーマスの瞳に、一瞬寂しげな色が浮かぶ。しかし、彼はすぐにそれを振り払い、言った。

 「だが、それでも私は、船を離れるわけにはいかない」

 「トーマス……」

 強く言い切ったトーマスの瞳を見つめ、ティーナは念を押すように問いかける。

 「本気……なの?」

 「ああ」

 ティーナの問いに、トーマスは即答する。

 「だから、君も安心していい。怖がる必要は、何も無い」

 「え……」

 ごく自然に彼が発した言葉に、ティーナは瞳を丸くする。そんな彼女の反応にくすりと笑いをこぼしながら、トーマスは言う。

 「私は知っているよ。君が本当は怖がっている事を」

 「そんなこと……私は――」

 「無理しなくていい」

 咄嗟に反論しようとしたティーナを、トーマスの声が遮る。

 「言っただろう? 私は君の父親だ。自分の娘が今どんな気持ちでいるかくらい、想像がつく」

 言って、トーマスは微笑を浮かべる。乱れた彼女の前髪を直してやりながら、彼は言葉を続ける。

 「ティーナ、君は優しい子だ。本当は一人でいるのが怖くて堪らないのに、自分の気持ちを押し殺して、私を助けようとしてくれた。私に妻子がいるのを気遣ってくれたんだろう? 思いやりがあって、責任感が強い。君は、本当に良い子だよ。

 でも、だからこそ、君を放っては置けない。全部一人で背負ったまま、この冷たい海で独りぼっちにはさせられない。私が一緒にいる。だから、怖がらなくていい」

 「ばかな人……」

 湿った声を出し、ティーナは笑う。彼女はトーマスをしっかりと見つめると、朱に染まった顔に満面の笑顔を浮かべた。

 「トーマス……ううん、パパ……ありがとう」

 それが、彼女の最期の言葉だった。

 次の瞬間、タイタニック号の船体は真っ二つに分断された。夜空を割るような凄まじい音が周囲に轟き、切断部からは鮮やかな火花が鮮血のように散る。救命ボートに乗る人々は、その光景を茫然と眺めていた。

 一九一二年四月一五日、午前二時二十分。氷山との衝突から約二時間後、不沈船と謳われた豪華客船タイタニック号は、千五百人の尊い命と共に、北大西洋ニューファウンドランド島の沖合に沈没したのだった。

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