<第四話>Hard a starboard!!
船の針路上に異変があるのを最初に発見したのは、前部マストで配置に就いていた見張員だった。
フレデリック・フリートは、あと二十分で交代の時間が来るのを今や遅しと待ち構えながら、前方の闇を凝視していた。今夜は月は出ていなかったが空気は澄んでおり、視界はかなり遠くまで開けていた。しかし、波が無かったので氷山を見つけるには些か難しい夜だった。
ブリッジからは氷山に気を付けるよう指示が与えられていたが、フリートは言われずとも分かっていた。先程から気温はどんどん下がっており、氷山地帯に入った事は明白だった。
ただでさえ北大西洋の夜は寒いというのに、こうも冷えては堪らなかった。フリートはもう一人の見張員と愚痴を言い合ったり、手を擦ったりして寒さを紛らわそうと試みた。しかし、その最中も両の瞳だけは真っ直ぐ前を見つめていた。
その時だった。
急に靄がかってきた海上に、フリートは黒い影を見た。それは机を二つ合わせたくらいの大きさだったが、フリートは初めそれが何なのか分からなかった。しかし、一瞬後には、彼は非常事態を告げる警鐘に飛びついていた。
不気味なほど静かな夜の空気を、鋭い鐘の音が引き裂く。次いで彼は、ブリッジに直通する船内電話を引ったくった。
「どうした?」
電話口に出た当直航海士に、フリートは叫んだ。
「真っ正面に氷山!!」
「サンキュー」
相手は妙に落ち着いた声で答えると通話を切った。通話器を置いたフリートにできる事は、後はもう祈るのみだった。
「真っ正面に氷山です!」
フリートからの報告を受け取った六等航海士のジェームズ・ムーディーは、右舷の見張台に立つ一等航海士のウィリアム・マードックに言った。
「Hard a starboard!!」
マードックは報告を受けるや否や、ブリッジに取って返し、操舵手のロバート・ヒッチェンズに命令した。その傍ら、自身はテレグラフに飛びつき、機関停止、それから全速後進の指示を出した。更に彼は水密扉の閉鎖スイッチを押し、衝突した場合の浸水に備えた。
「舵は一杯です! もう回りません!」
舵輪を限界まで回したヒッチェンズが悲鳴のような声を上げる。四万六千トンの巨体は舵の効きが鈍く、その時点でまだタイタニック号は直進を続けていた。
ブリッジにいる誰もが、祈る気持ちで前方を凝視していた。一秒が一時間にも感じられる時間の中、焦りだけが高まっていく。船はまだ針路を変えない迫り来る氷山を見つめ、マードックは衝突を覚悟した。
その時、ようやく効きだした舵が船の向きを変え始めた。衝突を目前にして、船は乗組員の意思に応えたのだった。
マードックの胸中に、淡い希望が生まれた。彼は船尾を氷山からかわすため、ヒッチェンズに面舵を命じた。
しかし、どうにも遅すぎた。船が回頭しだした時に、氷山はもう目と鼻の先に迫っていた。船首が氷山をぎりぎりでかわした直後、鉄が引き裂かれる音と共に、船体に振動が走った。
「ぶつかりました!」
ヒッチェンズの報告を聞くまでもなかった。マードックは唇を噛んだ。
「何が起こった?」
船長室で休息を取っていたエドワード・スミス船長がブリッジに上がってきて尋ねた。
「氷山です」マードックは答えた。
「取舵を一杯に取って機関を全速後進にし、次いで船尾をかわすため面舵を取りましたが、距離があまりにも近すぎました。それ以上は成す術がありませんでした」
「水密扉は?」
「全て閉鎖しました」
マードックの報告を聞いたスミス船長は「よろしい」と一言頷き、衝突した氷山を確かめるため見張台に出た。
マードックと、衝突を察知して駆けつけた四等航海士のボクスホールがこれに続いた。しかし、氷山は既に深い闇の中に消えており、確認する事はできなかった。
船長は、ボクスホールに被害の様子を調査するように命じ、階下に派遣した。彼は喫水線付近の三等区画まで下りて調べたが異常は見つからなかったと報告した。
しかし、その直後に船大工がブリッジに飛び込み、浸水が発生している事を伝えた。そして続けざまに階段を駆け上がってきた郵便物係の船員が郵便庫が満水になりかけていると訴えに来た。
ボクスホールの報告によって安堵が広がりかけたブリッジは、再び緊張に包まれた。その間に、首席航海士のヘンリー・ワイルドら非番の船員たちが続々とブリッジに集まってきた。
「船長、一体何があったのですか」
ワイルドの問いに、スミス船長は冷静な口調で答えた。
「氷山に衝突した。右舷から水が入ってきている。郵便庫は既に浸水した」
「そうですか……」
それきり口を閉じたワイルドに代わり、マードックが尋ねる。
「浸水によって、この船が危険な状態に陥る可能性はあるのでしょうか?」
マードックは、船長の自信ある答えが自らの不安を払ってくれるだろうと考えていた。しかし、事故直後からてきぱきと指示を与え続けていた船長は、この時に限ってすぐには答えを返さなかった。暫しの沈黙の後、船長は慎重に答えた。
「そうならなければ良いと思っているのだが……」
処女航海に同乗していたホワイトスター・ライン社長のブルース・イズメイもブリッジに姿を現した。寝間着に上着を掛けただけの装いで現れた彼は、船長にマードックと同じ質問をし、そして同じ答えを返された。
「もう少しお待ち下さい」スミス船長はイズメイ社長に言った。
「じきに全てが分かります」
トーマス・アンドリュースの部屋にスミス船長からの呼び出しが届いたのは、日付が変わる少し前の事だった。
タイタニック号の図面と向き合っていたトーマスは、扉をノックする音に顔を上げた。扉を開けると、固い顔の船員が部屋の前に立っていた。
「どうかしましたか?」
「スミス船長からの伝言です。急いでブリッジまで来て欲しいとの事です」
突然の要請に、トーマスは面食らった様子で聞き返す。
「ブリッジに? 何か問題でも?」
「ここでは言えません。とにかく、すぐにブリッジに来て下さい」
トーマスの問いには答えず、船員は用件を繰り返す。不審に思いながらも、トーマスは身支度を整えると船員についてブリッジに上がった。
「よく来てくれた。ミスター・アンドリュース」
「スミス船長。一体何が起こったのですか?」
出迎えた船長に、トーマスが尋ねる。
「氷山だ。右舷に氷山がぶつかった。すぐに水密扉を閉鎖したが、状況は……」
トーマスは、船長が言葉を濁した続きが分かっていた。なぜなら彼自身、部屋を出た瞬間から気がついていた事だったからだ。
「右に……傾いていますね」
「ああ。今の所、右舷に五度の傾斜が生じている」
トーマスの言葉に、スミス船長が首肯する。ブリッジの床は、緩い坂のように、右を下にして傾いていた。ブリッジだけではない。タイタニック号の巨大な船体全体が、浸水によって傾きつつあったのだ。
今のトーマスは、自分がここに呼ばれた理由が分かっていた。
「この事態に対処するには、この船を熟知した、専門家の力が必要だ。どうか協力して欲しい」
「もちろんです」
船長の言葉に、トーマスは力強く頷く。
「では、ついて来てくれたまえ。私と君とで被害の様子を見て回る。ワイルド君、ここは任せた」
「イエス・サー」
階段を下り始めたスミス船長に続き、トーマスも船橋を離れる。船客に無用な心配を与えるのを防ぐため、二人は人目につかない船員用の通路を使い船底まで下りていった。
結果は、まさに絶望的だった。
右舷を擦る格好で氷山に接触したタイタニック号は、水面下の六ヶ所に損傷を受けていた。それらの傷は個別に見れば決して巨大なものではなかったが、しかし、いかんせん範囲が広すぎた。被害は船首の五区画に及び、それらの区画の水嵩は衝突から十分で数メートルに達していた。
「何という事だ……」
船橋に戻ったトーマスは、海図台に手をつき、うなだれた。
海図台の上には、本来置かれている海図の代わりに彼が持参したタイタニック号の図面があった。損傷箇所や浸水の程度が書き込まれた図面を前に、トーマスは呆然と立ち尽くす。
「それで、船はどれくらい保ちそうかね?」
その問いに対する彼の答えは非情なものだった。
「一時間……長く見積もっても、一時間半といった所でしょう」
「一時間だと!?」
白髭を蓄えた老船長の顔に、驚愕の色が浮かぶ。
「我々に残された時間は、たったそれだけしか無いのか」
「残念ながら……」
トーマスの返事に、ホワイトスター社随一の経験を誇るスミス船長も言葉を失う。一時間という時間は、それほどに短かった。
「とにかく、乗客に避難指示を。こうなった以上、船の沈没を防ぐ事はできません。一人でも多くの乗客を助けるために動くべきです」
「待て。この船が沈むなんて馬鹿げた事が、本当に起こると言うのか」
信じられない様子で言うイズメイに、トーマスはあくまで冷静に答える。
「この船は、四区画の浸水にまで耐えられるよう設計されています。しかし、五区画になるともう駄目です。浮力を失った船首が沈下し、その結果、海水は隔壁を乗り越えて隣の区画に浸水します。それが繰り返され、最終的に船は沈没します」
「ポンプで排水する事はできないのか?」
その問いにはスミス船長が答えた。
「やっています。ですが、流入する海水の量がポンプの処理能力を超えており、浸水を遅らせるのが精一杯です」
「そんな……」
呆然と呟くイズメイを脇に置き、トーマスは船長に訴える。
「救命ボートの降下準備をするよう、船員に言って下さい。船の傾きが増せば、ボートを降ろすのが困難になります」
「分かった。すぐに取り掛かる」
頷いたスミス船長は、ブリッジの航海士たちを集めて指示を飛ばした。
「直ちに全ての救命ボートの降下準備を完了し、乗客を誘導したまえ。右舷はマードック、左舷はライトラーに指揮を任せる。ボートには、女性と子供を優先して乗せるように。ボクスホール、君は無線室へ行って救難信号を発信するよう伝えてくれ」
船長から船の現在位置を記したメモを手渡されたボクスホールは、数十メートル離れた無線室に向かい駆け出した。他の航海士たちも素早く自分の行動を開始し、ブリッジをあとにする。
慌ただしい足音が走り去ったブリッジには、スミス船長と数人の船員、イズメイ社長、そしてトーマスだけが残された。
「……ミスター・アンドリュース。救命ボートの収容人数は、全部で何人だったかな」
静寂が訪れたブリッジで、スミス船長が確認するように問いかける。
「折り畳み式ボート四隻を含めた二十隻で、一一七八名です」
船長の問いに、トーマスは苦渋に満ちた表情を浮かべる。船の定員三千三百名に対して、救命ボートの収容人数は三分の一、処女航海に乗り合わせた二千二百名に対しても、半分ほどしかなかった。
しかし、この数字の矛盾は、タイタニック号の設計に不備があった事を示すものではない。寧ろ、この船に備えられたボートの数は、イギリス商務省の安全基準を四隻の余裕を持って満たしていた。
当時の客船では、乗客全員分の救命ボートが用意されていないのは当然の事だった。どの船も、ボートに乗れる人数は定員の三割から五割程度であり、乗客もそれを気にしていなかった。これは、当時は船が遭難しても沈むまでには長い時間が掛かるとされ、その間に付近の船が救助に到着すると考えられていたからである。ボートは専ら救助船への移乗用として位置付けられており、衝突から二時間足らずで沈没する事態など、誰も夢想だにしていなかった。
だが、例え思いもよらぬ事故だったとしても、トーマスは自分を責めずにはいられなかった。この船を設計した者として、彼は深く責任を感じていた。
「本船の人員は、乗客乗員合わせて二千二百名……千人分、足りないか」
「私の責任です」
顔を曇らせた船長の横で、トーマスが呟くように言った。
「設計の時に、十分な数の救命ボートを用意するべきだった。いや、そもそも、もっと頑丈に船を作っていれば……隔壁の高さを増しておけば……そうすれば、こんな事にはならずに済んだかも知れない」
「過ぎた事を悔やんでも仕方ない」
悔恨の念を漏らすトーマスに、スミス船長が言う。
「この船がどのような設計であったとしても、事故を起こし、こうなる直接の原因を作ったのは私だ。貴方だけに非があるわけではない。それよりも、今はこの状況で出来るだけの最善を尽くすべきだと、私はそう思う」
「……確かに、そうですね」
トーマスは俯かせた顔を上げ、頷く。
「私は乗客の誘導を手伝いに行きます。何かあれば、すぐにお呼び下さい」
「分かった」
ブリッジを出ようとしたトーマスは、そこで一度足を止め、スミス船長を振り返った。
「スミス船長!」
「何でしょう」
「幸運を」
「貴方にも」
スミス船長が微笑を浮かべて答えるのを聞いたトーマスは、今度こそブリッジをあとにした。