<第三話>四月十四日、日曜日
タイタニック号の航海は、順調そのものだった。
最終寄港地であるアイルランドのクイーンズタウンを出港したのは四月十一日。それから三日間でタイタニック号は約千五百海里を走破し、このまま行けば三日後にはニューヨークに到着できると予想された。処女航海では不具合が見つかり易い機関部も問題を起こす事は無く、機関長の指示の下、快調な駆動音を船底に響かせていた。
ポセイドンまでもが、この船の門出を祝福しているようだった。出港以来、海が荒れる事は一切無く、畳のように静かな海が続いていた。海の荒れ具合で有名な北大西洋においてこのような事は非常に珍しく、乗客たちは船酔いに悩まされる事も無く優雅な船旅を楽しむ事ができた。
四月十四日の午前中も、海は相変わらず穏やかで、タイタニック号は快適な航海を続けていた。デッキには日中を太陽の下で過ごそうという人が姿を見せ、日光浴や散歩に興じていた。
乗客の一人であり、また処女航海の最中に船に生じた異変を解決する技師でもあるトーマス・アンドリュースも、うららかな日差しの中を歩く一人だった。しかし、彼の場合は単なる散歩ではなく、船の不具合を探し報告書に纏めるための調査であった。
ノートを片手に歩くトーマスは、視線を左右に動かしては時折目を留め、何事かをノートに記していく。その後ろを、若干不満そうな顔をしたティーナがついて歩く。
「ねえ、トーマス。私ってそんなに悪い所が多いの?」
既に半分ほどが埋められたノートを見て、ティーナが言う。その声は不服そうな調子だったが、一方で列挙される自分の欠点を気にしているようでもあった。
「悪い所とまではいかないよ。ほとんどは船の構造には関係の無い、細かな事だ。例えば、一等の特別室にある帽子掛けのフックが多すぎる、とかね。この船の設計自体に問題があるわけじゃない」
「私のこと、世界最高の船だって言ったのに……」
しゅんとなるティーナを、トーマスが慰める。
「もちろん、君は世界最高の客船だ。私が設計した船の中でも一番に素晴らしい出来だ。だが、何事にも完璧は存在しない。どこかにまだ改善できる部分がある。この船だって、オリンピック号と比べて細かな点が幾つか改善されている。そうやってより良い船を生み出していくのが、私たちの仕事だ」
「……それじゃあ、新しい船が完成したら、今度はその子を最高の船だって言うのね?」
「拗ねないでくれよ、ティーナ」
トーマスは困り顔で頭を掻く。しかし、ティーナはつれない様子でそっぽを向く。
取り付く島の無いティーナにトーマスは溜息を一つつくと、懐から時計を取り出して言った。
「もうすぐ昼時だ。ひとまず、何か食べに行かないか?」
Bデッキ後部にある「カフェ・パリジャン」は昼食時間という事もあり多くの人で賑わっていた。トーマスはその中で人目につきにくい隅の席を選ぶと、そこに腰を下ろした。
「ご注文はお決まりですか」
「コーンスープと子牛のロースト、それと、リンゴのタルトを頼む。飲物はコーヒーを。デザートは料理と一緒に持って来てくれ」
「かしこまりました」
フランス人と見受けられるウエーターは流暢な英語で返事をすると、恭しく一礼して去っていった。
「上手な英語ね」
ウエーターの背中を見送りながら、ティーナが感心した様子で言う。
「この『カフェ・パリジャン』の給仕は全員がフランス人だが、皆、超のつく一流だ。英語を扱う程度は朝飯前さ」
くつろいだ姿勢でトーマスが答える。ここ「カフェ・パリジャン」は一品料理を中心とした小さな(といっても、結構な広さがある)レストランであり、大食堂のように格式張らずに食事をとる事ができた。
「豪奢な大食堂も気品があって良いが、私はこの店の空気も好きだ。肩肘を張らずに落ち着ける。
「そうね。私もここは好き。この籐椅子もお店の雰囲気に合っていてお洒落だわ」
自分の座る椅子を指し、ティーナが相槌を打つ。そうする間にスープが届き、やがてメインの肉料理がテーブルに運ばれてきた。
「お待たせ致しました。子牛のローストと、デザートのリンゴのタルトで御座います」
「Merci.」
柔らかな微笑を浮かべ、トーマスは礼を言う。ウエーターもにこりと笑うと、一礼してその場を離れた。
「わあっ……!」
テーブルの上に並ぶ料理を見て、ティーナが歓声を上げる。
「こんなに美味しそうな料理、初めて見るわ。ほら、トーマス。冷めないうちに早く食べないと!」
「そうしよう。でも、その前に」
トーマスは自分の前にあったタルトの皿を手に取ると、それをティーナの前に移動させた。
「これは君の分だ」
「いいの?」
碧眼を丸くして、ティーナが尋ねる。「もちろん」と、トーマスは笑顔で頷く。
「何も食べる物が無いまま、私が食事をしているのを見ているのは辛いだろうからね」
「でも……艦魂は普通の人間には見えないのよ? 私がこれを食べているのを他の人が見たら、料理が独りで宙に浮かんでいるって、大騒ぎになっちゃうわ」
「心配ないさ」
不安を口にするティーナに、トーマスが答える。
「この席は店の隅にあるから、他人の目に触れる事はあまり無い。そもそも、皆自分の会話に夢中だから、遠くの席のタルト気にかける人なんていないさ」
トーマスの言う通り、周囲の客はそれぞれの会話に花を咲かせており、こちらから声をかけない限り、相手の注意がこちらに向く事は無さそうだった。
「……もしかして、最初からそのつもりでこの席を選んだの?」
「まあね」
彼の真意を察して問いかけるティーナに、トーマスは首肯する。
「けれど、今は細かい事は脇に置いて、料理を味わおう。早くしないと冷めてしまう」
「そうね。……いただきます!」
トーマスの言葉に頷き、ティーナはフォークを掴む。そして、タルトの一切れ目を口にした瞬間、彼女は感嘆の声を上げた。
「美味しい……!」
サファイアのような瞳を見開き、ティーナは驚きにも似た表情を浮かべる。
「トーマス。このタルト、すっごく美味しいわ!」
「それは良かった。私のローストも最高だよ」
「ああ……こんなに美味しい物は初めてだわ。ほっぺたが落ちそう……」
口の中に広がる甘酸っぱい芳香に、ティーナは天にも昇る心地になる。その表情は、この上なく幸せそうな、至福と言うべきものだった。それを見るトーマスも、自然と頬が緩む。
あまりに美味しい料理を口にすると、人は声を出すのも忘れてしまう。二人は料理を味わうのに夢中となり、せっせと食器を動かす。皿の上の料理は見る間になくなり、二人はあっという間に食べ終わってしまった。
「ごちそうさま! とても美味しかったわ。ありがとう、トーマス」
フォークを置き、ティーナが言う。満面の笑みを見せる彼女からは、店に入る前までの機嫌の悪さは、どこかに飛んでいってしまったようだった。
「どういたしまして。私はこの後も船内を見て回るつもりだが、君はどうする?」
「私は、もう少しデッキを散歩しているわ。今日は天気もいいから」
「分かった」
トーマスは勘定を済ませると、ティーナを連れて店を出た。
「また後でね、トーマス」
「ああ。また後で」
ティーナに手を振り、トーマスは再び自分の仕事に戻る。現在彼がいるBデッキを手始めに、トーマスは船内各所を調査していく。結局、彼が船室に帰ったのは夕食の時間の少し前だった。
午後六時四五分。トーマスはいつものように夜会服に着替えると、船の中央に位置する一等大食堂に向かった。船内を六層に渡って貫く大階段を降りた所で、彼は船医のオーローリンと合流した。
「こんばんは。ドクター・オーローリン。お待たせして申し訳ない」
「構いませんよ、ミスター・アンドリュース。今日もあちこち歩き回って、船の調子を見ていたのでしょう?」
詫びを入れるトーマスに、オーローリンは鷹揚な様子で答える。トーマスは、この船医と一緒によく夕食をとっていた。
「ええ。つい熱が入ってしまって、気がついたら夕食まであと少しという時間でした。慌てて部屋に戻って着替えましたよ」
トーマスの言葉に、オーローリンは陽気な笑い声を上げる。
「ははは。それでも、時間に間に合わせてくる辺りは流石ですな。私など、未だに見取図が無いと迷子になるというのに。流石はこの船の生みの親だ」
「この船は、私にとって娘のような存在です。この船の事は、私が一番よく知っていると自負しています」
「人体の事なら、私も他人には負けませんが……なるほど、貴方はこの船の父親であると同時に、専属の医者でもあるというわけですな」
「医者ですか。確かに、そういう表現も可能ですね」
「この船の健康は、乗客全員の命に関わりますからな。しっかり頼みますよ、ドクター・アンドリュース」
茶化した調子で、オーローリンが言う。ドクターという言葉に若干のこそばゆさを感じながらも、トーマスは頷く。
「もちろんです」
談笑しながら歩く二人は、ガラス張りの戸が開け放たれた入口から大食堂に入る。中では、黒い夜会服に身を包んだ紳士や鮮やかなドレスで着飾った夫人たちがそれぞれのテーブルで食事を楽しんでいた。
トーマスとオーローリンも席につき、運ばれてきた前菜を食べ始める。
「そうそう。今日診察した患者が、妙な話をしていましたよ」
トーマスがスープを啜っていると、オーローリンが会話を振った。
「妙な話、ですか?」
「ええ。何でも、幽霊を見たそうで」
「幽霊?」
船医の言葉を聞いたトーマスは、それと似た存在である少女の顔を思い浮かべた。
「それはもしかして、小さな女の子の幽霊ではありませんでしたか?」
しかし、彼の予想に反してオーローリンは首を横に振った。
「いいえ。男の幽霊だそうです。それも、顔を煤で真っ黒にして、煙突の頭からデッキを見下ろしていたそうです。その患者は、亡霊の呪いでこの船が沈むのではないかと怖がっていましたよ」
「ああ……。そういう事ですか」
オーローリンの話を聞いたトーマスは、納得した様子で頷いた。
「おや、何か心当たりが?」
「はい。それは多分、休憩中のボイラーマンですよ」
「……どういう事ですか?」
眉を寄せる船医に、トーマスが説明する。
「この船の煙突は四本ありますが、実は、一番後ろの一本はダミーの煙突なんです。恐らく、外の空気を吸いたくなったボイラーマンがそこから顔を出したのでしょう」
「なるほど……しかし、どうしてわざわざ余分な煙突を一本増やしたのですか?」
「簡単に言えば、見栄えを良くするためです。客船は見た目の美しさも大事ですから。魅力的な船に見せるために煙突が一本余分に必要ならば、当然そうします」
「……という事は、患者が見たのは幽霊でも何でもないと」
「そういう事です。ましてや、この船が沈む事は有り得ません」
自信を込めた口調でトーマスが答える。すると、二人の会話と聞いていた隣席の婦人が声をかけてきた。
「ねえ、この船は本当に皆が言っているような不沈船なんですの?」
婦人の質問に対して、トーマスは丁寧な口調で返答する。
「新聞が使っている意味での不沈船かと問われれば、答えはノーです。しかし、この船は限りなく不沈に近いです」
「もう少し詳しく教えて下さらない?」
「ええ。いいですよ」
婦人の頼みを、トーマスは快諾する。
「この船の底は、十六の区画に分かれていて、非常の際は水密扉によって完全に分割されます。タイタニック号は、隣り合う二つの区画が水で満たされても浮力を保つ事ができ、最大で四区画まで浸水しても耐える事ができます」
「それ以上水が入ったら、どうなりますの?」
「五区画以上が浸水した場合、タイタニック号は理論上浮力を維持できず沈みます。しかし、過去の事例からそれほど大きな被害を受ける事故は考えられませんので安心して下さい。精々、二区画に浸水するのが限度でしょう。それに対して、タイタニック号は四区画の浸水にまで耐えられます。そのため、この船は実質不沈であると言えるのです」
「よく分かりましたわ。どうもありがとう」
婦人は笑顔でお礼を言うと、運ばれたばかりの肉料理を食べるため食器を手に取った。自身も食事に戻ったトーマスにオーローリンが尋ねる。
「ミスター・アンドリュース。食事の後はどうなさるつもりですか?」
「喫煙室で一服した後は、部屋に戻ります。今日の調査の結果を纏めないといけないので」
「そうですか。時間があるようならば、トランプ仲間とのゲームにお誘いしようと思ったのですが。また今度にします」
「すみません。今日は特に気になる所が多く見つかってしまって……。ニューヨークに着くまでには、一度やりましょう」
「ええ。楽しみにしています」
コース料理を進めながら、二人は言葉を交わす。会話の内容は各自の仕事や船客の噂話など多岐に渡り、話題に事欠くことは無かった。思う存分夕食の時間を楽しんだ二人は食堂をあとにし、隣接する談話室に向かった。トランプに興じるオーローリンに対し、仕事が残るトーマスは早めにここを辞して部屋に戻り、それを終わらせる事にした。
船室に帰ったトーマスは、早速一日の調査結果の整理を始めた。
彼がやらなければならない仕事の量は、非常に多かった。彼が調べ上げた問題点は多岐に渡り、小は船室の帽子掛けのフックの数から、大は食堂のコンプレッサーの故障に至るまで様々であった。それらを整理して意見を添え、報告書に纏めるのは相当に骨が折れる作業といえた。
また、トーマスにはホワイトスター社より一等執筆室の一部を特別室に変えるための設計図を作るようにとの指示が与えられていた。
それらの仕事をこなすのは非常に大変だったが、しかし、彼にとっては苦では無かった。むしろ、彼は自分が全身全霊を賭けて設計した船に対する責任を果たせる事を喜ばしく思っていた。そのため、自ずと図面を引く手にも力がこもり、気付いた時にはかなり遅い時間になっていた。
「おっと、いけない。もうこんな時間か」
机上の置き時計を見たトーマスは、想像よりも早い時間の経過に驚きの声を漏らす。時計の針は十一時をとうに過ぎ、もうじき四十分になろうとしていた。
「そろそろベッドに入らなければ。しかし、これを途中で止めるわけにもいかないな。寝る前にこれだけは片付けてしまおう」
独り呟いたトーマスは切りの良い所まで作業を終わらせるべく、再び図面に向き合う。それはすぐに終わると思われたが、やり出すとなかなか手が止められず、切りの良い所を見つけるのが難しくなってしまった。
無我夢中でペンを走らせ、トーマスは頭の中にあるものを図面に起こしていく。彼の集中力は凄まじく、線を引いている間、一切の音は彼の耳に入らなかった。そのため――手元の置き時計が十一時四十分を指した瞬間、船体に微かな振動が走ったのを、当然ながら彼は気がつかなかった。