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<第二話>運命の船出

 ホワトスター・ラインが発表した、記念すべきタイタニック号の処女航海出港日は、四月十日となっていた。

 当時、イギリスでは各地の炭鉱労働者が六週間にも及ぶ大規模ストライキを決行中であり、多くの客船が燃料不足からスケジュールの変更を余儀なくされていた。タイタニック号にも当然その影響は及ぶはずだったが、オーナーのホワトスター社は、自社の看板客船であるオリンピック号とタイタニック号に限っては予定通りに運航すると宣言した。それに従い、オリンピック号は四月三日にサウザンプトン港を出港した。

 姉妹船と入れ換わる形で入港してきたタイタニック号も、十日の出港に間に合わせるため、急ピッチで準備が進められた。

 まず必要とされたのは、船客たちの胃袋を満たす莫大な量の食材だった。

 タイタニック号の定員は、乗客乗員合わせて約三千三百名。その内、乗客は約二千四百名である。一週間に渡る航海の間、彼ら――特に、舌の肥えた一等船客――を常に満足させ続け、決して不足の出ないようにするためには、途方も無い量の食材を必要とする。例えば、牛肉は三四トン。ミルクは七千リットル。砂糖五トンに、ワイン千本、などなど……。驚くべき事に、これらの物品は全て出港日までにサウザンプトンの業者によって揃えられた。納品に要した時間は、一週間も無かった。

 むしろと言うかやはりと言うか、船を悩ませたのは燃料の不足だった。食材の買い付けは滞り無く完了したが、石炭の方はニューヨークに辿り着けるだけの量が手に入りそうになかった。そのため、燃料不足から出港を見合わせている港内の他の客船から石炭を掻き集める事になった。

 タイタニック号に石炭を融通したのは、ホワトスター・ラインの持ち株会社でもあるIMM社のオセアニック号、マジェスティック号など計六隻。集めた石炭の量は、合計で四千四百トンに達した。これによってタイタニック号は航海に必要なだけの石炭を得ることができたが、六隻の客船は全て運航取り止めとなってしまった。そのため、これらの船の乗客には代わりにタイタニック号が乗船としてあてがわれた。

 昼夜を分かたぬ作業の結果、タイタニック号はどうにか出港準備を整える事ができた。そして、迎えた四月十日の出港日には、大勢の人々がこの世紀の巨大豪華客船を見送りに来たのである。

 タイタニック号のために新しく作られた、ホワトスター・ライン専用の第四四番桟橋は、朝から見送り人や野次馬で溢れていた。時間が経つにつれて群衆が数を増す中、ロンドンからの連絡列車(ボート・トレイン)が桟橋に平行するホームに入ってきた。

 九時四五分。まずは二等と三等の船客を乗せた列車が到着。次いで十一時三十分、一等船客用の特別列車が悠然とホームに停車した。

 その頃になると、桟橋は立錘の余地も無いほどに混みあっていた。船上ではこの上無く優雅な時間を約束された人々も、船に乗るには窮屈な人混みの中を縫って行かなければならなかった。

 船客や見送り人、港湾を管理する役人などが犇めく光景は、処女航海の門出を飾るに相応しい活気を呈している。しかし、ボートデッキに立つティーナは複雑な表情でその光景を見下ろしていた。

 「どうしたんだい、ティーナ。浮かない顔をして」

 「トーマス……」

 「今日は君の処女航海の出発日だ。それなのに、主役の君がそんな顔をしていたら、折角の晴れの日が台無しだ」

 ティーナの表情が晴れない事を見て取ったトーマスは、おどけた調子で言ってみせる。ティーナが答えないでいると、トーマスは彼女の頭に手をのせて尋ねた。

 「何か気になる事があるのかい? 私で良ければ力になるよ」

 膝を屈め、トーマスは少女と目線の高さを合わせる。暫しの逡巡の後、ティーナはゆっくりと口を開いた。

 「……ねえ、トーマス。この船に乗る人たちは、アメリカに行くのよね」

 「ああ、そうだよ」

 分かりきった事を質問するティーナに、トーマスは変わらず優しい口調で答える。

 「北大西洋を横断する客船の船客は、新大陸で新たなチャンスを掴もうとする人がほとんどだ。一等の百万長者(ミリオネア)も、三等の移民も、それは変わらない」

 「うん……」

 ティーナは一つ頷き、眼下の桟橋を埋める人だかりに視線を移す。

 「みんな、それぞれの夢を持って、アメリカに渡るんだよね。自分たちの故郷を捨てて……」

 寂しげな色を瞳に浮かべ、ティーナは言葉をこぼす。その横顔を見たトーマスは、彼女の胸中にあるものを悟った。

 十八世紀半ばの産業革命以来、イギリスは常に世界の頂点に君臨し続けてきた。ヨーロッパの片隅にある小さな島国に過ぎなかったイギリスは、産業革命の結果「世界の工場」と呼ばれる工業力を手に入れ、一躍世界一の大帝国となった。その版図は世界中に及び、十九世紀末、ヴィクトリア女王の治世の頃にその威光は絶頂を迎えた。

 しかし、二十世紀に入ると大英帝国の栄光にも陰りが見え始めた。遅れて工業化を成し遂げたアメリカとドイツが急激な発展を見せ、イギリスに迫ったのである。

 特に、十八世紀末にイギリスから独立を勝ち取ったアメリカの成長は目覚ましく、今やイギリスに代わる世界一の工業国になろうとしていた。そうした時代の流れは、必然的に人々の心に新大陸への憧れを植え付けた。

 多くの人が、祖国に見切りをつけてアメリカに渡った。ヨーロッパ全体で毎年三十万人、イギリスやドイツからは毎年十万人がアメリカに移住した。中でも、深刻な飢饉に見舞われたアイルランドでは国を脱出する人が多く、合計百二十万もの人々がアメリカへ移り住んだ。そして、その人の流れに比例して、世界の力の中心はアメリカへと移っていった。

 これらの人々を運ぶのが、北大西洋航路の客船たちであった。

 タイタニック号をはじめ、北大西洋を行き来する客船の客層は、大きく二つに分かれていた。すなわち、一等の富裕層と三等の移民者である。前者は優雅で快適な船旅のためならば惜しげもなく大枚を叩き、後者は多少の不便を忍んででも安さを求める。富や名声など、あらゆる面で対照的な両者だが、ただ一点、アメリカでチャンスを掴もうとしている事だけは共通していた。

 このように、当時の世界はイギリスからアメリカへ、徐々に力の中心が移っていく最中にあった。新興国アメリカの力は何らかの形を取り、あらゆる所に及んだ。多数の客船で賑わう北大西洋航路も、アメリカへの移民で成り立っているという意味では、その影響を受けていた。

 客船の艦魂として、乗客が多い事は喜ばしいが、それは同時に、アメリカへ渡る人が多い事も示している。船が賑わうほど、祖国から人が去っていく。その事実はティーナの心に影を落とし、自身の晴れの日を素直に喜べなくさせていた。

 「大丈夫だよ、ティーナ」

 少女の金髪を撫でながら、トーマスが言う。

 「私たちの国は――大英帝国は、まだ衰えてはいない。確かに、昔のような圧倒的なナンバー・ワンではなくなっただろう。けれど、それは周りの国が力をつけて、互いの差が縮まっただけだ。決して、国が弱体化したわけじゃない。そして、ティーナ。君はその象徴だ」

 「私が……?」

 年相応のあどけなさを残す丸い瞳が、自分を見つめる顔を映す。その瞳を見つめ、トーマスは頷く。

 「ああ、そうだよ。今まで誰も見たことがない豪華客船。そんなものを造ることができるのは、大英帝国をおいて他に無い。この船を目にした人は、改めてこの国の力を感じるだろう。世界に向けて、大英帝国は健在だと発信する――これは、君にしかできない事だ」

 「私にしか、できないこと……」

 その意味を確かめるように、ティーナは彼の言った言葉を繰り返す。そんな彼女に、トーマスは再び頷く。

 「私たちの成功は、イギリスの人々に勇気を与える。自分たちの国はまだやれるんだという希望を生む。この航海の成功は、ホワイトスター社だけじゃない、イギリスの皆を元気づける事に繋がるんだ」

 ティーナの瞳を見据えながら、トーマスは言う。その言葉は少々大袈裟に過ぎる感もあったが、しかし、彼女はそれを真摯に受け止めた。

 「分かった。私、頑張る。この処女航海を成功させて、イギリスは――私たちの国は、まだ終わってなんかいないと、証明する」

 力強く宣言したティーナは、台風一過のような晴れやかな表情を浮かべて笑顔を向ける。

 「ありがとう、トーマス。お陰で元気が出たわ」

 「礼には及ばないさ。娘の様子を気遣うのは、父親の仕事だ」

 「ふふっ。それもそうね、パパ」

 おどけた調子でウインクしてみせるトーマスに、ティーナも相槌を打つ。先程までの曇った表情は、とうに消えていた。

 やがて、船の出港を告げるサイレンがサウザンプトンの港に響き渡り、タイタニック号は出港の時を迎えた。船と陸地を繋ぐ唯一の手段であった舷梯が外され、四万六千トンの豪華客船は完全に外界と隔絶される。今、勇躍処女航海の途に就かんとする船の周囲には六隻のタグボートがぴたりと張り付き、さながら女王を世話する侍女のように、タイタニック号を港の出口に誘導していった。

 船の上では、乗客たちが舷側に集まり、見送り人に別れの言葉を送っていた。それに答え、桟橋からも大きな歓声が届いた。その盛り上がりは凄まじく、腹の底を震わせるタイタニック号の重い汽笛も霞むほどだった。

 「いってきまーす!!」

 真っ白い手摺から上半身を乗り出し、ティーナが叫ぶ。その声を聞く事ができるのは彼女の隣にいるトーマスだけだが、この場において、それは些細な問題だった。舷側に立つ乗客の中には桟橋に知人のいない者もあったし、何より、彼女自身が自分を送り出してくれる人たちに対して返事をしたかったのだ。

 元気一杯に手を振るティーナを、トーマスは愛娘を見る目で見守る。落ち着いた動作でハンカチを振りながら、彼は転落しないように彼女の身体を支えてやった。

 桟橋から離岸したタイタニック号はタグボートの誘導を受けて港の出口を目指す。狭く入り組んだサウザンプトンの水路も無事に抜け、船はいよいよ外洋に躍り出る。ここで、同乗した水先案内人(パイロット)は船を降り、六隻のタグボートも汽笛を鳴らして港に帰っていった。

 遠ざかるタグボートに背を向け、タイタニック号は次の寄港地であるフランスのシェルブール港に針路を定める。時に一九一二年四月十日。以後百年に渡って語り継がれる物語の幕が、今まさに切って落とされた。


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