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<第一話>巨人の船

 一九一二年四月二日。この日、アイリッシュ海を一隻の船が航行していた。

 造船所の労働者が出勤してくるよりも早く、岸壁を離れた船は、朝靄が薄くかかる海を悠然と進む。速度はそれほど出していない筈だが、船体が巨大なため実際以上に速く見える。

 前方から、一艘の漁船が近付いてきた。大漁だったらしく、漁船は乾舷を深く沈ませながら波に揺られている。漁船を操る漁師は、接近する船影を認めると、舵を切って道を譲った。

 だが、彼は朝靄の向こうから迫り来る船の全貌を認めると、驚きの声を上げた。

 「な、なんじゃこりゃあ……!」

 腰を抜かした漁師は、力の抜けた、ひょろひょろとした声で言った。

 島が、地鳴りを伴って移動している――漁師は、そう思った。

 むろん、これは島ではない。だが、漁師が島と錯覚するほどにこの船は大きかった。

 真新しい塗料が輝く、黒い船体。上甲板以上の構造物は、眩しい純白に塗られている。多くの客船に共通する、単純だがどこか気品を漂わせる配色だ。船体中央には後方に緩く傾斜した四本の煙突が聳え、この船にスピード感と力強い印象を与える。

 巨大な船が起こす波に巻き込まれぬよう、漁師はしっかりと漁船の舵輪を握る。木の葉のように揺られる小舟には目もくれず、巨船は靄の向こうへ消えていった。

 「一体、何だってんだ……あの船は……」

 遠ざかる船影を見送りながら、漁師は呆気に取られた呟きと漏らした。


 「いい船だ」

 漁船とすれ違った船の上で、一人の男が口を開いた。黒いスーツに身を包んだ紳士は、上着の裾を風に遊ばせながら満足げな笑みを浮かべる。

 「当然でしょ」

 紳士の独り言に、背中から返事が届く。男が肩越しに振り返ると、一人の少女がにこにこしながら彼の顔を見上げていた。

 「世界一の豪華客船なんだもの。それは、あなたが一番よく分かってるはずでしょ?」

 悪戯っぽく笑いながら、少女が言う。男も口元に微笑を作って頷く。

 「そうだな、ティーナ」

 ティーナと呼ばれた少女は、まるで自分が褒められたかのように嬉しそうな表情をする。そんな彼女を、男は愛娘を見るような優しい目で見つめる。

 三十代後半の紳士と十三、四歳の少女との組み合わせは、一見すると若い親子のように見える。だが、この二人は父子ではない。彼らの関係は、もっと特殊なものだった――

 「……それにしても、この歳になって妖精と出会う事になろうとはね」

 しみじみとした口調で男が言う。それに対して、少女が反論を口にする。

 「妖精じゃないわ。艦魂よ」

 少女は胸に手をあて、自らの名を告げる。

 「私の名前はタイタニック。この船、タイタニック号の艦魂よ」

 艦魂――少女は、自らの存在をそう位置づけた。

 艦魂とは、船乗りの世界に古くから伝わる迷信の一つである。常に危険と隣り合わせの船乗りたちは、昔から迷信深い。海の神に祈りを捧げることや、船の舳先に女神の像を掲げることは有名な例である。今では恒例となった、進水式で船にシャンパンを打ちつける行為も、元はバイキングの奴隷を生贄に捧げる習慣に端を発する。艦魂に対する信仰も、その一派に属するものだ。

 船には一隻ずつに艦魂が宿っており、航海の安全を司っている。艦魂は船そのものであり、いわば船の意志である。その姿を見ることが叶う者は少数であり、数少ない証言によると、艦魂は若い女性の姿をしているという。

 少女は、その艦魂であった。そして、彼女は自らの名前としてこの船の名を挙げた。

 タイタニック――それがこの船の名前である。その名は、ギリシャ神話に登場する巨人族に由来する。最終的にはゼウスたちオリンポスの神々に破れるも、強靱な肉体と怪力で激しい戦いを演じた敵役だ。

 客船タイタニック号は総トン数四万六三二八トン、全長二六九.一メートル、全幅二八.二メートル。船底からマストの先端までの高さは七十メートルにも達し、四万六千馬力の機関により二二ノットの最高速力を発揮する。

 彼女は、英国の大手海運会社ホワイトスター・ライン社が大西洋航路の覇権を手にするために建造した三隻の豪華客船の二番船として、一九〇九年三月二二日、北アイルランドのベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフ社の造船所で起工された。ベルファストは産業革命以来、工業で栄えた街であり、世界で最も造船業が盛んな都市の一つに入る。その技術力は、世界最高峰に位置する。

 十二世紀以来、アイルランドは長くイギリスの支配下に置かれていたが、そこに住む人々は常に民族の誇りを胸に抱いてきた。そんな彼らにとって、タイタニック号は自分たちの技術力を象徴する存在だった。進水式には十万人を超える市民が訪れ、翌朝の新聞は「アイルランド人の知力と勤勉の結晶」とタイタニック号を賞賛した。

 ライバルであるキュナード・ライン社が船の大きさと速度を売りにするのに対し、ホワイトスター社は豪華さと快適さを前面に押し出す戦略を取り対抗していた。タイタニック号とその姉妹船は、その最たる物として計画された。

 全ての乗客に快適な船旅を――この言葉をモットーに設計されたタイタニック号は、海運界の常識を覆す豪華客船であった。その大きさは破格の一言に尽き、キュナード社のフラッグ・シップであるモーリタニア号、ルシタニア号と比べ、排水量で一万四五〇〇トン、全長で二九メートルも上回る。破格なのは船体規模だけではなく、その船客設備は一等から三等に至るまで、同時代の他の客船を遙かに凌駕していた。安全性にも細心の注意が払われており、船底は二重構造、船体は十六の水密区画に細分され、その内の四区画までが浸水しても耐える事ができた。ホワイトスター社はこの船を「不沈船」であると宣伝し、世間もまたそのように考えた。

 その豪華客船の設計を担当したのが、この男、トーマス・アンドリュースである。当初、タイタニック号は別の設計士が担当していたが、トーマスはそれを引き継ぎ、最終的に同船を完成させた。彼の存在は、タイタニック号という船にとって、父親のようなものと言えた。

 この日、トーマスは自身の設計した船の仕上がりを見るため、試験航行を行うタイタニック号に同乗した。その船上で、彼は艦魂を名乗る少女と出会ったのだ。

 「ティーナ。今、何ノット出ているんだ?」

 全身で海風を受けながら、トーマスが尋ねる。因みに、ティーナという名前は彼が少女につけたニックネームである。

 「十ノットって所よ。今はまだ慣らしの段階だから」

 ティーナの答えを聞いて、トーマスは小さく眉を上げる。

 「その割には速く感じるな。十五ノットは出ているかと思った」

 「もう。あなたが設計した船よ?」

 「それはそうだが……。私は船乗りじゃないから、見ただけで船の速度は計れないさ。それに、私自身、これだけ大きな船を手掛けたのは初めてなんだよ」

 苦笑するティーナに、トーマスは困った様子で弁解する。そんな彼を、ティーナは面白そうに眺める。

 「船体が大きいから、実際よりも速く感じるのよ。何と言っても、四万トンの豪華客船なんだもの。他の船とはスケールが違うわ」

 誇らしげに胸を張り、ティーナが言う。

 「ああ、そうだな。君は、世界最高の客船だ」

 「本当に?」

 「勿論だとも」

 優しく微笑み、トーマスはティーナの頭を撫でる。ティーナは、日溜まりに微睡(まどろ)む猫のような心地良さそうな顔で、それを受ける。

 日が昇るにつれて海上の靄は晴れていき、煌めく海面が姿を現し始める。その頃にはタイタニック号の機関も慣らしを終え、全力発揮が可能な状態になっていた。

 午前六時にハーランド・アンド・ウルフ社の艤装岸壁を離れたタイタニック号は、半日に渡り試運転を行い、最左右への旋回性能や、航行中に全速後進をかけた場合の停止距離などを計測した。タイタニック号はこれらの試験で良好な結果を収めて総監督から保証書にサイン受け、午後七時、ベルファストの造船所に帰投した。

 ここで、試験に立ち会った技師の殆どは船を降り、八名の技師だけが航海中の機器整備のため船に残った。最終調整を済ませたタイタニック号は午後八時、生まれ故郷のベルファストを出港。処女航海の起点であるイギリス・サウザンプトンへ向かい旅立った。


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