第8話「どうか、神様」
その棺は、軽そうだった。
軽そうなのに、近づくと身体が自然に震える。
重さではなく、意味が詰まっている棺。
宗継の前にいたのは、狐だった。
正確には、狐の姿をした存在。
人の言葉を話し、尻尾は三本ある。
毛並みは艶やかだが、どこか擦り切れている。
「……失礼する」
狐はそう言ってから、言い直した。
「いや。お願いしたい」
宗継は、一瞬だけ棺を見る。
かなり古い。
布も古い。何度も洗われた色をしている。
「ご依頼でございますか」
「ああ」
狐は頷いた。
「神を、辞めたい」
宗継は、すぐには返事をしなかった。
狐は、続ける。
「私は、弱小ながらも……祀られる一柱」
「雨乞い、豊穣、安全、祈願、縁結び……」
軽く笑う。
「ずいぶんと、便利に使われてきた」
棺が、かすかに軋んだ。
「人は祈る。だが、責任は取らない」
狐の声は、穏やかだった。
「祈りが叶わなければ、恨まれる」
「祈りが叶えば、次を求められる」
宗継は、棺の軋む音に集中している。
「私は、応え続けた」
「神とは、そういうものだからな」
狐は、三本の尻尾で棺を叩く。
「だが、もう嫌だ。願いと期待は、違う」
宗継は、静かに問う。
「その違いとは、いかに?」
「願いは、相手の決断を尊重する」
「しかし期待は、相手を道具にするのだ」
即答だった。
「……疲れた」
棺は、美しい。だが、過剰に飾られている。
札、鈴、願掛けの紙。善意の香りがした。
「これは、期待の棺だ」
「おっしゃるとおりです」
狐は頷く。
「人々が私に向けた期待」
「それを受け止めようとした私自身の期待もあろう」
沈黙。
「葬りますか」
宗継の問いに、狐はすぐに答えなかった。
「……確認したい」
「何なりと」
「神を辞めれば、私は何者でもなくなる」
狐は、宗継を見る。
「祈りを聞く義務もない。だが……」
少しだけ、声が揺れる。
「それで、我はなにをするのだ?」
「私には、分かりかねます」
「それでも、よろしいですか」
狐は、笑った。
「いいに決まっておる」
だが、その笑みは、どこか弱い。
「期待されない自由と、必要とされない孤独」
「両方を、引き受けに来た」
宗継は、棺に手を置く。
神の棺は、軽く感じられる。
だが、葬送は容易ではなかった。
やっと、棺が消える瞬間
狐の身体から、微かな光が抜けていった。
——神性だ。
狐は、床に伏せた。
「……静かだな」
「はい」
狐は、耳を動かす。
「誰も、私を呼ばない」
立ち上がり、深く息を吐いた。
「……これでいい」
数日後。狐は、宗継のアパートにいた。
理由を問われ、狐はこう答えた。
「期待を扱う仕事に、興味が湧いたのでな」
静久は、少し困ったように笑った。
「神様が……ですか?」
「もはや、神ではない。期待は、するなよ」
狐は、三本の尻尾を揺らす。
ある夜。
「神を辞めたことを、後悔しておられますか?」
「いいや」
狐は、また即答した。
「だが……神であったころのほうが、賑やかだったの」
宗継と静久は、黙って聞く。
「期待は、重い。だが、温度もある」
狐は、窓の外を見る。
「今は、冷たい。それでも——」
「神に戻る気はない」
期待を葬ることは、救いではない。
ただ自分であることに、価値を認めるかどうか。
その選択肢を与えることが、司祭の仕事である。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
よろしければ ☆ 評価を頂けたら嬉しいです。




