第7話「どうせ自分なんて」
その棺は、ひどく整っていた。
白い布に覆われ、角も歪んでいない。大きさも重さも。
宗継がこれまでに見てきた棺の中では、かなり”正しい”部類に入る。
——正しすぎる。
向かいに座る男性は七十代半ば。
背筋は少し曲がっているが、姿勢を崩すことはない。
椅子に座るというより、そこに収まっている。
「妻は、五年前に亡くなっています」
男性は淡々と話す。
「子どもは二人いますが、もう独立しています」
「連絡は……まあ、年に一度か二度。十分でしょう」
それは不満でも、愚痴でもなかった。
「誰かに期待される立場では、もうありません」
宗継は、棺に目をやる。
——嘘だ。
彼の前には、確かに棺がある。
「それでも」
「ここに棺がある理由は、分かりますか」
宗継が問うと、男性は少し考え、
「ええ」
と、短く答えた。
「これは、私が作ったものです」
棺は、期待から生まれる。
だが期待は、他者から向けられるとは限らない。
「誰からも必要とされていないのなら」
男性は続けた。
「余計なことはしないほうがいい」
「目立たず、邪魔にならず、大人しくしているべきだ」
宗継は、頷くでもなく答える。
「それが、あなたの正義だった」
「期待されないことを、期待したと」
「ええ」
「”どうせ自分なんて”という言葉は便利でしてね」
棺が、ギギと音を立てる。
男性に、笑みのようなものが浮かぶ。
「期待されないことは、楽なんです」
「失敗もない。責任も、なにも求められない」
棺は、確かに存在している。
「ですが」
宗継は言った。
「その棺を葬れば、別の可能性が開ける」
「他者から期待されたいと願う、本当のあなたです」
沈黙。長い、沈黙。
「……怖いですね」
男性は、ぽつりと呟いた。
「今さら、誰かに必要とされたら」
「何も返せないでしょう。失望されます」
棺を背負って生きること。棺から自由になること。
どちらも、楽ではない。どちらも、簡単な選択ではない。
「葬ってください」
最終的に、男性はそう言った。
声は震えていなかった。
宗継は、棺に手をかける。儀式は、いつも通り淡々と進む。
——あまりにも、素直だ。
棺が消えたあと、男性はしばらく動かなかった。
「……静かですね」
そう言った声は、わずかに掠れていた。
「はい」
宗継は答える。
男性は、そのまま帰っていった。
後日。
彼が地域の集まりに”面倒な老人”として顔を出していることを知る。
噂にはなってはいても、誰もこの男性の名前は知らない。
男性は結局、満たされたとは言えないままだった。
ただ——
誰にも求められない時間だけが、
以前より、はっきりと輪郭を持って残った。
彼の棺は、もうない。空白だけがある。
——本当の自分であることは、必ずしも救いではない。
アパート。
「……俺は、何をしているんだろう」
静久は、答えない。ただ、茶を淹れる。
——増やした選択肢に、人は潰されることもある。
湯気が立ち上る。
「この仕事をやめて」
宗継は、ぽつりと続けた。
「ただ静久と生きる人生も……あるんじゃないだろうか」
静久は、宗継の前に湯呑みを置く。
「宗継さん」
「……」
「それを選ぶのも、選ばないのも、あなたです」
「あ、もちろん私にも選択権がありますよ」
宗継は、目を伏せる。
「プロポーズ、期待していいんですか?」
「大きな棺が、できちゃいますよ」
静久が、コロコロと笑う。
しかしここに、静久が生み出した棺はない。
棺を葬ることは、終わりではない。始まりでもない。
それが、誰かを救うかどうかは——
分からない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
宗継と静久の関係、気になります。
っていうか、そこがメインテーマなのだと思います。




