第59話 新嘗祭
夜は、完全には明けきらない。
新嘗祭は「朝の祭」とされるが、その実、夜の延長にある。
闇が去りきる前、光が満ちる前。その境目に、儀は置かれている。
静久が立つのは、灯りを極力落とした殿内だった。
蝋燭ではない。油を含ませた芯に火を移し、低く保たれた灯。
炎は揺れず、影を伸ばさない。ただ、物の輪郭を沈ませるだけ。
衣は白。これも、ただの白ではない。
染められていない布の、わずかに黄味を含んだ白。
絹ではなく、音を立てないための麻。
歩を進めても、擦れる音は生まれない。
息を整えるという所作は、ない。
整える必要がないほど、余分なものは削がれている。
供物はすでに置かれていた。蒸された新米。水。塩。
器は簡素で、土と木だけで作られている。
装飾はない。光を返さない素材が選ばれている。
静久は、供物を見ない。
見るべきものではないからだ。
頭を垂れる角度は、深すぎない。
言葉は、少ない。
祝詞と呼ぶには短く、独白と呼ぶには正確すぎる言葉が、
息と一体になって流れる。古語でも現代語でもない。
ただ、意味が削れない配置だけが、守られている。
実ったものを、ここに返す。
人の手を経たが、人のものではない。
声は、殿に届かない。届かせる必要がない。
静久から、重さが抜けていく。この世で、
役目を期待される者に与えられる重さ。
静久が額を上げたとき、夜はまだ残っていた。
静久は、まさに渡ろうとしていた。
身体は、すでに光の粉のようになっている。
輪郭は曖昧で、定まらない。
そのとき。
静久の身体を覆っていた無数の糸が、消えた。
切れたのではない。意味を失ったように、外れた。
あわい。
周辺に、狐が見せた、あの光が満ちる。
静久の目が、探している。探して、そして認めた。
宗継を。
一瞬、目線を逸らす。それから静久は、
力の限り、声を言葉に変えた。
「助けて……助けて、宗継さん!」
その声には、もう、音がなかった。
もはや殿には届かない。
だが、届くべきところに、声が放たれた。




