第58話「届きますように」
多くの期待が、笹の葉に下がる晩のこと。
衰弱した狐が、静久の手に抱かれていた。
狐は、身体を微かに振るわせながら、伝える。
「渡り。世界が一瞬、ほどける」
「古来より、それを『あわい』という」
「糸も棺も、見えぬようになる」
静久は、泣きながら頷く。
それでも静久は、声を出さない。声は言葉になる。
思いが言葉になれば、もう止まれない。
狐が、それを分かって、続ける。
「……『あわい』では」
「選べる」
狐は、最後にそのことを、繰り返した。
「『あわい』でだけ、選べる」
そう言って、狐は息を引き取った。
別れの言葉は、なかった。
その晩、静久は人払いをして、
声にならない音を出し、ずっと泣いていた。
手順通り、狐の遺骸は簡素な麻袋に入れられ、
宇治橋の下に捨てられた。
宗継は、その宇治橋の下にいる。
川の音が、一定のリズムで耳に入る。
夜明け前。人の気配はない。
宗継は、その場で見つけた麻袋を開ける。
約束通り、狐はそこにいた。
毛並みは乱れ、身体は冷えきっている。
宗継はしゃがみ込み、深く頭を下げた。
「……お疲れさまでした」
そう言って麻袋ごと、狐を大きな防水バッグに入れた。
宗継の声は、震えていなかった。
午後。防水バッグを抱え、宗継はアパートに戻る。
作業が始まる。
狐に、刃を入れる。躊躇は、ない。
皮を剥ぐ作業は、静かだった。
音を立ててはいけない。乱暴に扱ってはいけない。
それでも、血は出る。体液が、指に絡む。
皮を外し終えたとき、狐の身体が、淡く光った。
白でも、金でもない。
夜の水面に浮かぶ、月の輪郭のような光。
「なんだ……」
宗継は、思わず、息を吐いた。
「お戻りになられるのですね」
狐は答えない。
だが、その光は、否定でもなかった。
作業は、そこからが本番だった。
皮をなめす。
水に浸し、脂を落とし、削ぎ、叩く。
なぜか手順に、馴染みがある。
宗継は、それから一度も、手を止めなかった。
夜になっても。指の感覚が鈍くなっても。
血と水と皮の匂いが、混ざり合っても。
「届きますように」
そう呟きながら、刃を動かす。
だが、その口調は、平坦だった。
祈っているのか、命じているのか。
自分でも、わからなくなっていく。
「届きますように」
皮は、少しずつ、柔らかくなる。
いずれ人の手に従う形へと、変わっていく。
これが、必要なのだ。これで、間に合う。
これで、掴める。
「届きますように」
思考が回り続ける。止まらない。
止める理由が、ない。
「届きますように」
掴めるはずのないものを、掴む。
届かないはずのものに、届きたい。
宗継は、皮を抱え、額を押し当てる。
「届きますように」
作業は、手順通りに進められる。
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