第57話 渡儀アリ
事情の説明に、声を使いたくなかった。
声は、届いてしまう。壁を越え、天井を越え、
意図しないものにまで触れてしまう。
だから宗継は、紙を選んだ。
封をした手紙は、彼らでさえ読まない。そう伝えられている。
読めないのではない。読まない。
他人宛の封を切るという行為そのものが、
境界を越えることになるからだ。
兄に、事情のすべてを知らせる必要はなかった。
静久が、渡る。その事実だけで足りる。
宗継は筆を置き、墨が乾くのを待ち、静かに封をした。
重ねた紙の端を折り、糊を一滴だけ落とす。
返事は、すぐに届いた。
短い文面だった。余白の取り方で、意味が伝わる。
──渡儀アリ。半年後、新嘗祭。
宗継は、その文字列を追いながら、祭の日を思い浮かべた。
人が手を入れ、育て、得たものを、感謝とともに神へ返す日。
労働の成果を差し出し、受け取った世界に礼をする。
勤労感謝の日とされるが、働いた者が讃えられる日ではない。
宗継は、手紙を畳み、しまった。仕事に戻る。
静久の身体には、変化が起こり始めていた。
輪郭が、少しだけぼやける。
鏡の前に立つと、像の縁が揺れる。
湯気の向こうにいるような、焦点の合わない感覚。
指先で机の縁をなぞっても、角の硬さが遅れて伝わる。
触れてから、感じるまでに、ほんのわずかな間が生まれる。
いずれ、世界に溶けていくのだろう。
そう思っても、恐怖は湧かなかった。
実感だけが、静かに積もっていく。
朝、侍女が静久の部屋に入ってきた。
いつもの時間だ。
髪を整えるため、櫛を取り、静久の背後に立つ。
「静久様……失礼いたします」
櫛が持ち上げられた、その瞬間。侍女の手が止まった。
触れたはずの指先が、空を掴んでいる。
髪はそこにあるのに、重さが伝わらない。
「今日は、もう大丈夫です」
静久がそう言うと、侍女は深く頭を下げ、無言で部屋を出た。
説明は要らなかった。説明する言葉自体が、もう適切ではない。
別の日には、衣の袖が柱をすり抜けた。
慌てて引いたが、布は引っかからない。
風に揺れたわけでもない。確かに、通り抜けた。
またあるときは、湯を注いだ茶碗が、手の中でわずかに滑った。
落としたわけではない。保持する力が、遅れただけだ。
静久の身体は、少しずつ、しかし確実に失われていた。
役目を終えたものが、元の場所へ戻る感覚。
静久は、ほとんど声を出さなかった。
声を出せば、言葉が生まれてしまうとわかっていたから。
新嘗祭までの残りの日々を、数えることもしなかった。
数えるという行為が、留まる意思表示になってしまうから。
渡る準備は、もう始まっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
あとは、最後まで。




